Act.1
<Act.1 4/18(日) ??:??>
【仄宮秋流】
――――さよならを告げた世界は、目覚めれば依然としてそこに横たわっていた。
速やかに意識が浮上していく。目を開いた先には、見たことの無いコンクリートの天井があった。……体は、動く。
「……な、……ぜ」
何故私は。
何故、生きているのだろうか。
未だ覚醒しきらぬ頭の中に、ぼんやりと意識を喪う間際の情景が浮かび上がってくる。赤黒くコンクリートの地面を覆う鮮血の海。底に沈むレンズの罅割れた赤縁の伊達眼鏡。ビルの谷間から僅かに覗く星々と、闇を引き裂くように描かれた世界の笑顔。ごろりと転がる“誰か”の生首。無惨に飛び散る男の脳漿。――――深く深く腹に差し込まれた、剣の感触。
襦袢の――言うまでも無いが普段からそんなもの着ている訳がない――裾をよけ、そろりと傷の部分を触る。身を固くし覚悟していた痛みは、しかしやってくることは無かった。……おかしい。気絶して起きたら致命傷が治ってるなんて出鱈目あってたまるか。そして、もし仮にそんなものがあったとしても、わざわざそれにしがみつくほど生に執着していたわけではなかったのに。憎たらしいことに無意識が望んだとでもいうのだろうか。
しかし現実、望んだだけで上手くいくほど都合の良い力の持ち合わせは生憎と無かった。それならば何故と、思考がまた始点へと戻る。
……そんな堂々巡りにも疲れた頃、私はようやく周りの把握に乗り出した。ゆっくりと起き上がる。何があるか分からない、不用意に歩き回ることは避けてぐるりと見回すに止める。
天井や壁にいたるまでが剥き出しのコンクリートで、あまり生活感のない部屋の隅には申し訳程度の小さな机が置いてあった。見る限り調度品といったらそのくらいしかない、実に殺風景な小さい部屋だった。左手の窓から見えるのは角度こそ見慣れないものの歌舞伎町の高楼の一つであることは間違いない。一応、新宿ではあるらしい。
と、そこまで見当をつけたところで。「おや、」とすぐ脇で声が上がった。
「お目覚めかぬぇ? お嬢ちゃん」
「――――ッ!?」
反射的に体が引き攣る。声が耳朶に響くその一瞬前までは確かに何の気配もなかったベッド脇に、いつの間にか人が座っていたのだ。
濃い茶色に黄色を落とし込んだ不思議な色彩の長髪を自由に流し、黒瞳で穏やかに微笑む彼女は、起き上がっていた私を抑え「まだ寝ていなさい」と無理矢理寝かしつけた。
「起き上がれるならほぼ全快ってところかぬぇ、秋流ちゃん。せーはいの恩恵っていうんだっけ? さしもの私もたまげたよぬぇ」
女性にしては低く、からからと笑う気負いを一切感じさせないその口振りには、同様に敵意も害意も一切が見受けられなかった。その独特な話し方といい、私の知る中でこんな奇矯な人間は一人しかいなかった。
「おい遥、なんでテメェがここにいるんだよ」
七木遥、新宿は歌舞伎町に居を構える凄腕の情報屋にして、自身を既に何千を生きる妖・鵺と嘯く女である。仕事柄私も何度か情報を売り買いしているため、私的な会話こそほとんどしないものの顔見知りではあった。それが何故こんなところにいるのか。
「ここが私の隠れ家の一つだからだよ。ある男に君の介抱を頼まれたのさ。あいつが君をつれてきた時は昏睡状態だったからぬぇ、君。四日間寝てたんだよ」
そのあまりにものんびりとした口調に詰問の機を見失う。癖で扇子を探したが、当然ベッドの中にあるはずもない。それならと視線を枕元にやっても、それらしき姿は何処にも無かった。
「ある男ってな、また奇特な奴がいたモンだな……死にかけの小娘一人拾ったところで何にもなりゃしねェってのに」
「え、君死にかけたのかい? 私が君を看た時には、意識こそなかった割に傷なんてどこにもなかったけど」
遥は不思議そうに首を傾げた。おかしい、そんなはずはない。私はあの魔術師に傷を負わされ、それがもとで意識を喪い――――否、確実に絶命したのだから。
あの時の感覚は忘れようにも忘れない。「死」の感覚。流れ出る命の感覚。零れ逝く砂の気配。耳を澄ませば聞こえてきそうなほど明瞭な死神の足音。なのに、待ち望んでいた解放だったのに。それを私から奪いあまつさえ傷さえ残してくれなかった奴がいる。
僅かに顔を歪めると、それに気付いたのか気付いていないのか「おや」と彼女が声を上げた。
「来たみたいだぬぇ、例の男が」
彼女が視線を扉にやったと同時、それは向こう側から開かれた。
「目覚めたのか……良かった」
意識を取り戻した私を見るなり安堵に頬を緩ませたのは、すらりとした長身に、薄暗い電灯にもきらきらと光を返す金髪の男だった。その肌は白く、瞳はこの帝国内ではそうお目にかかれない碧色。外国人の青年だった。見覚えは当然無い。
「お前が、私を……助けた、のか」
心底安心したと思わしき男の発言に対する私の言葉は、自然低くなる。脇の遥が留めるのにも構わず体を起こすと、青年は「ああ」と一つ頷いた。
私の命を。一度喪ったはずの私のそれを。いとも気安く、救ったなどと?
