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沸騰する1999 -黒い雨の聖餐-  作者: クトゥルフ好き


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【Episode 4: 再会】

【1999年7月下旬 - アーカム財団日本支部 特別医療棟】


相変わらずうだるような猛暑と、湿った日常の中にあった。


マサルは、その日、地上階にある「特別医療棟」を訪れていた。

第4資料編纂室に誤って配送された、ウイルス学の専門書を届けるためだ。


自動ドアが開くと、冷たい空気が肌を撫でた。


磨き上げられた床、静かに行き交う医療スタッフたち。

眩しさに目を細めた。


「……マサルじゃないか!」


背後から、懐かしい声がした。


振り返ると、白衣を着こなした男が立っていた。

銀縁眼鏡の奥で、人懐っこい目が笑っている。


「……高木か」


大学時代のゼミ同期、高木だった。

高木は優秀さと社交性で、財団医療部門のエリートコースをひた走っている。


「久しぶりだな! お前、少し痩せたんじゃないか? ちゃんと飯食ってるのか?」


高木は笑顔でマサルの肩を叩いた。


「夏バテだよ。地下は空気が悪いからな。お前は……相変わらず元気そうだな」


「まあな。ここ数日、新しいプロジェクトで寝る暇もないけどな。……そうだ、昼飯まだだろ? 久しぶりに一緒にどうだ? ここのカフェテリア、学生時代の学食よりはマシなもん出すぞ」


「学食か……懐かしいな」


「だろ? あのゴムみたいなハンバーグ、よく食ってたよな俺たち」


高木が笑い、マサルもつられて小さく笑った。


同じ教室で、同じ講義を受けていた記憶。

断る理由はなかった。


【同日 午後12時30分 - 医療棟カフェテリア】


最上階のカフェテリアは、ガラス張りで開放感に溢れていた。

窓の外には、夏の積乱雲と新宿のビル群が見える。


二人は窓際の席に座った。


高木はスペシャルランチのハンバーグ定食、マサルはサンドイッチ。


「いやー、あの頃のゼミ、キツかったよな。教授の口癖、覚えてるか? 『君たちの脳みそは筋肉でできてるのか』ってやつ」


高木がハンバーグを切り分けながら、楽しそうに話す。


「ああ。高木はよく言い返して、余計に怒られてたな」


「そうそう。でお前は、隅っこでオカルト雑誌読んでニヤニヤしてた」


マサルはサンドイッチを口に運んだ。味は……普通だ。


「で、最近はどうなんだ? まだあの地下の『開かずの間』で、宇宙人の解剖ビデオでも見てるのか?」


高木がからかうように聞いてきた。

悪意はない。純粋な興味だ。


「似たようなもんだよ。……最近は、南米から届いた乾燥した胎盤の登録作業をしてる」


「胎盤? うわ、趣味悪いな」


「仕事だよ。ただの乾燥標本なんだが……妙に作りが精巧でな。机に置いてあると、たまに生きてるように見える時がある」


「ハハハ! お前、疲れてるんだよ。教授の言った通り、脳みそまでオカルトに浸食されたか?」


高木は大声で笑い飛ばした。

マサルは苦笑いで誤魔化した。


「まあ、そういう俺も、今は南米絡みの案件で手一杯なんだけどな」


高木の声のトーンが真面目なものに変わった。


「南米……?」


マサルの手が止まる。


「ああ。帰国者が持ち込んだ、新型の熱帯病の疑いがある患者を担当してるんだ。最初はただの皮膚炎かと思ったんだが、進行が早くてね。隔離病棟で集中治療中さ」


「大丈夫なのか? 感染とか」


「接触感染型だから、防護すれば平気さ。それに、医学的には宝の山だぞ。患者の細胞再生速度が異常に早いんだ。解明できれば、再生医療の革命になる」


「革命、ね」


「そうさ。この論文が通れば、俺のキャリアは盤石だ。……実はさ、来年の春、結婚するつもりなんだ」


「え?」


「同じ科のナースだよ。ハワイで式を挙げるつもりだ。」


高木は照れくさそうに微笑んだ。


ランチを終え、トレイを片付けている時、高木が思いついたように言った。


「そうだ、マサル。少し時間あるか? 例の患者、ちょっと見ていかないか?」


「え? 部外者だぞ」


「モニター越しに見るだけなら平気さ。お前にも意見を聞きたくてな。患者がうわ言で『黒い雨』とか呟いてるらしいんだ。お前の部署なら、そういう現地の伝承とか詳しいだろ?」


