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沸騰する1999 -黒い雨の聖餐-  作者: クトゥルフ好き


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【Episode 3: 彗星】

世紀末、世界は「熱」と「愛」に溶かされた。狂気と変異のパンデミック・ホラー。

【1999年7月某日 午後9時30分 - 山本家 リビング】


洗面所で、冷たい水を顔に叩きつけた。

滴る水滴が熱を奪っていく。


タオルで顔を拭きながら、深く息を吐いた。


(落ち着け。吐くな。家族に心配をかけるな)


鏡の中の自分に向かって、無理やり口角を上げてみせた。

不自然だが、笑顔には見える。


「お待たせ。いやー、やっぱ冷房病かな。ちょっとクラッときただけだよ」

マサルは努めて明るい声を出し、リビングの引き戸を開けた。


空気は少し重かったが、家族たちはマサルの帰還に安堵の表情を見せた。


「もう、驚かせないでよ。お兄ちゃんが倒れたら、誰が私の宿題見るのさ」

妹のヒナが、茶化すように言った。その目にはまだ少し心配の色が残っている。


「悪い悪い。ほら、梨食べるんだろ? 頂くよ」

マサルはソファに腰を下ろし、母が差し出したガラスの器から、梨を一切れ手に取った。


白く、瑞々しい果肉。

彼は躊躇いなくそれを口に放り込み、噛み砕いた。


シャクッ。

冷たい果汁が広がる。


瞬間、臭いと、果実の甘みがリンクしようとする。

(これは梨だ。ただの果物だ。)


「……うん、甘いな。これ、美味いよ」

平然と飲み込み、母に微笑んで見せた。


その姿に、母のアキナもようやく心からの安心を見せ、「良かった、食欲はあるみたいね」と胸を撫で下ろした。


【同日 午後11時45分 - テレビの中の狂騒】


リビングのテレビは、世紀末の興奮に包まれていた。


『緊急生放送! 人類運命の刻!? 彗星マルス・カウントダウンスペシャル』という特番が放送されている。


「さあ皆さん! ノストラダムスの大予言、1999年7の月! 恐怖の大王はこの彗星マルスのことなのか!? 今夜、その答えが出ます!」


リビングの空気は、テレビ画面から放たれる極彩色の光で満たされていた。


マサルが梨を食べ終える頃、特別番組はいよいよ本題へと切り込んだ。

おどろおどろしい効果音と共に、画面に『徹底解剖! 彗星マルスの正体!』というテロップが踊る。


「さて、そもそも今夜地球に接近する『彗星マルス』とは何なのか? ご存じない方のために、もう一度おさらいしておきましょう!」


司会者が指示棒で巨大なフリップを叩く。そこには、禍々しい赤い尾を引く彗星のイラストが描かれていた。


「発見されたのは、なんと今年に入ってから! 突如として太陽系外縁部から現れた天体です。最大の特徴は、この燃えるような『赤色』! 酸化鉄を多く含む塵を纏っているためと推測されていますが、その姿が戦いの神・マルスを連想させることから、この名が付けられました」


「特徴は太陽系外から飛来したこと。人類が確認した初めての太陽系外から飛来した天体なんです!」


画面が切り替わり、CGシミュレーション映像が流れる。

暗黒の宇宙空間を、赤い彗星が疾走している。


「そして! 何より世界中を震撼させているのが、あのノストラダムスの大予言です!」


『1999年7の月、空から恐怖の大王が来るだろう』


ナレーターの重低音が響き、スタジオがわざとらしく静まり返る。


「まさに今月! そしてこの赤い彗星! オカルト界では『これこそが大王だ』『人類滅亡のカウントダウンだ』と騒がれていますが……先生、実際のところはどうなんでしょうか?」


司会者が水を向けると、東大教授の天文学者が、笑いながらマイクを取った。


「面白い偶然の一致ですね。ただ、それだけですよ」


教授は、指示棒を奪い取って軌道図を指し示した。


「いいですか、皆さん。彗星というのは、いわば『汚れた雪だるま』です。氷とガスと塵の塊に過ぎない。今回のマルスの軌道計算は出ています。地球と月の間、約30万キロの彼方を通過するだけです。宇宙規模で見れば『接近』ですが、我々の生活には、そよ風ほどの影響もありませんよ」


