八話 魅霊
窓から流れ込むように陽光が部屋の中を満たしていく。
その光が瞳に当たり、目が覚めた。
「――んっ」
ずぎずぎ、と腹と腕が痛むが、そこまで深い傷ではなかったらしい、もう我慢できるレベルだ。
「魅霊は……?」
ぐるっと見渡しても、ソファーに上にいない。
どこかに出かけたのか、と思ったが、すぐにそれが間違いである事が分かった。
寝相が悪くて落ちたのか、ソファーの足元で現在進行形で爆睡中。
「ったく」
風邪引くぞ、こいつ。
途中、蹴飛ばしたらしい毛布をかけようと、近づく。
「ん、んん、ふぅ」
寝言を言いながら、寝返りを一つ。
……ちなみに、言っておこう。魅霊さんは昨日の服のままです。ええ、あのフリフリのゴスロリ服。下半身を覆うのは長めのスカートですな。
で、今、盛大にごろりと回転しました。そこまではOK? うん、勘のいい人なら理解できたかもしれない。
――俺が微妙な現実逃避、というかなんというか、そういう現象がおこっている時、魅霊の太ももの付け根――つまりは下着とか言われる部分が盛大にオープンですよ?
「ははっ、いやあん、もう魅霊ちゃんったらぁ♪ 寝相悪すぎっ」
――ふざけながらも、視線はどーしてもそこに行ってしまう男のサガ。ちっと悲しい。つーか白地にピンクのストライプですよ? 子供っぽいというかなんというか。
待て、もうちっと落ち着け自分。深呼吸でリラックスだっ。
ゆっくりゆっくり、吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って吸って吸って吸って――
「ごはぁっ!?」
駄目だ。今の俺には深呼吸すら難しいみたいだ。しかも、そんな事をしながらも視線は絶えずあの場所にあるのが、我ながら悲しい。
「――うるさいわね、んん、まあいいや。おはよう」
瞳をごしごしと、眠たげに擦りながら俺へと視線を向ける。
いや、今はマズイ。
「んふぁ、ん? どうしたのよ、さっきかぁ――ッ!?」
気付かれた。すごいスピードでスカートの裾を押さえてる。
魅霊の顔面表面温度が急激上昇、その様子はトマトと例えるより熱せられた金属だろう。ほら、あれすっげえ赤くなるし、蒸気とか噴き出すだろ?
「な、なななあ――っ、げほっげほげほっ! ……ん、どこ見てるのよアンタはー!」
「いや、どこって……たぶん、お前の想像通りの場所だが」
……自分以上に慌ててる人を見たら逆に落ち着く、ってのは本当だったんだなぁ。
でも、だからといって状態が改善されたわけではない。なら、どうする?
……ああもう。考え付かん。なら、本能の赴くままに喋ってやるぁ!
「ありがとうな。さきほどの映像は俺の脳内のお気に入りフォルダに、厳重に保管しておくから」
ごちそうさま、などと言って頭を下げる。
すると、更に慌てたように声、というより早口言葉みたいなノリでまくし立てる。
恥ずかしさを紛らわせているのか、ハチドリみたいに高速で両腕をパタパタと振っている。もう、ほっといたらそれで空を飛ぶんじゃないか、って勢いで。
「何が言いたいのかは知らないが、安心しろ。その可愛らしい布地は、しわの一本一本に至るまで正確に記憶してるから」
シャキーン、なんて擬音がつきそうなくらいに爽やかな笑みを、親指を立てながらする。
見方によれば好青年っぽいんだろうが、今の状態がそんなイメージを場外ホームランしてしまっている。
「なひゃ、なひほ、げほっ、何を言ってんのアンタは――!」
「酔っ払いみたいな喋り方だな。そうか、そんなに嬉しいか」
「そふゅ、そふ、そんな、そんなわけないでしょ――!」
うっわ、やべえ、すっげえ楽しい。人をからかうのが、こんなにもおもしろいとは……
まだなにやら喚いてる魅霊を背後に、俺は冷蔵庫を開ける。
やはり入っていたかチョコレートの山たちよ。つーか他の食材はどこだ、もしかしてチョコレートだけなのか?
