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沸騰する1999 -黒い雨の聖餐-  作者: クトゥルフ好き


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2/14

【Episode 2: 怪異】

【1999年7月某日 午前7時30分 - 山本家】


その日も、纏わりつく湿気と熱気に包まれていた。


マサルが目を覚ますと、味噌汁の匂いと、包丁がまな板を叩くリズミカルな音が聞こえてきた。


「お兄ちゃん、早くしないと遅刻するよ!」


リビングに入ると、妹のヒナが食パンをかじりながら声を張り上げた。

彼女は中学の制服に身を包み、テレビの占いコーナーに一喜一憂している。


「うるさいな、まだ余裕あるだろ」


マサルはあくびを噛み殺しながら、食卓の自分の席についた。

目の前には、炊きたての白いご飯、豆腐とワカメの味噌汁、焦げ目のついた厚焼き玉子が並んでいる。


「顔洗ってらっしゃい。寝癖ついてるわよ」


台所から母のアキナが顔を出し、呆れたように笑った。

エプロン姿の母は、いつものように家族の世話を焼いていた。


「今日、帰り遅いの?」


姉のカエデが、コーヒーを飲みながらPHSをいじりつつ尋ねてくる。


「いや、定時で上がれるはずだ。月末の報告書だけだからな」


「ふーん。じゃあ、帰りにコンビニでアイス買ってきてよ。あの新作のやつ」


「自分で買えよ」


「ケチ」


たわいもない会話。テレビでは「ノストラダムスの大予言」を揶揄するバラエティ番組が流れているが、ヒナもカエデも「またやってるよ」と笑い飛ばしている。


「ねえお兄ちゃん、本当に1999年に空から恐怖の大王が来ると思う?」


ヒナがふざけた調子で聞いてきた。


マサルは、味噌汁を一口すすりながら答えた。


「来るわけないだろ。」


家族全員が笑っていた。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい、気をつけてね」


母の声に見送られ、マサルは玄関を出た。


強烈な夏の日差しがアスファルトを焼き、陽炎を揺らしている。


【同日 午後2時00分 - アーカム財団日本支部 地下施設】


地上の熱気が嘘のように、財団の地下回廊は冷え切っていた。

分厚いコンクリートと空調システムによって管理された空間は、常に一定の温度に保たれている。


マサルは、第4資料編纂室の自席で、大きなあくびを噛み殺した。


午前中は、南米から届いた「未確認生物のミイラ(実際はニホンザルの加工品)」の鑑定報告書を作成することで終わった。午後は、廃棄待ちのオカルト雑誌の山をシュレッダーにかける作業が待っている。


デスクの端には、あの「奇妙な胎盤」が置かれている。

数日前に坂本さんと話した時よりも、表面の色が濃くなっている気がした。


蛍光灯の光を反射せず、吸い込んでいるような、不気味な質感。


何気なくその胎盤に触れた。

マサルは眉をひそめ、胎盤を持ち上げた。


手のひらの上で微かな温もりを発していた。


「おい、ヤマモト」


背後から声をかけられ、驚いて胎盤を取り落としそうになった。

振り返ると、上司である中年の主任が、気だるげな表情で立っていた。


「あ、はい。何でしょう」


「休憩時間じゃないぞ。またそのガラクタで遊んでるのか」


「いえ、すいません。ちょっと整理を……」


主任はため息をつき、手元のバインダーをマサルのデスクに放り投げた。


「仕事だ。行ってきてくれ」


「これは?」


「B-4保管庫エリアだ。『レベル3:有機物質漏洩』のアラートが出ている」


マサルは耳を疑った。


レベル3。

財団の定める危険度ランクにおいて無視できる数字ではない。


本来なら専門の防護班が出動し、エリア封鎖が行われるレベルだ。


「え、レベル3ですか? 私なんかが行っていいんですか? それに、監査部の管轄じゃ……」


「大袈裟なんだよ、あの古いセンサーは」


主任は面倒くさそうに手を振った。


「どうせまた、配管の老朽化による汚水漏れだ。先週も別の施設で誤作動で大騒ぎして、結局はただの下水管破裂だった。今回も同じだ。監査部の連中は今、他の査察で手一杯だそうだ。『資料編纂室の手が空いているなら、一次確認くらいさせろ』とのお達しだ」