黒い雨。


マサルの心臓がドクリと跳ねた。


「……分かった。見るだけなら」


マサルは承諾した。


【同日 午後1時00分 - 隔離病棟 モニタールーム】


幾重ものセキュリティゲートを抜け、二人は特別隔離病棟の管理室に入った。


電子機器の駆動音が響いている。

壁一面のモニターには、病室の映像が映し出されている。


「これだ。見てくれ」


高木が指差した中央のモニター。


白いベッドに、厚い革ベルトで、一人の男が拘束されていた。

南米帰りの商社マンだという。一見すると、高熱にうなされる患者に見える。


だが、患者の皮膚、首筋から肩にかけて、黒い痣のようなものが広がっている。


マサルは息を呑んだ。


「観察記録によると、細胞分裂の速度は通常の数倍。代謝異常による高熱を発しているが、苦痛の訴えはない。むしろ『心地よい』と言っている」


高木は興味深そうにデータをチェックしている。


「……なぁ高木」


マサルは、モニターを凝視しながら静かに言った。


「あいつ、少し変じゃないか?」


「変って、どこが?」


「動きだ。……滑らかすぎる」


画面の中の患者が、拘束ベルトの中で身じろぎをした。


肩の骨が、まるで水飴のようにヌルリと動き、腕が不自然な流動性を持ってシーツの上を這った。

骨折しているわけではない。骨格が軟体動物のように変質しかけているように見えた。


「ああ、筋弛緩剤の影響もあるだろうな。関節の可動域が一時的に広がっているだけだ」


高木は即座に否定した。


「……それだけじゃない」


マサルは画面を指差した。


「目だ。あいつ、どこを見てる?」


患者は天井を向いて寝ていた。

だが、その視線――わずかに開いた瞼の隙間から覗く瞳が一点を凝視していた。


その先にあるのは、病室の壁に設置された監視カメラだ。

患者は、カメラのレンズを通して、こちらのモニタールームを見据えていた。


「カメラを見てるだけだろ? 意識はあるからな」


「違う。……笑ってる」


患者の口元が、わずかに吊り上がった。

慈愛に満ちた不気味な微笑みだった。


マサルの背筋に、生理的な悪寒が走った。


「……高木、あまり深入りしない方がいい。直感だが……その患者、普通じゃない気がする」


「なんだよ、オカルトか?」


高木は苦笑した。


「いや、真面目な話だ。お前、結婚するんだろ? だったら、危ない橋は渡るな。この件からは手を引いて、別の医者に任せた方がいい」


マサルなりの精一杯の警告だった。

だが、その言葉は届かなかった。


「心配性だなあ、お前は。大丈夫だ、ここの設備は世界一だ。何かあっても、万全の体制で管理している」


高木は微笑んだ。


「それにチャンスなんだ。論文を書けば、未来は約束される。……逃げるわけにはいかないよ」


高木は再びコンソールに向かい、熱心にデータを打ち込み始めた。


「……そうか。分かった」


マサルは、それ以上何も言えなかった。

高木の背中が、坂本さんの背中と重なるのを感じていた。


「じゃあ、俺は戻るよ。……気をつけろよ、高木」


「ああ、またな! 暇ができたら飲みに行こうぜ!」


高木の明るい声を背に、マサルは部屋を出た。


【1999年7月下旬 - アーカム財団日本支部 第4資料編纂室】


高木とのランチから数日が経過していた。


資料室はカビの臭いが漂い、マサルは「徳川埋蔵金の地図(と称する落書き)」の山と格闘していた。


プルルルル……。

デスクの黒電話が鳴った。


「はい、第4資料編纂室、山本です」


『ようマサル! 俺だ、高木だ!』


受話器の向こうから、明るい声が飛び込んできた。

だが、マサルはその声に、不自然なハイテンションさを感じた。


「高木? どうしたんだ、仕事中だろ」


『ああ、そうなんだが、どうしても伝えたくてな! ……成功したんだよ!』


「成功って……まさか」


『そう、プロポーズだ! 昨日、彼女に指輪を渡した。泣いて喜んでくれたよ。』


「……そうか。おめでとう、高木」


マサルは心から言った。


『ありがとう。それとな、例の患者の件も……順調だ』


一瞬の間があった。


「……本当に順調なのか?」


『ああ、細胞の増殖パターンが解析できた。驚くべきデータだよ。計算と合わないんだ。何も食べていないのに、体重が増えている』


高木は興奮気味にまくし立てた。


『これは常識もひっくり返るぞ。俺は歴史に名を残すんだ』


「高木、お前、少し休みを取ったほうがいいんじゃないか? 声が昂ぶりすぎてるぞ」


『休んでる暇なんてないさ! 患者の変化は分刻みなんだ。目を離すと、すぐに……』


高木が言葉を濁した。


『……すぐに、データが変わっちまうからな。まあいい、とにかく報告したかったんだ。式には絶対来いよ! スピーチ頼むからな!』


一方的に電話は切れた。

ツーツーツーという無機質な音が残る。


マサルは受話器を置き、深い溜息をついた。

何かに追いつめられているように聞こえた。


「目を離すと、すぐに……」

その先を、彼は何を言いかけたのか。


ふと視線を落とすと、デスクの上の「乾燥した胎盤」が目に入った。

数日前までは確かに乾いた褐色だったはずのそれが、今は黒く変色し、湿気を吸ったかのように艶めいている。


マサルは、言いようのない不安に駆られた。


【さらに数日後】


マサルが再び特別医療棟を訪れたのは、高木の電話から三日後のことだった。

高木の様子を確認したかったのだ。


エレベーターの扉が開いた瞬間、マサルは顔をしかめた。


(……臭う)