その中から板チョコを取り出し、魅霊に向かって歩く。
「ほれ」
なにやらまだ騒いでる魅霊の口に、ぐみゅ、とチョコレートを突っ込む。
まだ微妙に寝ぼけてたのか、なにやら恍惚とした表情で食べていく。
「目、覚めたか?」
「むく、もく……ふうっ。……って、こんなんで誤魔化されるか――!」
……やっぱ駄目か。けど、最後までしっかりと食べる辺りまだ少し寝ぼけているのだろう。
「まあ、そんな事はどうでもいい」
よくないっ! という叫びは華麗にスルーしておく。
俺はポケットから携帯を取り出す。
「昨日、家に帰らなかっただろ? ちょいと家族に電話しとく」
「……そっか。おぶって家に帰してあげればよかったわね」
ぴたりと動きを止め、俯く魅霊。別にそこまで気にしなくてもよかったが、今この状態でまた元気になられると、俺の生命が危険だ。許せ。
何かを思い返すように、じっと下を向いている姿を見ながら、自宅に電話をかけようとする。
自然、携帯の画面を見る事になる。未読メール七十五件、不在着信四十六件。半端な数ではない。
「怒ってるだろうなぁ、姉貴」
◇
『――』
「あ、えっとその……」
『――』
電話をかけ、どうも静間宗司でーす、と名乗った瞬間これだ。ただただ、無言。ヘタに怒鳴られるよりこええ。
魅霊の奴は「電話してる間に朝ごはん買ってくるから」と言って消えちまうし。ああ、一人でこの沈黙に耐えるの辛いですぜ?
「いやー、その姉貴?」
『――』
恐る恐る、壺の中のヘビに語りかけるようにそっと、刺激しないように語り掛ける。
「もしかして、すっげえ怒ってる、とか?」
『――ほう。あんたは今この状態で、あたしが怒っていないとでも思うの……?』
うわあ、まじこえぇ。コンクリートの下から響いて来るような重い声。例えるなら恐怖の大魔王の女幹部って感じ。
すうっ、となにやら空気が動く音が携帯から聞こえてくる。
『こぉんの愚弟がぁ――ッ! 帰らないのなら連絡くらいしないさいよ!』
んぬわっ! き、きーんって、きーんて耳がぁー!
携帯から放たれた衝撃波。静間くんは一発でダウンです、はい。
「わ、悪い。色々な不運が重なって……」
『……でも、よかった。心配、したんだか、ら』
「あ、姉貴!?」
突如、激怒から涙声に変わり、困惑してしまう。いくらなんでも、それは心配しすぎ――
「あ――」
そうだ。ふと、今の街の状態を思い返す。俺がこうやって夜の間にいつも以上に街を徘徊する理由となる事件を。
夜闇を駆る殺人鬼。そんなものがいる状態で帰ってこなければ、真っ先に思いつくのは、死ではないか。
――自分の軽率さを呪う。俺だって、似たような状態で姉貴が帰ってこなければ心配するだろう。生きているんだろうか、あの殺人鬼に醜いヒトガタの炭に変質させられてないのだろうか、と。
「悪い。俺、最低だな」
『解ればよろしい。あんたが生きてればノープロブレム。ま、ここ数ヶ月の間は鬼のようにこき使うから、よーく肝に銘じておきなさい』
「ああ。ほんと、ごめんな」
『その話はもうお終いっ。ヘタにぶり返すと本気で怒るわよ』
それじゃね、という声と共に接続が断たれる。……ほんとに、変わってないな、俺も姉貴も。昔っから姉貴に心配させてばっかりで。そんな俺を、姉貴は厳しくしながらもやさしくしてくれる。
――一度くらい、正直な感謝の気持ちを伝えないとな。血の繋がっていない俺を、ホントウの家族として見てくれる姉貴に。
「あぁ――こっぱずかしい」
とりあえず今は無理。うまく言える自信もないし勇気もない。でも、近いうちには……。
「うん? 電話は終ったの?」
コンビニ袋を手に提げたゴスロリさんがご入場。つーか違和感バリバリですな。例えるなら悪役プロレスラーがお花畑で花のティアラ作っているくらいに。
