hello, parallel world
灰色の世界だった。
悪夢の続きでも見ているのだろうか。
微睡みと覚醒を往復している心地は決して不快じゃない。何か大事なことを思い出そうとして、それに疲れると意識は一気に沈んで。
浮沈を繰り返すうちに、視界がはっきりしてきた。
無機質な、冷たい光に思わず目をすぼめる。
引力を感じる。体重を受け止めている物の柔らかさも。白いシーツは、しっかり糊付けされている。
頭の疲労はたっぷり取れたようだったけど、そのせいでむしろ、全身の異常を思い知らされる。
酷くだるい。
「うぅ……」
上半身を持ち上げるだけで呻く体たらく。
なんとか腕で、起きた姿勢を保ったまま尻を背中の方へにじり寄らせる。
壁を背もたれにして、やっと一息つけた。
壁は、徹底的に灰色。
壁紙なんかじゃなく、多分、直に塗っている。
左を向き、やっと違うものを目にできた。
壁と同じ色をした椅子と机、そして、白い服を着た男。身構える。
「起きたか」
良かった、言葉が通じる。
ぱっと見て、二十代半ばだろうか。どこか咎めるような口調に思わず、すみません、とだけ言うと、
「謝ることはない。昨晩は大変だったな」
「助けてくれた人ですか?」
「いや。機動部の……つっても知らねえか。命の恩人には後で会わせてやる」
「分かりました。それで、ここは?」
「おっと、まずはこっちの質問に答えてくれ。分からないことは分からない、でいい。お前の質問はその後だ」
いつの間にか手にしていた、紙が挟まれたボードをペンで叩きながら訊く。首肯すると、彼は席を離れ、こっちまでやって来た。
「楽な姿勢でいい。じゃあ、この服の名前は?」
そう言って、彼は自分の服の腹の部分を摘んだ。
白い服。
シミ一つシワ一つなく針金が通されたみたいに整った、規律で固められているであろう服。
一つ思い当たった。
その服は、どんな組織の制服なのか、と。
厳格な規則に則る、その姿勢を体で証明しなければならない組織。その制服。
「軍服?」
「よし、階級は?」
指差す肩にはその幅に収まる程度の、黒地に金糸の二本の線が施された長方形の布があった。それが彼の地位を示す物だということは分かる。ただ、それが意味することは、
「分からない」
「そうか。五より小さい素数は?」
「えー、三、二」
頭は回転こそ鈍い、けれどその意味はなんとなく分かった。正解かどうかは分からない。
「いい国作ろう?」
「政治の事はちょっと分かりません……」
建国の誘いに戸惑っていても、彼は構わず続ける。
「あなたがあなたの前を走る七位の走者を抜いたときのあなたの順位は?」
「六……?」
「うん。星奏災厄の名で知られる、陸歴七十八年に起きた災厄は何種災厄?」
「分からない」
「あなたの性別は?」
「男」
「西暦二千七百五十四年の侵略者の正体は?」
「分からない」
「あなたがさっきまで寝ていたものは?」
「ベッド」
「最後に、お前の名前は?」
一番訊かれたくないことだった。
分かってはいるものの、認めたくなかった。
右手を強く握って開く。手のひらの指が当たって白くなっていた部分には、存在の実感が静かに広がった。
これが〝ある〟として、だったらどこから来たのか。
「……分から、ない」
「ワカラ=ナイ、と。珍しい名だ」
「いや……」
「はは、冗談だ。みんな最初は同じだ、安心しろ。俺はケアテイカー、よろしく。それじゃ、そっちの番だな。えーっと?」
「ここはどこですか?」
もう一度、同じ問いを投げかける。
「よし、ついて来い」
「えっ」
「百聞は一見にしかず、っての」
ケアテイカーはボードを机にやり、ほらスリッパ、とベッドの下に履物を揃えた。
昨日は何を履いていたっけ。
今になってやっと、自分の身なりが気になってきた。
上下、縦縞の寝間着。
「肩、貸すぞ」
「どうも」
男二人密着しての散歩は、あまり楽しいものではなかった。
灰色の天井に白い光、それに赤とか緑のランプが加わっただけの殺風景。
ここがどういう施設、あるいは、もの、なのかは薄々分かっていた。
船――、軍艦を思わせる内装と世話人の格好。にしては揺れない。停泊しているのだろうか。
それに狭い通路で誰かとすれ違う度――大半はケアテイカーとはまた違った、紺の襟が異様に大きい白い服だった――、好奇の目が向いた。
それだけならまだしも、デートか、と訊かれることもあった。