「はあ……」


「行って、現場の写真を撮って、センサーのリセットボタンを押してくるだけでいい。ついでに、警備詰所の坂本さんに、報告書のサインをもらってこい」


「坂本さんに? ……分かりました」


マサルの警戒心は少し緩んだ。

あのベテランがいるなら、何かあっても大丈夫だろう。


それに、彼の入れた濃いお茶が飲めるかもしれない。


マサルは、ロッカーから簡易防護マスクと防護服を取り出した。


【同日 午後2時30分 - 地下最深部 B-4エリア】


エレベーターが地下深くへと降りていくにつれ、気圧の変化で耳がツンとする。

B-4エリアは、財団が回収した「危険な有機物」や「呪物」を保管する冷凍保管区画の一つだ。


フロアに到着と同時に、不快な電子音が響き渡っていた。


『警告。レベル3、有機物質漏洩。エリアB-4。汚染物質の拡散に注意してください』


無機質なアナウンスが、誰もいない回廊に反響している。

マサルは防護マスクを装着し、エレベーターを降りた。


「臭いな……」


マスク越しでも分かるほどの、強烈な異臭が漂っていた。


真夏の炎天下に放置された生ゴミの袋を開けた時の臭いと鉄錆のような臭い。それらをミキサーにかけて煮詰めたような、濃厚で甘ったるい腐臭だった。


(配管の破裂? 本当にそうか?)

だが、上司の命令を無視して逃げ帰るわけにはいかない。


「坂本さん? いらっしゃいますか?」


マサルは、通路の途中にある警備詰所を覗き込んだ。


無人だった。


飲みかけのお茶がデスクに置かれたままで、警備日誌は開かれている。

モニターにはB-4エリアの監視カメラ映像が映っているはずだが、ノイズが走って何も見えない。


(巡回中か……?)


マサルは意を決して、異臭の源を探す。

更に、保管庫区画へと続く、長い廊下を進んだ。


足音が、やけに大きく響く。

角を曲がった先。B-4保管庫のメインゲート前。


そこでマサルが目撃した光景は。


分厚い鋼鉄の扉と強化ガラスの窓で仕切られた保管庫区画の内側。

そこに、坂本さんがいた。


いつもの柔和な笑顔の老警備員ではない。

ガラス窓に顔がへばりつき、血走った目でマサルを見つめ、必死に拳でガラスを叩いていた。


「マサルくん!! 開けてくれ!! 開けてくれ!!」


ガラス越しでも聞こえる絶叫。

恐怖が空気を振動させて伝わってくるようだ。


「坂本さん!? どうしたんですか!」


マサルは駆け寄り、窓に手を当てた。


「後ろ! 後ろだ! 何かいるんだ! 保管庫から、何か変なのが!」


坂本さんが指差す背後。


鋼鉄扉が内側から飴細工のようにねじ切られ、半開きになっていた。

暗闇を這い出し、床を埋め尽くして押し寄せてくる「それ」が見えた。


「沸騰する赤黒い肉塊」


それは、生き物と呼ぶには冒涜的だった。

数十人分の挽肉をぶちまけたような、巨大な腫瘍が動き出したような、不定形のゲル状物質。


表面はボコボコと沸騰するように泡立ち、破裂するたびに黄色い膿とガスを噴出している。

人間の眼球や、歯、指のようなパーツが浮き沈みしていた。


「な、なんだあれ……」


マサルの思考が停止する。


オカルト雑誌の編集で見たどんな怪物とも違う。

これは、根源的恐怖を呼び起こす存在だ。


「来るな! 来るなあああ!」


坂本さんが警棒を振り回すが、肉塊は津波のように押し寄せ、彼の足元を呑み込んだ。


ジュッ、ジュウウウウウウウ!