そんな俺の思考など知る由もなく、ぺたぺた、とリビングまで歩き、机にコンビニ袋を載せる。
中を覗くと、とんかつ弁当、焼肉弁当、中華丼弁当、チキンカツ弁当、エトセトラエトセトラ……へヴィなものばっかり。
「つーか、どうするんだこの量。明らかに食いきれないだろ」
「え? 朝はけっこう食べるでしょ? 四・五個くらいは」
いやいやいやいや、なんですか、俺の胃は宇宙だとかなんとか言い出しそうなセリフは。
つーか、刀夜にしろこいつにしろ、なんで俺の知り合いになるやつはこんなにも大喰らいなんだ。
「で、でもな? お前、この前学校で食ってたのはずいぶんと少なめだったじゃないか」
「だって、休み時間の時にパンとか弁当とか色々食べるでしょ? 昼休みになってる頃には大分お腹は膨れてるし」
……休み時間のたびに新しい弁当とか食うのかよ。クラスにいる汗臭い運動部の連中すら凌駕してるぞ、それは。
「……あー、すまん。買ってきて貰ってなんだが、俺は一個で十分だ」
「へぇ……少食なのね。そんなんじゃ体力つかないわよ」
それが普通なんだ戯け! などと叫んでみたかったが、正直さっきからの会話の流れからして、言っても理解してくれないだろう。人間ってなんで分かり合えないんだろうねっ。
体中の毛穴から元気とか気力とかが抜けていくのを感じながら、とんかつ弁当を頂く事にする。
うむ、やはり肉はいい。特にとんかつは格別だ。衣といい肉といい。コラボレーションというかなんというか。
◇
「それじゃ、俺はそろそろ行くかな」
食後の休息の途中、ベッドの上をごろごろしながら呟く。既に最初の遠慮は時空の彼方まで吹き飛んでいる。
「あ、そっか。家族が心配してる、のよね」
「まあな。いやー、右ストレートくらいは覚悟せねばなりませぬでありますね」
一体何語よ? と眉を顰める魅霊。まったく、こういうのは理論性じゃない。ソウルだ、ソウルで感じろ。
よっこらせ、と我ながら爺臭い掛け声だなぁと思いつつ立ち上がる。
「と、そうだそうだ。昨日はサンキュな、治療してくれて」
「え――う、ううん。別に、なんて事はないから」
そっか、と言いながら玄関に向かう。開け放つと冷風と陽光が激しいバトルを繰り広げながら踊りこんでくる。ちなみに、今のところ冷風の圧勝。これは春が来るまで揺るぎの無いものだろう。
冷気が体を引き締めてくれるような感覚を覚えながら、魅霊の家から出る。
「――いいな。そういうの」
途中、そんな声が聞こえた気がした。
◇
歩きながら悩む。一体どんなテンションで家に入ればいいんだろうか。
一応謝ったから申し訳なさそうにこそこそと――っていうのは違う気がするし、かといって「いいやっはぁあああ! 元気かい姉貴ぃ!」っていう風に突撃するのも変だ。
「うぬぅ……」
さて、本気と書いてマジでどうするべきか。悩みながらも足は止まらない。そして、止まらないなら家に近づいていくのは道理だ。目の前には、見慣れた一軒家が広がっていた。
「ああ。やっと帰ってきたわね」
そこには、玄関の前で仁王立ちする姉貴の姿が。
「あ――っれえ? わたくしはなにか幻でも見ているのでせうか? なぜに姉貴が某ゲームの母親みたいに帰りを待っていてくれてますか?」
今は夜じゃないっていうのに。
しかし、そんな俺の姿を呆れたように見つめるその姿は間違いなく現実の物で、それが更に混乱させる。姉貴よ、お前はそんなキャラクターではないだろう。
「……何を考えてるかはだいたい分かるけど、まあどうでもいいわ。さっさと家に入りなさい。それで昼ごはんの準備っ、さっさとしなさい」
それだけ言うと、玄関のドアを開けて家の中に入っていった。しかし、何がしたかったんだ?
「――ま、いいか」
微妙な遠慮は消えうせた事だ。罪滅ぼしの意味も兼ねて、さくっと昼飯の準備をするか!
