遊星からのサキュバスX ~遠く、星の彼方まで~
※この小説には過度のシモネタ(卑猥な表現、性的なジョーク)が含まれています。
※お食事中の閲覧には注意してください。
――いつか、誰も見たことがない景色を見に行こう。
幼いころ、父と二人で星を見上げていた。
天体観測。星の輝きを見つめること。それは少女にとって特別な行為だった。大好きな父と同じ時間を過ごし、同じものを見て、同じ感情を共有する。何物にも代え難い宝石のような体験の、最後のとき。
努力に努力を重ね、少女の父は宇宙飛行士になってみせた。有人宇宙飛行は冷戦の産物、二〇世紀のあだ花という人もいるけれど――父はそう思わなかったし、彼女もそんな彼を誇りに思っていた。
これから宇宙へ向けて渡米――日本人が宇宙飛行士になるなら、アメリカ航空宇宙局が唯一の道だ――する前日、父は娘と一つの約束をした。
今でも覚えている。
それは、果たされなかった約束だから。
結論から言えば、父の乗ったスペースシャトルは地上に帰ってくることが出来なかった。予定通りの宇宙滞在の後、大気圏への突入を試みたスペースシャトルは爆発四散、バラバラに砕け散っていった。乗員は全員死亡、アメリカ航空宇宙局の発表でも原因は不明。破片の一部は地上に落下――よりによって日本上空に飛来した。
幸い、人口密集地に落ちることはなかったが、それでも悪い意味で話題になったのは言うまでもない。
葬儀の席で呆然と佇む母がいた――数年後、病で父の後を追うことになる人。
その足下。
いつまでも、いつまでも、泣き止むことない幼い少女がいた。
あれ以来、星を見上げることはなくなった。
そして、七年の月日が経って――
泊まり込みの学校行事、夜の散歩にふらりと抜け出して。
夜空を見上げたら。
――光。
――熱。
――痛。
それが少女の最期の思考だった。
◆
『あっ、原生生物を巻き込んだようだな――即死では仕方ない、うむ、緊急避難というヤツだ』
目が覚めて最初にわかったのは、自分以外の思考が頭の中にあること。うわーとうとう精神病かァあたし、とナイーブな解釈をするまで二秒とかからず、アキラは覚醒した。今年で一四歳、中学二年生になる少女である。今まで大病を患ったこともなく、精神科への通院歴もない。よってこの突発的な幻聴はつい発作的に精神をやられたか脳が壊れたせいだろう。
アキラは現代日本の健康な女子中学生なので、自分の現状にすこぶる冷静だった。
周囲を見る。夜闇が深い雑木林――林間学校の宿舎からほど近い屋外のはずだった。彼女の通う中学では、毎年、この時期になると一泊二日の学校行事がある。土日を費やすくせに休みは月曜しかない、邪悪な学校組織の陰謀である。ちなみに一番の被害者は、劣悪な労働環境から週末すら奪われる教員なのは言うまでもない。
しかし、予想は裏切られ――あたり一帯に半径二〇メートルほどのクレーターが出来ていた。
ぱちぱちと燃える木々の断片、炭化したよくわからない塊が転がっている。
「……隕石?」
しかしその割りに、消防や警察はおろか教員すら見に来ないのはおかしい。ふと、違和感を覚えて右の掌を見た――手の甲に得体のしれない宝石が張り付いていた。
あ、光った。
『はじめまして、アキラ。ああ、自己紹介は不要だ。私は銀河連邦独立治安維持部隊の巡回査察官――便宜上ルクスと名乗っておこう。いわゆる宇宙人だ。今は君の躰を間借りしている状態でね。平たく言うと一心同体というわけだな』
「新手の詐欺か、寄生虫――なんであたしの名前知ってるの。あと、勝手に融合するな宇宙人」
この幻覚がなんであれ、まずはその説明を聞いておきたかった。
アキラは最高に冷静だ。
『私は銀河連邦の任務でこの星にやってきたところ、宇宙犯罪者を見つけてね。まとめて始末すべく軌道突撃を行い、一網打尽にしたわけだが――運悪く君は巻き込まれてしまった。プラズマ衝撃波によってアキラの五体はばらばらに吹き飛び、控えめに言って蘇生不可能な状態でね。そこで私が融合してその命を繋ぎ止めた。衣服のジャージも、上下あわせて元通りだろう? 今、融合を解除すれば、アキラは四〇個ぐらいの炭化した肉片に元通りだろうな』
ああ、すべてステルスフィールド内部で行ったから君たちの文明には観測不可能だ、安心してくれと言い終えて、ルクスは口を閉じた。。右手の甲に浮かぶ青い結晶体――自称・宇宙パトロールのエイリアンが、何もかも白々しい脅し文句を喋っていた。
何故か恩着せがましい口調が癪であった。
「――だいたいお前のせいだろうがァ!!!!!」
『あまり大きい声を出さないで欲しい、アキラ。私は君と融合しているから、君が有機的生体組織に蓄えた記憶・知識・言語についても習得しているが――今はプライバシーや個人の生命など些細な危機的状況にある。どうか原生生物、もとい地球人類のためにも、私に協力してほしい』
「あー、言いたいことは山ほどあるけど。それって宇宙犯罪者? とかいう奴らのことなわけ?」
『そうだ。超光速航法による時差を考慮しても、現状から見て、ヤツがこの星の地表に到達したのはつい最近のことだ。おそらく地球の衛星軌道上を漂っていた断片体だろうが――』
ぴかぴか光る右手の結晶体に話しかける自分は、たぶん他人から見れば気の狂った子供だろうな――妙に醒めた気分だった。
ルクスの話によれば、地球に逃げ込んだ宇宙犯罪者は、とびきり邪悪で厄介なヤツらしい。
その名は――凶悪性欲怪獣サキュバス。
『サキュバスは過去、六つの文明を滅ぼした犯罪怪獣だ。知的生命体の持つ自己複製欲求――この星でいう性欲を利用して寄生と乗っ取りを行う。君に理解できる俗な語彙で表現するとドスケベエロモンスターだ』
