【Episode 5: 驟雨】
【1999年8月上旬 - アーカム財団日本支部 地上出口】
「ドアが開きます」
エレベーターの無機質な音声と共に、扉が開いた。
マサルは転がり出るようにして、1階のロビーへと飛び出した。
肺が焼けつくように痛い。全身が脂汗で濡れている。
「ハァ、ハァ、ハァ……!」
地下でのバイオハザード警報は、まだ届いていないのか、あるいは意図的に遮断されているのか。
『緊急連絡。医療棟Bブロックにて空調設備の不具合発生。職員は速やかに……』
館内放送が流れる。
不具合。
マサルは乾いた笑いを漏らした。
人が溶けて怪物になり、バイオハザードが発生しても、この組織はそれを「設備の不具合」と呼ぶのか。
「……逃げなきゃ」
マサルは、ふらつく足取りで自動ドアを抜けた。
外に出た瞬間、むっとするような湿気と熱気が体にまとわりついた。
空を見上げる。
いつの間にか、空はどす黒い雲に覆われていた。
昼間だというのに、夕暮れのように薄暗い。
ポツリ。
頬に冷たいものが当たった。 雨だ。
ポツリ、ポツリ、ザーーーッ……。
あっという間に、バケツをひっくり返したような豪雨になった。
アスファルトが黒く濡れていく。
マサルは雨に打たれながら、呆然と立ち尽くしていた。
逃げてきた。高木を見捨てて。ユミさんを見捨てて。
「う、あ……ああ……」
マサルは両手で顔を覆った。 手のひらに混じった雨水が、口の中に入った。
鉄の味。 そして、微かな甘み。
マサルは戦慄して手を見た。
雨水は透明だった。はずだ。
だが、マサルの目には、空から降ってくる無数の雨粒が、まるで黒いインクのしずくに見えた。
いや、違う。 これは「体液」だ。
空に浮かぶ巨大な何かが流している、腐った体液が、雨となって地上に降り注いでいる。
「ひっ……!」
マサルは悲鳴を上げ、雨を振り払おうとした。
だが、雨は止まない。
全身が濡れていく。
黒い雨が、服に染み込み、皮膚に染み込み、毛穴から体内へと侵入してくる感覚。
汚染される。 書き換えられる。
「嫌だ……嫌だ……!」
マサルは走り出した。 どこへ? 帰る場所など、もうどこにもないかもしれないのに。
【同日 午後7時00分 - 帰路】
どうやって電車に乗ったのか、記憶が定かではない。
気づけばマサルは、最寄り駅からの道を、ずぶ濡れになって歩いていた。
街ゆく人々は、傘を差したり、雨宿りをしたりして、急な夕立をやり過ごしている。
「すごい雨だな」
「変な匂いがしないか?」
そんな会話が聞こえてくる。
マサルの視界は、ノイズ混じりのテレビ画面のように歪んでいた。
ガードレールが、白い骨に見える。
濡れたアスファルトが、脈打つ黒い肉に見える。
信号機の赤色が、高木の最後の目に見える。
(俺は……?)