――――自分でも処理しきれない感情が腹の底から沸き上がり、痛覚も全て置き去りに気付けば男に掴みかかっていた。
「なん、でッ、」
「ち、ちょっと君、」
「――――何で、死なせてくれなかったッ!!」
かかっていた布団も跳ね退け乱雑に男の襟首を掴み身長差にも構わずに詰め寄れば、碧色が視界一杯に広がった。一片の曇りすらなく、あまりにも鮮やかなそれが唐突な私の激昂に静かな波を立たせる。
「何故ッ、……漸く、死ねると……ッ!!」
ようやっと、この馬鹿げた現実から逃れられると、あの時安堵したのに。親を殺し、祖父を殺され、憎悪と復讐と闘争に塗れるしか生きる術を持たなかった私に、――――なおもこれ以上を生きろというのか。
怒りに目が眩んだ。いい加減私になど価値は無いだろうに、それでも私を解放してくれない世界という黒い鎖が。目の前の男がまるでその象徴であるかのように、心の底から憎しみが溢れて堪らない。
「……死にたかったのか」
私の激昂とは反面、投げかけられた言葉とその表情は、想定していたよりも静かなもので。そうだと感情のまま答えようとして、何故か言葉に詰まる自分にまた苛立ち歯噛みする。
「ああ、やはり助けて良かった。本当に」
そして再び穏やかな吐息を零し、次いで彼はその優しげな微笑みと共に、
「死にたがりの邪魔をしようっていう俺の目論見が、無事成功したようで何よりだよ」
全く想定していなかった、あまりにもぶっ飛んだ言葉を吐いた。
「――――はあ……?」
背後で私を止め損なった彼女がどうしようもないと嘆息する気配がし、当の私は言えば、目の前の柔和な表情が言ったことの半分も理解していなかった。
「腹黒な君が死にかけの女の子連れてるなんて何かと思ったけどぬぇ……やっぱりそういうことだったか」
「お前と俺の仲だろう、それ以外に何が思いつくというんだ。“囮”も手に入って俺好みのイイ女も手に出来て一石三鳥。見逃す手はない」
「このクズめ」
「そう褒めてくれるなよ、照れるじゃないか」
「日本人的には褒め言葉とは正逆を行く言葉なんだけどぬぇ……ドイツ人にはちょっと難しかったかな。やれやれ、この私が教えたって言うのに情けない。国語に対してもう少し勤勉になるべきだぬぇ。自分でそうは思わないかい、ベルンハルト・レヒト・シャルラハロート君」
「お心遣い痛み入るね。だがそうだな、Japanischの師であるお前には悪いが今後それは彼女に習うとするよ。構わないかい七木遥」
「その子が良いって言うなら勝手にするがいいさ。仄宮秋流ちゃん」
「ッ、」
会話についていけていなかった私は、流れるような皮肉と嫌味と毒舌の応酬の最中唐突に名を呼ばれようやっと我に返った。“聖杯”とかいうワードの意味は理解できなかったが、それでも一つだけわかったことがある。緩みかけた手に再び力を加え、襟首を締め上げるように詰問する。
「テメェ……そんな理由で私を助けたって言うつもりか」
中世でならいざ知らず、現代社会において刀傷など早々お目にかかれるものではない。腹から致死量の血を流して死に掛けている女子高生などというものもあるいはそれ以上に、だ。
普通の人間ならば怖がって逃げるか、然るべき機関に助けを求める――――もとい、さっさと責任を押し付けるだろう。それをしないで瀕死の女子高生を拾うという時点で十分正気を疑うし、察するに肝心の私の命を繋ぎとめた方法というのも真っ当ではないらしい。そこまでして私を救う理由など、見ず知らずの外人にあるはずもない。むしろ度が過ぎたお節介という以上の理由など存在しない方がマシであったのに、聞いてみればなんだソレは。
「そんなこと誰が頼んだッ!! 余計な手間かけて私なんかを救ってお前に何か得でもあんのかよッ!?」
「あるさ。あるから助けたんだ」
