↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

恋愛小説のはずでした

婚約者に見惚れてほしかったのですが、肖像画の間は前を向いてください

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/10/14

「ヴァレンヌ様、お顔をもう少し、こちらへ戻していただけますか」


 画家のソニアさんに頼まれて、エティエンヌ様が前を向いた。

 私もつられて前を向く。すると今度は、私の顎を少し上げてほしいと頼まれた。言われたとおりに直すと、隣から視線を感じる。

 見返してはいけない。さっきはそれで、二人とも横顔になってしまった。


「……エティエンヌ様。前を向いてください」

「向いていますよ」

「目もです」


 彼が私を見た。たった今、向けた顔まで動かして。

 どうしてわかるのだろう、という顔だったので、私は困ってしまった。隣からじっと見られていたら、わかる。それも、今朝から会うのを楽しみにしていた人に。

 ソニアさんが木炭を持つ手を止めた。大きな窓のある画室に、母の小さな咳払いが響く。笑うのを隠した音だった。


「お二人とも、最初の姿勢だけ、決めさせてくださいな」


 私たちは同時に謝り、並べた椅子の上で座り直した。

 膝の上で手を重ねる。彼は背を伸ばし、今度こそまっすぐ前を向いた。濃紺の上着に包まれた肩が、すぐ隣にある。

 今日のために仕立てた淡い緑のドレスは、襟元へ細かい刺繍が入っていた。髪をどう結うかも、耳飾りをどちらにするかも、昨日からずいぶん迷った。最後には母に、もうどちらでも可愛いわよと笑われたくらいだ。

 せっかく婚約記念の肖像画を描いていただくのだから、綺麗にしたかった。何より、エティエンヌ様に見惚れてほしかった。


 確かに、そう願った。ただ、描いていただいている間は、前を向いてくださらないと困る。


「クレール。何か、おかしなことでも?」


 口元が緩んでいたらしい。彼に気づかれ、慌てて首を振りかけたところで、ソニアさんと目が合った。

 頭を動かさずに否定するのは難しい。


「嬉しいんです。でも、こんなに見られると思っていませんでしたから」

「すみません。今日は、いつもと髪の結い方が違うので」

「おかしいでしょうか」

「いえ。首のあたりがよく見えて、綺麗だなと」


 答えをもらった途端、耳飾りの下が熱くなった。

 そう言っていただきたくて、耳元の髪も上げてもらったのだ。母に訊かれたときは、飾りが見えるほうがいいからと答えたのに、当の彼には、その隠したつもりのところを見つけられた。


「ありがとうございます。……あとで、続きを伺います」

「続きですか?」

「今、褒めていただくと、じっとしていられません」


 彼がわずかに口を開いた。そのまま何か言おうとしたが、ソニアさんの木炭が紙の上を動き始めたので、口を閉じる。

 私は正面の壁へ目を向け、笑いすぎないように唇を結んだ。壁には風景画が何枚も掛かっている。川の絵を見ていても、隣の人が何を言いかけたのかが気になって、ちっとも景色が頭に入ってこなかった。


 * * *


 エティエンヌ・ヴァレンヌ様と私が婚約したのは、三か月前のことだった。

 父同士のつき合いで知り合い、家族の集まりで顔を合わせるうち、彼が来る日は朝から落ち着かなくなった。春には二人で出かけるようになり、夏の初めに、彼から結婚を申し込まれた。

 二か月後には、私はこの方の妻になる。

 その前に一枚、二人の絵を残しておこうと言い出したのは私だった。


 ロラン家の廊下には、結婚したばかりの両親の肖像画がある。

 今よりずっと若い母と、私の知っている父よりも緊張した顔の父。小さい頃は、どうしてお父様は怒っているの、と何度も尋ねていた。

 母はそのたび、嬉しかったのよ、と笑った。子供の私には、どう見てもそうは思えなかったのだけれど。


「私たちも、あんな絵を描いていただきたいんです」


 先月、そう頼むと、エティエンヌ様はすぐに賛成してくれた。依頼をしたときには、ソニアさんにも我が家へ来ていただき、両親の絵を見せていた。

 彼の家の広間にも、代々の伯爵夫妻の肖像画が並んでいるのだという。私も一度見せていただいた。みな立派な顔をしていた。絵の中でさえ、背中が丸くなっている人は一人もいない。