肉が焼ける音。

いや、違う。溶解する音だ。


「ギャアアアアアア!! 熱い!! 痛い!! マサルくん、助けてくれ!!」


肉塊に触れた坂本さんの防護ズボンが一瞬で溶け落ちた。

露出した足の皮膚が、バターのように溶け、赤い筋肉と白い骨が露わになる。


肉塊はさらに激しく沸騰し、坂本さんの太腿へと這い上がっていく。


「開けてくれ! 開けてくれよォォ!」


坂本さんがガラスを叩く手が、血で染まっていく。


パニックに陥り、操作パネルに自分のIDカードを叩きつけた。


「開け! 開いてくれ! 頼む!」


『エラー。セキュリティレベル不足。権限がありません』


マサルの権限では、この最重要隔離区画のロックを解除することはできない。


「くそっ! くそっ! なんでだよ!」


マサルはガラスを蹴り、叩き、叫んだ。


坂本さんが崩れ落ちていた。

肉塊は腰まで達し、彼の下半身をドロドロのスープに変えて消化している。


坂本さんと目が合った。恐怖と痛みと、そして見殺しにされ絶望に染まった目だった。


坂本さんが、最期に呟いたように見えた。


カツ、カツ、カツ。


その時、マサルの背後から、場違いなほど冷静で、規則正しい足音が近づいてきた。

マサルが振り返ると、そこには黒いスーツを着た数人の男たちが立っていた。


表情を隠す黒いバイザー付きのヘルメットを装着している。

胸元には「監査部(内部統制局)」のエンブレム。


彼らは、ガラスの向こうで溶解していく坂本さんを見ても、動揺一つしなかった。


先頭に立った隊長らしき男が、手元の端末を見ながら淡々と言った。

「現着。状況確認。レベル3バイオハザード。汚染源、特定。……処理対象、特定。」


マサルは男に掴みかかった。

「おい! 何とかしてくれ! まだ生きてるんだ! 早くドアを開けて助け出してくれ!」


マサルを見ようともしなかった。

部下の一人が無言でマサルの腕を掴み、床にねじ伏せる。

「離せ! 坂本さんが!」


その男は、首まで肉塊に呑み込まれようとしている坂本さんを一瞥し、無線に向かって報告する。

「救助は不可能と判断。コード44『インシネレーター』を申請」


「 何言ってるんだお前!」

マサルが叫ぶ。


『司令部より、承認。直ちに処理せよ』

無線から事務的な声が答える。


「処理を開始する」

隊長が壁面のコンソールにある赤いボタンを押した。


その瞬間。

B-4隔離区画の天井と床、四方の壁に設置されたノズルが一斉に開いた。


ボッ!!!!

