婚約者に見惚れてほしかったのですが、肖像画の間は前を向いてください
「ヴァレンヌ様、お顔をもう少し、こちらへ戻していただけますか」
画家のソニアさんに頼まれて、エティエンヌ様が前を向いた。
私もつられて前を向く。すると今度は、私の顎を少し上げてほしいと頼まれた。言われたとおりに直すと、隣から視線を感じる。
見返してはいけない。さっきはそれで、二人とも横顔になってしまった。
「……エティエンヌ様。前を向いてください」
「向いていますよ」
「目もです」
彼が私を見た。たった今、向けた顔まで動かして。
どうしてわかるのだろう、という顔だったので、私は困ってしまった。隣からじっと見られていたら、わかる。それも、今朝から会うのを楽しみにしていた人に。
ソニアさんが木炭を持つ手を止めた。大きな窓のある画室に、母の小さな咳払いが響く。笑うのを隠した音だった。
「お二人とも、最初の姿勢だけ、決めさせてくださいな」
私たちは同時に謝り、並べた椅子の上で座り直した。
膝の上で手を重ねる。彼は背を伸ばし、今度こそまっすぐ前を向いた。濃紺の上着に包まれた肩が、すぐ隣にある。
今日のために仕立てた淡い緑のドレスは、襟元へ細かい刺繍が入っていた。髪をどう結うかも、耳飾りをどちらにするかも、昨日からずいぶん迷った。最後には母に、もうどちらでも可愛いわよと笑われたくらいだ。
せっかく婚約記念の肖像画を描いていただくのだから、綺麗にしたかった。何より、エティエンヌ様に見惚れてほしかった。
確かに、そう願った。ただ、描いていただいている間は、前を向いてくださらないと困る。
「クレール。何か、おかしなことでも?」
口元が緩んでいたらしい。彼に気づかれ、慌てて首を振りかけたところで、ソニアさんと目が合った。
頭を動かさずに否定するのは難しい。
「嬉しいんです。でも、こんなに見られると思っていませんでしたから」
「すみません。今日は、いつもと髪の結い方が違うので」
「おかしいでしょうか」
「いえ。首のあたりがよく見えて、綺麗だなと」
答えをもらった途端、耳飾りの下が熱くなった。
そう言っていただきたくて、耳元の髪も上げてもらったのだ。母に訊かれたときは、飾りが見えるほうがいいからと答えたのに、当の彼には、その隠したつもりのところを見つけられた。
「ありがとうございます。……あとで、続きを伺います」
「続きですか?」
「今、褒めていただくと、じっとしていられません」
彼がわずかに口を開いた。そのまま何か言おうとしたが、ソニアさんの木炭が紙の上を動き始めたので、口を閉じる。
私は正面の壁へ目を向け、笑いすぎないように唇を結んだ。壁には風景画が何枚も掛かっている。川の絵を見ていても、隣の人が何を言いかけたのかが気になって、ちっとも景色が頭に入ってこなかった。
* * *
エティエンヌ・ヴァレンヌ様と私が婚約したのは、三か月前のことだった。
父同士のつき合いで知り合い、家族の集まりで顔を合わせるうち、彼が来る日は朝から落ち着かなくなった。春には二人で出かけるようになり、夏の初めに、彼から結婚を申し込まれた。
二か月後には、私はこの方の妻になる。
その前に一枚、二人の絵を残しておこうと言い出したのは私だった。
ロラン家の廊下には、結婚したばかりの両親の肖像画がある。
今よりずっと若い母と、私の知っている父よりも緊張した顔の父。小さい頃は、どうしてお父様は怒っているの、と何度も尋ねていた。
母はそのたび、嬉しかったのよ、と笑った。子供の私には、どう見てもそうは思えなかったのだけれど。
「私たちも、あんな絵を描いていただきたいんです」
先月、そう頼むと、エティエンヌ様はすぐに賛成してくれた。依頼をしたときには、ソニアさんにも我が家へ来ていただき、両親の絵を見せていた。
彼の家の広間にも、代々の伯爵夫妻の肖像画が並んでいるのだという。私も一度見せていただいた。みな立派な顔をしていた。絵の中でさえ、背中が丸くなっている人は一人もいない。
ああいう方々と並ぶのだと思うと、背筋が伸びた。まだ伯爵位を継いでいない彼と、まだ妻になっていない私の、これからのための一枚なのだ。
