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沸騰する1999 -黒い雨の聖餐-  作者: クトゥルフ好き


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【Intermission 1: 財団評議会 】

【1999年7月某日 - アーカム財団本部 "円卓の間"】


物理的な所在地は不明。


一説にはスイスの地下深く、あるいは南極の氷床下とも噂される、アーカム財団の最高意思決定機関。

通称「円卓の間」。


漆黒の闇に包まれた巨大なドーム状の空間に、青白い光13体のホログラムが浮かび上がっていた。

彼らこそが「十三賢人」。


中世の錬金術師ギルドを前身とし、数世紀にわたり歴史の裏側で超常的脅威を封じ込め、人類の「正気」と「秩序」を守護し続けてきた支配者たちである。


彼らの信条は一つ。『恐怖を知り、恐怖を解剖し、恐怖を飼いならせ』。

怪異とは排除すべき敵であると同時に、人類が次の段階へ進むための「宿題」でもあった。


『定刻だ。報告を始めよう』

議長席に座る老人のホログラム、「大導師」が静かに告げた。


中央の空間に、南米ジャングルの解析データが立体映像として展開される。

クレーターの中心で脈打つ、赤黒い有機的なドーム。


科学局を統括する「教授」が、眼鏡の位置を直しながら口を開いた。

『落下した天体「マルス」の一次解析が完了しました。……結論から言えば、あれは物質の定義を根底から覆すものです』


教授は、空中に浮かぶ数式を指し示した。


『内部から放出されているナノマシン群を「黒曜」と呼称しました。黒曜は、接触した有機物のDNAを強制的に書き換える性質を持ちます。特筆すべきはそのエネルギー効率です。外部からの摂取なしに、質量を増大させている。つまり、熱力学第二法則を無視し、エントロピーを逆転させています』


『永久機関か』


経済部門を司る「銀行家」が、感嘆と警戒の入り混じった声を上げた。


『人類が欲している、無尽蔵のエネルギー資源になり得る。だが、それほどのエネルギーを、どうやって制御している?』


『そこが問題です』


教授の声が低くなる。


『あれは高度な「知性」を持っていると推測されています。現在は休眠状態にありますが、周囲の環境を学習し、最適化を行っている節がある。現地の生態系を取り込み、地球の環境に適応するための「予備実験」を行っている可能性があります』


『危険だな』


軍事部門の長、「将軍」が腕を組んで唸った。

彼の背後には、世界中の軍事バランスを示す地図が浮かんでいる。


『即時の殲滅を提案する。現地の駐留部隊からは、戦術核使用許可の申請が来ている。適応を完了する前に、物理的に焼き払うべきではないか?』


『待ってください、将軍。それはあまりに短絡的です』


教授が即座に否定した。


『第一に、核攻撃でアレを完全に消滅させられる保証がありません。もし「核攻撃」を学習し吸収して進化したなら、取り返しがつかないことになる。我々はまだ、黒曜の限界を理解できていません』


『それに』と、大導師が引き取った。

『我々の使命は「破壊」ではなく「管理」だ。過去、1947年のロズウェル、1986年のチェルノブイリ……未知の脅威を封じ込め、解析し、その技術を人類の恩恵へ転換した。今回も例外ではないはずだ』


