プロローグ 六条河原
腹が減っていた。ひどく、喉も渇いていた。
それでも石田三成は、水が欲しいとは言わなかった。
縄を打たれた両腕は、もう自分のものではないようだった。馬上から見える京の町は、妙に明るい。
沿道には人がいた。武士もいる。町人もいる。女も子供もいる。皆、こちらを見ている。関ヶ原で敗れた大将を見る目だった。
「石田治部じゃ」
「これが?」
「ずいぶん痩せておるな」
声が聞こえる。
三成は前を向いた。好きに言えばよい。いまさら腹も立たなかった。
敗れた。それだけは、どう言い繕っても変わらない。
徳川家康は生きている。毛利輝元も生きている。宇喜多秀家がどうなったのかは分からない。大谷吉継は死んだ。島左近も、おそらく死んだ。そして自分も、これから死ぬ。
豊臣の天下を守る。そう考えて起こした戦だった。少なくとも三成自身は、そのつもりだった。
だが結果として残ったのは、無数の死者と、家康の勝利だけだった。
馬が揺れる。そのたびに身体のあちこちが痛んだ。
伊吹山の麓をさまよった日々で、身体はとうに限界を超えている。それでも三成の頭だけは、妙に冴えていた。
なぜ負けた。
何度考えても、そこへ戻る。
小早川か。あの若造が裏切らなければ。
吉川か。毛利勢が動いていれば。
それとも輝元を大坂城から出すべきだったのか。島津をもっと早く動かせていれば。
いや。
三成はわずかに目を閉じた。
違う。それでは結局、関ヶ原の話にしかならない。
関ヶ原で勝つ方法を考えているうちは、何も分かっていない。
そもそも、なぜあの日、関ヶ原にあれほどの兵が集まることになったのか。なぜ清正や正則は家康についた。なぜ豊臣恩顧の者たちが二つに割れた。なぜ五大老と五奉行などという仕組みを残さなければならなかった。なぜ秀頼様は、あれほど幼かった。
なぜ――。
「治部殿」
隣から声がした。
三成は顔だけを動かした。小西行長がいた。同じく縄を打たれている。さらに向こうには安国寺恵瓊。
三人とも、行き着く先は同じだった。
「何を考えておられる」
行長が訊いた。
三成はしばらく答えなかった。
「どこで間違えたのかと思っていた」
「関ヶ原で?」
「いや」
三成は首を振った。
「もっと前だ」
行長が笑った。ひどく疲れた笑いだった。
「今さら分かったところで、どうにもなりませぬな」
「そうだな」
三成も笑おうとした。うまく笑えたかどうかは分からない。
今さら分かったところで、何にもならない。人は一度しか生きられない。間違えた道を戻ることもできない。
だからこそ、死ぬ間際になって人は考えるのだろう。
もし、あの時――。
考えるだけ無駄なことを。
◇
喉がひどく渇いていた。
途中、誰かが柿を差し出した。三成はそれを見た。熟れた柿だった。
手を伸ばすことはできない。代わりに首を振った。
「いらぬ」
「腹が減っておろう」
「腹にはよいかもしれぬが、身体を冷やす」
一瞬、周囲が静かになった。それから誰かが笑った。
「これから首を刎ねられるというのに、身体を気遣うか」
あちこちから笑い声が上がった。三成は黙っていた。
何がおかしいのか分からない。死ぬからといって、身体に悪いものを食う理由にはならない。
生きている間は、生きる。
それだけのことだ。
もっとも、自分は昔から、こういうところがあったらしい。
正しいと思ったことを、そのまま口にする。相手がどう受け取るかなど、後になってから考える。
いや。後になっても考えなかったことすら多かった。
清正の顔が浮かんだ。正則の顔も。黒田長政。細川忠興。浅野幸長。池田輝政。
彼らと最初から敵だったわけではない。
いつからだった。
いつから、自分を見る彼らの目が変わった。
思い出そうとしても、一つの出来事には定まらない。少しずつだった。
ひとつ、またひとつ。小さな亀裂が入り、それを放っておいた。気づいた時には、修復できないほど大きくなっていた。
