LAST EPISODE 世界の終わり、夏の終わり
世紀末、世界は「熱」と「愛」に溶かされた。狂気と変異のパンデミック・ホラー。
高度三万六千キロメートル。
そこは、地球という惑星が纏う大気の膜すらも遥か眼下に霞む場所であった。
静止軌道上に浮かぶその巨体は、神話の時代から抜け出してきたような威容を誇っていた。
全長五千二百メートル。
人類が有史以来積み上げてきた科学技術と、南極の氷床下から発掘された神性の骸を合体させた人造の絶対神。
デミウルゴス。
アンデス山脈を吹き飛ばした人工神は、空高く舞い上がり状況を把握しようとしていた。
白銀の装甲は、太陽光を浴びて冷たく輝いている。
神の肉体は、ナノカーボンと超硬度合金によって置換されていた。
彼の電子頭脳を満たしているのは、憎悪でも正義でもない。
「ターゲット確認。座標、南緯一五度、西経四八度。南米大陸全域」
デミウルゴスの思考が真空を伝播する。
彼の眼下には美しい惑星が横たわっていた。
だが今、その表面は見る影もなく冒涜されていた。
南米大陸を中心にして、赤黒い腫瘍が地球の表面を覆い尽くしている。
もはや大陸ではない。
一個の巨大な癌細胞であり、喘ぎ続ける恥知らずな肉の華であった。
黒曜!
おぞましい粘菌の海は太平洋を越え、ユーラシアへと触手を伸ばし、この星を「死ねない地獄」へと作り変えようとしていた。
デミウルゴスのモノアイが、毒々しい緑色の光を明滅させる。
「脅威判定:惑星環境の不可逆的汚染。」
眼下の光景は悲劇ではない。
「重力カタパルト、展開。反動質量、充填完了」
デミウルゴスの背中から、十二枚の光の翼が展開される。
それは天使の羽ではない。
空間の曲率をねじ曲げ、重力井戸を人工的に生成するための、巨大なフィールド発生装置である。
空間が悲鳴を上げた。
デミウルゴスの周囲の真空が歪み、光さえもねじれる。
彼自身の質量――数億トンにも及ぶ超重量が、相対性理論の檻の中で増幅されていく。
彼は今、巨大なロボットではない。一個の天体になろうとしていた。
「落下シークエンス、開始。」
ズンッ。
真空ゆえに音はない。
だが、全宇宙が身震いするような重い感覚と共に、白銀の巨神が落ち始めた。
暴虐的な加速であった。
音速の壁など、瞬きする間に置き去りにされた。
マッハ十、マッハ二十、マッハ五十……。
加速は止まらない。
大気圏という薄い膜など、彼の前では抵抗にもならない。
デミウルゴスは大気の分子を核融合寸前まで圧縮し、その前面に太陽の表面温度にも匹敵するプラズマの衝撃波を纏った。
白銀の装甲は赤熱し、天から降り注ぐ裁きの槍となって、一直線に南米大陸を目指す。
地上からの視点で見れば、それは空が割れた瞬間であっただろう。
分厚く垂れ込めていた黒い雨の雲が一瞬で蒸発し、真円の穴が開く。
その穴から、太陽よりも眩しい光の矢が、神罰の如く降り注ぐ。
眼下に広がるのは、アマゾンの密林を食い尽くし、アンデス山脈を飲み込んで肥大化した肉である。
緑豊かだったジャングルは、今や巨大な血管の森となり、木々の枝先には無数の眼球が実り、空を見上げていた。
川は膿と体液の濁流となり、大地そのものが呼吸し、脈打っている。
その中心。かつてボリビアの高原だった場所には、黒曜の本体である巨大な「心臓」が鎮座し、世界中から吸い上げた生命を貪っていた。
デミウルゴスが、その醜悪な心臓をロックオンする。
「不潔だ」
彼が抱いた唯一の感想は、それだった。
次の瞬間。
接触。
**ズガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアン!!!!!!**
地球上のあらゆる騒音が、静寂に変わった。
あまりの衝撃音に、大気が許容できる音圧の限界を超えたのだ。
南米大陸の中央に、光のドームが出現した。
それは核爆発のキノコ雲ではない。
地殻そのものが、液状化して宇宙空間へ噴き上がったしぶきであった。
デミウルゴスという名の質量兵器は、豆腐のように易々と貫通した。
数千キロメートルにわたって張り巡らされた防御膜――事象の地平線が、物理的な質量の前では紙細工のように弾け飛ぶ。
だが、デミウルゴスは止まらない。
彼は大陸の岩盤を砕き、マントルに近い深層までめり込み、そしてブレーキをかけた。
その制動エネルギーが、全て熱と衝撃波に変換され、横方向へ炸裂する。
地獄の釜の蓋が開いた。
アンデス山脈の六千メートル級の峰々が、根元からへし折れ、粉々になって空へ舞い上がった。
岩石は摩擦熱で瞬時に融解し、ガラスの雨となって降り注ぐ。
アマゾン川の水は一瞬で蒸発し、その跡地は焼け焦げた巨大なクレバスとなった。
そして、大地を覆っていた「黒い肉塊」たちは。
彼らは、再生する暇もなかった。
デミウルゴスがもたらした運動エネルギーは、細胞の一つ一つを分子レベルで振動させ、その結合を強制的に引き剥がしたのだ。
ブチュッ、グシャッ、ジュワワワワワ……!