空調はフル稼働しているはずなのに、「焦げた砂糖」のような甘ったるい臭いと、微かなオゾン臭が充満していた。


すれ違う看護師たちの表情も硬い。

挨拶を交わす余裕もなく、小走りで移動している。


何かトラブルが起きているのは明白だった。


マサルは足早に、隔離病棟の管理エリアへと向かった。

セキュリティゲートの前に武装警備員が二人立っていたが、IDを確認すると無言で通してくれた。


警備員の顔には疲労の色が濃い。


管理室に入ると、異様な熱気に包まれていた。

多数のサーバーが唸りを上げ、冷却ファンが悲鳴のような音を立てている。


部屋の中央、メインコンソールの前に、高木がいた。

「……高木?」


声をかけると、高木がゆっくりと振り向いた。

その姿に、マサルは絶句した。


整っていた髪は脂ぎって乱れ、無精髭が伸びている。

白衣は薄汚れており、目の下にはどす黒い隈が刻まれていた。

わずか数日で、数年は老け込んだように見える。


「おお、マサルか……。来てたのか」


高木の声は掠れていた。


「どうしたんだ、その恰好は。順調なんじゃなかったのか?」


「順調さ。……ただ、少し計算外のことが起きてね」


高木は乾いた笑みを浮かべ、モニターを指差した。


「見てくれ。あいつ、全然眠らないんだ」


モニターの中。

ベッドには、以前よりも一回り大きくなったように見える患者が拘束されていた。


患者の全身に黒い模様がびっしりと広がり、皮膚全体が脈打つように波打っている。

そして、口をパクパクと動かし続けていた。


「……何を言ってるんだ?」


「歌ってるんだよ」


高木が気だるげに言った。


「24時間、ずっとだ。意味不明な旋律をハミングしてる。担当のナースたちが次々と頭痛を訴えてダウンした。……参ったよ、ユミまで寝込んじまってさ」


ユミ。彼の婚約者だ。


「高木、もうやめろ。これは異常だ。上の人間に報告して、お前は手を引くべきだ」


マサルは強く言った。


「手を引く? 馬鹿言うな」


高木が急に声を荒げた。


「あと少しなんだ! ここで止めたら、俺の成果はどうなる!」


彼は血走った目でマサルを睨みつけた。


「……先生、バイタルが上昇しています」


部下の研究員が、怯えた声で報告した。


「またか。鎮静剤を投与しろ。最大量だ」


「もう限界量を超えています! これ以上は心停止のリスクが……」


「構わん! やれ!」


高木の怒声と共に、モニターの中で自動注射器が作動するプシュッという音がした。


その瞬間。


**ピタッ。**


患者の歌が止まった。

そして、痙攣していた体が、糸が切れたように静止した。


「……止まった? 心停止か?」


高木がモニターに顔を近づける。


静寂。

管理室の全員が息を呑んだ。


次の瞬間、患者がカッと目を見開いた。

その目は虹彩が七色に分裂し、高速で回転していた。


「な、なんだ!?」


モニターの中で、拘束ベルトが悲鳴を上げた。

ブチブチブチッ!


革でできたベルトが、紙屑のように引き千切られる。


患者の体が、見る見るうちに膨張していく。

筋肉が風船のように膨れ上がり、皮膚が裂け、その下から赤黒い触手が溢れ出す。


「嘘だろ……!?」


バリーン!!