「少し、お休みにしましょうか」
ソニアさんの声で、私はようやく息をついた。
長く座ったつもりはなかったのに、肩が固くなっている。膝の上の手をほどくと、隣のエティエンヌ様も肩を下ろした。
「まだ、絵の具はお使いにならないのですね」
「ええ。今日はお二人の並び方や、光の当たり方を決めたいので。お顔も何枚か描かせていただいてから、本画へ進めます」
ソニアさんは、紙を載せていた板をこちらへ向けた。
簡単な線の中に、二人の姿があった。私のドレスの広がりと、彼の上着の形。まだ細かなところはないのに、彼の眉と鼻筋が見えるだけで、そこに座っているのが誰なのかわかる。
嬉しくなって身を寄せると、エティエンヌ様も覗き込んだ。
「似ていますね」
「本当に。私、こんなにきちんと座っていたんですね」
絵の中の私は、膝を揃え、少しだけ微笑んでいた。
おかしなところはない。むしろ、朝、鏡の前で練習した顔によく似ている。母にもこれなら、と頷いてもらった顔だ。
それなのに、並んでいる二人は、これから何か難しい質問をされるのを待っているようにも見えた。
「私、少し緊張しすぎでしょうか」
「初めは、皆様そうですよ。ずっと同じ顔をなさらなくても大丈夫です。お話ししているところも、拝見したいので」
ソニアさんはそう言い、母を額縁の見本がある隣室へ案内した。助手の方が説明してくださるという。
画室には私たちが残った。入口の扉は開いたままで、隣から母の声が聞こえる。
私は椅子へ戻りかけて、エティエンヌ様の背中を見た。さっきより自然に立っている今のほうが、よく知っている彼だった。
「肩、痛くありませんか」
「少し。あまり胸を張るものではありませんね」
「いつもより、ずいぶん大きく見えました」
彼は自分の肩を見ようとして、首を曲げた。
「父の絵を思い出していたんです。あのくらい堂々としていれば、君の隣にいても見劣りしないかと」
「見劣りだなんて。いつものエティエンヌ様でよろしいのに」
言ってから、膝の上で手を揃えていた自分を思い出した。
いつもどおりでよいなら、私は今朝、あんなに口元の練習をしなかったはずだ。
彼もそれに気づいたのか、私を見て笑った。
「クレールも、ずっとお茶をこぼさないようにしているような顔でした」
「それは、どんな顔ですか」
「こう、少しだけ笑って、あまり動かずに……」
彼は試しに椅子へ座り、私の真似をしようとした。けれど途中で困ったように口を曲げるので、少しもすまして見えない。
やめてくださいと言う前に、笑ってしまった。私も隣の椅子へ腰を下ろす。カップもないのに慎重に座る彼を見ていたら、いつだったか、絵当て遊びをした日のことまで思い出したのだ。
「私の描いた梨を、壺だとおっしゃったときも、そんなお顔でしたね」
「君のお母上は、玉葱だとおっしゃいましたよ。私よりも食べ物に近かった」
あの日は、誰にも当ててもらえなくて、切った梨も横へ描き足したのだった。今思えば、もう少し細長く描けばよかったのだけれど、あのときは自信作だった。
「種まで描くことになるなんて、思いませんでした」
「種を見て、やっとわかったんです。次の梨は、すぐにわかりましたよ」
あの日も彼は、最後まで私の絵を見てくれた。
ほかの人たちが次の紙を配り始めても、どこがわからなかったのかを話してくれた。私は悔しくて、もう一枚描きたくなった。次の梨を当ててくれたときには、彼まで手を叩いて喜んだ。
私の描いた梨の話を、こんなに覚えている人を好きになった。見栄えのよい答えばかり言ってくれるわけではないのに、もう少し話したくなる。
「君は、最後には私の壺より上手に描いていましたよ」
「エティエンヌ様の壺には、持ち手が三つありましたもの」
「一つ描き直した線を、消せなかったんです」
笑いながら彼を見上げると、彼はさっきまでの返事をやめ、私の顔を見ていた。
見つめられると、やっぱり落ち着かない。それでも今は、目を逸らすのが惜しかった。
「……何でしょう」
「その顔も、残しておきたいと思いまして」