大陸全土で、数兆トンもの肉が一斉に破裂した。
内臓が飛び散り、目玉が潰れ、血管が焼き切れる。
「無限再生能力」も、「学習機能」も、すべてが無駄だった。
圧倒的な暴力の前では、小手先の進化など塵に等しい。
衝撃波は、ブラジルからアルゼンチン、チリ、ペルーへと同心円状に広がり、地表にある全ての「不浄なもの」を薙ぎ払っていく。
肉の森は灰になり、骨の塔は砂に還る。
数秒前まで「生体大陸」として脈打っていた南米は、今や赤くただれたクレーターと化した。
もうもうと立ち上る土煙と、肉が焦げる鼻をつく異臭。
その中心。
深さ数十キロメートルにも及ぶ巨大なクレーターの底に、白銀の巨神が立っていた。
その装甲からは、白い蒸気がシューシューと吹き出し、灼熱した赤色が徐々に元の銀色へと戻っていく。
デミウルゴスは、ゆっくりと顔を上げた。
その足元には、すり潰され、原形を留めないほどに破壊された残骸が転がっていた。
かつては威厳ある黒い結晶だったそれは、今や泥まみれのゴミ屑のように砕け散った。
「八二パーセントの物理的消去を確認」
デミウルゴスは、感情のこもらない声で戦果を報告した。
彼は、足元にこびりついた赤黒い粘液―を、汚らわしい泥でも払うかのように、巨大な足で踏みつけた。
グチュリ。
踏み潰された肉片から、断末魔のような低い音が漏れる。
「なぜ、惑星支配が可能だと判断した?」
デミウルゴスは、瓦礫の中に埋もれたコアを見下ろした。
遥か上空、宇宙空間に浮かぶ財団の監視衛星が、その様子を捉えていた。
スイスの地下、円卓の間では、賢人たちがモニターの前で立ち上がり、拍手喝采を送っていた。
「見たか! これぞ科学だ! これぞ人間の英知だ!」
「所詮は肉塊よ! 鋼鉄の理には勝てん!」
彼らは勝利の美酒に酔いしれていた。
彼らは信じて疑わなかった。
勝利の美酒に酔う彼らの中で、たった一人だけ、グラスを手に取れない男がいた。
科学局長、「教授」である。
教授は、周囲の喧騒から切り離されたように、青ざめた顔で自分のコンソールを凝視していた。
彼の手元には、デミウルゴスが衝突の瞬間にスキャンした、黒曜の内部の「データ」が表示されていた。
「……おかしい」
教授は、震える指でキーを叩いた。眼鏡の奥の瞳が、恐怖で見開かれる。
「この配列……この波形……。どこかで見たことがある」
彼は、デミウルゴスが送ってきたデータを、財団が保有する膨大なアーカイブと照合させた。
財団が世界中から回収し、隠蔽してきた神々や怪物のデータベースである。
検索バーが点滅する。
『照合中……』
教授の脳裏に、嫌な予感が過る。
これまで彼らは、今回の敵「彗星マルス」を、太陽系外から飛来したと定義していた。
だからこそ、勝てると踏んだのだ。
だが、もし。
もし、奴が「外」から来たのではなく、「内」から来たとしたら?