気合を入れて玄関のドアを開く。すると、目の前に何かが――
「へぶうぅ――!?」
それが姉貴の拳だと理解した時には、それは勢いよく顔面に突き刺さっていた。それだけならまだしも、横転した俺の腹部に姉貴の踵が――ぐりぐり、と。
「ふっふふーのふー。電話だけであたしが許すとでも思ってたの? ――ま、一応反省はしてるみたいだし、これで許してあげるわ」
「だからってやりすぎだろコレ!?」
「へっへーん。いやぁ、あたしゃもっとやってみたかったんですけどね、宗司くん? ほら、お風呂に入ってる時に稼動中の電動髭剃りを湯船につっこんだり、とか」
「感電死するだろうがッ!」
「細かい事は気にしないの。それよりもごはん。あたし朝なにも食べてないんだから」
待ってるからねー、なんて言いながら自分の部屋に行く姉貴。あのヤロウ。
けど、
「朝から何も?」
別に用事があるわけでもないんだから、朝メシくらい食べられると思うんだが。
……待てよ。もし姉貴の立場だったとして、俺は朝メシなんて食ってたか?
殺人鬼が出る街。夜に散歩に行った家族が帰ってこない。朝になっても――連絡がない。そんな状態で、ノンキに朝メシなんて食えるはずがないじゃねえか。
「――ほんと苦労かけるな、姉貴には」
そんなそぶりを見せずにいつも通りに振舞う姿。きっと、俺が簡単に家というシステムに戻れるような配慮があったんだろう。
ああ、ちくしょう。ほんとうに勝てねえな、姉貴には。
台所を目指して歩み始める。さあって、何を作るかね。
◇
――太陽は地平線の彼方で溶け、その代役とばかりに月が浮かび上がる。
「さあって、と。行くか」
そう、いつもの場所へ。
だが、さすがに玄関から出るわけにはいかない。負い目が有る分、無理矢理特攻をするのは気が引ける。
窓を開けて下を見る。――高い。二階建てだからといって、普通の人間が跳び下りる事ができる高さではない。
けど、
「よっと……!」
窓の近くに立った電柱に抱きつく。ひゅうひゅう、と夜風が体を撫でる。しびれそうになる冷気。いつもは好きな寒さも、今日は恨めしい。
それから、ずるずる、とゆっくり体を引きずるようにして下に落ちていく。地面に足が着くまで、数分かかった。
念のため振り返り家を見るが、姉貴が気づいた様子は無い。
「よし」
そうと分かればここにいる道理は無い。いつもの時間に間に合うように、公園に向かって走る。
夜の風を切り全力で駆けると、しだいに見えて来るいつもの場所。
「――っと。セーフか?」
「三分オーバー。アウトね」
そして、いつも通りベンチには漆黒のドレスに雪のように白いフリルをあしらったゴスロリ服を着た魅霊がいた。
……よく見ると、ベンチの上にチョコレートを包んであった銀紙が散乱している。
「……な、なによ。ちょっと腹ごしらえしただけじゃない」
呆れた雰囲気が瞳に映ったのか、弁明するように必死に声を上げる。
ま、いいか。
「そんじゃ、化物退治といきますか。ほら、行くぞ」
いつまでもベンチに座っている魅霊の手を握って無理矢理立たせる。
なぁっ、と小さな声で批判らしきものをしていたが、聞こえないフリをしてどんどん歩く。
「な、ちょ、ば! な、何すんのよ! 一人で歩けるから話してよ!」
「お前が遅いから悪い。ま、その元気があれば大丈夫か。ほら、行こうぜ」
「……なんでわたしだけ……ばかみたい」
「ん? なんか言ったか?」
「なんでもないっ!」
きしゃー、なんてヘビのような叫び声を上げながらずんずんと前へ進んでいく。何か気に障る事でも言ったか?