自分はそれを、
――あやつらには政が分からぬ。
そう片付けてはいなかったか。
「……馬鹿だったな」
三成が呟いた。
「何か?」
行長が訊いた。
「いや。こちらの話だ」
◇
六条河原に着いた。人の数が増えた。
これほどの人間が、自分の死を見るためだけに集まったのかと思うと、おかしな気分だった。
三成は馬から下ろされた。足に力が入らない。役人に支えられながら進む。
空を見上げた。秋の空だった。高い。
あの日も、こんな空だったような気がする。
九月十五日。関ヶ原。
朝は霧だった。だが霧が晴れてからは――。
三成は目を閉じた。
もう思い出す必要はない。一度目は終わった。
最後に考えるべきは、敗戦のことではなかった。
秀吉の顔が浮かんだ。初めて会った頃の秀吉ではない。天下人となり、太閤となった秀吉だった。
老いた。ひどく老いた。
秀頼が生まれてから、さらに変わった。
秀次。利休。唐入り。
多くの者が死んだ。
自分は、そのすぐそばにいた。止められなかった。
いや。止めようとしたのか。
命じられた仕事を正確に片付けることを、政だと思ってはいなかったか。
殿下の命だから。豊臣家のためだから。
そう言って、考えることをやめたことはなかったか。
関ヶ原だけではない。もっと前から間違えていたのだとすれば。
では、どこから。
小田原か。九州か。唐入りか。秀次事件か。
違う。さらに前だ。
秀吉が天下人になる以前。自分がまだ佐吉と呼ばれていた頃。何も持たなかった頃。
あそこまで戻れたなら。
三成は小さく息を吐いた。
馬鹿馬鹿しい。
死を前にすると、人は子供じみたことを考えるらしい。戻れるはずがない。
それでも。
もし戻れるなら――。
「石田治部少輔三成」
名を呼ばれた。
三成は顔を上げた。首を差し出せということだ。
地面に座る。遠くからざわめきが聞こえる。
不思議と恐ろしくなかった。
四十年。長かったのか短かったのか。分からない。
ただ一つだけ。
もう一度できるなら。
今度は。
もっと早く考えよう。人の言葉を聞こう。嫌われてから理由を考えるのではなく、嫌われる前に考えよう。
秀吉を諫めよう。
清正と話そう。正則とも話そう。大谷にも、もっと早く相談しよう。
家康を敵と決めつける前に、あの男が何を望んでいるのか考えよう。
そして。
関ヶ原など――。
二度と起こさぬ。
「御免」
背後から声がした。
三成は目を閉じた。
風が吹いた。冷たかった。
◇
鳥の声がする。
三成は眉を寄せた。うるさい。
死後の世界というものは、もう少し静かだと思っていた。
目を開けた。
天井があった。
「……?」
三成は瞬きをした。見覚えがある。だが、思い出せない。
身体を起こした。
軽い。あまりにも軽い。
腹も痛くない。
手を見る。縄の跡がない。
それどころか。
「なんだ、これは」
声が違った。
三成は自分の喉を押さえた。若い。
慌てて立ち上がる。足がもつれない。腰も痛まない。
部屋の隅に置かれた水盆へ向かった。水面を覗き込む。
そこにいた男を見て、三成は動けなくなった。
しばらく。本当に、長い間。
水面を見つめた。
「……佐吉」
口から、その名が漏れた。
自分だった。若い頃の。
まだ頬がこけてもいない。白髪もない。二十を少し過ぎた頃の自分。
背後で足音がした。
「佐吉」
身体が硬直した。
その声を、三成は知っている。
何十年聞き続けたと思っている。
ゆっくり振り返った。
男が立っていた。小柄な男。
まだ太閤ではない。天下人ですらない。
だが三成が、生涯仕えた男だった。
「何をしておる」
三成は口を開いた。声が出ない。
男が怪訝そうな顔をする。
「寝ぼけておるのか」
「……殿」
「なんじゃ」
三成の膝から力が抜けた。床に手をつく。
「お、おい。佐吉?」
羽柴秀吉が、生きていた。
そして。
織田信長も。
まだ、生きている。
そのことを三成が知るのは、もう少し後のことである。