なければお前など助けないと。あくまで飄々と返され、更に言い募ろうとした瞬間。足に軽い衝撃を覚えたのも束の間、掴んでいた腕を逆に捉えられたと知覚した時には既に天地がひっくり返っていた。先程まで私が身を投げ出していた背後のベッドに押し倒され、その上さりげなく抵抗を封じられ絶句する。起き抜けとはいえ、こうも簡単に後れを取るなど。
「一つは勿論、お前を俺の“聖杯”の共有者にすること。お前のそのロクでもない匂いは格好の囮になりそうだったからな」
「日本語で喋れ白人が。説明ってのは相手にわかるようにするモンだろうが」
端正な顔立ちが吐息のかかる距離で滔々と語り、それに対して私が顔を歪めれば彼は僅かに愉快そうな表情を浮かべた。怪訝さも露に真っ向から見返せば、彼は「そう噛み付くなよ」と言葉を継ぐ。
「“聖杯”についての説明なぞ死ぬほど面倒だが、知ってもらわねば俺としても不都合だ。しないわけにはいかないし聞かないという選択肢も許さない。
そして二つ目だが、さっき言った通り単に死にたがりの邪魔をしたくなっただけ、言うならば気紛れだ。それ以上の意味は無い。
ラスト三つ目は至極単純明快。――――お前を手に入れたくなったからだ」
「――――ッ、」
私の瞳を覗き込む碧――――否、血濡れの真紅が妖しく微笑む。かっと頭に血が上り、全身の力を込めて逃れようとしても腕を頭上で一つに纏められていて振り解くことが出来ない。ここまで容易く封じ込められたことなど今までに無く、だからこそこれほどまでに男女の差というのを悔しく思ったことは無かった。誰であろうと斬り払ってきた私がこんな男に、
「! ゃ、めろ……、ッ」
つ、と太腿の辺りを手で撫で上げられ、反射的に声を上げそうになるのを唇を噛んで堪える。着せられていた襦袢の裾をこれ見よがしに乱れさせながら上がってくる彼の手は、武骨でありながら白くくすみのない中にアンバランスな熱を孕んでいて。それは下腹部を伝って胸元を僅かにはだけさせ、鎖骨をなぞり頤を捉えてようやく停止した。
知らない男に接近を許しあまつさえ淫らに触れられているのだというのに、嫌悪を抱くどころか気を抜けば雌らしく啼いてしまいそうになる自分にこそ嫌気が差した。奴隷であっても値打ちはあろうに、ここで素直に啼いてしまうようでは元々ゼロの私の価格でさえ無様に暴落だ。そしてそうなったとしても、私の意思を無視したこのクソ野郎にだけは買われたくない。懐柔を拒絶するように顔を背ければ、彼は私の耳元へと口を寄せ、僅かに嘲りの融かされた吐息を一つ零す。視界の端で睨み上げれば、男はそれすらも愉悦と言いたげに喉奥で哂った。
「その目だ。俺は、他の何よりお前のその瞳を堕とすために“聖杯”を分け与えた。ゾクゾクするじゃないか」
「……そう簡単に堕ちると、思われてンなら業腹だな」
「思うものか。だからこそお前を選んだんだ、容易く篭絡されるような女じゃ面白くない」
私の黒髪を一房手に取り口付けながら告げた言葉に、自然自分の唇が歪められる。ゆっくりと顔を正面へと戻せば、私の黒と男の紅が鼻先が触れ合うほどの距離で交錯し、その奥の真意を見透かそうと互いに錯綜して空を滑った。唇の隙間から漏れるのは音を失ったかのような微かな嘲笑。
「ハ、どうやら手酷くフラれるのがお望みらしいな。欧米人は、ひょっとしてマゾが多いのか?」
「日本人のそういちいち婉曲な気質にも困ったものだよ。変に皮肉を言わず、正直に『虐めてください』と懇願すれば考えてやらんこともないというのに」
「嫌味なのは生来でな、幻滅したんなら良い機会だ。とっとと私の前から失せろ。目障りだ」
「残念、この程度で壊れるほどの幻想など抱いてはいないよ。それに、既にそれも出来ないカラダなものでね」
そう加虐的に口の端を釣り上げると、彼は突然私の首元へと顔を埋めた。剥き出しの首筋に生暖かい息がかかり、ぬるりとした舌先が肌の上を這う。その感覚にすら体を震わせてしまいそうになるのを堪えて身を捩るが、空いたもう片方の手が太腿までも抑え付けささやかな抵抗すら満足にできなくなってしまった。