轟音と共に、区画内が純白の光に包まれた。


火炎放射器のような生ぬるいものではない。

防疫用の、数千度の高熱ガスバーナーによる、瞬間焼却システムだ。


「ギ……」


マサルが見ている目の前で、ガラスの向こうの世界が業火に塗り潰された。

沸騰する肉塊も、坂本さんも、すべてが圧倒的な熱に消えた。


数秒後、噴射が止まった。

区画内のスプリンクラーが作動し、シューという音と共に白い蒸気が立ち込める。


ガラスの向こうには、黒く炭化した壁と、床にこびりついた「染み」だけが残されていた。


マサルは、床にへたり込んだまま、その染みを凝視していた。


理解が追いつかない。


「……あ……あ……」


口から漏れるのは、言葉にならない空気だけ。


隊長が、ゆっくりとマサルの方を向いた。

黒いバイザーに、マサルの呆然とした顔が映っている。


「君が見たものは」

隊長の声は、合成音声のように抑揚がなかった。


「配管の破裂事故だ。いいね?」


マサルは震える首を上げることもできない。


「君が見たのは、有毒ガスによる幻覚だ。配管の老朽化による事故で、警備員一名が殉職した。それ以上でも以下でもない」


男は、マサルの胸ポケットからIDカードを抜き取り、端末でデータをスキャンした。


「ヤマモト研究員。君の雇用契約書、第12条を思い出せ。守秘義務違反は、即時の解雇だけでない。君の親族への監視対象指定を含む、厳正な処分が下される」


親族。

その言葉が出た瞬間、マサルの脳裏に、今朝の食卓の風景が浮かんだ。


母の笑顔。カエデの皮肉。ヒナの無邪気な問いかけ。

それらが、人質に取られたのだと理解した。


「……は、い……」


マサルは、その言葉を絞り出した。


「よろしい。今日は帰っていい。明日からは通常業務だ」

隊長はIDカードをマサルに投げ返し、部下たちと共に踵を返した。


彼らは、何事もなかったかのように去っていく。


マサルは、無人の回廊で一人、立ち尽くした。


鼻の奥に、強烈な臭いがこびりついて離れない。

腐った果実と、煮詰まった肉の臭い。


そして何よりも、焼けた友人の匂い。


【1999年7月某日 午後5時30分 - アーカム財団日本支部 第4資料編纂室】


マサルは、自分のデスクに戻っていた。


第4資料編纂室は静まり返っていた。

空調の低い唸り音だけが、変わらぬリズムで響いている。


「お、ヤマモト。戻ったか」


上司の声。ビクリと肩を震わせた。

主任は、手元のコーヒーカップに口をつけながら、パソコンの画面から目を離さずに言った。


「どうだった? やっぱり誤作動だったろ?」


マサルは、乾いた唇を無理やり引き剥がした。


「……はい。配管の……老朽化による、誤作動でした」


自分の口から出た言葉が、他人のもののように聞こえる。


嘘だ。


あそこには、沸騰する肉塊があった。助けを求める友人がいた。

そして、それらはすべて灰にされたのだ。


「だろうな。監査部の連中も大袈裟なんだよ。ま、ご苦労さん。今日はもう上がっていいぞ」


「……あの、前にも同じようなことがあったって」


マサルは、震える声で尋ねた。


「さっき言ってませんでしたか」


主任は、面倒くさそうに顔を上げた。


「ああ、ガス漏れで少し気分が悪くなったとかで、大したことなかったらしいぞ」


マサルの奥歯が、ギリリと音を立てた。


「……そうですか」


マサルはそれ以上、何も言えなかった。


監査部の男の言葉が、呪いのように脳裏に焼き付いている。

『他言すれば、厳正な処分が下される』。


マサルは椅子に座り込んだ。

デスクの端には、いつものように「奇妙な胎盤」が置かれている。

誰にも見向きもされないガラクタ。


マサルは無意識に、その乾いた表面を指でなぞった。


熱い。

気のせいではない。確かに、この胎盤は熱を持っている。


【同日 午後6時45分 - 帰路】


財団のビルを出ると、夕暮れの東京は湿気と騒音に満ちていた。

アスファルトから立ち上る陽炎。耳をつんざくようなミンミンゼミの大合唱。


行き交うサラリーマンや学生たちは、誰もが汗を拭いながら、「暑い暑い」と不満を垂れている。


マサルは、満員電車に揺られながら、世界が異物になったような感覚に襲われていた。


吊り革を掴むサラリーマンの手が、溶解した肉塊に見える。

女子高生の笑い声が、坂本さんの断末魔と重なって聞こえる。


(臭う……)