「おいおい、お前とも散々デートしたろうが。新入りに嫉妬か? それともまた便所の場所を忘れたか? お気に入りアヒルさんのおまるならお前の部屋にあるだろ、ハンドル付きの力めるやつが。ほら漏らす前にとっとと行け」
「くたばれ」
そんなやり取りが通路を歩いて階段を登るのを二回やる間に、三回はあった。
「大変長らくお待たせした」
丸い窓のドアの前でケアテイカーは足を止め、ドアノブに手をかけた。
「不沈艦カロカイにようこそ」
隔たれていた外気は、熱い。
風は無かった。
揺れも無い。
ただ、痛いほどの日射があった。
遠く望みは陽炎か、僕の視力が弱いのか、あるいは両方が原因か、揺らめくばかり。
「不沈艦」
言われて下ろした目に映る足元は、やっぱり灰色。
「陸にある艦がどうやって沈むかね」
言われて初めて気がつく。
潮風の香りも、寄せる波の音も無い。
熱風が漂い、砂がその軌跡を追う。
頬を掠めるそれが痛い。
鋭い感触が瞳を走り、思わず目をすぼめた。涙が洗う。
黒い水面も、白波も無い。
艦は、黄色の陸にあった。
「この塔は艦橋」
ケアテイカーに連動して――気遣いか、彼は肩を借りる僕を軸にして半円を描きながら歩いた――さっきまでと真逆の方を向くと塔が立っていた。
彼が艦橋と言ったそれを塔だと認識できたのは、黒い影一本、青空を遮っていたからだった。
高い。
見上げるのに、首の限界可動範囲を試す必要があった。形は視点のせいだろう、不格好だ。シルエットとして捉えざるを得ない、逆光になっているせいでもあるのか。
本来ならもっと、緩やかに変化しているんだろう。せめて細部が分かれば。
その影の頂点付近には、おぼろげな赤い光があった。胸の鼓動のように、一定のリズムで静かに明滅している。
艦橋の真後ろ、つまり僕の真正面には、黒が広がるだけ。
あれは壁だろうか。
と言うよりはこれもまた、影、がしっくりくる。
黒そのものだ。それ自身が日を隠しているせいで、やっぱり表面の様子は分からない。
艦橋と張り合う高さが、左右に果てなく青を塗り潰している。
「後ろは?」
「居住区との境界」
ケアテイカーは素っ気なく言うと、僕らが最初向いていた方に。自ずと僕もそうなる。
彼が腕を伸ばす。遠く、視界に捉えられるだけ遠くを示す。
「そして昨日、お前が追われていた場所。街、だ」
「よく見えない」
「後で眼鏡を探すか」
次は、比較的近くを指した。
なんとなく形が分かる。
砲だ。艦と同じ色をしている砲。
それも異様に長いのが三つ連なっている。
街までの正確な距離は分からないし、そもそもこの兵器に関する知識も無いけれど、街に撃ち込むくらい訳なさそう。
いや、むしろそれが目的だって言われても疑わない。街は、それが正面を向く延長線上にあるから。
「手前の三砲は副砲、強い。奥のが主砲、めっぽう強い。こんなとこだな。あとは、街の北端から後ろの居住区まで全部ひっくるめて、これまたカロカイ。カロカイってのは、要はこの土地の名、艦はその名前を貰ったってとこだ」
「カロカイの外は?」
「百聞は一見にしかず。よし、中に戻るぞ」
あんな遠くを、艦に入ってどうやれば一見できるんだろう。
これ以上言うことは無い、とでも言いたげに――、実際無言でケアテイカーは歩き始めた。
砂の風と太陽から隔離されて、艦内の快適さに気付く。空調が整っている。明かりも痛みを感じることはなく、無機質な壁も悪くない。
扉をくぐって来たルートから外れてしばらく、たどり着いた壁の前に立つと、ケアテイカーは何かスイッチを押した。
艦が唸り出したかと思うと、すぐに金属を叩く音がした。壁が左にスライドして、四人は入れそうな空間が開く。
「昇降機だ。艦橋のてっぺんまで行くぞ」
なるほど、百聞は一見にしかず、か。
気味の悪い低い音と細かな振動を無言で過ごした。
やがて昇降機が着いた時と同じ音がした。
「行くぞ」
壁が、視界が開けるのを待つ。
「新入りだ」
昇降機から出て、ケアテイカーは言った。
前と左右の窓際に一人ずつ、そして前の人との間に腰掛ける人が何事かと振り返った。窓は顔くらいの大きさの長方形がいくつも区切られて並んでいる。
「よろしくお願いします」
「おう、よろしく。観測部部長だ」
唯一、襟の無い服装、ケアテイカーと同じ格好をしていた。坊主頭に屈強な肉体、被る制帽はいかにも、という感じ。
「所属は?」
「まだ決まってないが、恐らく機動部だ」
僕に代わってケアテイカーが応じる。
聞き覚えのある言葉に胸が踊った。
