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蛙ぷかぷか         :約2500文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/09/20

 これ……か?


 道を歩いていたときだった。突然、タイヤがパンクしたときのような、ぱああんという大きな破裂音が響いた。

 なんとはなしに音のしたほうへ足を向けてみると、道路の端に一匹の大きな蛙がぺしゃんこになっていた。

 車にでも轢かれたのだろうか。蛙はまるで薄いゴムシートのように地面にへばりつき、凹凸がまるでなく見事に平らになっていた。だが血や内臓が飛び散っているわけでもなく、皮膚も傷んでいるようには見えない。その姿はグロテスクというより、むしろコミカルにさえ見えた。

 しゃがみ込んでまじまじと眺めているうちに、次第に図鑑の挿絵のように思えてきた。


「ふっ……えっ」


 思わず笑いが漏れた、その瞬間だった。ぺしゃんこだった蛙の胴体が、ほんのわずかに膨らんだではないか。おれはさらに顔を近づけてみた。見間違いではない。確かに身体の中央が泡のようにぷくりと膨らみ、丸みを帯びている。

 まさかこの状態から元に戻るというのか。いや、そんな馬鹿な……。


「ふーっ……うお」


 試しに蛙の口のあたりへ息を吹きかけてみると、驚いたことにまた身体が少し膨らんだ。

 これはちょっと面白いぞ……。

 なんだか愉快な気分が込み上げてきて、おれは何度も息を吹きかけてみた。するとそのたびに蛙は風船のように少しずつ丸みを取り戻し、ぺらぺらだった胴体がゆっくりと立体になっていった。

 皮膚の皺がぴんと張り詰め、潰れていた四肢がぺろんと地面から離れていく。

 ついには元の形を超えてまんまるに膨れ上がり、地面からふわりと浮き始めたので、おれはその背中にそっと足を乗せてみた。

 ……乗れる。

 すごい、すごいぞ。妙な弾力があり、体重をかけて踏んでも空気が漏れて萎む気配はない。大きさはソフトボールほどだったが、さらに息を吹きかけてみると、ますます膨らんでいき、ついには運動会で使う大玉ほどの大きさにまでなった。

 そして蛙はおれを乗せたままゆっくりと空へ向かって浮上を始めた。

 いい、いいぞ。これはまさに空の旅だ……!

 蛙は気球のようにふわりふわりと風に乗り、街の上空を静かに流れていった。眼下に広がる屋根や電柱が次第に小さくなり、建物の隙間を走る車も玩具のように見えてきた。


 ……は? いや、なんだこれ。


 おれはふと我に返った。息を吹きかけただけで蛙が膨らみ、人間を乗せて空を飛ぶ? そんなことが現実に起こるはずがないだろう。

 ということはおれは今、夢でも見ているのだろうか。

 だが今朝はちゃんと起きたはずだ。スマートフォンのアラームを止めた記憶がある。……では、あのあと二度寝したのか。だとしたらまずいぞ。そろそろ起きないと会社に遅刻してしまう。

 ……いや、待て。今朝はすでに家を出たはずだ。毎朝のことだから記憶がごちゃ混ぜになりそうだが、玄関の鍵を閉めたことも駅まで歩いたことも確かに覚えている。

 となると……今は電車の中か――おっ。


 蛙はゆっくりと高度を下げ、やがて線路とその上を走る電車の姿が見えてきた。


 そうそう、この路線だ。ひょっとするとあの電車におれが乗っているのかもしれないな。いや、のんびりしている場合ではない。寝過ごしたら大変だぞ。そろそろ起きないと……。

 ……いや、待てよ。たしかちゃんと会社の最寄り駅で降りたはずだ。

 ああ、そうだ。乗ってしばらくすると急に吐き気が込み上げてきたんだ。額に脂汗を滲ませながらどうにか駅まで耐え抜いて、ホームに降りた瞬間、ほっと胸を撫で下ろしたのを覚えている。

 で、それから……そうそう、そのまま出社していつも通りに仕事をしていたはずだ。

 となると今は昼休憩か。まあ、食後はたいてい眠くなるからな。普段は居眠りなんてしないが、たまにはそういう日もあるだろう。では今、おれは会社の休憩室の机に突っ伏して――おっ。


 そう考えた、ちょうどそのときだった。蛙は再び高度を上げ始め、今度は会社の建物が見えてきた。


 おれは身を乗り出し、ビルの窓に目を凝らした。あそこから眠っている自分が見えるかもしれないと考えたのだ。

 いやいや、だとしたら本当にそろそろ起きないとまずいぞ。上司に見つかったらさっきみたいに嫌味の一つや二つ言われるに決まっている。『こんなこと言いたくないけどさあ。自己管理がなってないんだよ。早退って、学生じゃないんだからさあ』なんて、あの粘ついた口調で……。


 ……さっき?

 そうだ。そもそもおれは早退したんじゃないか。ああ、思い出した。今日は朝から妙に具合が悪かったのだ。

 ねちねちと小言を並べる上司に向かって、いっそ吐いてやろうかと思いながら何度も頭を下げて、ようやく会社を後にした。よろよろとふらつきながら駅へ向かって歩いて……ああ、途中でまた強烈な吐き気がぶり返し、それで近くの公園に入り、空いていたベンチに腰を下ろしたのだった。

 それから……ああ。ははは、そこで横になって眠っているというわけだ。ほら、あそこにおれがいるぞ。

 なんだ、さっき歩いていた場所のすぐ近くじゃないか。

 そうそう、あの横断歩道のあたりで急に気分が悪くなって、それから……そうだ、おれだ。おれが蛙を踏んだんだ。内臓がぐちゅりと飛び出し、白っぽい体液が路面に広がって、そんな光景を見たせいで余計に気分が悪くなったんだ。

 思い出したらまた気分が……待てよ。となると、これはあのときの蛙か?

 って、おいおい、いったいどこまで昇るつもりなんだ。そろそろ降りてくれ。落ちたら危ないし、いい加減起きないといけないんだ。


 ……まあいいか。夢だしな。それに今日は早退したんだし、もう少し寝ていたっていいだろう。


 蛙は高く、さらに高く浮かび上がり、地上はどんどん遠ざかっていった。

 ビルの屋上が視線より下へ沈み、行き交う人々や車は輪郭を失っていく。街並みは箱庭のように小さくなり、道路は細い糸になっていった。遠くには建物と建物の隙間から川が覗き、陽光を受けた水面が銀色の線となってきらめいている。


 実にいい見晴らしだ。それに風は穏やかで空気は地上よりもずっと澄んでいる。これほどの高さにいるのに、息苦しさも寒さも感じない。むしろ温かくて、あれほど重く感じていた体のだるさも今はまったくない。

 ああ、いい気分だ――。

 おれが思わず感嘆の声を漏らすと、蛙は背中越しにこちらを振り返り、にやりと笑った。

 少し気持ち悪かった。

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