◇
駅の方まで足を伸ばすと、疎らにだが人が見えた。
コンビニの前でタバコを吸う男たち、よっぱらいなど、正直あまりお近づきになりたくなに連中だが。
「なあ、ちっとコンビニ寄らないか? 飲み物買いたい」
「別にいいわよ。わたしもチョコレート買おうと思ってたし」
まだ食うのかこいつ。思わず溜息が出る。
中に入ると、金に髪を染めた男が眠そうな顔でレジに立ち、ゆらゆらと船を漕いでいる。まあ、こんな時間に活力にあふれた店員がいてもうるさいだけか、と諦めてホットのコーヒーを取り出す。
っと、そうだ。ふと自分の思いつきに頬を緩め、それも一緒に買う事にする。
半ば睡眠状態の店員を起こしてコーヒーを購入。後ろを見ると、魅霊がチョコレートを数十個胸に抱いてレジに向かってくるのが分かる。
「それ、全部食うのか?」
「当然でしょ?」
うあ、綺麗に返された。つーかどこら辺が当然なのか教えて欲しい。見ろ、今まで目が半開きの店員も、大量のチョコレートを買おうとするゴスロリを見た瞬間、完全に覚醒したぞ。
ビニール袋に詰められていくチョコレートを満足そうに見つめる魅霊の姿を見てると、なんというか……微笑ましい。死神のように舞いながら化物を倒す姿を見た分、余計そう感じるのかもしれない。
「よし。それじゃあ、行きましょ」
「それより。ほら」
前へ行く魅霊に、右手の物をかかげて見せる。
振り向いた彼女は、うん? と首を傾げる。
「宗司。これは?」
「見て解らないか? コーヒーだよ」
「でも、なんで? これ、宗司が買ったんでしょ?」
「今日、少し遅れただろ? だからだ」
ほいっ、と缶を放る。それは見事彼女の小さな――けれど頼もしい手に収まる。しかし魅霊はじっ、と缶を見つめるだけで一向に飲もうとしない。
何してるんだ? と言おうとすると「あ、ありがと」と言ってキュッと呷り――すっげえ勢いでむせる。
「お、おい。どうしたんだお前」
「うう、苦ひ……」
半泣きで右手の缶を見つめる魅霊。
――その姿に、ぞくりとした。
その美しい瞳から零れ落ちる涙。もっと見てみたい。
例えば右手を捻り、苦痛に歪む顔。想像しただけでイッてしまいそうになる。
もし、その白い指を捻り骨をへし折れば、魅霊はどんな顔をするだろうか? 苦痛に、泣き叫ぶんだろうか――?
「うう、ごめん。貰ったから、と思ったんだけど、わたし苦いのはだめなの」
――その、日常側にある穏やかな声が、俺の意識を引き戻した。
「あ、ああ。なんだよ。それなら飲む前に一言いえばいいじゃねえか」
……なんだ、今の? 脳裏を走りぬけたサディスティックな妄想を振り払うように拳を強く握る。爪が掌を切り裂き、血が滲む。
「そんな事より、さっさと行こうぜ。早く犯人見つけて終らせたいしな」
考えない方がいい、そう結論付けると魅霊を追い越して夜道を早歩きで進む。
◇
かつんかつん、と足音が残響する。
駅のすぐ近く。線路の隣に位置する資材置き場の中は薄暗く、穴の開いた天井から降り注ぐ月光が無ければ真の闇に支配されていただろう。
すでに廃棄されたこの場所は所々地面のコンクリートが削れ、壁の塗装は剥げている。昔は何かの機材だったらしい金属製の何かは、スクラップになって地面に散乱している。
ふと、足元を見ると、タバコの吸殻やコンビニの菓子などが汚らしく放られている。おそらくは、不良の溜まり場か何かなんだろう。
魅霊は油断なく周りを見渡している。こんな障害物だらけの場所だ、いつどこから化物が姿を現すか解らない。
会話はしない。もし中に潜んでいるのだとしたら、自分の居場所を教える事になる。
しかし、地面を叩く靴の音は消しようも無い。歩くたびにかつんかつん、と鳴り、その度に神経が削れていく。
少しでも音が出ないように、忍び足でゆったりと歩く。すると、靴越しにぬめりが伝わり、世界が反転。派手な音を立ててすっ転ぶ。
「――ッう……」
オイルか何かか? 機材から染み出したんだろう。そう結論付けて立ち上がる。
――そうすれば嫌でも目に入る。鉄のような臭いを放つ、黒ずんだ赤色の液体が。
「これ……、――ッ!」
ぞわり、と背筋に冷たい物が走り抜ける。これは――血、じゃないのか?