「へぇー、雪だるまなんですか! じゃあ、溶けちゃうかも?」

女性タレントが間の抜けたコメントをし、スタジオに安堵の笑いが広がる。


「その通り。太陽に近づいて溶けたガスが、あの赤い尾の正体です。恐怖の大王どころか、宇宙からの『暑中見舞い』といったところでしょう。今夜は安心して、美しい天体ショーを楽しめばいいんです」


教授の断言。


「なーんだ」「予言なんて嘘じゃん」という空気が、テレビの中からお茶の間へと伝染していく。


マサルは、その解説を無表情で聞いていた。


(汚れた雪だるま……か)


教授の説明は、科学的には正しいのだろう。


「え? お兄ちゃん何か言った?」

隣でポテトチップスを食べていたヒナが振り返る。


「いや……あの先生、偉そうだなと思って」


「あはは、確かに! でも頭いいんでしょ? 先生が言うなら大丈夫だよ」


ヒナは笑い、再び画面に見入った。


マサルは、妹の横顔と、画面の中の赤い彗星を交互に見た。

「……そうだな。大丈夫だといいな」


「見て見て! ライブ映像だって!」

ヒナが指差す先、画面が南米チリの天文台からの中継映像に切り替わった。


漆黒の闇の中、毒々しいほどに赤く、長い尾を引く彗星が映し出される。


「うわ、赤い! すっごーい!」

「なんか、血みたいな色ね……」


ヒナは、画面に向かって手を合わせている。

「高校合格! 素敵な彼氏! あと、お小遣いアップ!」


「欲張りすぎ」と笑う母。


【同日 午後11時58分 - 軌道の逸脱】


異変は、唐突に訪れた。


スタジオの天文学者が「さあ、ここからが最接近の……」と言いかけた時だった。


画面の中の赤い彗星が、不自然に「止まった」ように見えた。


次の瞬間、滑らかな放物線を描いていたはずの軌道が、直角に近い角度で折れ曲がった。

獲物を見つけた猛禽類が急降下するかのように。


『あ……あれ?』


ワイプ画面に映る天文学者の笑顔が凍りついた。


『え、ちょっと、モニターの故障ですか? 映像が……』


「先生! 彗星が大きくなってませんか!?」

タレントの悲鳴に近い声。


中継映像の彗星は、急速に画面いっぱいに膨張していた。つまり、カメラに向かって――地球に向かって、突っ込んできている。


スタジオの空気が一変した。


「おい、これ大丈夫なのか?」


「軌道が変わったぞ! どうなってるんだ!」


裏方のスタッフの怒号が、マイクを通して漏れ聞こえてくる。

画面下部に表示されていた「最接近まであと○○km」というカウンターの数字が、凄まじい速度で減少し始めた。


『えー、現在、予想外の動きを……軌道の計算に誤差が……いえ、ありえない! 重力干渉にしては急すぎる!』


天文学者が狼狽し、立ち上がる。


スタジオはパニック状態に陥った。


「中継を切れ!」

誰かの絶叫が響き渡り、カメラが激しく揺れる。


リビングの空気も凍りついた。

ヒナが手を合わせたまま、震える声を出した。


「……ねえ、嘘だよね? 」


「マサル、これ……」

母がマサルの腕を掴む。その力は痛いほど強かった。


冗談や演出ではない。画面の向こうの大人たちが取り乱している。

その恐怖が、ブラウン管を通して伝染したのだ。


マサルは、自分でも驚くほど震えた声で言った。

「地球の裏側だ。南米だろ? ここまで衝撃は来ない」


気休めだった。あのサイズの天体が衝突すれば、地球規模の災害になる。


【同日 午後11時59分 - 着床】


『来るぞ! 衝撃に備えてください!!』


アナウンサーの絶叫と共に、画面がホワイトアウトした。


ヒナが悲鳴を上げ、カエデが耳を塞ぎ、母が二人を抱きかかえるようにして屈み込んだ。


マサルも身構えた。


……しかし。

衝撃波は来なかった。


爆音も、地響きも、窓ガラスが割れる音もしない。


中継画面は砂嵐になり、ザーーーッという音だけが響いている。


静寂。


「……あれ?」


ヒナが恐る恐る顔を上げる。

「落ちたの? なんで音がしないの?」


その時だった。