ソニアさんが戻ってきたのは、そのときだった。
私たちを見て、今度は座り直すようには言わず、脇の机から小さな紙を取った。
「よろしければ、そのまま少し、お話を続けていてください」
何の話でしたか、とエティエンヌ様が真面目に訊く。
私は、持ち手の多すぎる壺です、と答えた。彼が、取っ手は多いほうが便利なのでは、と言いかけるので、また笑ってしまった。
* * *
画室の隣には、細長い庭があった。
少し歩いて脚を伸ばしてはと勧められ、私はエティエンヌ様と外へ出た。母はまだ隣室で、金色と茶色の額を見比べている。窓越しにこちらへ手を振ったので、私も振り返した。
石畳の脇には、小さな鉢がいくつも並んでいた。秋の花の名は、半分ほどしかわからない。見覚えのない紫の花を二人で眺めてから、庭の奥のベンチへ腰掛けた。
「先ほど、残しておきたいとおっしゃった顔は、いつもの笑った顔でしょうか」
気になっていたことを尋ねると、エティエンヌ様は頷いた。
「ええ。君が私の話を聞いて、ああ、またおかしなことを言っている、と思っていそうな顔です」
「そんなこと、思っていません」
「持ち手が三つでも?」
否定しきれず、私は笑った。
彼が少し身を寄せる。肩が触れるほどではないのに、画室で並んでいたときより近く感じた。
「それです。続きを聞こうとしてくださるでしょう。自分でもうまく話せないなと思うとき、それを見ると、まだ話していていいんだとわかるんです」
私は彼の前で、そんな顔をしているのだろうか。
鏡を見ながらなら、綺麗に見える角度を探せる。けれど、彼の話を聞いている私を、私は一度も見たことがない。
笑うと目が細くなる。口元も、気にしていなければ大きく緩む。それをずっと絵の中に残すのだと思うと、気恥ずかしかった。
「絵ですから、いつもより少し、綺麗な顔を残したかったんです」
「今日のクレールは、とても綺麗ですよ」
「それは、ありがとうございます。でも、笑いすぎると……」
彼はそこで、首を傾げた。
私の顔と、身につけた服を見る。真剣に考えているようだったので、続きを待った。
「笑っている君も、綺麗だと思っているので、私は困らないのですが」
やはり、この方に相談してはいけなかったかもしれない。
胸のあたりが温かくなって、ちゃんと考えられなくなる。
私は膝へ目を落とした。朝、彼に見てもらいたくて選んだ刺繍の花が、日差しの中で光っている。願いどおりの言葉をもらったのに、顔を上げるのには少し勇気が要った。
「……今日は、あなたに見惚れていただきたかったんです」
彼が膝の上の手を動かした。私の言葉を確かめるように、少しこちらへ身を寄せる。
「私に?」
「はい。絵を見た方に、綺麗な花嫁だと思っていただけたら、それも嬉しいです。でも、最初にそう思ってほしかったのは、あなたです」
口に出すと、とても欲張りな願いに聞こえた。
何も褒めてもらえなかったわけではない。会えば、よく似合うと言ってくれる。求婚された日にも、これからも隣にいてほしいと言われた。
それでも今日は、いつもより少し、彼を驚かせたかった。二人が結婚する前の絵を見るたび、この日の私を好きだと思ってくれたら嬉しい。
「うまくいきましたか」
尋ねると、彼はため息に似た息をついた。
「ええ。おかげで、何度も前を向くように叱られました」
その言い方がおかしくて、私は顔を上げた。
彼も笑っていた。眉のあたりから力が抜け、口元が少し片側へ上がっている。今の私だけに向けてくれる、いつもの顔だった。
絵の中の彼には、その笑い方がなかった。
「エティエンヌ様は、どんなお顔を残したいですか」
「私の顔ですか。先ほどまでは、父のように頼もしく見えればと思っていました」
「今は?」
彼は画室の窓へ目を向け、それから私へ戻した。
「君があの絵を見るとき、一緒に座っていて楽しかったと、思い出してくださる顔がいいです。描いていただく前から肩が凝っていた、という思い出だけでは困ります」
私は、膝の上にあった彼の手へ、自分の手を重ねた。
手袋は、画室の棚に置いたままだ。彼も外していたので、掌の温かさがそのまま伝わってきた。
