十年眠っていたスキル【配信】が、異世界ダンジョンから日本に繋がった 〜え、ドラゴンって日本だと災害なんですか?〜
異世界に来て、ちょうど十年が経った朝。目の前に、半透明の板が浮かんでいた。
《スキル【配信】の起動条件を満たしました》
《接続先を検索しています……》
《接続先が確定しました:地球/日本》
《配信を開始しますか? はい/いいえ》
俺は寝ぼけ眼のまま、その文字列を三回読んだ。
それから、朝飯の麦粥をかき混ぜていた木の匙を、鍋の中に落とした。
俺の名前は相沢透。二十七歳。元・日本の高校生で、現・ハルネ村の荷運び兼なんでも屋だ。
十七歳の春、学校帰りに横断歩道を渡っていたら、足元が抜けた。比喩じゃない。本当に地面がなくなって、落ちて、気づいたら知らない森の中にいた。
トラックも女神様も出てこなかった。説明もチュートリアルもなし。あったのは、頭の中にいつの間にか刻まれていた、たったひとつのスキルだけ。
【配信】。
村の神殿で鑑定してもらったとき、神官のじいさんは三日三晩文献を漁ったあげく、申し訳なさそうにこう言った。
「神々に何かを捧げる、祭祀系のスキル……のように思えるが、前例がない。すまんが、何もわからん」
実際、何も起きなかった。念じても、叫んでも、逆立ちしても。十年間、うんともすんとも言わなかった。
だから俺はこのスキルのことを、ほとんど忘れかけていた。
それが今、目の前で光っている。
「……はい、で」
指先で《はい》に触れた瞬間、ぽん、と軽い音がして、拳くらいの光の球が俺の顔の横に浮かんだ。同時に、板の表示が切り替わる。
《配信中》
《タイトル:無題の配信》
《同時接続数:0》
その下には、空っぽの細長い枠。
なんだろう、これ。どこかで見たことがある気がする。
首をひねっていると、数字が「0」から「1」に変わった。
そして、空っぽだった枠に、ひとつめの文字が流れた。
:?
疑問符がひとつ。たったそれだけ。
なのに、俺の心臓は跳ね上がった。続けて、もう一行。
:なにこれ。新しいVの人?
読めた。
読めてしまった。この世界の文字じゃない。十年間一度も見ていない、ひらがなとカタカナと漢字が、当たり前の顔をしてそこに並んでいる。
「にほん、ご……」
声が震えた。
「日本語だ……!」
:え、泣いてる
:どうした兄ちゃん
社畜のサトウ:終電でたまたま開いたら、知らない兄ちゃんがお粥の前で泣いてて草
「く、草……?」
草ってなんだ。植物か。
いや、そんなことはどうでもいい。日本語だ。誰かが日本語で、俺に話しかけている。
慌てて袖で目元をぬぐい、光の球に向き直る。たぶん、これがカメラなんだろう。
「す、すみません。取り乱しました。えっと、はじめまして。あいざ……あ、いや、トオルです」
とっさに名字を飲み込んだのは、ネットに本名を出すなという十年前の常識が、まだ体のどこかに残っていたからだ。
顔はとっくに映っているじゃないか、と気づいたのは、だいぶ後になってからだった。……まあ、十年で背も伸びたし、日焼けもしたし、肩幅だって倍くらいになった。十七歳のころの面影なんて、さすがにもう残っていないだろう。
:はじめまして
:釣り乙
:コスプレの完成度高いね。どこのスタジオ?
社畜のサトウ:背景の木の家、めっちゃいい雰囲気。どこで撮ってるん?
「どこ、っていうと……ハルネ村、ですかね。『終の大迷宮』っていうダンジョンのすぐ隣の」
:ダンジョンw
:そういう設定ね、了解
:RP勢か。嫌いじゃない
設定じゃないんだけどな、と言いかけて、やめた。
逆の立場なら、俺だって信じない。十年前の俺なら「釣り乙」で終わらせていたはずだ。
それに正直なところ、信じてもらえるかどうかはどうでもよかった。日本語が読める。日本語で返事が来る。それだけで、胸がいっぱいだった。
「あの、もしよかったらなんですけど」
気づけば、そう口にしていた。
「俺、これから仕事でダンジョンに潜るんです。……一緒に、来ます?」
:行く
:暇だし見てく
社畜のサトウ:最寄り駅まであと二十分あるから付き合うわ
同時接続数、3。
十年ぶりにできた、日本の話し相手だった。
◇ ◇ ◇
仕事の内容は、村の宿屋のマーサ婆さんから昨日のうちに頼まれていた。
「明後日の収穫祭で使うからね。下層のトカゲの尻尾、三本ばかり取ってきておくれ」
マーサ婆さんは、こっちに来てすぐ森で行き倒れていた俺を、拾ってくれた人だ。
「今日の仕事は、収穫祭で使うトカゲの尻尾を取ってくることです。頼んできたのは、宿屋のマーサ婆さんっていう人で。俺の恩人なんですけど、八十二歳で、今でも薪を手刀で割るんですよ」
:手刀で薪割り?
:婆さん強くて草
「村だと普通ですよ。村の人はみんな、そのくらいできますし」
言ってから、あ、日本だと普通じゃないのか、と気づいた。十年も村にいると、そのへんの物差しがすっかり村のほうに寄ってしまう。
背負い籠に縄と布袋を詰めて、鍛冶屋のゴルドさんに打ってもらった鉈を腰に差す。ついでに鍋と調味料も放り込んでおく。昼は向こうで食べるつもりだ。
「あ、この籠は村の雑貨屋で買った、ごく普通のやつです。見た目より、少しだけ多めに入るんですよ」
:少しってどのくらい?
「えっと……家一軒ぶんくらいですかね」
:少し???
:四次元籠
:それ収納魔法ってやつでは
:村の雑貨屋の「普通」が信用できない
:今さらだけど画質よすぎない?
:カメラどこ? ドローン?