思わず後ずさりをすると、とん、と踵になにか柔らかいものが当たった。
――多量の血液のすぐ傍にある大きなそれ。考えるまでもない。それが、その血液を生み出した物体だ。
人型のそれは黒い服を着ていた。だが腹部だけは醜く破れ、肌色を――いや、ピンク色のぶよぶよとした物体をさらけ出している。
「あ――」
まるで声帯が痙攣したように、俺の唇からは空気を振るわせる無意味な音しか出ない。叫ぶ、という事すらままならず、ただただ胃の中身をぶちまける。
落ち着け。内臓なんて、魅霊が化物殺した時に見てるだろ? だから、落ち着け!
そんな内心とは裏腹に、脳みそは沸騰したみたいに熱くなっていく。
ああ――そうだ。化物の死体の場合、気持ち悪くてもどこか別の世界の出来事のようで落ち着いていた。死んでも消え去る死体なんて物に、リアリティなど感じる事はない。
でも、こいつは違う。光を失った瞳、死んでも消え去る事なくこの場に存在し、そして――自分と同じ人間という種族である事。それが、頭の中をかき乱す。
――だからだろう。寸前まで背後に迫る巨体に気付けなかったのは。
「宗司!」
魅霊の叫びが響き渡る。くそ、危ないのは言われなくても分かってるっての!
その化物は例えるなら熊。だが、この前会った鎧姿の化物と同じように、その両指には刀のように鋭い白刃が備え付けられている。
だが、前の化物と違う所がある。その刃には何かを引っ掛けるような、反り返った突起が刃の反対側――刀なら峰と呼ばれる部分――に取り付けられている。
ふと、隣にある死体を見る。もし、あんな爪で腹を刺されたら、引っこ抜く時にあの突起に内臓が引っ掛かり――こいつみたいにハラワタをぶちまける事になる。
化物が腕を引く。そして、剣道の突きでも放つように、俺の腹部に爪を――
――刃を生成。場所は腹部。複数の層を型作れ!
バリン、と金属が砕けるような音が腹から鳴り、俺は後方に吹っ飛ばされる。
「そ、宗司!」
「大丈夫だ――っつう、やっぱ衝撃は無理か」
刃は金属。それなら、腹の中心点に刃を横向きに生み出せば、化物の爪を受け止める事が出来るんじゃないか? と咄嗟に考えたワケだが、受け止めたのは刃のみ。あの豪腕から放たれる衝撃までは殺してはくれなかったようだ。
砕けた刃を消去。痛ぅ――割れた破片が刺さったのか、腹部から微量の血が流れる。
「それより、あいつだ。さっさと殺るぞ」
「ふらふらしてるくせに何言ってるの。あんたはここで待ってなさい。あいつはわたしが倒すから」
――悔しいが正論だな。
崩れ落ちるように地面にへたり込む。正直、立っているのがやっとだった。
だが、このキモチはなんだ?