マサルは自分の手を見た。
皮膚の下で、何かが蠢いている気がする。
高木が言っていた。「物理的な書き換え」だと。 なら、この雨を浴びた自分も、既に……。
「マサルさん?」
近所の主婦が、傘の下から怪訝そうな顔で声をかけてきた。 マサルは弾かれたように顔を上げた。
「……あ、ああ」
「ずぶ濡れじゃないの! 傘持ってなかったの?」
「ええ……急だったもので」
「顔色が真っ青よ。早く帰りなさいな」
主婦は心配そうに言い残し、去っていった。
マサルは、その後ろ姿を見送った。
彼女の背中が、一瞬、ブクリと膨れ上がり、中から触手が飛び出す幻覚が見えた。
マサルは激しく頭を振った。
(しっかりしろ。)
【同日 午後7時30分 - 山本家 玄関】
自宅の前に着いた。
見慣れた表札。温かい灯りが漏れる窓。
自分が「汚染」を持ち込んでしまうのではないかという恐怖。
「……ただいま」
マサルは、震える手で引き戸を開けた。
「あっ、お兄ちゃん! 遅いよー!」
ドタドタという足音と共に、妹のヒナが廊下を走ってきた。
手にはタオルを持っている。
窓からずぶ濡れのマサルが見えたのだろう。
「すごい雨だったね! 傘持ってなかったの? バカだなぁ」
ヒナは無邪気に笑いながら、マサルの前に立った。
「ほら、じっとして。拭いてあげるから」
ヒナがタオルを広げ、マサルの頭に手を伸ばした。
その時。 マサルの目には、ヒナの手が。
ヒナの指先から、黒い粘液が糸を引いている。
タオルは血と脂でぐっしょりと濡れた内臓のようなものに見えた。
それを、自分の顔に押し付けようとしている。
「うわああああっ!!!」
絶叫し、ヒナの手を乱暴に払いのけた。
バシッ!
乾いた音が玄関に響いた。タオルが落ち、彼女は驚いてよろめいた。
「……え?」
ヒナが目を見開き、マサルを見上げる。
叩かれた手首を押さえ。
「お、お兄ちゃん……?」
「触るなッ!!」
獣の咆哮に近い。
「近寄るな! 俺に……俺に触るな!」
「な、何よ……。心配してあげたのに……」
ヒナの目に涙が浮かぶ。 奥から母のアキナが驚いて出てきた。
「どうしたの!? 何事?」
「お兄ちゃんが……急に叩いた……」
「マサル……」
母がヒナを庇うように抱き寄せる。
マサルは、呼吸を荒らげながら、後ずさりした。
やってしまった。
「……ごめん」
マサルは掠れた声で言った。
「雨……雨に濡れたから……汚いんだ」
言葉を吐き捨て、マサルは逃げるように靴を脱ぎ、自室のある二階へと駆け上がった。
「マサル!」
母の声を背中で聞きながら、彼は自室に飛び込み、鍵をかけた。
【同日 午後8時00分 - マサルの自室】
電気もつけず、マサルはベッドの隅で膝を抱えていた。
ガタガタと震えが止まらない。
濡れた服が肌に張り付き、体温を奪っていく。 だが、着替える気力もなかった。
窓の外では、雨が激しさを増していた。
バチバチと窓ガラスを叩く音が、まるで無数の小さな手が「入れてくれ」と叩いているように聞こえる。
(高木は死んだ。坂本さんも死んだ)
マサルは闇の中で反芻した。
そして、自分も見たのだ。
高木を見捨てた瞬間、エレベーターの鏡に映った自分の顔を。
マサルは、机の方を見た。 カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、デスクの上を微かに照らしている。
そこには、奇妙な胎盤があった。
数日前までは、ただの乾燥標本だったはずだ。
しかし、それは明らかに変化していた。表面は湿り気を帯び、ドス黒く濡れている。
マサルは、吸い寄せられるようにデスクに近づいた。
恐怖はある。 だが、それ以上に、奇妙な安らぎを感じていた。
家族にも、誰にも言えない孤独を、この肉塊だけが理解してくれるような気がした。
震える指で、胎盤に触れた。 温かい。
人肌よりも熱く、高熱を出した子供のような温度。
触れた瞬間、指先から脳髄へと、甘い痺れが走った。
マサルは、胎盤を握りしめた。 その感触は、柔らかく、弾力があり。
「ああ……」
マサルは、胎盤を握りしめたまま、涙を流した。
自分が狂っていくのが分かる。
「助けてくれ……」
マサルは胎盤に額を押し付け、祈るように呟いた。
窓の外の雨音は、いつしか「賛美歌」のようなうねりを伴って、部屋の中を満たしていった。