僕のこれからがどうなるのか、仕事があるかどうかさえ聞いてないけれど、命の恩人と同じ所属になれる。
それくらいの予想はついた、と言うより情報が少なすぎてそうとしか思えない。
「ご愁傷様」
浮つく僕の気持ちとは全く違う反応だった。
確かに、追われている人間をここまで連れて来なきゃいけない。僕の視力を抜きにしても相当な距離だ。あの距離を往復しなければいけないのかも知れない。
それでも、やる前から既にやりがいがあることだってことくらいは分かる。
少なくとも、ここに引きこもるよりは。
「まあ、冥土のみやげに景色でも楽しんでいけ。ここにはそれしかねえし、そのつもりなんだろ?」
促されるままに歩く。
「うわ」
あんなに大きかった主砲副砲は、虫一匹殺すことさえ難儀しそうだ。
思ってた以上に、ここは高い。
「つっても今日は暑いからな。街よりも山の方がはっきり見えるだろ。顔を前に向けろ」
言われたとおりにする。
水色に、暗い色の不規則な角が切り込んでいる。
言われていたから、山だと思う。
「あの山の麓が、俺たちの到達した最北端。さあ、ここがどこか分かったか?」
「なんとなく」
「俺も最初は記憶が無かった。俺だけじゃない。ここにいるやつ、居住区にいるやつ、この艦の艦長代理だって、みんなそうだ」
「どうして?」
「噂は色々ある。俺たちみんな死者の魂とか、最有力候補は――」
「他宇宙からの、転生」
そう引き継いだのは低いけれど、性を隠せてはいないものだった。どこか不機嫌さも感じさせる。
「艦長代理だ」
ケアテイカーがそっと言った。
「よろしく」
声の主は言いながら目もくれず、僕の横を通り過ぎ、窓を背にしてこちらを向いた。
格好は、ケアテイカーや他の船員とも違う。
紺のコートが、その膝までも覆っている。例え薄手だろうと、艦内が涼しいのはその為かとさえ思う。
背はさほど高くない。この部屋の誰よりも低く見える。後ろで結ってある髪は肩の前に垂らしている。毛先は腰にまで届いている。
その黒に、ぼーっと見蕩れていた。昨晩の闇より、更に黒く、暗い。
彼女の目が一瞬鋭くなった気がして、慌てて半開きの口を閉じた。
「生きているということは、生きていたということ。その証拠に、我々は断片的に記憶を持っている。もしくは知識と言うべきか。そしてこの世界の事象に違和感を抱く。そして、既視感も」
艦長代理、その人はコートの中から紙を取り出した。ケアテイカーが記入したものか。
「テストの結果だが、知っての通り、やはり君も記憶を持っていたようだ」
そしてそれを元に仕舞い、
「君のように継続的に転生者は現れる。つまりはカロカイと元の世界は繋がっていて、帰れる可能性がある」
「帰れた人がいるんですか?」
「元の世界に帰ってまたカロカイに戻ったやつは居ない。そも、帰った者がいるかさえ疑問だが」
「この艦の砲撃が次元の歪をこじ開ける、と信じるやつもいるな。まあ、直撃どころか主砲の傍に立っているだけで消えるからな」
ケアテイカーが引き継ぐ。
「本当に?」
「魔法じゃねえぞ。物理の話、有り体に言やぁ、木っ端微塵に消える」
事も無げにケアテイカーは言ってのけた。
「死ねば帰れると信じるやつもいる」
「信じているのに、いるんですか?」
「だからこそ、いるんじゃないか?」
言われて、混乱してきた。
「要するに、だ。仮に帰れたとして、こっちの記憶を引き継げるかは怪しい。向こうに着いたとして、向こうでの記憶が戻るかさえ、てこった。仮につった通り、そもそも帰れるか。ここに来て長くなればなるほど、ここから離れたがらないもんだ」
いい終わるや否や、すっかり耳に馴染んだ昇降機の来訪が響いた。
「今日は客が多いな」
「客だと思うなら茶くらい出せ」
「お前は客じゃねえ」
男ふたりが言い合っている間に、昇降機から人影が躍り出た。
鋭く、ブーツが床を打った。
「機動部部長代理、わざわざクズの掃き溜めまでケツの青いクソガキのお迎えにあがりました。おはようクソッタレ」
そう言って入って来たのは男――、より正確に言うと僕より年下にしか見えない男の子だった。
聞き覚えのある声。
僕を救ってくれた声。
その格好は白でも紺でもない、砂の色をした動きやすそうな服だった。
「艦長代理も居るんだが」
ケアテイカーが言動を諌める。
「訂正。クズども、の掃き溜めで、おはようクソッタレども」
そして心底不機嫌そうに、鋭い視線で部屋を薙ぎ払った。