「あたしをバカにしてるでしょ、ねえ」
『いいや、君を頼っているんだよ。肉体を脱ぎ捨て、光情報生命体へとシフトした我々の文明は、性的欲求というものを根絶した――そのおかげで性欲の概念が理解できない』
そこで君に提案だ、とルクス。
『現住生物である君に、人類の性欲を解説して貰いたい』
思春期の少女への言葉だった。あらゆる意味で最悪極まりない、宇宙人からのセクハラである。
アキラは歯を見せて笑った。
「――殺すぞ」
最低のファーストコンタクトだった。
そろそろ自分の正気を疑いかけているアキラの耳が、動物の鳴き声を捉えたのは、そんなときであった。
――にゃーん
右手の結晶体が、警告するように断続的発光。
『あの猫は――サキュバスに寄生されている! 来るぞ!』
ルクスの示唆する方向に目を向ける。おそらく今の自分は、平常時よりはるかに視力がよくなっているのだろう。
夜闇の中、見えた影はたしかに猫のようなシルエットをしていたが。
異形。
ぶよぶよした筒型の胴体に、ぱくぱくと開いた丸い穴――意味不明な卑猥さ。ピンク色のちくわに猫の手足がついたような生き物が、粘液を垂らしながら地面を疾走する。アキラは愛猫家ではないものの、基本的に動物は好きだ。犬も猫も飼ってみたいと思っているが、世話の大変さや住居環境を考えて断念している。
そんな、どこにでもいる健全な女子中学生なので、ちくわの化け物に襲われる状況に冷静に対処できる。
『今の君は私と同化しているから、サキュバスに汚染されない。恐れるな!』
足下の小石を拾う――印地打ちの要領で投擲。にゃあ、と猫の鳴き声を上げる化け物はそれを回避。直後、横方向へのステップで突進の速度が弱まった。だが、それだけだ。アキラは所詮、人間の少女であって兵士でもなければスーパーヒーローでもない。何も出来ない。
ただの人間ならば。
『掌をかざすんだ、君に相応しい武器が用意される』
言われるがままに右の掌を突き出す――右手を、前に。
ああ、幻が見える。
ヴィジョン――大気圏で燃え尽き爆ぜるスペースシャトル。断熱圧縮のもたらす超高熱。父の生命を包み込み、塵も残さず奪い去ったもの。途方もない虚無でありながら、絶大なる力として少女に刻みつけられた傷跡の名前。
――約束だよ、お父さん。
果たされなかった約束へと、右手がたしかに届いた気がした。
視界が、白く染まった。
『カートラッセル型・火炎投射兵装……おお、マクレディ……!』
爆炎。
白い炎に包まれて、ちくわの化け物が悲鳴を上げていた。猫のようなシルエットが崩れ、得体のしれない触手を伸ばし、ぐねぐねと踊り狂いながら。
それは、死を迎えて、動かなくなった。
『マクレディ。私の故郷で炎の勇者を意味する言語表現だ。君には、この名前がよく似合う――』
「ポエムはいいから」
顔をしかめて、炭化した怪物を見やる。不定形の肉塊が、炭になったような有様の残骸だった。
『この星の文明で、男性向けの自慰用品として販売されている器具――オナホールを模倣した形状だ。さしづめオナホールキャットと呼ぶべきだろう』
ルクスによる聞きたくもない解説――無闇矢鱈と地球のアダルトグッズについて詳しいなと首を傾げた。すると、得意げに右手の結晶体が発光。
『君のスマホと同化して検索した』
「あたしのスマホ……」
たぶんブラウザの検索履歴にアダルトグッズのあれこれが残っているのだろう。
スマホを汚された気分だった。
とはいえ、嬉しい知らせもあった。
『覚醒した断片体は、あのオナホールキャットが最後だ。君の肉体が復元完了したら、私もこの地を去るとしよう』
「よし、可及的速やかに出ていけ」
だが、運命はどこまでも残酷だった。
つん、と鼻をつく異臭が、それを告げている――そう、栗の花のようなにおい。
『――残留体液だ』
「は?」
その意味を理解する前に、ルクスが警告を発した。
『オナホールキャットは、すでに男性器と接触している――感染者がいるぞ』
◆
林間学校の参加者は、アキラを抜いて二九名。このうち一四名が男子生徒――件のオナホールキャットによる感染者の疑惑あり――だ。明日には写生大会が予定されており、緑豊かな自然公園で、生徒たちは各々好きに別れて風景を絵にする予定だった。美術の授業の一貫だが、厳しいノルマなどはないため、実質的にピクニックのようなものである。
『おおよそ、考え得る最悪のシチュエーションだな。単独ないし少数行動の人間を襲えば、効率的に感染者を増やすことができる』
しかも管理者側である大人は、宿泊施設のスタッフを入れても少人数だ。三〇名弱の児童を縛るのは、子供の政治力学によって維持される学校内階級に過ぎない。勉強やスポーツの優劣、家庭環境や容姿の格差、社交性などによって形作られる人間関係の縮図である。そういった機微を踏みにじり、同化汚染を繰り返すサキュバスにとっては、ただの餌だ。
たとえば、少数派へのいじめのような行為が成立するのは、加害者と被害者の双方に自己保身が頭にあり、加害者にとっての安全、被害者にとっての忍耐のような行動予測の見通しが立つからだ。しかし、その後の生活がある人間と違い、サキュバス感染者は生ける屍だ。一度感染させてしまえば、スクールカーストの上下など関係ない。
学校というコミュニティは、サキュバスの感染爆発にとって都合がよすぎた。
『それに、朝食の時間があるというのも最悪だな。サキュバスは汚染体液を介して寄生を行う。飲み水や食事に混入していた場合、確実に感染するぞ』
「タイムリミットは朝の七時三〇分、朝食の時間ってことね」