 ああいう方々と並ぶのだと思うと、背筋が伸びた。まだ伯爵位を継いでいない彼と、まだ妻になっていない私の、これからのための一枚なのだ。


「少し、お休みにしましょうか」


 ソニアさんの声で、私はようやく息をついた。

 長く座ったつもりはなかったのに、肩が固くなっている。膝の上の手をほどくと、隣のエティエンヌ様も肩を下ろした。


「まだ、絵の具はお使いにならないのですね」

「ええ。今日はお二人の並び方や、光の当たり方を決めたいので。お顔も何枚か描かせていただいてから、本画へ進めます」


 ソニアさんは、紙を載せていた板をこちらへ向けた。

 簡単な線の中に、二人の姿があった。私のドレスの広がりと、彼の上着の形。まだ細かなところはないのに、彼の眉と鼻筋が見えるだけで、そこに座っているのが誰なのかわかる。

 嬉しくなって身を寄せると、エティエンヌ様も覗き込んだ。


「似ていますね」

「本当に。私、こんなにきちんと座っていたんですね」


 絵の中の私は、膝を揃え、少しだけ微笑んでいた。

 おかしなところはない。むしろ、朝、鏡の前で練習した顔によく似ている。母にもこれなら、と頷いてもらった顔だ。

 それなのに、並んでいる二人は、これから何か難しい質問をされるのを待っているようにも見えた。


「私、少し緊張しすぎでしょうか」

「初めは、皆様そうですよ。ずっと同じ顔をなさらなくても大丈夫です。お話ししているところも、拝見したいので」


 ソニアさんはそう言い、母を額縁の見本がある隣室へ案内した。助手の方が説明してくださるという。

 画室には私たちが残った。入口の扉は開いたままで、隣から母の声が聞こえる。

 私は椅子へ戻りかけて、エティエンヌ様の背中を見た。さっきより自然に立っている今のほうが、よく知っている彼だった。


「肩、痛くありませんか」

「少し。あまり胸を張るものではありませんね」

「いつもより、ずいぶん大きく見えました」


 彼は自分の肩を見ようとして、首を曲げた。


「父の絵を思い出していたんです。あのくらい堂々としていれば、君の隣にいても見劣りしないかと」

「見劣りだなんて。いつものエティエンヌ様でよろしいのに」


 言ってから、膝の上で手を揃えていた自分を思い出した。

 いつもどおりでよいなら、私は今朝、あんなに口元の練習をしなかったはずだ。

 彼もそれに気づいたのか、私を見て笑った。


「クレールも、ずっとお茶をこぼさないようにしているような顔でした」

「それは、どんな顔ですか」

「こう、少しだけ笑って、あまり動かずに……」


 彼は試しに椅子へ座り、私の真似をしようとした。けれど途中で困ったように口を曲げるので、少しもすまして見えない。

 やめてくださいと言う前に、笑ってしまった。私も隣の椅子へ腰を下ろす。カップもないのに慎重に座る彼を見ていたら、いつだったか、絵当て遊びをした日のことまで思い出したのだ。


「私の描いた梨を、壺だとおっしゃったときも、そんなお顔でしたね」

「君のお母上は、玉葱だとおっしゃいましたよ。私よりも食べ物に近かった」


 あの日は、誰にも当ててもらえなくて、切った梨も横へ描き足したのだった。今思えば、もう少し細長く描けばよかったのだけれど、あのときは自信作だった。


「種まで描くことになるなんて、思いませんでした」

「種を見て、やっとわかったんです。次の梨は、すぐにわかりましたよ」


 あの日も彼は、最後まで私の絵を見てくれた。

 ほかの人たちが次の紙を配り始めても、どこがわからなかったのかを話してくれた。私は悔しくて、もう一枚描きたくなった。次の梨を当ててくれたときには、彼まで手を叩いて喜んだ。