モニター越しでも分かる衝撃音。

患者だった「モノ」は、強化ガラスを内側から突き破り、観察室にいた防護服のスタッフを鷲掴みにした。


「ひいいいっ!」


スタッフの悲鳴。


だが、怪物は彼を殺さなかった。

触手の先端が、スタッフの防護服の首元に突き刺さる。

チュルルル……という、中身を吸い出すような音が響く。


「食ってる……のか?」


マサルが震えながら呟く。


スタッフの体が急速に萎んでいく。

ジュースのパックを吸い干すように、体液と肉を吸収しているのだ。


そして逆に、怪物の体はさらに大きく、艶めかしく成長していく。


「あ、ああ……………」

高木は、彼はコンソールにしがみつき、必死にキーを叩いている。


「 まだ制御できるはずだ!」


「無理だ高木! 」


マサルは高木の腕を掴んで引っ張った。

だが、高木は振り払った。


「離せ!」


その時、警報音が変わった。

『レベル4、バイオハザード発生。汚染物質の流出を確認。区画封鎖を開始します』


「区画封鎖……?」


血の気が引いた。

それは、あの怪物と一緒に閉じ込められることを意味する。


「バカ野郎!」


マサルは高木を殴り飛ばした。

高木が床に転がる。眼鏡が飛び、呆然とマサルを見上げる。


「死にたいのか! ユミさんはどうするんだ! 彼女を一人にする気か!」


婚約者の名前が出た瞬間、高木の目に理性の光が戻った。


「……ユミ……」


「走れ! シャッターが閉まるぞ!」


マサルは高木を引きずり起こし、出口へと走った。

背後のモニターでは、怪物がカメラを破壊し、映像が砂嵐に変わる瞬間が映っていた。


二人は廊下を全力で走った。


「ハァ、ハァ……!」


マサルは息を切らしながら、最後のエレベーターホールへと滑り込んだ。


高木も続く。

だが、高木はエレベーターのボタンを押す直前、足を止めた。


「どうした! 乗れ!」


高木は、ナースステーションの方を振り返っていた。


「……ユミが、まだあそこにいる」


「は?」


「休憩室だ。頭痛で寝込んでるんだ。……助けなきゃ」


「無理だ! もう手遅れだ!」


マサルは叫んだ。


高木はマサルを見た。

その顔には、異様な平静さが宿っていた。


「マサル。……スピーチ、頼みたかったな」


高木は寂しそうに笑うと、マサルをエレベーターに突き飛ばした。

そして、廊下にあるコンソールに自分のIDカードを当てて、エレベーターの扉を外部から強制閉鎖した。


「高木!!!」


マサルが扉を叩く。

閉まりゆく隙間から、高木がナースステーションの方へ消えていくのが見えた。


「ユミーッ!!」


その叫び声を最後に、エレベーターの扉は完全に閉ざされた。

駆動音と共に、箱は上昇を始める。


マサルは、扉に額を押し付けたまま、崩れ落ちた。


まただ。

また、友人を救えなかった。


坂本さんと同じように、高木も、そのささやかな幸福と共に、財団の闇の中へ飲み込まれていった。


上昇するエレベーターの中で、マサルはただ一人、嗚咽を漏らし続けた。

ポケットの中の携帯電話が震えた気がしたが、それに応える力はもう残っていなかった。

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