「カメラは、たぶんこの光の玉です」
顔の横に浮かんでいる光の球を、指でつついてみる。ぽよん、と揺れた。
:画面揺れた
:つつくなw
:カメラ本体だった
「俺のスキルなんです。【配信】っていうんですけど、十年間うんともすんとも言わなくて、今朝いきなり動いたんですよ」
:スキル(真顔)
:作り込みがすごい
:配信者が「スキル【配信】」って言うの、メタすぎて好き
村を出てなだらかな丘を下ると、すぐに迷宮の入り口が見えてくる。黒い岩肌にぽっかりと開いた、大型の馬車でも通れそうな洞窟だ。
入り口の脇には、子どもの字で「あそぶときは くらくなるまえに かえること」と書かれた立て札が刺さっている。
:立て札ww
:公園かな?
:てか、知らない文字なのになんで読めるんだろ。字幕?
言われてみれば、と俺は首をかしげた。立て札に書いてあるのはこっちの文字だ。なのに視聴者には、なぜか日本語で見えているらしい。
【配信】の機能のひとつなんだろうか。親切なスキルだ。十年黙っていたことを除けば。
洞窟に入ると、ひんやりした空気と一緒に、ぷるぷると揺れる半透明の塊が出迎えてくれた。
「あ、スライムです。おはよう」
しゃがんで、ぺたぺたと撫でる。ひんやりして気持ちいい。
スライムは嬉しそうに体を震わせると、俺の足元に転がっていた魔猪の骨に覆いかぶさった。
じゅっ。
骨が消えた。三秒もかからなかった。
:え
:今の骨、溶けた?
:一瞬で消えたんだが
:そいつ撫でて大丈夫なやつ???
「大丈夫ですよ。こいつら、ダンジョンの死骸とかゴミを片付けてくれるんです。掃除屋さんですね。ただ、機嫌が悪いときに触ると指が二、三本なくなるので、そこだけ気をつけてください」
:気をつけるの「そこだけ」でいいの?
:指が二、三本なくなるのは「そこだけ」の範疇じゃない
社畜のサトウ:うちの上司より話が通じそう
しばらく進むと、通路の真ん中に宝箱が置いてあった。木製で、金具が錆びていて、いかにも「何か入っています」という顔をしている。
:宝箱だ!
:開けて開けて
:これはテンション上がる
「あー、これは開けちゃダメなやつです」
俺は宝箱の前に立って、こんこん、と蓋をノックした。
こんこん、と中から返事があった。
:!?
:中から返ってきた
:入ってますwww
:トイレかよ
「ミミックですね。上層の宝箱はだいたいミミックなので、開ける前にノックするのがマナーです。返事がなかったら本物の宝箱。返事があったらお休み中なので、そっとしておきます」
:ダンジョンにマナーがある
:ノックしないで開けたらどうなるの
「頭からかじられます」
:マナーの話から急に殺意出てきた
:マナー違反のペナルティが重すぎる
:ダンジョンのマナー講師、命がかかってる
ミミックに会釈して、先へ進む。
上層は道幅が広くて歩きやすい。ただ、床石のところどころが浮いているので、そこは跨いでいく。
「あ、ここ段差になってるので気をつけてください」
言いながら跨いだ足の下で、かち、と小さな音が鳴った。
左右の壁から、半月型の刃が唸りを上げて飛び出してくる。首の高さだ。俺は膝の力を抜いて、すとんと真下にしゃがみ込んだ。刃は頭の上をかすめて反対側の壁に吸い込まれ、また静かになった。
「……っと、踏んじゃった。ここのは錆びてるので、かすると破傷風になるんですよね」
:????
:いま何が起きた
:なんか光った?
ダンジョン考察班:0.25倍速で見返した。首の高さで刃が二枚交差してる。この人、カチッて音を聞いてから膝を抜いて、それで間に合ってる
:心配するとこそこ? 破傷風??
:首と破傷風なら首を心配してほしい
「首……? ああ、でも、当たらなければ大丈夫なので」
:当たらなければどうということはない、を地でいく人
:赤い彗星かな
:CGだとしても演出のテンポが神
:どうせやらせ。刃はワイヤーで吊ってるだけ
少し先では、通路の床が五メートルほどにわたって、ぽっかりと抜けていた。覗き込むと、底には錆びた槍がびっしりと上を向いて並んでいる。
「ここは子どもたちの幅跳びの練習場ですね。俺もよく練習しました」
助走もつけずに、ひょいと跳び越える。
:幅跳び(落ちたら串刺し)
:練習場の安全対策ゼロ
:体育の授業でこれやったら保護者会が開かれる
:「よく練習しました」って、つまり落ちたことあるのでは
「三回くらい落ちました。あ、でも、そのときは槍のほうが折れたので大丈夫でした」
:槍のほうが折れた???
:大丈夫の基準がおかしい
:この時点でもう人間やめてる説
そのとき、通路の奥から甲高い声が響いてきた。
「トオル兄ちゃーん!」
振り返ると、村の子どもたちが三人、こちらに手を振っていた。……正確には、二人は手を振っていて、一人はワイバーンの背中に乗っていた。
灰色の翼竜が子どもを乗せたまま、狭い通路を器用に飛び回っている。
「おー、ミーナ、また乗ってるのか。落ちるなよ」
「へーき! 今日は鬼ごっこでね、あたしが鬼なの!」
ミーナは翼竜の首をぺちぺち叩きながら、俺の顔の横の光の球を指さした。
「ねえ、それなあに? 光ってる!」
「神様に見てもらってるんだよ」
日本の人たちに、と言っても通じないので、神官のじいさんの説明を借りた。嘘ではない、はずだ。
「すごーい! 神様ー、こんにちはー!」
:こんにちは
:こんにちはー!