現在時刻は夜、二〇時過ぎ。睡眠時間を度外視して動き回ったとしても、半日ほどでタイムリミットが来る。ましてやサキュバスによる同化・増殖を考えれば、実際の時間的猶予はもっと短いと見るべきだろう。
『ちなみに今の君は私との融合によって睡眠不要の肉体となっている。共に力を合わせよう』
どうやら自分も人間離れしているらしい。この宇宙人、有害なので後で始末しよう、出来ればそうしよう。
ともあれ問題は、おそらくクラスメイトに紛れ込んだサキュバス感染者である。明日の夕方、写生大会が終わった後にバスが迎えに来る予定になっているから、それまでに片付けなければ。
「ところで鳥とか狸とか、野生動物経由では感染しないわけ?」
『件の猫――オナホールキャット以外のサキュバス感染動物は、アキラをうっかり事故死させたときに焼却処分しておいた。人間から動物への感染は起こらないとみていい。サキュバスは本来、生命維持に知的生命体の生殖因子を必要とする存在だ。動物への寄生は、サキュバスにとっても命の危険の方が大きい。この星で彼らの要求水準に達している知的生命体は、人類を含めて三つだけだ』
「へぇ……イルカとか鯨とか?」
『イルカは当たりだ。最後の一つはジャガイモなのだが――いや、この星で行われている凄惨な虐殺について私が口出しする権利はないな』
「えっ?」
何か今、ものすごく不穏な台詞が出てきたような。
『話を戻すが、サキュバスは異種族の生殖因子によって生命維持を行う感染型生態系だ。寄生対象への擬態能力はあるが、サキュバス細胞の侵食が生殖器に到達した時点で、その体液はサキュバスの食糧たり得なくなる。つまり、サキュバスによって汚染された文明は、やがて生態系ごと餓死する運命にあるんだ。無秩序な感染爆発とその後の生物資源の枯渇――アレはそのようにして、数多の星々に死を振りまいた』
「……殺すしかないかァ」
アキラは中学二年生だが、死生観が乾ききっている現代っ子なので、感染したクラスメイトを助けられないことにあっさり納得した。いや、助けられるかもしれないとか、方法はあるはずだとか、そういう希望を持つことは、とっくの昔にやめてしまったのだ。
あの日、あのとき。
父が地上に帰ってこなかったときに。
『統率力のない指導者に率いられた集団がパニック状態に陥れば、サキュバスはその混乱に紛れて逃亡する恐れがある。今の状態ならば、たとえ感染者が徒歩で脱出しようとしても、確実に追跡、焼却処理できる。これは、私たちと奴の秘密裏の戦いなのだ、アキラ』
道すがら、顔見知りであろうと殺す決意を固めた。あるいは自分は狂っているのかもしれないと思ったが、あのちくわの化け物を見た後では、多少の感情は捨て去るべきだと判断するしかない。全人類がちくわ猫と化す未来など真っ平ごめんだ。アキラはもう、宇宙の彼方に夢を見るのは諦めた。せめてその分、地球上で平和に楽しく暮らしたいだけなのである。
その平穏を乱すのなら、たとえ隣人であろうと消さねばならない。
「アキラ、どこに行ってたんだ」
「トシオには関係ないでしょ。ぶっちゃけ夜の散歩」
ポケットに右手の甲を突っ込んで隠した。
宿泊施設の裏口で、少女を待ち構えていたのは、同い年の幼馴染みだった。親同士の近所付き合いもあって、幼稚園のころからの腐れ縁である。この少年、顔だけは良いのだが肝心の性根がねちっこいクソ野郎なのでどうしようもない。つまり鬱陶しい。
「僕はほら、アキラが帰ってくるのを待って見張り番さ」
「あたし以外にもサボりはいるでしょ、どーせ」
「まさか。ここ三〇分ぐらい見てたけど、誰も通らなかったぜ? アキラみたいな悪党は他にいないってことさ」
どうせスマホを見て時間潰ししていたのだろう。これほど当てにならない見張りもいないし、それに。
アキラは昔から、この妙にえらそうな幼馴染みが嫌いだった。
「――スマホにえぐいエロ画像しまってるくせにえらそう。生意気」
「はぁっ!?」
慌てふためくトシオの横を通り過ぎた――学友たちの中に潜むサキュバスを焼くために。
別れ際、忠告しておいた。
「トシオ、男子を狙う性犯罪者も多いらしいから、間違っても一人で出歩いたりしないようにね」
「お前、何が言いたいんだよ!?」
ひらひらと手を振って、立ち去った。
◆
『アキラ、まずはどこを探すんだ?』
「こういうのって個室でやるものでしょ、ふつー。数の有利が確保できるまで、サキュバスは表だって活動しないって言ってたじゃん」
つまり男子と女子が別れて寝泊まりする大部屋は除外していい。第一、まだ消灯時間にはほど遠く、男子部屋からはトランプやトレーディングカードゲーム、携帯ゲーム機での対戦に熱中する声が聞こえて来るではないか。女子部屋も似たようなもので、きゃっきゃと騒ぐ声がしている。
アキラは暴力超人として有名なので、微妙に友達がいない子だった。ふらふら施設内を歩き回っていても怪しまれることがないのは好都合だった。
そういうわけで。
「こんばんはーっ!」
今は使われていない(昼のうちに確認済みだ)空き部屋の扉を勢いよく開けた。
サッカー部のサトウとクラス委員長のマリエが、半裸で抱き合っていた。
これはもう、アレである。お楽しみ中である。一〇代は性欲モンスターである。
さて、余談だが。若年層、特に一〇代における性交渉の有無は、男女ともに草食化が進んでいるとされる一方、逆に不完全な知識のまま行為に及んでしまう子供も多い。アダルトビデオや成人向けコミックの描写だけを参考に、避妊についての正しい知識がないまま性行為をしてしまい、結果として望まない妊娠や性病などのリスクを背負ってしまうのだ。
――コンドームの正しい使い方を学ぼう!