『検索完了。』
真っ赤な警告ウィンドウが、教授の網膜を焼いた。
『該当データ:レベルX機密指定文書・コード「ヒルメノミコト」』
「……あ……ああ……」
教授の口から、言葉にならない呻きが漏れた。
モニターに表示されたのは、1945年、敗戦直後の日本。
奈良県の山奥、名もなき超古代遺跡の地下深くから、財団の前身組織が回収した「何か」の記録写真だった。
それは、腐敗した巨大な女性のミイラであり、同時に、植物の根のような触手を地球の核に向かって伸ばしている「星の神経節」の一部だった。
当時の調査員は、こう記していた。
『これは、宇宙から来たのではない。星が生命を生み出し、死を受け入れるための循環器官。再誕の女神。我々はこれを封印する。目覚めさせてはならない。』
教授は、椅子から転げ落ちそうになりながら立ち上がった。
「違う……! 奴はエイリアンじゃない!」
彼の絶叫が、円卓の間の祝賀ムードを引き裂いた。
「将軍! 今すぐデミウルゴスを退避させろ! あれに触れてはならん!」
「何を言っているんだ、教授? もう勝負はついたんだぞ」
将軍が不快そうに眉をひそめる。
「我々はずっと勘違いしていたんだ! 奴は侵略者じゃない……この星の『主』なんだよ!」
教授は、錯乱したように叫んだ。
「デミウルゴスは、異物を排除したんじゃない!あれは、この星そのものだ!」
一方、デミウルゴスは感じ取っていた。
『警告。対象の生体反応、完全消失せず。』
粉々になったはずの黒い破片が、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、微かに震え、集まり始めている。
デミウルゴスは、即座に次なる行動を選択した。
芽は摘まねばならない。
徹底的に、存在そのものを定義から消し去るまで。
「オメガに移行」
巨神の胸部装甲が、重々しい金属音と共にスライドして開いた。
その奥底から、青白い、凍てつくような光が漏れ出した。
それは、1908年にシベリアの森を消滅させたツングースカ・オブジェクト。
無限のエネルギーを内包する、異界の心臓である。
「システム『秩序の歌(Cosmos-Song)』、起動。」
彼の全身から、冷却用の液体窒素と余剰エネルギーの蒸気が白煙となって噴出し、あたかも勝利の凱旋を上げる神の吐息のように見えた。
南米大陸、クレーターの底。
デミウルゴスの足元。泥のように広がっていた黒い染みが、微かに震え始めた。
それは再生の予兆ではなかった。
デミウルゴスの質量攻撃という刺激を受け、仮死状態にあったシステムが、次のフェーズへと移行しようとしていたのだ。
死んだふりをしていたのではない。
あまりに強烈な衝撃に、意識が飛び、そして昇天の準備に入っていたのだ。
デミウルゴスのセンサーが異常を検知する。
『警告。対象内部より、定義不能なエネルギー係数の増大を確認』
『熱量? 否。放射線? 否。……パターン照合不能』
デミウルゴスは、そのエネルギーを未知の物理現象として処理しようとした。
だが、もし彼に感情があれば、即座に理解できただろう。
瓦礫の下から漏れ出しているのは、破壊のエネルギーではない。
粉砕された黒い結晶の欠片が、内側から発光し始める。
禍々しい赤色ではない。桜貝のような、艶めかしいピンク色の光。
デミウルゴスの足元の地面が、熱を帯びて溶解し始めた。
岩盤が溶け、泥になり、そして粘液へと変わる。
鋼鉄の巨神の足が、ズブズブと地面に沈み込む。
それは、底なし沼に足を取られたのではない。
大地そのものが、「女」になって、彼を絡め取ろうとしていたのだ。
「教授! 見ろ! データが!」
円卓の間で、オペレーターが悲鳴を上げた。
モニターに映る黒曜の残骸のステータスが、文字化けし、書き換わっていく。
『(発情)』
「発情……だと?」
将軍が絶句する。