:ワイバーンで鬼ごっこは聞いたことない
:鬼側の戦力が過剰
社畜のサトウ:子ども用の乗り物がワイバーンの村
ミーナはこっちの言葉でしゃべったのに、ちゃんと通じている。声にまで日本語の字幕がついているらしい。
「村の子は、だいたい五歳くらいでワイバーンに乗れるようになるんですよ。俺は乗れるまで三年かかったので、ちょっと恥ずかしいんですけど」
:三年かかったことを恥じてる
:比較対象が五歳児
:この村の基準どうなってんの
「どうって……村だと普通ですよ。俺なんか、村の中じゃ下から数えたほうが早いです。いまだにマーサ婆さんとの腕相撲、勝ったことないですし」
:婆さんの戦闘力が気になってきた
:八十二歳(手刀で薪割り)(腕相撲無敗)
:ラスボスは婆さん
子どもたちに手を振って別れたあと、ふと気づいた。
さっきまで「3」だった同時接続数が、いつの間にか「48」になっている。
:増えてて草
:SNSで回ってきた
:「ギロチンをしゃがむだけで避けるお兄さん」で回ってきました
:切り抜き職人、仕事が早い
「きりぬき……?」
俺が首をかしげている間にも、数字はぐんぐん増えていく。
48。112。340。
そして、1,000を超えた。
◇ ◇ ◇
:初見です
:トレンドから来た
:#ダンジョン兄さん ってタグできてるぞ
:海外勢もいる
:WTF is this
:Is this real???
:CG? リアルタイムでこのクオリティは無理だろ
「あ、はじめましての人が多いので、改めて。トオルです。十年前の春、十七のときに、日本からこっちに落ちてきました。今は、ダンジョンの隣の村で荷運びをやってます」
:自己紹介が異世界転移
:落ちてきたって何
:十年前ってことは2016年か
コメントの流れが、目で追えないくらい速くなった。
同時接続数が5,000を超えたあたりで、俺は数字を見るのをやめた。見ていると手が震えてくる。村の人口が二百人ちょっとだから……もう、村何十個分だろう。
「えっと、あの、いっぱい来てくださってありがとうございます。すみません、コメントが速すぎて全部は読めないんですけど」
:律儀
:腰が低い
:ギロチン避けたとは思えない腰の低さ
:どうせ仕込み。登録者稼ぎ乙
「あと、さっきから何回か出てくる『草』ってなんですか?」
聞いた途端、滝みたいに流れていくコメントの中から、いくつかの行がふわりと浮き上がった。浮き上がった行は少しだけ大きくなって、俺の目の前でぴたりと止まる。
:草は「笑」って意味
:wwwが草に見えるから草
……なるほど。知りたいことに答えてくれるコメントだけが、こうやって止まってくれるらしい。【配信】の機能なんだろう。
親切なスキルだ。十年黙っていたことを除けば。(二回目)
:え、草を知らない……?
:もしかして本当に十年前から来たのでは
「ああ、wのことか! なるほど、確かに草っぽい。じゃあ、えっと……ワロタ、みたいな?」
:ワロタは草
:懐かしい言葉が出てきた
:平成の香りがする
「え、ワロタってもう使わないんですか?」
:死語です
:お兄さん、時が止まってる
「マジか……マジ卍……」
:マジ卍はまずい
:マジ卍wwwww
:生のマジ卍、久しぶりすぎる
:十年前に転移したって設定、解像度高すぎない?
ダンジョン考察班:マジ卍は2016年ごろから使われ始めた言葉。転移が2016年の春なら、ギリギリ知っていてもおかしくない。設定が細かい
設定じゃないんだってば。
でも、それはそれとして、俺には知りたいことが山ほどあった。
「あの、じゃあ、ずっと気になってたこと聞いてもいいですか。ポケモンの、スマホで歩き回るゲームが出るって話あったじゃないですか。あれ、出ました?」
:ポケモンGO?
:十年前に出たよ
:まだやってる人いっぱいいる
:近所の公園、昼間はおじいちゃんたちがスマホ持って歩いてるよ
「出たんだ……! よかった……。俺、あれ本当に楽しみにしてて……」
:泣くな泣くな
:ポケGOで泣く人はじめて見た
:これ、マジで本物だったらつらすぎない?
「あと、最初に言われた『Vの人』ってなんですか?」
:VTuberを知らない世代……
:Vの元祖が出てきたの、2016年の年末だもんな
:お兄さん、ギリギリ間に合ってない
:簡単に言うと、アニメの絵の姿で配信する人
「アニメの絵で……? ああ、初音ミクみたいな感じですか? それを個人が、しかも生配信でやってるんだ。すごいな、日本」
:ミクで例えるの、世代が出てる
:だいたい合ってる
:お前が言うな
:ダンジョンから配信してる人に言われたくない
:ついでに今の言葉も覚えてって
:「えぐい」は「すごい」って意味で使う
:「それはそう」は全面同意
:「助かる」は、ありがたいものを見たとき
「えぐい、それはそう、助かる……」
指を折りながら繰り返す。久しぶりの日本語の勉強だ。こっちの言葉を覚えたときに比べたら、ずいぶん楽だった。
「えっと、じゃあ……みなさんが来てくれて、助かる。日本語、えぐい」
:使い方が微妙に惜しい
:かわいいから許す
:それはそう
:外国人の日本語学習を見守る気持ちになってきた
そこからしばらく、俺は質問攻めにした。
今のスマホはどうなってるのか。コンビニのからあげの値段はいくらか。俺が好きだった漫画は完結したのか。
答えが返ってくるたびに、十年分の空白が少しずつ埋まっていく気がした。からあげは五十円ほど値上がりしていて、漫画は完結していて、スマホは折りたためるようになっていた。
日本はちゃんと、俺がいなくても回っていた。
当たり前のことなのに、それが妙に嬉しかった。
:てか、さっきから全部本物っぽいんだけど
:CGだって。CGに決まってる。……決まってるよな?
ダンジョン考察班:リアルタイムかどうか検証したい。今から書く数字を、その場で地面に書いてもらえる? 「4729」
「いいですよー」
手頃な岩の前にしゃがんで、人差し指で「4729」となぞった。指の動きに合わせて、岩の表面がさくさくと削れていく。
:指で岩に彫ってて草
:そこはペンとかじゃないんだ
:岩が粘土みたいになってる
ダンジョン考察班:……コメントを打ってから表示まで、二秒。少なくとも、録画を流してるだけじゃない。ただ、リアルタイムCGの可能性はまだ消せない
:考察班ニキが黙った
:録画じゃないってことは……まさか本物?
:いや、リアルタイムCGって言ってるだろ
:本物ならステータスとか見れるの?