 私の描いた梨の話を、こんなに覚えている人を好きになった。見栄えのよい答えばかり言ってくれるわけではないのに、もう少し話したくなる。


「君は、最後には私の壺より上手に描いていましたよ」

「エティエンヌ様の壺には、持ち手が三つありましたもの」

「一つ描き直した線を、消せなかったんです」


 笑いながら彼を見上げると、彼はさっきまでの返事をやめ、私の顔を見ていた。

 見つめられると、やっぱり落ち着かない。それでも今は、目を逸らすのが惜しかった。


「……何でしょう」

「その顔も、残しておきたいと思いまして」


 ソニアさんが戻ってきたのは、そのときだった。

 私たちを見て、今度は座り直すようには言わず、脇の机から小さな紙を取った。


「よろしければ、そのまま少し、お話を続けていてください」


 何の話でしたか、とエティエンヌ様が真面目に訊く。

 私は、持ち手の多すぎる壺です、と答えた。彼が、取っ手は多いほうが便利なのでは、と言いかけるので、また笑ってしまった。


 * * *


 画室の隣には、細長い庭があった。

 少し歩いて脚を伸ばしてはと勧められ、私はエティエンヌ様と外へ出た。母はまだ隣室で、金色と茶色の額を見比べている。窓越しにこちらへ手を振ったので、私も振り返した。

 石畳の脇には、小さな鉢がいくつも並んでいた。秋の花の名は、半分ほどしかわからない。見覚えのない紫の花を二人で眺めてから、庭の奥のベンチへ腰掛けた。


「先ほど、残しておきたいとおっしゃった顔は、いつもの笑った顔でしょうか」


 気になっていたことを尋ねると、エティエンヌ様は頷いた。


「ええ。君が私の話を聞いて、ああ、またおかしなことを言っている、と思っていそうな顔です」

「そんなこと、思っていません」

「持ち手が三つでも?」


 否定しきれず、私は笑った。

 彼が少し身を寄せる。肩が触れるほどではないのに、画室で並んでいたときより近く感じた。


「それです。続きを聞こうとしてくださるでしょう。自分でもうまく話せないなと思うとき、それを見ると、まだ話していていいんだとわかるんです」


 私は彼の前で、そんな顔をしているのだろうか。

 鏡を見ながらなら、綺麗に見える角度を探せる。けれど、彼の話を聞いている私を、私は一度も見たことがない。

 笑うと目が細くなる。口元も、気にしていなければ大きく緩む。それをずっと絵の中に残すのだと思うと、気恥ずかしかった。


「絵ですから、いつもより少し、綺麗な顔を残したかったんです」

「今日のクレールは、とても綺麗ですよ」

「それは、ありがとうございます。でも、笑いすぎると……」


 彼はそこで、首を傾げた。

 私の顔と、身につけた服を見る。真剣に考えているようだったので、続きを待った。


「笑っている君も、綺麗だと思っているので、私は困らないのですが」


 やはり、この方に相談してはいけなかったかもしれない。

 胸のあたりが温かくなって、ちゃんと考えられなくなる。

 私は膝へ目を落とした。朝、彼に見てもらいたくて選んだ刺繍の花が、日差しの中で光っている。願いどおりの言葉をもらったのに、顔を上げるのには少し勇気が要った。


「……今日は、あなたに見惚れていただきたかったんです」


 彼が膝の上の手を動かした。私の言葉を確かめるように、少しこちらへ身を寄せる。


「私に?」

「はい。絵を見た方に、綺麗な花嫁だと思っていただけたら、それも嬉しいです。でも、最初にそう思ってほしかったのは、あなたです」


 口に出すと、とても欲張りな願いに聞こえた。

 何も褒めてもらえなかったわけではない。会えば、よく似合うと言ってくれる。求婚された日にも、これからも隣にいてほしいと言われた。

 それでも今日は、いつもより少し、彼を驚かせたかった。二人が結婚する前の絵を見るたび、この日の私を好きだと思ってくれたら嬉しい。


「うまくいきましたか」


 尋ねると、彼はため息に似た息をついた。


「ええ。おかげで、何度も前を向くように叱られました」


 その言い方がおかしくて、私は顔を上げた。

 彼も笑っていた。眉のあたりから力が抜け、口元が少し片側へ上がっている。今の私だけに向けてくれる、いつもの顔だった。

 絵の中の彼には、その笑い方がなかった。


「エティエンヌ様は、どんなお顔を残したいですか」

「私の顔ですか。先ほどまでは、父のように頼もしく見えればと思っていました」

「今は?」