彼が一度私の手を見た。それから指を少し開き、落ちないように包んでくれる。
「私も、今のお顔が好きです。立派に座っていらっしゃるお顔も好きですけれど、あなたが私といて笑っていると、嬉しくなります」
言い終えても、すぐには返事がなかった。
彼は私の手を握り直した。その力が思ったより強くて、嬉しかったのだとわかる。しばらくして顔を上げたときには、口元にあった笑みが、さっきより大きくなっていた。
「そんなことを言ってくださるなら、ますます、君のほうを向いてしまいます」
「……私もです」
絵のために、彼を見ないようにしていた。
だって、彼を見ると、すましていられなくなる。嬉しいことも、おかしいことも顔に出て、鏡の前で練習した花嫁から、いつもの私へ戻ってしまう。
でも、二か月後にこの方と結婚するのは、その私なのだ。
私は繋いだ手を見てから、画室の開いた窓へ目を向けた。
「ねえ、エティエンヌ様。絵の中でも、お互いのほうを向いていては、いけないでしょうか」
彼は少し驚き、それから窓の向こうのソニアさんを見た。
「伺ってみましょう。私は、そうできたら嬉しいです」
* * *
画室へ戻って頼みを伝えると、ソニアさんは二枚の紙を机へ並べた。母も額縁の見本を手に、隣室から戻ってくる。
一枚は、最初に見せていただいた二人の配置案。もう一枚は、先ほど話していたときの、私の顔だった。
小さな紙に、笑っている私がいる。練習した微笑みよりも、ずいぶん楽しそうだった。
「最初に拝見した、ご両親の絵に近い並び方で考えていましたけれど、お二人の絵ですから。ご希望を聞かせてください」
私は紙から顔を上げた。
両親の絵をお見せして、こんなふうにと頼んだのは、私だった。同じ並び方なら間違いがないと思っていたけれど、私たちは私たちの座り方を、選んでよかったのだ。
「二人とも顔が見えて、そのうえで、相手の顔も見られるようにしたいんです。正面へきちんと向くより、少し、こちら側へ……」
エティエンヌ様へ体を向けてみると、ソニアさんは窓際の長椅子を指した。
そちらに座ってみましょうと言われ、二人で移る。私はドレスの裾を整え、彼は私へ少し体を向けて腰を下ろした。
ソニアさんが立つ場所を変え、私の肩の向きを少し直す。彼も、顎を引きすぎないようにと頼まれた。
「このくらいでしたら、お二人のお顔が見えます。今度は、見合っていただいて構いませんよ」
先ほどまで何度も止められたことを、今度は許された。
顔を上げると、すぐそこにエティエンヌ様がいる。彼もこちらを見ていた。目が合うと、どちらからともなく笑ってしまった。
これでは今度もじっとしていられないと心配になったが、ソニアさんは、肩の位置が変わらなければ今は大丈夫です、と言ってくれた。
「手は、どこへ置けばよろしいでしょうか」
彼が尋ねた。
私は自分の膝を見て、それから、長椅子の上にある彼の手を見た。庭では自然にできたことなのに、母と画家の前では、ひどく大胆なお願いに思えた。
「繋いでいては、いけませんか」
ソニアさんはすぐには答えず、二人の間の距離を見た。
「ええ、繋いでいただいて大丈夫です。お手がこちらからも見えるように、もう少し近くへお掛けください」
彼が近くへ座り直す。
上着の袖へ私の腕が触れた。顔を上げなくても、彼の体温がわかりそうな近さだった。
差し出された手に私が手を重ねると、彼は指先を揃えて静かに受け止めた。
「握っても、よろしいでしょうか」
「もちろんです。乗せているだけでは、私が落ち着きません」
彼が笑って、私の手を握った。
今度は彼のほうからだった。嬉しくて握り返すと、彼の親指が私の指のつけ根へそっと添えられる。
母が、額縁は茶色にしましょうか、とソニアさんに尋ねていた。いつもどおりの声だった。私たちの手を見ても、はしたないとは言わない。
私はほっとして、それから少しおかしくなった。結婚する二人の絵なのに、好きな人のそばに座って嬉しいことまで、隠そうとしていたのだ。
「お母様は、お父様と描いていただいたとき、どうでした?」
母は私たちを見て、片方の眉を上げた。