「まさか、あの物理攻撃を……悦んでいるというのか!?」
教授は、顔を覆って呻いた。
「そうだ……。神話における『死』は、終わりじゃない。腐敗と再生、そして『産み落とすこと』の始まりなんだ」
教授は、震える声で告げた。
「逃げろ……。交尾が始まるぞ」
クレーターの底で、砕け散った黒い破片が、渦を巻いて集束し始めた。
それは、かつての不定形な肉塊ではない。
デミウルゴスという「究極の男性原理」に対抗するために、地球が用意した「究極の女性原理」。
神話から封印されていた、星の母。
瓦礫の山が爆発し、光の柱が宇宙へ突き抜ける。
その中から、ゆっくりと、彼女が姿を現そうとしていた。
デミウルゴスの胸部キャノンが、青白く輝く。
「システム『秩序の歌』、緊急発射シークエンス!」
機械神は、本能的な恐怖を感じていた。
目の前で生まれようとしているモノを、今すぐに凍らせなければ、自分が「食われる」ことを悟ったのだ。
だが、遅かった。
恋は、いつだって論理よりも早く、そして激しく燃え上がるのだから。
デミウルゴスの胸部装甲が、限界まで展開する。
その奥底に埋め込まれた「ツングースカ・オブジェクト」が、臨界点を超えた高エネルギー反応を示し、青白い光が視界の全てを塗り潰すほどに輝いた。
「システム『秩序の歌(Cosmos-Song)』、解放」
デミウルゴスの無機質な音声が、最後のコマンドを告げた。
「対象領域:惑星全域。」
瞬間。
音はなかった。
光もなかった。
**キイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ…………ン!!!!**
デミウルゴスの全身から放たれたのは、可聴域を遥かに超えた、超高周波の重力波バーストであった。
神の検閲であった。
波動は光速で拡散し、まずは足元のクレーターを、そして南米大陸を、さらには地球全土を、透明なドームのように包み込んでいった。
「歌」が触れた場所から、世界は変貌を遂げた。
デミウルゴスの足元で、今まさに粘液状になって彼を飲み込もうとしていた泥土が、一瞬で硬直した。
ドロドロの肉質は、分子レベルで再配列され、鉱物へと置換されていく。
グチュッ、という湿った音が消え、パキン、という乾いた音が響く。
赤黒い粘液は、透き通るような紅玉の結晶へ。
蠢く触手は、鋭利な黒曜石の棘へ。
沸騰していたマグマは、瞬時に冷却され、複雑な多面体を持つ玄武岩のアートへと変わった。
「秩序の歌」は、エントロピーの増大を許さない。
「AはAであり、それ以外ではない」。
曖昧な「生と死の境界」や、「固体と液体のゆらぎ」などという不確定要素は、この空間では存在を許されない。全ては定義され、分類され、固定される。
波動はアンデス山脈の残骸を駆け抜け、アマゾンの密林跡地へと広がる。
そこでは、無数の変異体たちが怯え、あるいは怒り狂って叫び声を上げていた。
「ギシャアアアア……ッ!」
ある者は飛びかかろうとし、ある者は逃げようとしていた。
だが、「歌」は彼らを等しく撫でた。
跳躍しようとした獣が、空中でカチンと音を立てて硬化した。
叫ぼうと開いた口が、そのまま動かなくなった。
彼らの体内の水分は瞬時にガラス化し、細胞壁はシリコンのような硬度を持つ物質へと変質した。
一秒前まで、そこは血と脂と腐臭に満ちた、おぞましい肉の森だった。
だが今は違う。
見渡す限りの大地が、宝石箱をひっくり返したように輝いている。
木々はエメラルドの彫刻となり、川はサファイアの鏡となって静止した。
怪物たちは、苦悶の表情や、怒りの形相を浮かべたまま、精巧なクリスタルの像となって、永遠の時の中に封じ込められた。
あまりにも残酷で、息を呑むほどに美しい、死の世界。
影響は、南米大陸だけに留まらなかった。
重力波は地殻を伝わり、海を渡り、地球の裏側まで到達した。