そんな感じの思考と共に、アキラは親指を立てながら叫んだ。
「不純異性交遊だ――ッ!!」
「な、なんだお前!」
サトウはイケてる今時のスポーツマンである。クラスでも女子からの人気が高いが、まさか、やや性格がきついと評判の委員長と付き合っていたとは。
深い人付き合いをしないアキラは、こういう色恋沙汰の噂にも疎くなっていた。なるべく動揺させるために大きな声で叫んでみたが、ルクスが消音効果のあるステルスフィールドを張っているので、外に聞こえることはない。それを知らないサトウとマリエの反応を見るために、アキラはあえて騒ぎ立てているのだ。
この少女、根本的に性格が悪い。
――違和感。
サトウは相当、びびっているらしく、委員長を腕の中に抱きしめてこちらを睨み付けているが。
肝心のマリエの方はぴくりとも動かない。羞恥心で俯いているとか、呆然としているとか、そういう類の硬直ではない。まるで、動力の切れたゼンマイ人形のような――
『アキラ、あの少女は感染者だ!』
「ちぃッ!」
舌打ち一つ、右の掌を構える。後ろ手にドアを閉めて、自分の躰で逃走経路を塞いでおくのも忘れない。どうやら元は倉庫に使われていた部屋らしく、電灯こそ通っているが窓は見あたらない。唯一の出入り口はアキラの後ろのドアだけというわけだ。
舌打ちを自分たちに対してと受け取ったのか、いよいよサトウが表情を険しくしている。
「なあ、何のつもりだよお前」
「……」
サトウが、腕の中の恋人へと顔を向けた。
「マリエ、どーした?」
この時点で、彼が助からないのはわかっていた。けれどアキラは、まだ、人間を焼き殺す決断が出来ない。どれほど覚悟したつもりでも、いざ、引き金を引くとなると鈍ってしまう。ちくわの化け物と人間では、感情移入の度合いが違いすぎる。
少年の腕の中で、少女が顔を上げた。委員長はきつい顔立ちだが、クラス内でも中々の美人である。その顔面に、音もなく、縦横の切れ目が入った。
果物ナイフで切ったオレンジのような、綺麗な裂け目だった。
「えっ……?」
じわじわと体液があふれ出し、顔が四つに押し広げられていくマリエの顔――日焼けの少ない皮膚がめくれ上がり、赤黒い触手が飛び出す。少年の背中に回されていた腕は、いつの間にか硬く肉に食い込み、犠牲者を逃すまいとしていた。
ちょうど、つぼみが花開くように少女の顔が変形――触手と牙がびっしりと生えそろった巨大な捕食器官が出現。
「――ぱふぁ」
ばつん、と。
サトウの日焼けした顔が、綺麗に食い千切られた。
『今だ、アキラ!』
引き金を、引くイメージ。
アキラの肉体と一体化した焼却機構――火炎放射器は絶大な威力を誇った。
焼け焦げて、ねじくれて、悲鳴を上げながらのたうち回る委員長――下半身から癒着し、融合しかけていた男女二人の混淆体。
その触手の臓物が溶け崩れ、動かなくなるのに時間は要らなかった。
「……まずは一匹目」
『オナホールキャットの残留体液から見て、最初の感染者は男性だった。すでに、サキュバスによる汚染が広がり始めているようだ』
ルクスの分析を耳にして、ようやく実感できた。
――これを、何度もやるわけか。
空き部屋から出て早々、五歩も歩かぬうちに人と出くわした。
「アキラじゃーん。ここにいたんだー?」
「おー、ヨシコ。どしたのさ」
おっとりした雰囲気の女子の名はヨシコ。割りと友達が少ないアキラの、小学校からの友人である。こう見えて短距離走の名手であり、県大会に出場したこともあるエース走者であった。
「いやさー、姿が見あたらないから探してたの。んー……ちょっと焦げ臭くないー?」
「気のせい、気のせい」
ドアの向こうには、完全に炭化したサトウとマリエの焼死体が転がっている。火災報知器の作動前に完全消火する、銀河連邦の超科学あってこその早業であった。
「ま、あれよ。先生が見回りに来る前に部屋戻ろうよー」
「わかったよ、心配性だなあ」
ひとまず従って、見回りが通り過ぎたころに大部屋を抜け出すのがいいだろう。
そう思い、ヨシコの先導に従って階段の一段目に足をかけた。児童が寝る大部屋は三階にあり、教員のいる二階を通って上り下りしなければならないのだが――ふと、ヨシコの足が止まっていた。
「ヨシコ」
「なにー?」
がくん、とヨシコの上体が折れ曲がった。下半身は直立したまま、上半身だけがイナバウアーよろしく反り返り、階段下のアキラの方を向いている。無理のある姿勢だから、当然、ヨシコの躰は階段の上で崩れ落ち――不気味にブリッジするような姿勢で、立ち上がる。