魅霊が羨ましい。いや、嫉妬という言葉の方が近いだろう。ここ数日、化物どもと戦っているのはあいつだけだ。俺は、最初化物と出合った日以外、一度も殺していないというのに。
ああ、早く早く、化物どもを殺したい。臓腑を抉りたい。頭を開いて、中身を掻き回したい。両腕両脚を切断し、動けなくなったところでその体を解体したい。
「――ッ!」
そのおぞましい妄想を振り払うように頭を左右に振る。……最近、なにかおかしい。例えるなら、少しずつ歯車が別の部品にすり替えられているような感じ。
――馬鹿げてる。普段とは違う環境に身を置いているから、少し思考が狂っているだけだ。そう、屋上に上った時に、ここから跳び下りたらどうなるんだろう、とタブーを連想してしまうように。
獣の咆哮が鳴り響く。見ると、化物の左腕が半ばで切断され、所々に深い裂傷を負っている。
だが、それでも闘志を失う事なく魅霊に向かい残った右腕を振るう。轟、と中世の処刑人が放つ無慈悲な一撃にも似たそれは、白い肌に紅の花を咲かせるべく疾走する。
けれど、あいつはまるでダンスでも踊るような優雅さでそれを回避。無様にも地面に爪を突き刺した化物に向かい、ピンと張られた弓から放たれる矢のように一直線に飛びかかる。
それは、フェンシングで放つような華麗な突き。淡い月光を刀身に宿しながら、化物の左胸に穴を穿つ。
びくん、と痙攣し、口から血塊を吐き出しながら化物は倒れる。しかし、死体は残ることは無く、地面にその身を横たえる前に消えうせる。先程の姿が幻想だったのではないかと思わせるほどに呆気なく。
化物が消え失せた事に安心しつつ、周りを見渡す。
――最初は気付かなかったが、死体は一つではない。ひしゃげた改造バイクやらタバコの吸殻、死人たちの髪がこの闇の中で場違いなほどカラフルだ。不良やら暴走族の集会だったんだろうか。けれど、もう知る術はない。
「――くそっ」
別に、聞いた事の無い他人が何人死のうと俺には関係ない。けれど、実際に目の前に死体が転がっているのを見ると苛立ってくる。
正直、こんな奴らが社会に貢献してるとも思えないし、むしろ害悪だろうとも思う。だが、死んでいいほどの罪人ではないだろうに。
「……さっさと出ようぜ、こんな場所」
「待って。その前にこいつら片付けなきゃ」
片付ける――?
その言葉に疑問を覚える前に、魅霊は散乱する死体の一つを物のように引っ張っていく。
「おいっ! 何やってんだお前!?」
「だから、後片付けよ、後片付け。前に言ったでしょ? わたしにとって死体なんて簡単に処理できるって」
そりゃ、言ってたかもしれないけど。だからって、元は人間だった物をそんな風に……。
「異法協会っていう組織に身を置いている者なら、誰だってする事よ? 一般人にわたしたちの存在を知られないようにするために、こういうヒントになるような死体を処理するのは最優先事項だもの」
一つ、二つ、三つ。死体を物のように放り投げ、一箇所に集めていく。
だらん、と垂れたハラワタが水っぽい音を立てて地面に張り付く。
全てを集め終えると、魅霊は深呼吸をし、右手を天に掲げた。
「wish――Black lily」
ぞわり、と鳥肌が立つ。
あいつに初めて会った時に短刀を首に当てられた事があったが、そんな微少な恐怖などこの寒気に比べれば無いに等しい。
その一言で冬樹魅霊という人物は消えうせ、正体不明の化物に変わってしまったような錯覚。
魅霊の手には、ある物が握られていた。
それは、魅霊どころか俺の背よりも長く、そこらにある週間の漫画雑誌くらいの幅を持つ巨剣。
鍔は無く、幅広い黒い刀身とヘタしたら俺の腕よりも長い柄。無骨な造りだが、その刀身には花の絵が刻まれていた。
よく女が綺麗という花とはかけ離れた黒い花弁。質素な美しさを持つそれは、黒百合という花だ。
ふわり、とカラスの羽が地面へと舞い落ちるようにゆったりとした動きで、剣先が死骸に突き刺さる。
「Erase」
それは何かの呪文なんだろうか。先程まであった死体の山が消滅していく。
数分経った頃には死体どころか血液すらも消えうせ、先程の死体は幻影だったのだろうか、とさえ思う。
「普通の状態の物や人間には出来ないんだけどね。死ぬか壊れるかした物って、リサイクルでもされない限り、異法という面での力ってのが皆無に等しいから。レベルの高い異法具を介して存在を否定してやれば――このとおり」
すでに死体があったという形跡は完全になくなり、ただ、夜半の月が打ち捨てられた資材を照らすだけ。それをバックに、誇るように胸を反らす魅霊。
……ああ、やっぱ俺ってイカレてるんだな。
人の死骸を埋葬もせず、ただ消滅させる。普通なら嫌悪感を抱いてもいいだろうが……俺が感じるのは、ただ凄い、と。こんな能力が俺に備わっていればいいのに、という羨望だ。
「すげえな。それ、俺にもできないのか?」
「あんたは無理。普通の人間なら努力さえすれば誰でも出来るけど、あんたみたいな異能者は回路が違うから。どんなに頑張っても異法は使えないわ」
そりゃ残念、などと言いながら立ち上がる。もう夜も遅い。それに、明日は学校だ。さっさと眠らなくては。
だが、腹に伝わる鈍い痛みに膝を折る。
「……送ってく?」
「ああ……頼む」
ほんとうに情けないな、俺。
魅霊に身を預け、確認するように後ろを向く。
遠くの窓に、白い何かが通り過ぎたような気がした。
◇
女の子に背負われるっていうのは恥ずかしい、やっぱり男は背負うほうじゃないとな……
「で、次はどっち?」
「ああ、そこを左に曲がってくれ」
そんな事を考えつつも、意外に快適だなー、などと考えている俺が居たり。
なんと言うか……落ちないように支えてもらっている腕の柔らかさとか、さらさらと靡く髪から匂う甘い香水の香りとかね。体は正直ですよやっぱり。
けど、そこら辺は女性的なのに、なんで胸はあんなにフラットなんだ。あれですか? 紙飛行機の原理を取り入れているのですか?