:ステータスオープンって言って
「ステータス? ああ、見れますよ。神殿でもらう鑑定板があるので」
籠の底から、手のひら大の石板を引っぱり出す。指で触れると、表面に文字が浮かび上がった。
《トオル 二十七歳》
《職業:荷運び》
《レベル:412》
《称号:迷宮を歩く者/竜の稽古相手/ハルネ村の末っ子》
:レベル412
:ゲームでも99でカンストなんよ
:四桁一歩手前
:称号に不穏なのが混じってる
:竜の稽古相手ってなに
:ハルネ村の末っ子かわいい
「あ、でも、村だと低いほうですよ。マーサ婆さんなんか、四桁あるらしいですし」
:婆さん四桁
:やっぱりラスボスじゃん
:この村、魔王軍の最終防衛ラインか何か?
「魔王軍……は分からないですけど、一回、王都から『Aランク冒険者』っていう人たちが来たことはありますよ。国でいちばん強いパーティーなんだって、すごく自信満々で」
懐かしい話だ。五年くらい前だったか。ぴかぴかの鎧を着た四人組で、村の酒場で「終の大迷宮を踏破してみせる」と息巻いていた。
「でも、上層の十層あたりで、四人とも気絶しちゃって。俺が担いで帰ったんです」
あのときは、なんだか懐かしい気持ちになった。
「王都の人たちって、こっちに来たばっかりのころの俺くらいなんだなあって。俺も最初の一年は、上層で毎日気絶してましたし。誰でも最初はそうですよね」
:それお前の村がおかしいんだよ
:国最強(上層十層で気絶)
:国最強が「昔のお兄さん」扱い
:Aランクを担いで帰った荷運び
:自分も通った道だと思ってるから疑わないのか
:気づいて
:誰か気づかせてあげて
気づく、って何にだろう。
首をかしげている間にも、コメント欄は「CGだ」派と「本物だ」派で真っ二つに割れはじめた。
俺としては、どっちでもよかった。
どっちにしても、ここには日本語で話しかけてくれる人がいて、俺の話を聞いてくれる人がいる。それだけでいい。
中層に入ってすぐ、通路の向こうから見慣れた影がやってきた。
背丈は俺の胸くらい。その代わり、横幅は俺の倍くらいある。もじゃもじゃの髭を三つ編みにした、鍛冶屋のゴルドさんだ。肩には、小屋くらいの大きさの、角の生えた黒い牛を担いでいる。
「おう、トオル。鉈の具合はどうだ」
「完璧です。今日もよろしくお願いします」
「今夜は牛鍋だ。尻尾取ったら寄ってけ」
ゴルドさんはそう言うと、俺の顔の横の光の球をじろりと見た。
「なんだそりゃ」
「神様が見てるんです」
「そうか」
ゴルドさんは少し考えてから、光の球に向かって、ずいっと顔を寄せた。
「神様。うちの鉈は一本銀貨三枚だ。刃こぼれしたら無料で研ぎ直す」
:宣伝された
:ドワーフだ! 本物のドワーフだ!
:担いでるの牛じゃなくてベヒーモスでは
:牛鍋(具材:ベヒーモス)
:神に営業かけるドワーフ
:銀貨三枚って日本円でいくら?
:アフターサービスまでしっかりしてる
ゴルドさんと別れて、もう少し歩く。
そうこうしているうちに、通路の雰囲気が変わってきた。壁の色が黒っぽい赤に変わり、空気がじっとりと熱を帯びる。床のあちこちに、焦げたような跡。
「あ、そろそろ下層ですね。ここから六十一層です」
:今まで何層だったの
「三十層くらいまでが上層で、子どもの遊び場ですね。三十一層から六十層が中層で、大人の狩り場。で、ここから下が下層です」
:子どもの遊び場(ワイバーン在住)
:さっき光る床みたいなの踏んでなかった? 一瞬で景色変わったよね
「あ、近道です。村の人しか使えないやつ」
:村人専用ショートカット
:ダンジョンを通勤路にしてる
通路の先が、急に開けた。
ドーム状の広大な空間。天井は見上げても霞むほど高く、地面には溶岩の川が流れている。
その真ん中で、巨大な影が身を起こした。
赤い鱗。四本の脚。背中には折りたたまれた皮膜の翼。全長は、ざっと三十メートル。金色の瞳が、俺をじろりと見下ろした。
「あ、いたいた」
俺は籠を背負い直した。
「トカゲです」
:ドラゴンじゃねーか!!!!!!
:トカゲ(全長30m)
:どう見てもドラゴンです本当にありがとうございました
:お兄さん、日本だとそれは「ドラゴン」って言うんだ
:災害です
:自衛隊案件
元自衛官:……災害派遣でどうにかなる案件ではない
「え、ドラゴンって日本だと災害なんですか?」
:そうだよ!!!
:「え」じゃないんだよ
:逆にそっちでは何なんだよ
「収穫祭のごちそうです」
同時接続数の表示が、ぐるん、と桁をひとつ増やした。
十万人。
◇ ◇ ◇
そういえば、日本にいたころの俺なら、こいつを迷わず「ドラゴン」と呼んでいただろう。村ではみんな「トカゲ」と呼ぶから、すっかり染みついていた。
その赤いトカゲが、大きく口を開けた。
喉の奥が、ちかちかと赤く光る。
:ブレスくる
:逃げて逃げて逃げて
:画面越しでも熱そう
「あ、すみません、ちょっと手が離せなくなるので、コメント読めなくなります」
俺は一歩、前に出た。
ごう、と炎があふれた。
視界が真っ赤に染まる。……というほどでもない。上層の子どもたちが火の玉を投げ合って遊んでいるのと、まあ、規模が違うくらいだ。
俺は炎の中を真っ直ぐ歩いて抜けると、トカゲの脇をすり抜け、背後に回り込んだ。
狙いは尻尾。付け根から二メートルくらいのところ。そこがいちばん脂が乗っていて美味い。
「ちょっと、もらいますね」
腰の鉈を抜いて、一閃。
ずしん、と地面が揺れた。丸太みたいな太さの尻尾が、溶岩の川べりに転がる。
トカゲは「ギャッ」と短く鳴いて、慌てて天井の穴へと飛び去っていった。
:え
:は?
