賢二さんの間違い
門司では、河豚の事をモンフグという。
これは、僕と母と兄、それとモンフグの話だ。
「優一、モンフグ捌いたき、食べんしゃい」
(優一、モンフグ捌いたから、食べなさい)
母の言葉にぎょっとして、僕は思わずヘルパーさんを見た。
エプロン姿の彼女は、困ったように微笑む。
首も横に振る。
「ちよさーん。今日はスズキの塩焼きですよー」
「モンフグやき」
(モンフグだから)
顔を覗き込むヘルパーさんに、母は譲らない。
この頑固さは、昔と変わらない。
「そうかー、じゃあ、河豚は今度食べようねー」
母が頷いたので、彼女は顔を上げる。
僕と目が合う。
「すいません」
彼女が口を開く前に、頭を下げる。
この『すいません』、には色んな意味がある。
一瞬でも、母の言葉を鵜呑みにして、『すいません』。
全く別のグループホームの虐待事件の報道に、不安になって押し掛けて『すいません』。
転勤で、ここ門司から北海道に飛ばされます。
来月から、押し掛ける事も出来なくなります、『すいません』。
……この施設の職員さん達は、入居者にも、僕みたいな身内にも、丁寧だ。
疑う事自体間違ってる。
でもこの間違い癖は母譲りだ。
母は、他界した父が釣ってきたモンフグをよく捌いていた。
もちろん、免許など取得していない。
怖いから止めて、と言っても聞く耳を持たなかった。
今もこうだ。
ちなみに僕は優一ではない。賢二だ。
優一は兄で、認知症の母をここに入れた張本人である。
母は入所を嫌がった。
みんなで介護すれば良いじゃないか
と主張しながら、僕は兄を責めた。
「兄さんは間違っている」
「何選んでも、間違いしかねえよ」
その言葉は正しい。
でも、僕が一番間違っている。
母を残して転勤するからだ。
僕には扶養家族がいる。
転勤か早期退職かと、会社から迫られ、子供達のために、転勤を選んだ。
……施設を辞する時に、職員さんに深く頭を下げた。
「母を、よろしくお願いいたします」
この言葉は間違ってはいない。
言葉に込めた、想いも。