財団の歴史は、勝利の歴史だった。

彼らは数々の邪神や異星のテクノロジーを解析し、糧としてきた自負がある。


『「黒曜」がもたらす遺伝子操作技術とエネルギー革命は、我々を次の領域へと押し上げるに違いない!……捨てるには、あまりに惜しい』

医療部門の長、「錬金術師」が、恍惚とした表情で発言する。


『同意する。ただし、慎重を期すべきだ』

諜報局長、「静観者」が釘を刺した。


『現在、汚染エリアは半径5キロで完全に封鎖できている。黒曜の活動も、計算可能な範囲に収まっている。……今のところは、だが』


大導師が頷き、最終決定を下した。


『よろしい。現状の封鎖体制を維持しつつ、詳細な解析を実施せよ。奴が何を食らい、何を生み出そうとしているのか。そのメカニズムを丸裸にするのだ』


『制御不能の兆候が見られた場合は?』と将軍。


『その時は迷わず核兵器を使え。小国の一つや二つ、地図から消すことになっても構わん。……だが、今はまだその時ではない』


賢人たちは理性的だった。

彼らは愚かではない。

リスクを計算し、最悪の事態への備えも用意していた。


しかし、彼らの計算式には、たった一つの変数が欠けていた。

それは、相手が「こちらの物理法則や論理」に従ってくれるとは限らない不条理さ。


錬金術師が興奮を隠せない様子で、提案した。


『解析だけで済ませるつもりか? これは千載一遇の好機なのだぞ。ただ指をくわえて見ているだけでは、歴史の傍観者になってしまう』


『何が言いたい』

大導師が片眉を上げる。


『「能動的接触」を提案する。封鎖エリア内に、選別された被験体――Dクラス職員や死刑囚でもいい――を送り込み、意図的に「黒曜」に感染させるのだ。その過程を臨床データとして採取する』


『正気か?』

「将軍」が噛みついた。


『感染リスクを拡大させるなど言語道断だ。我々の任務は封じ込めだぞ。壁の中で怪物を飼うだけでも危険なのに、餌を与えてどうする』


『怪物ではない! これは「触媒」だ!』

錬金術師が声を荒げた。


『教授のデータを見ただろう? エントロピーの逆転。これは、我々が数世紀かけて追い求めてきた「賢者の石」そのものじゃないか。人類は行き詰まっている。遺伝子の限界、寿命の限界、資源の限界……この閉塞した種を次の段階へ引き上げるには、黒曜が必要なのだ』


『それは科学者のエゴだ』

将軍が冷たく切り捨てる。


『不確定な未来のために、秩序を危険に晒すわけにはいかん』


『フン、そんなものは我々が作り出した幻影に過ぎん』

錬金術師は鼻で笑った。


議論が平行線を辿りかけた時、教授が口を開いた。

『……錬金術師の提案にはリスクがあるが、一理ある』


賢人たちの視線が教授に集まる。


『我々は「マルス」を知性体と仮定している。ならば、向こうも我々を観察しているはずだ。ただ壁を作って閉じ込めるだけなら、我々を「障害物」と認識し排除にかかるかもしれない。だが、もし我々が「対話」や「取引」の意思を示せば?』


『取引だと? 宇宙からの侵略者とか?』

銀行家が呆れたように言った。


『侵略者ではない。「来訪者」だ』

教授は冷静に訂正した。


『彼らの目的が「種の融合」や「同化」にあるなら、そのプロセスを一部受け入れることで、制御を握れる可能性がある。完全に拒絶すれば、強硬手段に出るだろう。つまり、適度な「ガス抜き」として、生贄を与えることは戦略的に有効だ』


『……毒をもって毒を制す、か』

静観者が呟いた。


『過去、我々が異界の神々と契約を結んだ時のようにか。……リスクは高いが、リターンも計り知れないな』


『待て待て、君たちは楽観的すぎる』

将軍が机を叩いた。


『相手の論理が理解可能であるという前提が間違っている。もし奴らが、我々の概念における「取引」など通用しない、純粋な捕食者だったらどうする? 扉を開けた瞬間に、世界中が食卓に変わるぞ』


