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榊、死す

 ついに本願を果たした男が、一段一段を感慨深く踏みしめて石段を登っている。

 伏見稲荷大社の荘厳な空気は、早朝にあってなお強い。千本鳥居を一つひとつ数えていた男は、ふと足を止めた。

 真新しい鮮明な朱色。

 その側面にはこう彫り込まれている。


 榊 宗信


 男――榊は頬を綻ばせる。

 この鳥居は彼が寄進したものだ。


 榊は晴れがましい微笑で山道の先に目を向ける。

 カジュアルジャケットにデニム、スニーカーという出で立ちは、急に思い立って山まで足を伸ばした休日の社会人そのものだ。

 黒い短髪の中肉中背だが、体幹が引き締まっていて姿勢が良いため一回り大きく見える。

 それなりに良い風貌のはずなのだが、落ち窪んだ瞳に爛々(らんらん)と宿る凄絶せいぜつな執念が印象のすべてをさらう。


 往時でさえ底知れない容貌が、今は異様の域にある。

 頬は()け、若さに似合わない煤けた疲労が四肢に絡みついている。


(長かった)


 榊は独語する。


(ここまで、長かった。だが、ついに叶えた。鳥居を寄贈する――千本鳥居の一角に連ねる悲願を。ついに。)


 ただ寄贈するだけではない。

 榊は信仰を示したうえで寄贈に踏み切った。


 伏見稲荷大社の百度参りは当然のこと。

 地元の稲荷神社には一日での千度参りを果たした。

 自力で金を稼げるようになってからは、巡礼を始めた。

 全国津々浦々の稲荷神社、摂社、祠……地方神社に合祀される小さな稲荷神社に至るまで、あまねく全てに参拝したのだ。その数、三万超。海外にある神社までも制覇した。

 定時で上がって地方に向かい始発で帰る弾丸旅行は過酷以外の何物でもない。疲労を押して彼は迷わず断行した。


 ふわふわと夢見るような足取りで拝殿に向かう。

 掃き清められた美しい石畳に散る砂利の一粒一粒にさえ聖性を感じられそうだ。

 珍しいことに、今朝は榊以外の参拝客が誰もいない。

 神秘的な朝靄が静かに境内を漂っていた。


 作法を守ってお手水場で手と口をすすぎ、 対の狐象に一礼をして、拝殿の鈴を鳴らして二礼二拍一礼。最上級の敬意を払い、銭洗いした一万円札を賽銭箱に差し入れる。賽銭に額面は必要ないのだが、今ばかりは、と榊は大金を収めた。


 できることはすべてやった。

 これ以上の信仰の示し方は思いつかない。


 榊は手を合わせ瞑目する。


「どうか、どうか」


 祈る願いは常に一つだ。



「どうか稲荷神が、人に狐耳の生えた美少女でありますように」



 ……分かっている。

 その祈りががたいほど不遜ふそんで、筋が通っていない、身勝手極まりないものだということは、榊とて分かっている。

 だから願っているのだ。確かにそうでありますようにと。榊は真剣だった。

 子ども心に狐耳キャラの愛らしさに胸を打たれ、狐にゆかりのある稲荷という神が日本に実在するということを知って以来、榊は願いを一つと思い定めて生きてきた。


「さらに、一人称は『わらわ』で、語尾は『のじゃ』でありますように」


 ……もちろん知っている。

 狐は稲荷神の使いに過ぎず、稲荷様ご自身は別に狐とは関係もないことも。

 わらわ・のじゃというのは、もはやステレオタイプな役割語で現実に根付く言葉ではないことも。


 だからこそ、彼は彼にできる形で真実の祈りであることを示し続け、願い続けたのだ。


 突然、榊の顔に笑いがこぼれた。

 昔を懐かしむような遠い目をして細く伏せる。

 榊が最初にこの祈りを稲荷神に捧げたのは、小学生のころだった。実家の最寄りにある神社が稲荷神社だったのだ。

 もらったお年玉を全て初詣のお賽銭に投じて、こっぴどく叱られた。榊は不思議そうに尋ね返した。

「敬愛する神に捧げることのなにがいけないのか」と。

 榊はそのときに、心に神を持つ者と持たざる者との違いを知った。信仰がないとはそういうことだ。


 思い出し始めたら止まらない。

 夏休みに自転車で回った貧乏巡礼も、バイトがてらの地方巡礼も、次々と思い出していく。

 きっと本願を果たした達成感からだろうと、そのときの榊は思っていた。

 祈りを終え、榊は笑顔で顔をあげる。


 ……全国巡礼に加え、大型鳥居の費用は莫大だ。

 他人の金で巡ることほど不敬なこともない。限られた給料からすべてを捻出するために、自然と生活費を絞らざるを得なかった。

 特にここ最近、一日も早く鳥居を奉納したいばかりに、もやししか食べていなかった。

 それが悪かったのだろう。

 栄養失調と貧血と過労のコンボで、榊はそのままぶっ倒れた。

 彼は走馬燈を見ていたのだ。


 稲荷様のお膝元で死ねるのは、望外の幸運だったと言うほかない。

 本望であったことだろう。


 もし、彼にひとつだけ心残りがあるとすれば――


 倒れた遺体が出血して、境内を汚していなければよいのだが。

 というか神聖なる境内で、穢れの塊である死体を落とすなんて不敬極まりないのではないか。

 参拝して死ぬって、稲荷様の評判を落としかねないのではないか。


 あっ、いかん。


 死に瀕する榊の口がそんなふうに動いた。心残りが増えてきた。

 ここで死ぬわけにはいかない。

 榊の指が石畳を掻く。稲荷山から下山して、いやせめて境内から出なければ。妄執にも似た強靭な意志が、前後不覚で己の状態も分からない榊の指を動かした。


 まだだ。まだ死ねない。


 まだ死にたくない!!