ドクン。


音ではない。

空気の振動でもない。


心臓が、部屋の空気が、地球の重力が、一瞬だけ大きく脈打ったような感覚。

足元の床がヌルリと揺らいだ気がした。


マサルは窓の外を見た。


夜空は、何事もなかったかのように静かだ。


『……えー、現地との通信が途絶えました。繰り返します、映像が途絶えました』


スタジオの引きつった顔のアナウンサーが映し出された。


『現在のところ、衝突の衝撃などは確認されていません。……彗星は、大気圏で消滅、あるいは……分解した模様です』


「消滅……?」

カエデが呆然と呟く。


「なんだ、消えちゃったんだ。びっくりさせないでよー」

ヒナがへなへなと座り込み、引きつった笑いを浮かべた。


母も深く息を吐き、涙ぐんでいる。


アナウンサーは顔面蒼白で、唇を震わせながらイヤーモニターを押さえている。

『繰り返します。衝突の衝撃は……観測されていません。地震計、気圧計ともに反応なし。……そんな、馬鹿な』


アナウンサーが原稿を無視して呟いた。

隣に座る天文学者が叫んだ。


「直径数十キロの物体が地表に激突して、ゼロなんてことがあるか! 質量保存の法則はどうなったんだ!」


スタジオはパニックを超えて、狂乱の様相を呈していた。


「消滅した? 蒸発したっていうのか?」


「馬鹿言え! 核兵器を何発撃ち込んだって、あんな巨大な天体が一瞬で消えるわけがないだろう!」


「じゃあどこに行ったんだよ! 地球をすり抜けたとでも言うのか!」


掴み合いになり、フリップが床に散乱する。


リビングの空気は重く澱んでいた。


「……ねえ、お母さん」

カエデが震える声で言った。


「消えたって、どういうこと? あの大きさの石が、なくなるわけないじゃない」


「わ、わからないわよ……」

彼女は自分の二の腕を強く抱きしめ、ガタガタと震えていた。


「でも、ぶつからなかったんでしょう? だったら、良かったじゃない……」


「良くないよ!」

ヒナが叫んだ。その目には涙が溢れている。


「気持ち悪いよ! あんなのが空から降ってきて、音もなく消えるなんて……絶対おかしいよ! 」


テレビでは、コメンテーターが喚いている。

「落ち着きましょう。我々は試されているんだ!」


マサルは、ただ黙って画面を見つめていた。


物理的にあり得ない。その通りだ。

質量が消えるわけがない。


ならば答えは一つ。


「質」が変わったのだ。


固体という物理的な質量が、別の形へ。

そうでなければ説明がつかない。


「……お兄ちゃん」

ヒナがマサルの服の裾を掴んだ。


「ねえ、何か言ってよ。大丈夫だって言ってよ」


マサルは、妹の震える手を見つめた。


だが、喉元まで出かかったその言葉は、口の中で砂のように崩れ落ちた。


「……今日はもう、寝よう」


「ニュースを見てても分からない。明日になれば、詳しいことが分かるはずだ」


「明日……」


カエデが虚ろな目で呟く。

「明日なんて、来るのかな」


その言葉は、重くリビングに落ちた。


家族たちは、互いに逃げるようにそれぞれの部屋へと戻っていった。

誰も一人になりたくないが、リビングに留まることも耐えられなかったのだ。


マサルは一人、リビングの電気を消した。

暗闇の中、テレビの電源ランプだけが赤く光り、こちらを見ている。


彼は自室に戻り、デスクの上の「乾燥した奇妙な胎盤」を見つめた。

月明かりの下、乾燥していたはずのその表面は、汗をかいたように濡れ、ぬらぬらと黒光りしていた。


そして、マサルは見た。

胎盤の表面に刻まれた幾何学模様が形を変えているのを。


窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。

夜闇に紛れて見えないが、窓ガラスを叩くその雨粒は、おそらく透明ではない。

――これは、僕が僕でなくなるまでの、最後の数ヶ月の物語。

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