「――今、なんかやましい事、考えなかった……?」
「あっははは。何を仰る魅霊さん。僕は学校ではクリーン宗司くんと呼ばれているのですよ?」
ワケ分からないわよ……、と呆れたように溜息をつく。ま、話を逸らす事には成功したのでよしとする。
でも、やっぱりこう体が密着していると色々と妄想力がぱわーあっぷしていくものですよ。
長手袋と袖からチラチラと見える白い肌がやわらかそーだなー、とか。
胸は平らだが、尻は中々弾力ありそうですよねトミー? とか。
「……うぁ」
まずい、なんか色々とまずい。おもに下半身が。
なんというか、今まであんまり意識していなかったんだけど魅霊は美人なわけで。そんな女の人と密着しているという状態は、下半身に住む俺の分身に活力を与えるには十分過ぎるものであるわけで。
「……? 宗司、なんか背中に当たってるけど……」
「なんでもないなんでもないですスルーしてくださいお願いしますところでそろそろ家に着きますがホントウに感謝しておりますよ魅霊さん今日はホントウにほんっとうにありがとうございましたぁっ!」
「あ……えっと、うん……?」
俺の迫力に圧倒され、かくかくと首を縦に動かす。よかった。疑問には思ってるみたいだけど追求はない。ありがとう神様。俺、これからアンタを信じます。
しかし、自宅前に来ても問題が一つ。今日、外に出る時に電柱を伝って下に降りたが、今の俺の状態では登れそうにない。
「どうするよ、これ」
「どうしたのよ。家に着いたんだから問題なんてないでしょ?」
不思議そうに首を傾げる魅霊に、今日は玄関からではなく少々アクロバットな方式で外出した事。
そして、今の俺にはそんな方式で家に入るのは適わない事。
なるべく姉貴にばれたくないから、玄関から帰るのは最後の手段にしたい事。などなどを丁重に説明してやる。
すると、
「なんだ、そんな事」
と、あっけらかんと言い放った。
「いやいや魅霊さんや。俺としてはけっこう死活問題といいますかなんと言うか」
「捕まって」
なぜに? と返す間もない。
左腕で抱えられたと理解した瞬間、視界が急上昇。その勢いで開けっ放しの窓から俺の部屋にダイブ。
「これでいいでしょ?」
「……いやー、凄まじいなお前」
男一人抱えてこのジャンプ力ですか。無茶苦茶ですこの人。どんな物食えばこんな人間になるんだよ。
「あ、チョコレートか?」
何の話よ、と。毎度のことのように不思議そうに首を傾げる。つーか、こいつこれが癖なんだろうか。小鳥が首を動かすみたいで可愛らしい。
「んな事より。今日はさんきゅな。お前も気をつけて帰れ」
「うん。それじゃあね」
「ああ、またあした学校でな!」
外に跳んだ魅霊に向かって叫ぶ。すると、一瞬体を止めて、こくりと頷いた。唇が動いていた事から、何か喋ったんだと思うが……。
「聞こえねえって。ったく」
ごろん、と。ベッドに転がる。
すると、疲れていたのか意識は眠りの世界に誘われ、視界は闇に染まっていった。