階段に頭をぶつけた拍子に、白目を剥いたヨシコの顔――頬が割けそうなほど開かれた口から、おぞましい叫び声。
「あぎぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」
奇妙に甲高い声は、ヨシコのものでありながら、宇宙的な甲高さをにじませていた。
流石は県大会出場者、身体も柔らかく階段でのブリッジを難なくこなしている。ちょっぴり関節が曲がってはいけない方向に曲がっているのはご愛敬。ぼきっ、ごきっ、めきっ、と骨が軋んだり折れたりしてるような音が聞こえるが、運動部だから大丈夫だろう。
『アキラ、アレは君の友人ではない――サキュバスだ!』
「くそっ!」
現実逃避が続いたのはほんの一瞬だった。
人体構造の限界を超えたM字開脚――股関節がメリメリと音を立てて割け、血と肉片を噴き出しながら変形する。裂けた皮膚から染み出す粘液が、ジャージの化繊へ緑色の染みを作っていく。奇妙にねじれた両足は原形を留めておらず、ゴキゴキと折れては関節を増やしていた。
限界まで反り返っていた胴体では、とうとう前開きのジャージの金具が消し飛び、裂けたシャツの下の皮膚があらわになる。つるつるした肌を突き破った赤黒い触手が、うねうねとうごめき、傷口を押し広げていく。あばら骨が露出し、へその穴にまで一筋の線が走った――腹から胸までぱっくり縦に割ける胴体。
絵の具をぶちまけたように色とりどりの内臓が、文字通り躍り出る。はらわたのダンスパーティのような胴体の先端では、少女の首が奇妙に伸びていた。実はそういう隠し芸があるのだと言われたら信じそうなぐらい、馴染み深い友達の首が伸びていく――まるでろくろ首。とうとうヨシコの首は地面と垂直に屹立、身体がブリッジした状態のままアキラと顔を合わせられるようになった。
その表情は粘土細工のように不格好で、だらんと開いた口からは、しゅーしゅーっと空気の抜ける音がするばかりだ。喉が潰れてしまったのか、発声機能そのものが失われている。
股関節の変形が終わり、昆虫の節足のようになった二本の足の間――ぐじゅぐじゅと肉塊が膨れあがり花開く――猫の頭が出現。血塗れの三毛猫が、奇妙に濁った鳴き声を上げた。
「にゃあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
うわっ可愛くない。
こう見えて小動物が好きなアキラだが、これは絶望的に可愛くない。
頭と尻尾があべこべのサソリのような生き物が、ヨシコの生首をぶらぶらさせながら階段を下りる――割けた股間では猫の頭が可愛らしい鳴き声。ゆっさゆっさと胴体を揺すり、ぶよぶよとした極彩色の臓物を蠕動させ、汚らしい体液を振りまきながら謎のアピール。
――なんだこれ。
呆気にとられたアキラをどう思ったのか、ルクスが解説を始めた。
『サキュバスに滅ぼされた知的生命体の間で、最も魅力的とされる求愛形態だ! アキラ、どんなに魅力的に見えても罠だ、騙されるな!』
一応、外宇宙での求愛行動だったらしい。つまり宇宙的セクシーポーズだ。なるほど、サキュバスはこうして犠牲者を誘惑し、捕食・感染させる生き物らしい。
――あたしを、舐めてるのかゴミども。
アキラは地球の健全な女子中学生なので、一ミリも眉を動かさずに呟いた。
「燃やすか」
掌をかざして、念じる。
小学校からの付き合いの友人だったが、躊躇いはなかった――火炎がぶちまけられ、断末魔と共に人間サソリが動かなくなったのは言うまでもない。黒く焼け焦げたよくわからないものとなったヨシコの残骸は、焼き肉パーティのときに焦がして誰も食べなかった肉みたいだった。
アキラは現代日本の女子中学生にありがちな、死んだ魚のような目で生ゴミの袋に友達の骸を詰め込むと、空き部屋にそれを放り込んだ。中までじっくり炭化させておいたので安心である。階段にも黒い染みが残ってしまったが、とりあえず一晩バレなければいいので無視した。
◆
誰もいなくなった談話室の片隅に、そいつはうずくまっていた。
クラスでも重度の美少女ゲームオタクとして有名な男子――皮下脂肪で膨れた肥満体、美少女ゲーム(携帯ゲーム機の移植版)に熱中していたタナカが、数えて六人目の犠牲者であった。その躰は今や二周りほど大きくなっており、半透明になった皮膚の下で、ピンク色の肉塊がモゾモゾとうごめいていた。おなじみの赤黒い触手ではない。
それは、少女のかたちをしていた。
卵形の顔、すっきりした鼻梁、ぱっちり開いた目、ふっくらした唇。釣り鐘型の大きな乳房、はち切れんばかりの尻肉、肉感的な体躯――さらさらした金髪が、水風船のように膨らんだ少年の中に広がっている。