 彼は画室の窓へ目を向け、それから私へ戻した。


「君があの絵を見るとき、一緒に座っていて楽しかったと、思い出してくださる顔がいいです。描いていただく前から肩が凝っていた、という思い出だけでは困ります」


 私は、膝の上にあった彼の手へ、自分の手を重ねた。

 手袋は、画室の棚に置いたままだ。彼も外していたので、掌の温かさがそのまま伝わってきた。

 彼が一度私の手を見た。それから指を少し開き、落ちないように包んでくれる。


「私も、今のお顔が好きです。立派に座っていらっしゃるお顔も好きですけれど、あなたが私といて笑っていると、嬉しくなります」


 言い終えても、すぐには返事がなかった。

 彼は私の手を握り直した。その力が思ったより強くて、嬉しかったのだとわかる。しばらくして顔を上げたときには、口元にあった笑みが、さっきより大きくなっていた。


「そんなことを言ってくださるなら、ますます、君のほうを向いてしまいます」

「……私もです」


 絵のために、彼を見ないようにしていた。

 だって、彼を見ると、すましていられなくなる。嬉しいことも、おかしいことも顔に出て、鏡の前で練習した花嫁から、いつもの私へ戻ってしまう。

 でも、二か月後にこの方と結婚するのは、その私なのだ。

 私は繋いだ手を見てから、画室の開いた窓へ目を向けた。


「ねえ、エティエンヌ様。絵の中でも、お互いのほうを向いていては、いけないでしょうか」


 彼は少し驚き、それから窓の向こうのソニアさんを見た。


「伺ってみましょう。私は、そうできたら嬉しいです」


 * * *


 画室へ戻って頼みを伝えると、ソニアさんは二枚の紙を机へ並べた。母も額縁の見本を手に、隣室から戻ってくる。

 一枚は、最初に見せていただいた二人の配置案。もう一枚は、先ほど話していたときの、私の顔だった。

 小さな紙に、笑っている私がいる。練習した微笑みよりも、ずいぶん楽しそうだった。


「最初に拝見した、ご両親の絵に近い並び方で考えていましたけれど、お二人の絵ですから。ご希望を聞かせてください」


 私は紙から顔を上げた。

 両親の絵をお見せして、こんなふうにと頼んだのは、私だった。同じ並び方なら間違いがないと思っていたけれど、私たちは私たちの座り方を、選んでよかったのだ。


「二人とも顔が見えて、そのうえで、相手の顔も見られるようにしたいんです。正面へきちんと向くより、少し、こちら側へ……」


 エティエンヌ様へ体を向けてみると、ソニアさんは窓際の長椅子を指した。

 そちらに座ってみましょうと言われ、二人で移る。私はドレスの裾を整え、彼は私へ少し体を向けて腰を下ろした。

 ソニアさんが立つ場所を変え、私の肩の向きを少し直す。彼も、顎を引きすぎないようにと頼まれた。


「このくらいでしたら、お二人のお顔が見えます。今度は、見合っていただいて構いませんよ」


 先ほどまで何度も止められたことを、今度は許された。

 顔を上げると、すぐそこにエティエンヌ様がいる。彼もこちらを見ていた。目が合うと、どちらからともなく笑ってしまった。

 これでは今度もじっとしていられないと心配になったが、ソニアさんは、肩の位置が変わらなければ今は大丈夫です、と言ってくれた。


「手は、どこへ置けばよろしいでしょうか」


 彼が尋ねた。

 私は自分の膝を見て、それから、長椅子の上にある彼の手を見た。庭では自然にできたことなのに、母と画家の前では、ひどく大胆なお願いに思えた。


「繋いでいては、いけませんか」


 ソニアさんはすぐには答えず、二人の間の距離を見た。


「ええ、繋いでいただいて大丈夫です。お手がこちらからも見えるように、もう少し近くへお掛けください」


 彼が近くへ座り直す。

 上着の袖へ私の腕が触れた。顔を上げなくても、彼の体温がわかりそうな近さだった。

 差し出された手に私が手を重ねると、彼は指先を揃えて静かに受け止めた。


「握っても、よろしいでしょうか」

「もちろんです。乗せているだけでは、私が落ち着きません」


 彼が笑って、私の手を握った。

 今度は彼のほうからだった。嬉しくて握り返すと、彼の親指が私の指のつけ根へそっと添えられる。

 母が、額縁は茶色にしましょうか、とソニアさんに尋ねていた。いつもどおりの声だった。私たちの手を見ても、はしたないとは言わない。

 私はほっとして、それから少しおかしくなった。結婚する二人の絵なのに、好きな人のそばに座って嬉しいことまで、隠そうとしていたのだ。