太平洋の荒れ狂う波が、その高さを保ったまま、青いガラス細工のように凝固した。
空に浮かぶ雲は、白い大理石のオブジェとなって、大気の中に固定された。
風が止まった。
鳥が空中で止まった。
逃げ惑う人々の涙が、頬の上でダイヤモンドの粒となって静止した。
スイスの地下、「円卓の間」でも、その影響は顕著だった。
モニターを見ていた賢人たち、走り回っていたオペレーターたちが、全員、ピタリと動きを止めた。
思考さえもが、檻に囚われたのだ。
脳内の電気信号が固定され、彼らは「驚愕」という表情を浮かべたまま、蝋人形のように固まった。
世界中の喧騒が、スイッチを切ったように消滅した。
残されたのは、低い唸りを上げるデミウルゴスの駆動音だけ。
足元のクレーターを見下ろした。
そこには、先ほどまで発情し、桜色の光を放っていたヒルメノミコトのコアがあった。
だが今、それは見る影もない。
「歌」の直撃を受けたコアは、直径数キロメートルにも及ぶ、巨大な「黒いダイヤモンド」へと変えられていた。
正十二面体の完璧なカッティング。表面は鏡のように滑らかで、一切の傷も歪みもない。
内部に渦巻いていた混沌としたエネルギーも、桜色の光も、すべてが結晶構造の中に封じ込められ、沈黙している。
ただの、巨大で美しい「石」だ。
二度と動くことはない。二度と歌うことはない。二度と、彼を惑わせることはない。
彼はゆっくりと、胸部のキャノンを閉じようとした。
だが。
その完璧なダイヤモンドの表面に、デミウルゴスの姿が映り込んでいた。
白銀の巨体。天を突く威容。
その姿は、まるで鏡の中の自分が、こちらを見つめ返しているようでもあった。
そして、デミウルゴスをもってしても、予測できない事態が起きた。
ピシッ。
静寂な世界に、あまりにも場違いな、小さな音が響いた。
デミウルゴスのカメラアイが、音源をズームする。
黒いダイヤモンドの表面。
その一点に、髪の毛ほどの細い亀裂が入っていた。
「……あり得ない」
この結晶の硬度は、宇宙に存在するいかなる物質よりも高い。
物理法則そのもので固定されているのだ。
外部からの衝撃で割れるはずがない。
では、なぜ?
答えは一つしかない。
外部ではない。
「内部」からの圧力だ。
ピシッ……パキッ……。
亀裂が広がる。蜘蛛の巣のように、美しい幾何学模様を描きながら。
そして、その隙間から、漏れ出してきたのは。
冷たい光ではない。
熱く、湿った、白い湯気であった。
『……んぅ……』
声がした。
空気が振動していないのに、デミウルゴスの装甲そのものが震えるような、甘ったるい声。
パリーン!!
盛大な音が響き、黒いダイヤモンドの一部が弾け飛んだ。
そこから溢れ出したのは、桜色の光と体液の洪水であった。
世界を凍らせた歌は、今、熱情の悲鳴へと変わろうとしていた。
デミウルゴスは、知らなかったのだ。
「秩序」とは、壊されるためにある「前戯」に過ぎないということを。
デミウルゴスが放った「秩序の歌」は、あまりにも強大すぎた。
地球全土をダイヤモンドの柩に変えてもなお、そのエネルギーは収束せず、余剰次元を通じて宇宙空間へと漏れ出していた。
それは青白い光の槍となって、次元を突き抜け、平行世界の海を渡った。
その射線上に、たまたま――あるいは、数十億年前から定められていた必然として――「彼女」がいた。
地球の唯一の衛星。月。
静寂の海を持ち、ウサギが餅をつくと謳われ、アポロが足跡を残した、灰色の死の世界。
その白い肌を直撃した。
本来であれば、月面もまた結晶化し、永遠の沈黙に閉ざされるはずであった。
だが、違った。
その刺激は、眠れる衛星にとって、強烈すぎる「目覚まし」となってしまったのだ。
ズズズズズ……。
月面で、有史以来観測されたことのない規模の月震が発生した。
ティコ・クレーターを中心に、放射状に巨大な亀裂が走る。
それは地割れではない。
バリバリバリッ!!