:今、炎の中歩いてなかった?
:ブレスの中を歩いて抜けて、尻尾切って、ドラゴンが逃げた
:情報量が多すぎる
:ドラゴン、ギャッて言った。かわいそう
:尻尾切られて逃げるの、完全にトカゲムーブで草
「あ、安心してください。尻尾はまた生えてくるので。一頭から取るのは一本だけ、っていうのが村の決まりなんです。取りすぎると来年困るので」
:持続可能なドラゴン
:資源管理がしっかりしてる
:かわいそうって言ったの撤回する。いや撤回しない
:普通に動物虐待では? 通報した
:どこに通報するんだよ
:異世界の動物愛護団体
「あ、ちゃんと村長の許可はもらってます」
:そういう問題か?
:狩猟免許はある、みたいな顔で言うな
残り二本も同じ要領で集めて、籠に入れた。丸太みたいな尻尾の先を籠の口に当てると、するするっと、蕎麦でもすするみたいに吸い込まれていく。
:入った
:三本とも入った
:籠より尻尾のほうが太いのに
:四次元籠、本当に四次元だった
少し早いけど、ここでお昼にする。下層に着くころには、いつもだいたい腹が減っているのだ。溶岩の川べりは、火を起こさなくていいから便利でもある。
尻尾の端を厚めに切って、塩と、村で採れる香草を擦り込む。溶岩で熱した平たい石の上に乗せると、じゅうう、と脂の弾ける音がした。
:飯テロ始まった
:ドラゴンステーキ……
:くそ、深夜なのに腹減ってきた
:音がずるい
:ASMR配信に切り替わった
「いい感じに焼けてきました。……いただきます」
かぶりつく。表面はぱりっと香ばしくて、中はふっくら柔らかい。噛むほどに、甘い脂が口の中に広がっていく。
「んー……!」
:食レポ求む
:味は? 味はどうなの?
:何に似てる?
「えっと……鶏ももと、うなぎの間、みたいな感じですかね。脂は甘いけど、しつこくなくて。あ、あと、ちょっとだけ魔力が強いので、慣れてない人が食べると三日くらい空を飛べるようになります」
:副作用がファンタジー
:三日間飛べるの普通に欲しい
:鶏ももとうなぎの間、めっちゃ美味そう
:通販してくれ
:ドラゴンの尻尾って密輸したら何の罪になるんだろう
「あ、よかったら神様たちもどうぞ」
いちばんいい焼き加減のところを切り分けて、光の球の前に差し出してみる。
……何も起きなかった。肉は肉のまま、俺の手の上で湯気を立てている。
:画面越しに食べさせようとするな
:気持ちだけもらっとく
:優しさが次元を越えようとしてる
:くそ、匂いだけでも届いてくれ
「ですよね」
ちょっと残念に思いながら、自分で食べた。美味かった。
お腹が落ち着いたところで、改めてコメントを見る。同時接続数は、二十万人を超えていた。
「えっと、仕事も終わったので、そろそろ帰ろうかと思うんですけど……何か見たいものとか、あります?」
:もっと奥!
:一番強いやつ見たい
:深層とかないの?
:ラスボスはよ
:婆さん見たい
:婆さん(ラスボス)
「一番強いやつ、ですか……。九十一層から下は深層っていって、村でも『危ないから入るな』って言われてるんですけど——」
言いかけて、思い出した。
「あ、そういえば。今日、ちょうどクロさんとの手合わせの日だった」
:クロさん?
:誰
:猫?
「深層に住んでる知り合いです。毎週この日に、稽古をつけてもらってるんですよ」
:深層って危ないんじゃなかったの
:知り合いがいる時点でおかしい
「十九のときに、うっかり迷い込んじゃったんですよ。それで食べられかけたんですけど、なんか『面白い小僧だ』って気に入られて。それから毎週、稽古の相手をしてもらってます。最初の三年は毎回骨が折れてましたけど、最近はたまにしか折れないです。あ、折れた骨は、その場でクロさんが治してくれるんですよ。治したら、もう一本」
:治してから折るな
:スパルタの極み
:アフターケアまで含めて稽古なのか
:たまには折れるんだ
:食べられかけた相手と毎週会ってる
:師匠キャラだ
:「面白い小僧だ」って言う生き物、だいたい強い
「じゃあ、ちょっと行ってみましょうか」
籠を背負い直して、懐から転移石を取り出す。九十五層への直通だ。握り込むと、視界がぐにゃりと歪んだ。
——空気が、変わった。
重い。肌にまとわりつくような、濃密な魔力。足元は黒い岩盤で、光源らしい光源はないのに、なぜか全体がぼんやりと明るい。
九十五層は、層というより、地下にもうひとつ世界があるような場所だ。黒い大地がどこまでも続いていて、遠くには地平線が見える。天井は、見上げてもうっすらと霞むほど高い。
その大地の奥に、山があった。
いや、山じゃない。山だと思ったものが、ゆっくりと動いた。
黒鉄色の鱗。ひとつひとつが家の屋根くらいの大きさで、それが見渡すかぎり続いている。やがて、山の頂上だと思っていた場所が持ち上がって、こちらを向いた。
金色の目。片方だけで、さっきのトカゲがまるごと入りそうな大きさだった。
《——来たか、小僧》
頭の中に、直接声が響く。地鳴りのような、低い声。
「おはようございます、クロさん。今日もよろしくお願いします」
:
:
:え
:でっっっっっっっか
:山がしゃべった
:クロさんってこれ????
:猫じゃなかった
:画面に収まってない
:地平線見えてるんだけど、ここ地下だよね?
:声が字幕で出てるのなんで
元自衛官:……目算で、全長二キロメートル以上
《……なんだ、その光る玉は》
「あ、これ、俺のスキルなんです。今、神様たちに見てもらってて」
《神の目、か》
クロさんの金色の目が、すうっと細まった。光の球——その向こうにいる何十万人もの視聴者を、じっと値踏みするように。
《面白い。神々が見ておるというなら、無様な姿は見せられんな。……小僧。今日は、少しばかり本気でいくぞ》
:え
:やめて
:本気出さないで
:お兄さん逃げて
:煽ったの俺らのせい???