「お父様が、ずっと私のドレスを踏んでいたわ」
「まあ」
「お顔ばかり気になさって、足元まで余裕がなかったのね。絵を見れば思い出すけれど、あのときは言えなかったの。私まで緊張していたから」
エティエンヌ様が、すぐに足元へ目を落とした。
裾には触れていない。それを確かめている横顔を見たら、我慢できずに笑ってしまった。
「大丈夫です。踏まれたら、ちゃんと申し上げます」
彼がほっとしたように頷いた。手は、繋いだままだった。
ソニアさんが私たちの顔を交互に見ながら、紙へ線を重ねている。
私はもう、口元を小さく保とうとはしなかった。彼と手を繋いで座っているのだから、にこにこしていても仕方がないと思った。
彼が私を見て笑う。その顔を見ていると、綺麗にしてきてよかったと、改めて嬉しくなった。
「あと二か月ですね」
エティエンヌ様が言った。
今までも何度か聞いた言葉だった。結婚式の日取りを決めたとき、家具を選びに行ったとき、その日に持っていく荷物の話をしたとき。
けれど、今の声は何かを決めるための声ではなかった。
「待ち遠しいですか」
「ええ。君をお送りしたあと、一人で帰らなくてよくなるでしょう」
私は彼の手に少し力を込めた。
帰りの馬車が来ると、もう一つ話せばよかったと思う。玄関で見送るときには、彼がまだ何か言い忘れていてくれたらいいのにと、ゆっくり挨拶をしていた。
彼も同じことを考えていたのだと、握った手の近さと一緒に胸へ沁みた。
「私も、楽しみです。あなたが帰られたあとに、もうお会いしたくなることがあります」
「帰る前に、言っていただけたら」
「そうしたら、お帰ししたくなくなります」
彼は笑いかけたまま、何かに困ったように眉を下げた。庭で私の言葉を聞いたときとも違う、嬉しさをどうしたらよいかわからないような顔だった。
私はその顔を見て、彼が私と結婚することを、本当に楽しみにしているのだと感じた。知っていたはずなのに、もう一度好きになる。
「私も、君にそう思っていてほしかったです」
低い声で言われて、私は頷いた。
綺麗な花嫁に見てもらいたかった。この人が見惚れる顔でいたかった。けれど、その願いを持って座っていたのは、私だけではなかった。
彼も、自分との結婚を待ちきれないくらい喜んでほしかったのだ。
「思っています。何度でも、申し上げます」
彼は目を細め、それから少し俯きかけて、やめた。
私を見ていてよいのだと思い出したように、視線を戻す。私は握られた手を引かず、彼の顔を見ていた。
ソニアさんの木炭が紙を擦る音を、ずいぶん近くで聞いているのに、今は邪魔だと思わなかった。この顔を、残してくださるのだ。
* * *
「今日は、このくらいにしましょう」
そう声をかけられたとき、私はもう少し座っていてもよいと思った。エティエンヌ様が立つ前に手を緩めたので、私も名残惜しく指をほどく。
彼の腕を借りて立ち上がり、今度は絵を見るために隣へ並んだ。
ソニアさんは、二人の顔を描いた紙を、ほかの紙と分けて机へ置いた。完成の絵とは違って、服も背景も描かれていない。それでも私は、そのうちの一枚から目を離せなかった。
エティエンヌ様の顔だった。
「……こんなに、笑っていらしたんですね」
隣の本人は、紙を覗き込んで黙った。
頬の線が緩んで、目元が優しい。立派な伯爵家の後継ぎとして座ろうとしていた人が、好きな相手の返事を聞いて、嬉しくなってしまった顔。
私はこれを、今まで何度も見せてもらっていたのだろう。自分も嬉しくて、胸がいっぱいで、後から形を思い出そうとしてもうまくいかなかった顔だ。
「この顔で、君の隣に座っていたんですね」
「はい。私、何度も見たくなります」
彼はもう一度、紙の中の自分を見た。端のほうへ手を伸ばしかけ、描かれた線に触れないよう、途中で止める。
「そう言ってくださるなら、この顔で描いていただけてよかったです」
ソニアさんは、これをもとに絵の中の表情も描いていくのだと教えてくれた。
完成を待つ楽しみが増えた。それでも、目の前のこの小さな紙を、もう一度見たいと思った。服も背景もないぶん、彼が私を見て笑ったところだけを、そっと分けてもらえるような気がした。