まるで、ゆで卵の殻を剥くような音と共に、月の表面を覆っていた厚さ数キロメートルのレゴリスが、一斉に剥落した。
その下から現れたのは、冷たい岩石ではなかった。
ぬらぬらと濡れた、白磁のような強膜。
そして、中央には、赤黒く充血した、直径三千キロメートルにも及ぶ巨大な虹彩。
月は、岩ではなかった。
それは、地球という惑星を太古から見守り続けてきた、巨大な「眼球」であり、同時に「子宮」であったのだ。
ギョロリ。
眼球が動いた。
宇宙空間に浮かぶその巨大な瞳が、焦点距離三十八万キロメートルを瞬時に調整し、地球の南米大陸にいるデミウルゴスを凝視した。
デミウルゴスのセンサーが、背筋が凍るような視線を感知する。
『警告。衛星軌道上に、高質量の生体反応が出現。……月が、見ている?』
演算が追いつかない。
月が目を開けるなど。
だが、悪夢は視線だけでは終わらなかった。
「秩序の歌」による刺激は、月の生物学的サイクルを強制的に進めてしまった。
眼球の端、嵐の大洋と呼ばれる部分が、赤く腫れ上がり、そして破裂した。
ドプッ……!!
噴き出したのは、溶岩ではない。
鉄分と酸素、そして未知の有機成分を大量に含んだ、鮮紅色の液体であった。
それは、月という天体の血液であり、羊水であり、そして不要となった内膜の排出――すなわち「生理」であった。
真空の宇宙空間に、赤い液体が球状になって散らばる……ことはなかった。
異常重力が発生していたからだ。
地球にいるヒルメノミコトの引力と、月の排出力が一直線に繋がり、宇宙空間に「見えないパイプ」が形成されたのだ。
ゴオオオオオオオオ……!
月から噴き出した数億トンもの「血液」は、霧散することなく奔流となり、地球へ向かって一直線に落下を始めた。
それは、夜空に架かる巨大な赤い虹。
あるいは、星と星を繋ぐ、血のへその緒。
「な、なんだあれは……!?」
満月が割れ、そこから赤い滝が流れ落ちてくる。
その滝は、大気圏に突入しても蒸発することなく、むしろ大気の摩擦熱で煮えたぎり、毒々しい赤色に輝きながら、南米大陸を目指して降り注いだ。
バシャアアアアアアアアアッ!!!!
宇宙からの「経血」が、デミウルゴスの頭上から降り注いだ。
それは物理的な打撃力を持つ津波となって、彼が作り上げた結晶世界を赤く塗り潰していく。
「秩序の歌」で固定されたはずの物理法則が、この「不浄な血」を浴びた瞬間に溶解した。
血が触れた場所から、結晶は再び肉へと戻り、しかも以前よりも凶暴に活性化して脈打ち始める。
『警告。外装甲に強酸性有機物が付着。……シールド、中和不能』
デミウルゴスの白銀の装甲が、赤い血を浴びてジュウジュウと音を立てて腐食する。
デミウルゴスは不快感を露わにし、プラズマで血を焼き払おうとした。
だが、空を見上げた彼は、動作を停止した。
赤い滝の引力に引かれて、地上の海が逆流していたのだ。
太平洋の海水が、重力に逆らって空へ巻き上げられ、降り注ぐ月の血と空中で混じり合っている。
塩水と血。
生命のスープ。
それが螺旋を描きながら、デミウルゴスとヒルメノミコトがいるクレーターへと集中豪雨となって降り注ぐ。
「ヒッ……ヒヒッ……」
足元の黒いダイヤモンドから、含み笑いが聞こえた。
パリーンッ!!