「お母様は、お父様と描いていただいたとき、どうでした?」


 母は私たちを見て、片方の眉を上げた。


「お父様が、ずっと私のドレスを踏んでいたわ」

「まあ」

「お顔ばかり気になさって、足元まで余裕がなかったのね。絵を見れば思い出すけれど、あのときは言えなかったの。私まで緊張していたから」


 エティエンヌ様が、すぐに足元へ目を落とした。

 裾には触れていない。それを確かめている横顔を見たら、我慢できずに笑ってしまった。


「大丈夫です。踏まれたら、ちゃんと申し上げます」


 彼がほっとしたように頷いた。手は、繋いだままだった。


 ソニアさんが私たちの顔を交互に見ながら、紙へ線を重ねている。

 私はもう、口元を小さく保とうとはしなかった。彼と手を繋いで座っているのだから、にこにこしていても仕方がないと思った。

 彼が私を見て笑う。その顔を見ていると、綺麗にしてきてよかったと、改めて嬉しくなった。


「あと二か月ですね」


 エティエンヌ様が言った。

 今までも何度か聞いた言葉だった。結婚式の日取りを決めたとき、家具を選びに行ったとき、その日に持っていく荷物の話をしたとき。

 けれど、今の声は何かを決めるための声ではなかった。


「待ち遠しいですか」

「ええ。君をお送りしたあと、一人で帰らなくてよくなるでしょう」


 私は彼の手に少し力を込めた。

 帰りの馬車が来ると、もう一つ話せばよかったと思う。玄関で見送るときには、彼がまだ何か言い忘れていてくれたらいいのにと、ゆっくり挨拶をしていた。

 彼も同じことを考えていたのだと、握った手の近さと一緒に胸へ沁みた。


「私も、楽しみです。あなたが帰られたあとに、もうお会いしたくなることがあります」

「帰る前に、言っていただけたら」

「そうしたら、お帰ししたくなくなります」


 彼は笑いかけたまま、何かに困ったように眉を下げた。庭で私の言葉を聞いたときとも違う、嬉しさをどうしたらよいかわからないような顔だった。

 私はその顔を見て、彼が私と結婚することを、本当に楽しみにしているのだと感じた。知っていたはずなのに、もう一度好きになる。


「私も、君にそう思っていてほしかったです」


 低い声で言われて、私は頷いた。

 綺麗な花嫁に見てもらいたかった。この人が見惚れる顔でいたかった。けれど、その願いを持って座っていたのは、私だけではなかった。

 彼も、自分との結婚を待ちきれないくらい喜んでほしかったのだ。


「思っています。何度でも、申し上げます」


 彼は目を細め、それから少し俯きかけて、やめた。

 私を見ていてよいのだと思い出したように、視線を戻す。私は握られた手を引かず、彼の顔を見ていた。

 ソニアさんの木炭が紙を擦る音を、ずいぶん近くで聞いているのに、今は邪魔だと思わなかった。この顔を、残してくださるのだ。


 * * *


「今日は、このくらいにしましょう」


 そう声をかけられたとき、私はもう少し座っていてもよいと思った。エティエンヌ様が立つ前に手を緩めたので、私も名残惜しく指をほどく。

 彼の腕を借りて立ち上がり、今度は絵を見るために隣へ並んだ。

 ソニアさんは、二人の顔を描いた紙を、ほかの紙と分けて机へ置いた。完成の絵とは違って、服も背景も描かれていない。それでも私は、そのうちの一枚から目を離せなかった。

 エティエンヌ様の顔だった。


「……こんなに、笑っていらしたんですね」


 隣の本人は、紙を覗き込んで黙った。

 頬の線が緩んで、目元が優しい。立派な伯爵家の後継ぎとして座ろうとしていた人が、好きな相手の返事を聞いて、嬉しくなってしまった顔。

 私はこれを、今まで何度も見せてもらっていたのだろう。自分も嬉しくて、胸がいっぱいで、後から形を思い出そうとしてもうまくいかなかった顔だ。


「この顔で、君の隣に座っていたんですね」

「はい。私、何度も見たくなります」


 彼はもう一度、紙の中の自分を見た。端のほうへ手を伸ばしかけ、描かれた線に触れないよう、途中で止める。


「そう言ってくださるなら、この顔で描いていただけてよかったです」


 ソニアさんは、これをもとに絵の中の表情も描いていくのだと教えてくれた。

 完成を待つ楽しみが増えた。それでも、目の前のこの小さな紙を、もう一度見たいと思った。服も背景もないぶん、彼が私を見て笑ったところだけを、そっと分けてもらえるような気がした。