と、舐るように私の首筋を犯していた舌先が、不意に首の付け根に降りる。無防備に顕わになったそこを咥えるように口に含まれ、――――次いで走るのは鋭い痛み。
「ッ! ……、今、何しやがった」
笑みを湛えた顔を再び上げた男に、私は目の端を吊り上げて詰問する。すると奴はまるで何もなかったかのように微笑み、「何、」と赤い舌で己が唇をなぞって告げる。
「所有印、という奴だよ。鏡で見てみると良い、吸血の痕と一緒に赤くなっているはずだからな。これでお前は俺のモノだ」
「何勝手にッ……!」
憤怒を叩きつけてやろうとしたその時。不意に横合いからぱんぱんと手を打つ音が響き、出端を挫かれた私も、馬乗りになったままの男も同時にそちらの方を見やった。
「あー、そろそろヤメにしてくれないかぬぇそのいちゃいちゃ。彼女を襦袢ままにしておくわけにもいかぬぇーし、着替えてもらってとっとと事情説明に入った方が良いと思うんだけど? ハルト君や」
「ほう。本音は?」
壁にもたれて成り行きを窺っていたらしい彼女は、これ見よがしに一つ嘆息し「人ン家で強姦とは西洋人もなかなか良い趣味を持ってるよぬぇ」と言い放つ。憮然とした切り返しにくく、と愉快そうに喉の奥で笑うと、男は褒め殺しかなと嘯きようやっと私の上から退いた。乱れた襟元や裾を正しながらも男への警戒を緩めない私に、遥は「そう身構えなくていいよ」と一転口調を穏やかに戻して告げる。
「少なくとも君に危害を加えるつもりはないからさ、私も、コイツも。着替え終わったら改めて自己紹介も兼ねて情報の交換といこうじゃないか。お互いの、ぬぇ」
ち、と内心舌打ちを一つ零す。面倒くさいことになってきた。だが遥の言葉には何処か力があり、穏やかでありながらも私に有無を言わせぬ気はありありと知れた。
「……私のこともかよ」
「勿論さ。普通の女子高生なら血塗れで倒れてたりしないし、そもそもコイツが“聖杯”なんてモノの共有者にするはずもないからぬぇ」
悪気も邪気も一切ない顔でからからと笑う女に「皮肉のつもりか」と苦く返せば、彼女は目元を綻ばせて答える。
「そんだけ噛み付ければ手伝いも要らなそうだぬぇ。襦袢は適当に放っておいてくれていいよ。制服は血塗れで処分しちゃったから、その棚の上のスペアを着るといい。サイズも全部君に合わせておいた。着替え終わったら居間へ来ておくれ、そこで話をしよう。ほら万年発情期、彼女が着替えられないからとっとと出るよ」
「失礼な、濡れ衣だぞ」
「冤罪だと立証するにはさっきまでの行いが悪すぎたぬぇ」
私がつっかかるのにも構わず言うだけ言った彼女は、男の首根っこを引っ掴んでやいのやいのと部屋から出て行った。一人残された私は呆然とする他なく、まるで台風に巻き込まれたかのような気分の中あの二人をどう形容すべきか躊躇っていた。正体不明の西洋人と飄々とした情報屋、口を開けばとかく皮肉の応酬の二人が一体どのような関係なのかあまり容易には想像がつかなかった。少なくとも好いた惚れたの甘ったるい間柄でないことだけは分かるが。
扇子も無い。眼鏡も無い。だがそれでも、一番捨てても良いと思っていた命だけがここにある。皮肉なものだった。
「神様なんてのが本当にいるのかは知らねェが……いるんだとしたら、やっぱ相当嫌われてんな。私は」
たくさん殺してきた。だから多分、“神様”が嫌うのは道理なのだろう。それをぶった切るためには、どうにも停滞したままではいられない。
部屋にある窓から飛び降りるなり、どうにかしてこの家から脱出するなり、この時『逃げる』手段はいくつかあった。だがそれを選ばずに真新しい制服を手に取ったのは、「いつまで逃げ続けるつもりなんだよ」という誰かの声が、やはり聞こえたからかもしれなかった。