マサルは自分の袖口に鼻を近づけた。

消毒液の匂いと、微かな汗の匂い。

だが、それらを押しのけて、鼻の奥深くにこびりついている匂いがあった。


甘ったるい腐臭。


あの独特の甘ったるく、焦げ付いた悪臭。

何度鼻をすすっても、口呼吸をしても、その匂いは消えない。


それは鼻腔の粘膜に染み付いているのではない。マサルの記憶に刻み込まれてしまった臭いだった。


電車の窓に映る自分の顔は、青白く、死人のように生気がなかった。


ガラスの向こうには、東京の街並みが流れていく。


【同日 午後7時30分 - 山本家】


「ただいま」


玄関のドアを開ける。

いつもの匂い。家の匂い。


洗剤の香り、畳の匂い、そして台所から漂う夕食の匂い。


「おかえりなさい、お兄ちゃん!」


パタパタと廊下を走って、妹のヒナが出迎えてくれた。

Tシャツに短パンというラフな格好で、手にはテレビのリモコンを握っている。


「遅かったね。お腹空いたでしょ? 今日ね、お母さんが気合入れてご馳走作ってるよ!」


「……ああ、ただいま」


マサルは靴を脱ぐ。足が鉛のように重い。


ヒナの笑顔が直視できない。


もし、彼女が知ったら。

もし、あの「肉塊」がこの家まで溢れ出してきたら。


想像するだけで、心臓が早鐘を打つ。


「顔、白くない? 大丈夫?」


リビングに入ると、カエデがソファから顔を出した。


「ちょっと、夏バテ気味でな。地下は冷房が効きすぎてるし、外は暑いし」


マサルは掠れた声で言い訳をした。


「あら、マサル。おかえり」


台所から、アキナがお盆を持って現れた。

大皿が、テーブルの中央に置かれる。


「今日はあなたが好きなものにしたわよ。忙しそうだったから、精がつくようにね」


母が誇らしげに蓋を開けた。

そこにあったのは、山本家の定番にして、マサルの大好物だった。


「豚の角煮」。


長時間煮込まれ、箸で切れるほど柔らかくなった豚のバラ肉。

醤油と砂糖、そして酒で煮詰められたタレは、濃厚な飴色に輝いている。

脂身は、半透明のゼリーのようにぷるぷると震え、熱々の湯気を上げていた。


「わあ、美味しそう! いただきまーす!」


ヒナとカエデが歓声を上げ、箸を伸ばす。


しかし、マサルは動けなかった。

視線が、大皿の上の「肉」に釘付けになる。


ドクン。


心臓が嫌な音を立てた。


坂本さんの絶叫が、脳内でリフレインする。

目の前の角煮が、ブクブクと泡立ち、人の顔のような形を作っては崩れていく幻覚が見える。


「……っ、う……」


マサルは口元を手で覆った。

胃の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくる。


唾液が溢れ出し、冷や汗が背中を伝う。


「マサル? どうしたの、食べないの?」


母が不思議そうに尋ね、角煮の一切れをマサルの茶碗に乗せようとした。


箸で持ち上げられた肉塊。

その脂身が、重力に従ってとろりと垂れ下がる。


「やめろッ!!!」


マサルは叫び、反射的に母の手を払いのけた。


角煮がテーブルに落ち、赤黒いタレが白いクロスに飛び散った。


室内が凍りついた。


ヒナが箸を止め、驚いた目でマサルを見ている。

カエデも携帯を置き、母は呆然とマサルを見つめていた。


「マサル……? 何よ、急に大きな声出して」


母の声が震えている。

マサルは、荒い息を吐きながら立ち上がった。


視界が揺れる。テーブルの上の肉が、まだ脈打って見える。


「ごめん……。無理だ……。食べられない……」


「気持ち悪いの? 病院行く?」


「違うんだ……。違う……」


マサルは椅子を蹴倒すようにして背を向け、トイレへと駆け込んだ。


「オェェェェッ!!」


胃の中には何もないはずなのに、黄色い胃液だけが喉を焼いて吐き出される。


便器にしがみつきながら、マサルは泣いた。

母親は慌てて付いていき、マサルの背中を撫でていた


「夏バテかしらね……」


「お兄ちゃん、最近変だよ」


家族の会話。


鼻の奥には、甘ったるく焦げた死臭がこびりついて離れなかった。

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