「わあ、本当ですか! ありがとうございます!」
:喜ぶな
:嬉しそうにすんな
:稽古の概念が壊れる
クロさんの巨体が、ゆっくりと持ち上がった。
それだけで、空間全体が震えた。はるか上の霞の向こうから、家ほどもある岩がぱらぱらと降ってくる。足元の岩盤に、ひびが走る。
黒い顎が開く。喉の奥に、光が集まっていく。さっきのトカゲの炎とは違う。赤でも青でもない。何もかもを塗りつぶすような、真っ黒な光。
《——〈終焉の吐息〉》
黒い奔流が、世界を呑み込んだ。
俺は鉈を構えようとして——やめた。さすがにこれを鉈で受けたら、刃が欠ける。ゴルドさんに怒られる。
代わりに、籠からさっきの鍋の蓋を取り出した。
「これでいっか」
鍋の蓋を盾がわりに構えて、黒い光の真正面に立つ。
衝撃。腕がじんと痺れる。
この鍋の蓋は、不思議なことに、構えると蓋より広い範囲までちゃんと守ってくれる。光の奔流は俺の手前でまあるく押し返されて左右に割れ、俺の背後の大地を、遠くに見えていた山ごと削り取っていった。
十秒くらいで、光が止んだ。
見回すと、あたり一面の岩盤が深く抉れて、俺の立っている場所だけが、丸く切り取られた台みたいにぽつんと残っていた。
鍋の蓋を下ろす。ちょっと焦げていた。
「あー……あとで磨かないと。でも、さすがゴルドさんの鍋の蓋。丈夫だなあ。あ、ゴルドさん、鍋も打ってくれるんですよ」
コメント欄が、止まっていた。
一秒。二秒。三秒。
それから、決壊した。
:?????????
:鍋の蓋
:鍋の蓋で
:鍋の蓋で受けた!!!!!
:地形が変わってる
:後ろに見えてた山、消えてない?
:今の、核とかそういう規模では
元自衛官:……これが実映像なら、少なくとも私の知っている部隊の装備で対処できる規模ではない。それを、鍋の蓋で
:自衛官ニキが壊れた
ダンジョン考察班:0.25倍速で確認。鍋の蓋を中心に、半透明の球体が展開されてる。ブレスはその球の表面で割れてる。蓋じゃなくて、この人の周りに何か出てる
:本人は蓋のおかげだと思ってる
:ゴルドさんの手柄にされてる
:足場だけ丸く残ってるの、ギャグ漫画の構図
:「ちょっと焦げた」で済ますな
:NABE NO FUTA!!!!!
:NABE NO FUTA IS GOD
:海外勢が鍋の蓋を覚えた
「クロさん、今の新技ですか? えぐいですね!」
:えぐい覚えてる
:さっき教えたやつ!
:使い方は合ってる。合ってるけど状況が合ってない
《……〈終焉の吐息〉を全力で放ったのは、千年ぶりなのだがな》
「またまたー。いつもの打ち合いだって、手加減してくれてるじゃないですか」
《……打ち合いでは、とうに手加減などしておらんが》
:してないって
:クロさん「してない」って言ってる
:毎週、本気のクロさんと打ち合ってるってこと?
:この人が自分の強さに気づいてないの、こういうことか
「じゃあ、今度は俺から行きますね」
とん、と台の縁を蹴って、抉れた大地の底へ飛び降りる。着地と同時に、クロさんに向かって走った。
クロさんの爪が、尾が、翼が、四方から迫ってくる。どれも家の一軒くらいなら軽く吹き飛ばす威力だけど、動きは毎週見ているから、だいたい分かる。爪の間をくぐり、尾を跳び越え、翼の付け根を足場にして、どんどん上へ。
最後に、クロさんの鼻先にたどり着いた。
ここまで来たら、やることはひとつ。
「えいっ」
デコピン。
ごおん、と。
鐘を百個まとめて鳴らしたみたいな音が響いて、全長二キロの巨体が、ゆっくりと仰向けにひっくり返った。
地響き。土煙。それが晴れたころ、腹を見せて転がったクロさんが、くつくつと喉を鳴らして笑いはじめた。
《……参った。参ったわ、小僧》
「やった! 今日は俺の勝ちですね!」
《貴様、出会ったころより、また強くなりおったな。……もはや、手加減されておるのは我のほうだ》
「またまたー」
:デコピン
:デコピンで
:二キロのドラゴンをデコピンで裏返した
:最強の生き物、さっき鍋の蓋の話してた人だぞ
:「またまたー」じゃないんだよ
:自覚して!!! 頼むから自覚して!!!
:レベル412で「村だと低いほう」って言ってた人です
防衛省の人(自称):至急、この配信者と連絡を取る方法を教えてください
:自称防衛省おるwww
:クロさん、お腹出して転がってるのちょっとかわいい
同時接続数の表示を、ちらりと見る。
100万。
桁の数を、二回数え直した。
◇ ◇ ◇
手合わせのあとは、クロさんの頭の上でひと休みするのがいつもの流れだ。
霞むほど高い九十五層の天井には、光る苔がびっしりと生えている。遠すぎてひとつひとつは見分けられないから、寝転がって見上げると、本物の星空みたいに見える。
クロさんと出会ったばかりのころは、稽古のあとにこの景色を見るたびに泣いていた。日本の星空とは、星の並びが全然違うから。
:きれい
:プラネタリウムみたい
:さっきまで地形が変わってた場所とは思えない
:クロさんの頭の上で寝転がってるの、絵面が神話
コメント欄も、さっきまでの大騒ぎが嘘みたいに落ち着いていた。たぶん、見ている人がみんな、ちょっと疲れたんだろう。俺も少し疲れた。いい意味で。
:ねえ、聞いていい?
:お兄さん、日本に帰りたい?