 私はソニアさんへ向き直った。


「本画ができたあと、この紙も、いただくことはできますか」

「ええ。制作の間は手元に置かせていただきますが、ご希望でしたら、完成の絵と一緒にお渡しします」

「ありがとうございます。ぜひ、お願いします」


 エティエンヌ様が、私の顔を描いたほうの紙を指した。


「では、こちらの紙も一緒に、お願いできますか。私も、クレールの顔を見ていたいので」


 ソニアさんが承知すると、彼は安心したように頷いた。

 私は自分の笑っている顔を見た。鏡の前で作った顔よりも、少し子供っぽいかもしれない。それでも、隣の彼がこれを欲しがってくれることが、たまらなく嬉しかった。


 次に座る日を二人で確かめ、棚に置いてあった手袋を取り、母の待つ玄関へ向かった。

 今度も同じドレスで来るようにと頼まれたので、袖口を汚さないようにしなければならない。彼も上着を確かめ、二人で顔を見合わせた。


「次は、最初からこちらを向いていてよろしいのですね」


 彼の確認に、私は頷いた。


「はい。私も、あなたを見ていますから」


 彼が差し出した腕へ、自分から手を添えた。

 今日は何度も、見ないでくださいと言いかけた。それなのに、帰り道では、こちらを向いてもらうたびに嬉しくなった。


 * * *


 それから二度、私たちはソニアさんの画室へ通った。

 同じ服を着て、同じ長椅子へ座る。首や肩の位置を直していただくことはあったが、もう、彼に前を向いてほしいとは頼まなかった。

 ただ、一度だけ、あまり面白い話をしないでくださいとはお願いした。笑いすぎて肩が動き、私のほうが何度も座り直すことになったので。

 完成した絵が新居へ届いたのは、結婚式の少し前だった。


 母が選んだ落ち着いた茶色の額の中で、私たちは手を繋いでいた。

 彼の目は私へ、私の目は彼へ向いている。どちらの顔も見えるのに、絵を見ている人へ挨拶をするつもりは、二人ともあまりなさそうだった。

 両家の人たちに見てもらうと、エティエンヌ様のお父様が、ずいぶん楽しそうだな、と笑った。彼は少し姿勢を正したが、そのとおりです、と答えた。

 私も、はい、と続けた。あの日の私があんなに気にしていたことを、誰も困ったことだとは思わないようだった。


 式を終え、二人の暮らしが始まってからも、その絵は居間に掛かっている。

 窓から入る朝の光が届く壁を、二人で選んだ。小さな顔の素描は、一組にして、私の書き物机のそばへ置いた。私だけのものにしないでほしいと言われたので、彼からもよく見える向きにしてある。


 ある朝、私は出かける支度を済ませた夫と、居間で絵を見上げていた。

 あの日の緑のドレスを、また着たいと話しているところだった。彼が賛成したので、次に二人で招かれている食事会に着ていこうと思った。


「このお顔、今も好きです」


 絵の中の彼を見ながら言うと、隣で手が動いた。

 私の指に彼の指が触れ、そのまま繋がれる。絵と同じだと思って顔を上げると、彼は絵ではなく、私を見ていた。


「今のクレールの顔も、好きですよ」

「絵のお話をしていたんですけれど」

「ええ。でも、君が隣にいるので」


 返す言葉を探しているうちに、笑ってしまった。

 私は繋いだ手を少し引き、彼へ近づいた。今度は画家も母もいない。背筋を伸ばす必要も、肩の位置を気にする必要もなかった。

 彼が顔を寄せるのを待たずに、私から頬へ口づけた。


「いってらっしゃいませ。今日も、早く帰ってきてくださいね」


 彼が嬉しそうに、けれど少し困ったように私を見た。


「そう言われると、出かけるのが惜しくなります」

「お帰りのときにも、もう一度しますね」


 彼は私の手を握ったまま、もう一度顔を近づけた。

 今度は唇に短く触れられて、私のほうが黙ってしまう。彼はそれを見て笑い、夕食は一緒に、と約束してくれた。

 私は玄関まで見送り、彼が振り返るのを待った。

 目が合うと、二人とも笑ってしまった。もう、前を向いてくださいとは言わなかった。

面白かったら、評価・ブックマーク頂けるとうれしいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。