私はソニアさんへ向き直った。
「本画ができたあと、この紙も、いただくことはできますか」
「ええ。制作の間は手元に置かせていただきますが、ご希望でしたら、完成の絵と一緒にお渡しします」
「ありがとうございます。ぜひ、お願いします」
エティエンヌ様が、私の顔を描いたほうの紙を指した。
「では、こちらの紙も一緒に、お願いできますか。私も、クレールの顔を見ていたいので」
ソニアさんが承知すると、彼は安心したように頷いた。
私は自分の笑っている顔を見た。鏡の前で作った顔よりも、少し子供っぽいかもしれない。それでも、隣の彼がこれを欲しがってくれることが、たまらなく嬉しかった。
次に座る日を二人で確かめ、棚に置いてあった手袋を取り、母の待つ玄関へ向かった。
今度も同じドレスで来るようにと頼まれたので、袖口を汚さないようにしなければならない。彼も上着を確かめ、二人で顔を見合わせた。
「次は、最初からこちらを向いていてよろしいのですね」
彼の確認に、私は頷いた。
「はい。私も、あなたを見ていますから」
彼が差し出した腕へ、自分から手を添えた。
今日は何度も、見ないでくださいと言いかけた。それなのに、帰り道では、こちらを向いてもらうたびに嬉しくなった。
* * *
それから二度、私たちはソニアさんの画室へ通った。
同じ服を着て、同じ長椅子へ座る。首や肩の位置を直していただくことはあったが、もう、彼に前を向いてほしいとは頼まなかった。
ただ、一度だけ、あまり面白い話をしないでくださいとはお願いした。笑いすぎて肩が動き、私のほうが何度も座り直すことになったので。
完成した絵が新居へ届いたのは、結婚式の少し前だった。
母が選んだ落ち着いた茶色の額の中で、私たちは手を繋いでいた。
彼の目は私へ、私の目は彼へ向いている。どちらの顔も見えるのに、絵を見ている人へ挨拶をするつもりは、二人ともあまりなさそうだった。
両家の人たちに見てもらうと、エティエンヌ様のお父様が、ずいぶん楽しそうだな、と笑った。彼は少し姿勢を正したが、そのとおりです、と答えた。
私も、はい、と続けた。あの日の私があんなに気にしていたことを、誰も困ったことだとは思わないようだった。
式を終え、二人の暮らしが始まってからも、その絵は居間に掛かっている。
窓から入る朝の光が届く壁を、二人で選んだ。小さな顔の素描は、一組にして、私の書き物机のそばへ置いた。私だけのものにしないでほしいと言われたので、彼からもよく見える向きにしてある。
ある朝、私は出かける支度を済ませた夫と、居間で絵を見上げていた。
あの日の緑のドレスを、また着たいと話しているところだった。彼が賛成したので、次に二人で招かれている食事会に着ていこうと思った。
「このお顔、今も好きです」
絵の中の彼を見ながら言うと、隣で手が動いた。
私の指に彼の指が触れ、そのまま繋がれる。絵と同じだと思って顔を上げると、彼は絵ではなく、私を見ていた。
「今のクレールの顔も、好きですよ」
「絵のお話をしていたんですけれど」
「ええ。でも、君が隣にいるので」
返す言葉を探しているうちに、笑ってしまった。
私は繋いだ手を少し引き、彼へ近づいた。今度は画家も母もいない。背筋を伸ばす必要も、肩の位置を気にする必要もなかった。
彼が顔を寄せるのを待たずに、私から頬へ口づけた。
「いってらっしゃいませ。今日も、早く帰ってきてくださいね」
彼が嬉しそうに、けれど少し困ったように私を見た。
「そう言われると、出かけるのが惜しくなります」
「お帰りのときにも、もう一度しますね」
彼は私の手を握ったまま、もう一度顔を近づけた。
今度は唇に短く触れられて、私のほうが黙ってしまう。彼はそれを見て笑い、夕食は一緒に、と約束してくれた。
私は玄関まで見送り、彼が振り返るのを待った。
目が合うと、二人とも笑ってしまった。もう、前を向いてくださいとは言わなかった。
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