その質問が流れてきたのは、配信が始まってから二時間半が過ぎたころだった。
しばらく、答えられなかった。
「……帰りたかったですよ。最初の何年かは、ずっと」
十七歳の春だった。
その朝、玄関で靴を履いていたら、台所から母さんの声がした。
——今日の晩ごはん、あんたの好きなやつだからね。寄り道しないで帰ってきなさいよ。
部活のない日だったから、言われたとおり、まっすぐ家に帰る途中だった。
足元が抜けて、気づいたら森の中だった。言葉も通じない。何が食べられるのかも分からない。三日目に倒れて、目が覚めたら、マーサ婆さんの宿の天井を見ていた。
あの晩、母さんが何を作るつもりだったのかは、結局、分からないままだ。寄り道はしなかった。それでも、帰れなかった。
……さすがにそこまでは、口に出せなかった。
「最初の一年は、毎晩泣いてました。帰る方法も探したし、神殿で毎日お祈りもしたし。でも、何も分からなくて。……三年目くらいかな。もう帰れないんだなって、なんとなく分かって」
:つら
:十七歳でそれは……
社畜のサトウ:家に着いてから、ずっと玄関で靴も脱がずに見てる。泣きそう
「でも、村の人はみんな優しかったんです。言葉を教えてくれて、仕事をくれて、強くなるまでずっと面倒を見てくれて。だから今は、ちゃんとここが俺の家です。……それは本当です」
《……ふん》
頭の下で、クロさんが鼻を鳴らした。
《神々よ。こやつは稽古のあと、いつもこの天井を見上げては、べそをかいておった。骨が折れても泣かんくせに、星の並びが違うと言うてな》
「ちょ、クロさん! それ言わないでくださいよ!」
《事実であろう》
:クロさん……
:師匠、ずっと見てたんだ
:急に保護者の顔するのずるい
:二キロのドラゴンが一番の理解者なの泣く
:師弟、尊い
顔が熱い。俺は話をそらすみたいに、寝転がったまま懐を探った。
取り出したのは、薄っぺらい板。画面の割れた、十年前のスマートフォンだ。
「これ、こっちに来たときに持ってたやつで。電池が切れて、もう九年くらい経つんですけど。……なんか、捨てられなくて」
:スマホだ
:機種めっちゃ古い
:ずっと持ってたんだ
「ロック画面、家族の写真にしてたんですよ。妹の十歳の誕生日に撮ったやつ。ケーキのろうそくを吹き消そうとして、前髪がちょっと焦げた瞬間の。……今は真っ暗で、もう見られないんですけど」
黒い画面を、指でなぞる。
割れたガラスに映るのは、二十七歳になった自分の顔だけだ。
「妹、当時十歳だったから、今はもう二十歳か。……母さんの料理、焦げたハンバーグばっかりでさ。父さんと二人で、毎回文句言ってたんだけど。今になって、あれがいちばん食いたいんだよなあ」
:泣いた
:焦げたハンバーグ……
:家族、絶対どこかで見てるって
:これだけバズってるんだから届くよ
:本当に本物なら、家族に連絡とれるかもしれない
:フルネーム言ってみたら? 誰か見つけてくれるよ
:特定班の出番だな
:顔も村の名前も出てるし、日本の実家くらい余裕で割れそう
:実家凸しようぜ
:やめろ
:そういうのやめろって
「……いや、それは、いいです」
自分でも驚くくらい、すんなりと言葉が出た。
「十年経ってるし、たぶん、もう死んだことになってると思うんです。家族もやっと落ち着いたころだろうし。今さら俺が出ていって、それをかき回すのは……なんか、違う気がして」
:そんなことない
:絶対会いたいに決まってる
:お兄さん、優しすぎる
「はは。ありがとうございます。……でも、元気にしてるといいなって、それだけで十分なので」
それは嘘じゃなかった。
嘘じゃないはずだった。
そのときだった。
滝のように流れていくコメントの中から、ひとつの行が、ふわりと浮き上がった。
知りたいことに答えてくれるコメントだけが、止まる。——【配信】の、あの機能だ。
浮き上がった行は少しだけ大きくなって、俺の目の前で、ぴたりと止まった。
みなみ:お母さん、今でもハンバーグ焦がしてるよ
息が、止まった。
みなみ:毎年お兄ちゃんの誕生日に、焦げたハンバーグ作ってる
みなみ:食べる人いないのに、ずっと
止まった行の隙間を、ほかのコメントが勢いよく流れていく。
:え
:家族?
:なりすまし乙
:ハンバーグの話、さっき本人がしてたじゃん。誰でも書ける
:泣かせ狙いの仕込みだろ
……そうだ。焦げたハンバーグの話なら、ついさっき俺が自分でしゃべった。誰にだって書ける。
頭の冷えた部分がそう言いかけたとき、もう一行が浮き上がった。
みなみ:お兄ちゃんがいなくなった日の朝、お母さん「今日の晩ごはん、あんたの好きなやつだからね」って言ったでしょ
みなみ:あれ、ハンバーグだったんだよ
みなみ:あの日だけ、焦げてなかったの。お母さん、初めて上手に焼けたって。お兄ちゃんに食べさせるんだって
みなみ:ねえ、お兄ちゃん、だよね
——あの朝の母さんの言葉は、まだ一度も口にしていない。
配信でも、村でも。十年間、誰にも。
知っているのは、あの朝、あの家にいた人間だけだ。
そして、十年間ずっと分からなかった答えが、そこにあった。
あの日の晩飯は、ハンバーグだった。焦げていない、ハンバーグだった。
口では「元気ならそれでいい」なんて言っておいて、俺がいちばん知りたかったのは、ずっとこれだったらしい。スキルのほうが、俺よりよっぽど俺のことを分かっていた。
体を起こした。クロさんの頭の上で膝立ちになって、光の球をまっすぐに見た。
言いたいことは、十年分ある。でも、いちばん先に伝えなきゃいけないことは、決まっていた。
「美波。……兄ちゃん、元気だよ。それから、母さんに——」
《配信時間の上限に達しました》
《配信を終了します》
ぷつん、と。
光の球が消えた。
九十五層に、静けさが戻ってきた。
頭の上の苔だけが、何もなかったみたいに、ぼんやりと光り続けていた。
《……小僧》