――中学生男子の強すぎる性欲を詰め込んだような女体であった。
つまるところ、タナカは美少女への変身願望という特殊性癖の持ち主だった。
変態である。
ストレスが限界を超えて、アキラは咆哮した。
「死ねオタク野郎!!」
差別発言(政治的に正しくない)と共に、アキラの火炎放射器が火を噴いた。まず膨張したタナカの躰が焼け焦げ、体内を満たしていた粘液が失われると、体内ですくすくと育っていた美少女型サキュバスにも火がついた。地獄の亡者のような叫びを上げる美少女型クリーチャーの、整った造型が失われ、うねうねとうごめく触手がのたうち周り、溶け崩れていく。
身じろぎ一つしなくなるまで、念入りに焼いておいたのは言うまでもない。
ルクスの持つ超科学――ステルスフィールドのおかげで、サキュバスの断末魔はアキラ以外には聞こえないから、安心して駆除に専念できた。
「で、こいつ、男で感染者だけど――」
『残念ながら変態途中だったことから見て、彼も二次感染者だ。オリジナルは余程、精力的に活動していると見えるな――これで感染者は六人目だ』
「ハズレか……ひょっとして手遅れじゃないの、これ」
ぼやきながら、右手の結晶体を見る。ヨシコを始末した後、トイレや屋外などをくまなく捜索した結果、次々と感染者が見つかった。流石に六人目となるとアキラの心も動揺することがなくなり、大いなる虚無だけが胸中に飛来するようになっていた。
『サキュバスは急速に、この星の知的生命体が好む性的魅力品質を学習している。不味いぞ、アキラ』
「まあ、だよね……」
胴体が卑猥なアダルトグッズになった猫にしゃぶりつかれたり、ブリッジする人間サソリに興奮する変態は、たぶん地球にはそう多くいない。そう思いたい。
『このままでは、林間学校が……りんかんがっこーになってしまうな!』
恐ろしく真面目な声音で、かなり理解したくない駄洒落がとんできた。
下劣だ。
「お前、黙れ、燃やす」
アキラはストレスによって精神が荒んでおり、殺人ゴリラのような語彙になっていた。
感情が死んでいてもストレスは感じる。それが人間心理というものである。
そのとき、談話室のドアが開いた。
結晶体の浮かぶ右手をポケットに隠し、振り返る――そこに立っていたのは、顔なじみの少年、トシオであった。
「おい、アキラ。ここにいたのか……なんか焦げ臭いな」
「気のせい、気のせい」
ルクスの張ったステルスフィールドにより、焼け焦げたサキュバスの死骸は目視で確認できないし、音声や臭気などの感覚器の感知対象もアキラ以外には感じられなくなる。
だから、焦げ臭さはアキラの火炎放射に巻き込まれた壁や床などの、消しきれなかった部分のにおいだろう。
――もし。
一つの仮説を立てながら、アキラは首を傾げた。
「で、何の用?」
「大部屋に先生が来てさ、全員、食堂に集合するようにって言ってたんだ。お前以外にもサボってるヤツ多いし、怒ってるんじゃないか」
「……なんで食堂? ふつー、こういうのって談話室でやるもんじゃないの」
嫌な予感がした。
「さあ? 夜食でも配るんじゃないか、アキラみたいに食い意地張ってるヤツ釣るためにさ」
ああ、と声があふれて。
アキラは食堂に向けて、一目散に駆けだした。
食堂の扉を開けた瞬間、手遅れを悟った。
呻く。
「……しゃせーたいかい」
それはこの世の地獄のような光景だった。
具体的な描写は青少年の教育に悪いので差し控えるが。
屹立する肉棒の森、収縮する肥大化した陰嚢、弧を描いて乱れ飛ぶ汚濁、それを浴びてぶるぶると蠕動する肉塊の群れ――食堂は淫らな地獄と化していた。教員も児童も、余すことなくサキュバスに汚染されている。感染源はカレーライス。そこかしこに皿ごとぶちまけられた茶色の液体だ。
厨房のカウンターからは、食堂の職員だったもの――上半身が皮だけになった中年男性の尻――たるんだ肉が生々しい――が食堂側に突き出され、ぶりぶりと汚い音を立てながらカレールーを垂れ流している。おそらく、異変を察してカレーライスを食べなかった児童に対して、直接、サキュバス細胞の混入した排泄物が吹きかけられたのだろう。
あまり考えたくないが、皿によそわれたカレーライス自体、あの尻からひり出された可能性が高い。
一歩、足を踏み入れる。
視覚的にも嗅覚的にもきつすぎる光景だった。