 あと二時間くらい! 下山するまでは!!




 ……しかし、あえなく榊は死んだ。当然だった。

 叶うべき彼の祈りは、常に一つしかないのだから。




 -§-



 この世ならざる白一色の世界。

 あらゆる知覚を拒絶する絶界に、榊は立っていた。


「ここは……?」


 地獄でも天国でもなく、またこの世でも来世でもない無の世界に、一点。

 染み出すように『存在』が現れた。


――女神。


 物憂げに伏せた双眸。くすみ一つない透き通った肌。凛と筋の通った小ぶりの鼻に美しい唇。白銀の長髪は白雪のごとく伸び、スラリとした手足は白魚さえくすんで見える美しさ。

 美に輪郭を与えたような大和撫子が、天女を思わせる羽衣を体に巻いて榊の前に浮いている。

 榊が何よりも目を奪われたのは、白銀の長髪が垂れる頭部の頂点に生える、一対の大きな――狐の耳だ。


「おお、女神よ」


 榊は膝をつき首を垂れた。

 もはや自明だった。この聖性、この神気。稲荷神社の荘厳さを知り尽くす榊には分かった。

 彼女は紛れもなく稲荷様その人だ。


――私の祈りは通じたのだ。私の願いは通じたのだ。


 歓喜に打ち震える榊を見下ろし、女神が薄く唇を開く。

 言葉を発する呼気に空気が震え――


は稲荷神()()


 榊は止まった。


「榊宗信。あなたの祈りは届いていました。神の現世利益も薄い今の世において、あなたほどの信心はまれなもの。あなたの信仰を称賛します」

「撤回します」

「えっ?」


 稲荷神は茶色の虹彩も鮮やかな目を丸くした。

 狼狽えつつも失われない凛然とした美しさ、まさに女神と呼ぶにふさわしい。揺れる豊かな胸のふくらみは豊穣の利得ゆえか。

 顔を上げて立ち上がった榊は女神の神々しさを見るほどに、失望も色濃く肩を落とす。

 何かの間違いであってほしいと祈り手を合わせかけて、すぐ下ろした。祈るべき神が眼前にいる。榊はわなわなと口を震わせた。


「神は死んだ」

「ここにいます」


 稲荷神は薄衣の女神石像のごとき流麗な体を憂いに屈ませ、頭痛をこらえてこめかみを押さえた。


「ええ、まあ、"私"があなたの理想から些か外れているのは分かっています。見当外れの信仰を哀れんだからこそ、あなたを此処に呼んだのです。……これでも顕界する身を精一杯あなたの願望に『寄せて』いるのですよ。妥協しなさい。私はあなた一人のためにいるのではありません」


 憂う目蓋に生えそろう睫毛まで美しい。ゆるゆると頭を振って揺れる長髪は白磁か真珠のよう。光さえ反射を嫌がって彼女に留まるかのようだ。

 美少女というより美女であるが、すべての理想の結実たる絢爛さを目の当たりにして、榊は絶望に打ちひしがれる。

 稲荷神は深く大きな溜め息を吐いた。


「私も口惜しく感じているのですよ。これほど純粋な祈りは滅多に見かけません。神に奉仕するよりも現世での生活を重んじるのが神道ですから、無条件に称揚することはありません。できれば私に捧げるエネルギーを八割ほど生活に振り向けてほしかったと思います」


 榊の人生を八割がた否定して、稲荷様は言葉を継ぐ。

 口の端に困ったような苦笑をにじませて。


「ですが、神にも心はあります。祈られて嬉しくないわけはありません。だからこそ、応えることの叶わない我が身と、知らず祈り続けるあなたの純粋さは口惜しいものでした」

「稲荷様……」

「いささか、ねじくれすぎていますけどね」


 と、肩をすくめる。

 まるで日だまりのような柔らかな微笑に、榊は己を恥じるように姿勢を正す。おずおずと切り出した。


「口先で構いません。わらわ、のじゃと付けてもう一度言っていただけませんか」


 恥ずかしげもなく煩悩をさらした。

 稲荷神は少しだけ迷って、羽衣の袖で口元を隠す。


「えと……わ、わらわにも心があります。的外れであろうと、祈られれば嬉しいので……う、嬉しいのじゃ……」


 頬を染め、潤んだ目を恥ずかしそうに逸らして、密やかな声を吐息に溶かす。

 榊は止まった。

 もうっ! と怒ったふりをして、稲荷神は熱を逃がすように羽衣の裾をぱたぱたと払いつつ顔を上げる。


「はい、おしまいです! これで合っていましたか?」


 稲荷神は見た。

 幸福そうな笑みをたたえて消えていく榊を。


「わあっ!? ちょっ、待ちなさい! 本題はこれからです、あなたに頼みがあって呼んだのです! 勝手に成仏するんじゃありません!」


 ぱーんと仏光が消し飛んで榊は帰ってきた。


「せっかく極楽を見たのに……」

「あなたも大概とんでもない人間ですよね」


 深々と溜息をついた稲荷神は、気を取り直して姿勢を正す。


「そんなことを言えるのも今だけです。あなたのひねくれた信仰心を捧げる神として、私よりも相応しいものがいます」


 榊は言わんとすることを察し、言葉を失った。


「それは……まさか」


 そう、と稲荷神はうなずく。


 好きなもの、そのいち!

 頭のおかしい主人公!!!


 頭のネジが消し飛んだド腐れ外道いかれポンチが大好きです!!

 はい、私が病気です!!


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