クロさんの声が、少しだけ、気づかうような響きを帯びていた。
俺は返事ができなかった。真っ暗な画面のスマホを、壊れるくらい強く握りしめたまま。
◇ ◇ ◇
翌朝。
目を覚ますと、目の前にまた、半透明の板が浮かんでいた。
《スキル【配信】のレベルが上がりました:Lv.1 → Lv.2》
《新機能:配信外メッセージの受信(閲覧は一日一通まで)》
《次回配信可能まで:02時間03分》
《チャンネル登録者数:3,124,560人》
その下に、見慣れない枠がもうひとつ。
《昨晩、急上昇したワード》
《#ダンジョン兄さん》
《#鍋の蓋》
《#クロさん》
《#マジ卍》
《#焦げたハンバーグ》
《#同接3人の頃から見てた》
「……マジ卍、入ってる」
思わず声に出た。まさか、流行語の返り咲きに立ち会うことになるとは。
いちばん下のタグを見て、少し笑った。最初の三人のひとり、社畜のサトウさん。ちゃんと靴を脱いで、寝られただろうか。
さらにその下には、ニュースの見出しのようなものが並んでいる。
『政府「事実関係を確認中」』
『専門家「公開映像だけでは真偽を断定できない」』
『鍋の蓋、通販サイトで品切れ相次ぐ』
……日本は大丈夫なんだろうか。
そして、いちばん下に。
《受信メッセージ:1,284,503件》
《本日の閲覧可能数:残り1通》
百二十八万通。一日一通ずつ読んでも、三千五百年かかる。
途方に暮れかけたとき、その中の一通が、ふわりと浮き上がって止まった。昨日、美波のコメントを止めたのと同じ光り方だった。
差出人は、みなみ。
迷わなかった。指が震えるのをこらえて、ゆっくりと、触れる。
みなみ:お兄ちゃんへ
みなみ:昨日の配信、お母さんとお父さんと三人で、最後まで見てたよ
みなみ:お母さん、ずっと泣いてて、お父さんは泣いてないって言いながら泣いてた
みなみ:「元気だよ」、ちゃんと聞こえたよ。お母さんに、の続きは、次の配信で聞かせて
みなみ:あとね、顔見た瞬間に分かったよ。背が伸びて真っ黒に日焼けしてたけど、困ったときに眉毛がハの字になるの、全然変わってない
みなみ:名字隠してたの、意味なかったからね
みなみ:私、もう二十歳だよ。お酒も飲めるようになったよ
みなみ:家の前、朝から記者さんでいっぱいだけど、警察の人が来てくれたからこっちは大丈夫。心配しないで
みなみ:次の配信も絶対見る。お母さんと一緒に見る
みなみ:だから、ちゃんと元気でいて
みなみ:あと、マジ卍はもう使わないほうがいいと思う
「……最後のは、いらないだろ」
笑ったつもりが、声がぐしゃぐしゃになった。
返事を書こうとして、板のあちこちを触ってみる。けれど、返信の枠はどこにもなかった。届くのは向こうからの一通だけ。こっちから何かを伝えられるのは、次の配信のときだけらしい。
ケチなスキルだ。
でも、十年黙っていたことを思えば、ずいぶん気前がよくなった。
板を胸に抱えて、俺はしばらく動けなかった。
ようやく顔を上げたとき。板のいちばん下の隅に、灰色にかすれた文字があるのに気づいた。
《未解放:Lv.10 接続先への■■》
黒く塗りつぶされた、二文字。
接続先は、地球の、日本だ。そこへの、何だ。
……いや。今はまだ、考えないでおこう。考えたら、たぶんまた泣く。
どれくらいそうしていたか。
ばあん、と勢いよく扉が開いた。
「トオル! 起きてるかい!」
マーサ婆さんだった。手刀で薪を割るときと同じくらいの勢いだった。
「大変だよ! 神殿に神託が降りたって、村じゅう大騒ぎさ!」
「神託?」
「昨日、神殿の石板に、大昔の神託と同じ文字がびっしり浮かんだんだと。神官のじいさんが一晩かけて読み解いたら、『鍋の蓋』『マジ卍』『尊い』だってさ」
「…………」
「おかげで今朝から、村じゅうの挨拶が『尊い』だよ。ミーナなんか、ワイバーンにまで言ってた。『マジ卍』だけは、じいさんにも分からないらしいけどね。……お前、何か知らないかい?」
俺は涙をぬぐって、それから、少し考えた。
最初に鑑定してもらったとき、神官のじいさんは言っていた。【配信】は、神々に何かを捧げる祭祀系のスキルだと。
だから昨日は、視聴者のことを「神様」と呼んだ。ただの方便のつもりだった。
なのに、その「神様」たちの言葉が、本物の神託になって神殿に降りている。大昔の神託の写しと、同じ形の文字で。
……もしかして、この世界の「神々」っていうのは。
それから、板の隅の、黒く塗りつぶされた二文字のことも。
「……いや、俺も、よく分かんないです」
とりあえず、そう答えておいた。今は、それでいい気がした。
婆さんが出ていったあと、俺は台所に立った。
次の配信まで、あと二時間。何を配信しようか。ダンジョンの続きでもいいし、ワイバーンに乗る練習でもいいし、マーサ婆さんとの腕相撲でもいい。たぶん、どれをやってもコメント欄は大騒ぎになるだろう。
でも、最初にやることは、もう決めていた。
昨日の晩、ぼんやりしたままゴルドさんの牛鍋に顔を出したら、「なんだその顔は。食って寝ろ」と、ベヒーモスの肉をひと塊押しつけられた。
その赤身を、鉈で細かく叩いて挽き肉にする。玉ねぎに似た野菜を炒めて、パン粉代わりの麦の粉と混ぜて、楕円に形を整える。
十年ぶりに作るから、きっと上手くはいかない。たぶん、焦がす。
それでいい。
あの「母さんに——」の続きは、次の配信で、俺の口から伝えよう。
焦げたハンバーグを、母さんに見てもらおう。焦がしすぎだって、笑ってもらえるように。
——いつか、焦げていないほうも、ちゃんと食べに帰れるように。
昨日ちょっと焦げた鍋の蓋を磨きながら、俺は二時間後を待つことにした。
異世界に来て、十年と一日目。
俺の【配信】は、まだ始まったばかりだ。
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反響があれば、連載版も検討します。