かつて男子だったものの成れの果てが、床に並んでいる。性器だけが極度に肥大化し、頭部と手足はぴちぴちと跳ね回る触手になり果てた異形。グロテスクな肉のオブジェは、観葉植物のように等間隔で並び、ふしゅるふしゅると空気の漏れる音を鳴らしていた。
床や天井に張り付いて、うねうねと触手をうごめかせている肉塊の群れは女子だろう。
教員や施設の職員らしき物体も確認した後、アキラは深い、深い溜息を吐いた。
『――アキラ』
ルクスの警告。
背後で聞こえた足音に対し、振り向き様、迷うことなく掌をかざす。
「信じたくは、なかったよ」
瞬間、腹に重い一撃が入った。吹き飛ばされた躰が、食堂のテーブルにぶつかってけたたましい音を立てた。内臓に響くような打撃だ――ルクスとの融合状態でなければ、胴体が真っ二つになっていたであろう殺傷力。
「げぼっ、ごほっ……おまえかァ、トシオ!」
目尻に涙を浮かべ、顔を上げた。
あまりにも異常なものを目にして、アキラは息を呑んだ。
「猫にアレをしゃぶられたそのときから、僕は人間ではいられなくなったんだ」
そこには、下半身からうねうねと触手を伸ばしたトシオがいた。
この幼馴染み、何故か全裸である。当然ながら色々なものが丸見えだった――股間から伸びた、赤黒い触手の群れは人間のそれではあり得ない。間違いなかった。十年来の幼馴染みトシオこそ、オナホールキャットに接触した最初の感染者だったのである。
アキラは激昂した。
「あのちくわで興奮したのかよ、この変態!」
少女の怒りのポイントはズレていた。うっとりした顔で微笑むトシオ――なまじ顔だけは良いので絵になるのが腹立たしい。
「猫の可愛さとオナホールの不格好さ、そりゃもう興奮したね」
「うわあ……」
幼馴染みの狂いきった変態性欲にドン引き――スマホの中のエロ画像フォルダを無断閲覧したことがあるので、こいつの性癖がイカレているのは知っていたが――しつつ、アキラは覚悟を決めた。
『アキラ、落ち着け。彼がサキュバス断片体のオリジナル感染者だ。すでに本人の自我は消失している。アレは言動と記憶を再現しているサキュバスに過ぎない』
「何でもいいけど、男ならインキュバスなんじゃないかな……」
割りとどうでも良い指摘をしながら、アキラは立ち上がる。
右手の平を構え、食堂に満ちあふれた触手の群れを威嚇しながら、トシオだったものを睨み付け――全裸の触手野郎を見るのはかなり嫌だったので目を逸らす。
「――七年前、僕たちはこの星の地表に到達した。人間が高度な知的活動を行い、強い繁殖欲求と生殖機能を持った存在だと認識してね。休眠状態から目覚めるのに時間はかかったが――お前たちは来るのが遅すぎたんだよ、銀河連邦の皆殺し野郎!!」
確信する。
こいつは、おそらく人格すらもトシオのそれではない。
「……急に雄弁になったね、化け物」
「いつから気付いてたんだ、アキラ」
問いかけるトシオの姿をした化け物は、アキラに大して親しげだ。どうやらなりすましや人間心理については学習できているらしい。今までの感染者がひどすぎただけとも言うが。
じりじりと間合いを計りながら、口の端をつり上げる。
「焼け焦げたにおいだよ。焦げ臭いって感染者はみんな言ってた――ルクスのステルスフィールドが張ってあるのにね」
『サキュバス細胞には対人類用ステルスでは欺瞞しきれなかったようだ。アキラ、慧眼だな』
瞬間、四方八方から同時に触手が飛来――トシオの股間から生えたそれと、クラスメイトの成れの果て、それぞれが超高速の打撃を放つ。音速の鞭に等しいそれは、一撃でコンクリート壁を陥没させ、容易く人体を損壊させうる。アキラの火炎放射は一撃必殺の威力を誇るが、掌から放射する関係上、一方向にしか攻撃できない。
回避は不可能。
迎撃も間に合わない。
人間であれば、為す術もなく五体を引き裂かれるは必定。
少女の命は風前の灯火だ。
『アキラ、こうなっては残念だが。私の力を解放して自爆するしかない。半径一○kmの全物質を昇華させればこの星は救われる――君はもう一度死ぬが、諦めて欲しい』
ルクスからの思考言語。
弱気の提案に、アキラは獰猛に笑った。瞬き一つの後には自分がバラバラ死体になっているかもしれない状況で、彼女の瞳は、燃えるような憤怒を宿していた。
叫ぶ。
「七年前だ! こいつらを焼き殺すならっ! すべてが始まる前しかないんだよ、ルクス!」
熱量投射。
火炎放射の域を超えた超高熱を願う。核爆発でも生ぬるい。
わかってしまう。七年前から、すでに人間存在を認識していたという凶悪性欲怪獣サキュバス。原因不明のスペースシャトルの事故。
――あたしに力をよこせ、タイムスリップぐらいしてみせろ!