『だからこその「実験」ではないか』

錬金術師が食い下がる。


『まずは小規模に試すのだ。南米の隔離区画内で、厳重な監視下でな。もし暴走の兆候があれば、その時こそ将軍、君の自慢の軍隊で焼き払えばいい』


円卓の間に、重い沈黙が流れた。

賢人たちは、それぞれの手元にある端末で、リスク計算と利益予測を高速でシミュレーションしていた。


財団の歴史は、常に「綱渡り」の連続だった。


安全な道だけを選んでいては、人類を守ることはできない。

時には、深淵を覗き込み、深淵から力を奪い取る大胆さが必要だと、彼らは経験則で知っていた。


『……決を採ろう』


長い沈黙の後、大導師が静かに言った。


『封じ込め、詳細解析に加え、限定的な「生体接触実験」を承認するか否か。……私は承認する。知恵の実を前にして、それを齧らぬ者は賢者ではない』


『承認』錬金術師が即答する。

『……承認。データは多い方がいい』教授。

『承認。ハイリスク・ハイリターンは好むところだ』銀行家。

『……留保だが、監視体制の強化を条件に承認する』静観者。


次々と青い光が点灯していく。

最後に、将軍が深いため息をついた。


『……反対だ。だが、決定には従う。その代わり、熱核兵器の即時発動権限は私が預かる。いざという時は、君たちの実験ごと灰にするぞ』


『それで構わん』

大導師が頷いた。


『決定した。南米の封鎖エリアにて、「接触実験」を開始する。……諸君、忘れるな。我々は神を演じているのではない。神を「管理」する看守なのだ。手綱を緩めるなよ』


大導師が会議を終了させようとした、その刹那。

軍事部門の長、「将軍」が、鋭い声で制止した。


『待て。もう一つ、懸念事項がある』


ホログラムが、南米の封鎖エリア周辺の「精神汚染率」を示すグラフを展開した。

赤い曲線が、危険域に向かって急上昇している。


『物理的な封じ込めは、現地の隔壁と軍隊でなんとかなるだろう。だが、マルスが発している「歌」はどうする?』


『歌、だと?』


『比喩ではない。現地部隊からの報告だ。黒曜の影響圏内にいる兵士たちが、共通の幻聴――「甘い囁き」や「故郷の歌」――を聞き始めている。これはミーム汚染だ。物理的な壁では、「歌」は防げん』


賢人たちの間に緊張が走る。


相手が物理法則だけでなく、人間の認知領域にまで侵食してくるとなれば、話は別だ。

どれだけ頑丈な檻を作っても、看守の心が狂わされれば、鍵は内側から開けられてしまう。


『確かに……』

静観者が頷く。


『情報統制チームの中にも、精神錯乱を起こして「愛している」と叫びながら自害した者が数名出ている。このままでは、実験を始める前に現場が内部崩壊するぞ』


『ならば、あれを使うしかないな』

静かに口を開いたのは、科学と魔術の境界を研究する教授だった。


教授は、手元のコンソールを操作し、新たなウィンドウを開いた。

そこに映し出されたのは、液体で満たされた巨大な円筒形の水槽が、無数に並ぶ地下施設の映像だった。


それぞれの水槽の中には、無数のコードに繋がれた「人間の脳」だけが、あるいは脳髄を剥き出しにした「子供たち」が、羊水の中で眠るように浮遊している。


『「オルフェウス・システム(System: ORPHEUS)」の起動を提案する』


『オルフェウス……。あの「人柱」どもか』

錬金術師が嫌悪と称賛の入り混じった声を上げる。


『説明しよう』

教授が続ける。


『これは、世界中から回収した「特異な精神波長を持つサイキッカー」や「霊的感受性の高い孤児」の脳を並列接続し、人工的な「集合無意識」を形成するシステムだ』


映像の中の脳たちが、微弱な電気信号を一斉に明滅させる。


『彼らに、強力な「正常性維持バイアス」――つまり、「世界は常識的であり、怪異など存在しない」という強力な信号を、24時間絶え間なく詠唱させる。これを現地の精神波長に割り込ませることで、敵の「歌」をジャミングし、汚染を中和する』


『……人間の脳を、ノイズキャンセリングの部品にするというわけか』

将軍が皮肉っぽく笑った。


『相変わらず、科学局の発想はえげつないな』


『効率的と言ってくれたまえ』

教授は表情を変えない。


『軍隊が物理的な「剣」なら、オルフェウスは概念的な「盾」だ。このシステムを展開すれば、現場の兵士や研究員は正気を保てる。同時に、マルスからの精神的なハッキングも防げるはずだ』


『副作用は?』バンカーが尋ねる。


『中継器となる「脳」たちは、敵の歌を直接受け止めることになる。……数時間で焼き切れるだろうな。だが、予備の「部品」は地下冷凍庫に3,000体ほどストックがある。期間中は持つはずだ』


部品。


彼らは、特殊な能力を持って生まれた人間を、消耗品として計算していた。

その冷徹さこそが、財団が守護者たり得た理由であり、同時に最大の罪でもあった。


『……承認しよう』


大導師が重々しく頷いた。

『精神防壁なくして、神への接触は不可能だ。オルフェウス・システムを最大出力で南米エリアへ展開せよ。……「沈黙の歌」で、あの忌まわしい求愛の歌を塗り潰すのだ』


『御意』

『直ちに接続を開始する』


賢人たちの顔に、再び自信の色が戻る。


『今度こそ、解散だ。……良き終末を(Have a nice Apocalypse)』


通信が切断される。


暗闇に戻った円卓の間。


彼らの決定と同時に、世界の裏側にある地下施設では、無数の水槽の中で眠る「脳」たちが、強制的に覚醒させられ、無言の絶叫を上げ始めていた。


それは、狂気を狂気で蓋をする防波堤だった。

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