右手の結晶体が唸りを上げ、アキラの精神が求める奇跡をひねり出す。
それは天地開闢を超えた無限の熱量、光情報生命体たちの間でさえ奇跡と謳われる宇宙破壊の一撃。
――カートラッセル型次元爆裂昇華機構
その刹那、全事象が光に還った。
◆
目を覚ますと、そこは満天の星空だった。
もう名前も忘れてしまった星々が見える。忘れたのではない。忘れようと努力し、父の記憶ごと蓋をしておいた知識だ。胸一杯に息を吸い込もうとして、失敗する。どうやら肺呼吸に適さない環境らしい。ふわふわと頼りない肉体感覚――足下には。
――青い。
理解する。
ああ、これは宇宙から見た地球の風景。かつて父が見ていたはずのもの。ようやく、自分が宇宙空間を単独でさすらっている現実を認識した。
『無限熱量――君の発した超高熱はビッグバンの熱量を凌駕し、時間と空間を粉砕した。その結果として、我々は時間跳躍を行ってしまったのだ――あの時間軸を消滅させた代償にね』
遡航時間は地球時間で七年だ、とルクス。
「意外と冷静だよね」
『次元跳躍そのものは、我々の文明でも稀に利用しているからね。よもや、一つの時間軸を消し飛ばしてジャンプする大偉業を見られるとは思っていなかったが』
時間軸の消滅が何を意味するのかはわからないが、ろくでもなさそうな響きである。その割りにすっとぼけた感想を述べる宇宙人だが、ルクスはこういうヤツなので気にするだけ無駄だろう。
無言のまま、衛星軌道を目指す。
ステルスフィールドによって人類の観測網をくぐり抜け、如何なる痕跡も残さず加速――ルクスの超科学と融合したアキラにとって、宇宙空間での単独活動など容易いものだ。どうやら、サキュバスに殺されかけたことで、融合が強化された結果らしい。
『こうなってしまうと、分離は難しいぞ』
「あっそ」
色々な一線を越えたアキラに、人間社会への未練はほとんど残っていない。
何よりも――これから、最後の一つを切り捨てに行くのだ。
――すぐに目的の船は見えた。
白亜の耐熱タイルに覆われた有人宇宙船――スペースシャトル。大気圏再突入に入ろうとしている船体を目視して、アキラは目を細めた。
もう、わかっている。
わかってしまう。
あの日、あのとき、このシャトルの機長を務めていたのは父だ。
ルクスの言葉を思い出す。
――おそらく地球の衛星軌道上を漂っていた断片体だろうが――
笑う。
少女の人生が狂わされたのは、あの林間学校が初めてではない。
父が亡くなり、心労で母も後を追ったこと――すべての元凶が、そこにいた。
スペースシャトルの船体をぶち抜き、うねうねとうごめく異形が、中の乗員に襲いかかる様子が、手に取るようにわかった。銀河の彼方からこの星に飛来し、飢餓状態のサキュバスが人間の体液を求めて襲いかかっているのだ。宇宙服を引き裂かれ、はらわたを引きずり出されて死ぬ乗員が見えた。頑丈なエイリアンたちの基準での性行為は、地球人の肉体を容易く破壊してしまう。
無重力下、しかも大気圏再突入に備えたシャトルに逃げ場はなかった。
それが、凶悪性欲怪獣サキュバスと地球人類のファーストコンタクト。
だが。
最後まで諦めず、なんとか地球に帰還しようと足掻いた男がいる――アキラの父親が、操縦席に座っていた。
スペースシャトルの先頭に降り立ち、中を覗き込んだ。
――ああ、そういうことか。
乗員のほとんどを喰い殺したサキュバス――不定形の肉塊が、今まさに、父の股間に襲いかかっていた。ぎりぎり人体を破壊しない力加減を、ようやくサキュバスは覚えたのだ。
恐怖に歪む父の顔が見えた。アキラのことが視認できないから、彼は文字通り、孤独な死を迎えようとしていた。
「サキュバスは、父さんのち〇ぽをしゃぶって地球人に寄生することを覚えたんだ」
『――それは』
今ならば、地表にサキュバスの断片体が到達する前に、決着をつけられる。
どうしようもなく、納得できたことがある。果たして、タイムパラドクスなるものがこの世にあるのかはわからないが、一つだけ確信できてしまうこと。
アキラがこの時間軸、七年前の事故の現場に居合わせるには、ルクスと融合する必要があった。クラスメイトを焼き殺せるほどに、虚無に満ちた心を持ち合わせて。宇宙破壊の一撃を、光情報生命体から引き出せるほどの怒りを、ずっと胸に抱えていなければいけなかった。
――ここが因果の起点なんだ。
この瞬間、父の死が確定することで、アキラはこの時間軸に到達できるようになった。
それは、アキラにもルクスにも全貌が理解できない、宇宙の辻褄合わせ。
『アキラ、君の行為は無意味かもしれない。サキュバスが地表に到達することすら、因果の一部かもしれないんだぞ』
ルクスなりの良心か、忠告めいた言葉が飛んでくる。だが、理屈ではなくアキラには理解できてしまった。
時間跳躍を行い、一つの宇宙を消し飛ばした今のアキラならば、サキュバスを抹殺できるかもしれなかった。時間跳躍を可能としたのは、アキラの心理状態とルクスの超科学の合わせ技だ。すでにタイムスリップをしている以上、どんな辻褄合わせが起きても不思議ではない。
「炎の勇者なんでしょ、あたしは――こいつを完全に殺せるか、試してみるのも悪くない」
掌を、かざす。
アヘ顔の父親――というより内臓を侵食されて文字通り昇天しかけている――に向けて、数百万度のプラズマを撃ち出すために。
――さようなら、お父さん。
果たされなかった約束への、最後の手向けとして。
視界が、白く染まった。
この日、一隻のスペースシャトルが、完全に消滅した。破片一つ、地上に落ちることはなく、有人宇宙船の消失は、長らくミステリーとして語られることとなる。
もちろん、七年の月日が経っても、エイリアンによって地球が侵略されることもなかった。
◆
アキラは今、地球を離れ、とうとう太陽系を飛び出そうとしていた。地球文明と十分に距離を取ってから、超光速航行に入るためだ。あらためて地球に戻る意思はないことを告げると、ルクスは二つ返事で了承した。
「――この時間軸でも、あたしは父さんのお葬式で泣くんだろうね」
『そうだな。だが、林間学校でのサキュバス騒ぎは起こらない。君の異時間同位体が、人を焼き殺すこともないさ』
「つまり、あたしとは別人ってことじゃん」
力なく笑う。
ろくな大人にならないと、目に見えているのがアキラという少女だった。
「どうせなら、ルクスの故郷まで連れて行ってよ」
前人未踏の世界を目指したかった。
星を、眺めた。
「約束したんだ」
宇宙の彼方で煌めく星々は、数千年の昔に燃え尽きた断末魔の光。
まるで追憶。
燃え尽きる瞬間まで続く、走馬燈の煌めき。
悲しくも美しい天の輝きに心奪われて、アキラはそっと呟いた。
――誰も見たことがない景色を、見に行こう。
-了-