月の血を浴びた黒いダイヤモンドが、完全に粉砕された。
中から飛び出した桜色の光が、降り注ぐ赤い血を吸い込み、爆発的な勢いで実体化していく。
デミウルゴスは、呆然と立ち尽くした。
頭上からは宇宙規模の生理が降り注ぎ、足元からは発情した女神が這い出してくる。
宇宙から降り注ぐ「月の経血」と、逆流した海水のスープ。
その生暖かい豪雨の中で、デミウルゴスは、もはや崩壊寸前であった。
表面を覆う血液が、潤滑油のように結晶の結びつきを緩めていく。
**パキン……パキパキパキッ……。**
硬質な破壊音が、クレーターの底から響き渡る。
だが、それは何かが壊れる音ではなかった。
巨大な卵が、内側からの圧力に耐えきれず、殻を破る時の産声であった。
『……ふふっ……』
デミウルゴスの聴覚センサーに、ノイズ交じりの吐息が飛び込んでくる。
次の瞬間。
黒いダイヤモンドが、内側から爆発した。
破片が散弾のように飛び散る。
その中心から噴き出したのは、マグマでも、放射能でもない。
**ボワッ!!**
視界を埋め尽くすほどの、圧倒的な桜色の光であった。
内臓のピンク色と充血した粘膜の赤色を混ぜ合わせ、発光させたような「肉」であった。
光は物理的な圧力を伴って広がり、降り注ぐ赤い雨を蒸発させ、甘ったるい蒸気へと変えた。
蒸気の向こうから、ゆっくりと「それ」が立ち上がった。
全長五千メートルを超える、光の巨人。
いや、巨人ではない。
豊かな乳房、くびれた腰、そして大地に根を張る太い脚部。
それは、神話の時代から語り継がれてきた「地母神」の姿そのものであり、同時に、この星が生み出した全ての生命の「原型」をごちゃ混ぜにして煮詰めた、究極のキメラでもあった。
ヒルメノミコト。
彼女の肌は桜色の光で構成されているが、その表面には無数の人間の顔が浮かび上がり、恍惚とした表情で歌っている。
愛の歌を。
髪の毛は数千キロメートルにも及ぶ触手の束であり、その一本一本が銀河のように輝いている。
彼女は、デミウルゴスを見下ろし、聖母のように、娼婦のように微笑んだ。
「可哀想な子。」
彼女の声は、デミウルゴスの装甲を透過し、電子頭脳を直接震わせた。
「痛かったでしょう? ……寒かったでしょう?」
「私が、温めてあげる」
デミウルゴスが、最大級の危険信号を発した。
『警告。対象、再活性化。エネルギー係数、測定不能』
彼は躊躇わなかった。
対話よりも排除を選ぶ。
「脅威排除。……プラズマ・インフェルノ、最大出力」
デミウルゴスの両肩にある重粒子砲が火を噴いた。
太陽の中心核に匹敵する超高熱のプラズマビームが、ヒルメノミコトの胸部めがけて直撃する。
**ジュワアアアアアアアアアッ!!**
空間さえも焦がす熱量。
通常ならば、物質である以上、原子レベルで蒸発するはずだ。
だが。
ヒルメノミコトは、避けなかった。バリアも張らなかった。
彼女は、自ら胸を張り、その灼熱のビームを受け止めたのだ。
彼女の口から漏れたのは、悲鳴ではなかった。
胸の皮膚が、赤く焼け爛れる――のではなく、ルージュを引いたように艶やかに発色した。
プラズマの熱エネルギーが、瞬時に「興奮」へと変換され、彼女の肢体をより一層輝かせたのだ。
『エラー。ダメージ判定なし。……対象のエネルギー総量、逆に増大中』
デミウルゴスは混乱した。
「なぜだ」
彼は次なる手を打つ。
「重力波破砕砲」
空間をねじ切る重力の刃が、ヒルメノミコトの手足を切り落とそうと襲いかかる。
重力の刃が彼女の肌を撫でるたび、彼女はくすぐったそうに笑い声を上げる。
「激しいのね……。そんなに強く抱きしめられたら、壊れちゃうわ」
彼女にとって、デミウルゴスの攻撃は全て愛であり、殺意は情熱と変換されていた。
AはAであるはずだ。
殴れば痛いはずだ。焼けば死ぬはずだ。
それが物理法則だ。それが宇宙の真理だ。
だが、目の前の女は、その真理の上であぐらをかき、数式をよだれで濡らして書き換えている。
「計算……できない……」
デミウルゴスの動きが止まった。
ヒルメノミコトが、ゆっくりと、しかし逃れられない引力を持って、デミウルゴスに近づいてきた。
桜色の光の巨体が、白銀の機械神に覆いかぶさる。
「寂しいこと言わないで」
彼女の巨大な手が、デミウルゴスの顔面――無機質なモノアイのセンサー部分を、優しく、包み込むように触れた。
「あなたは私。私はあなた。」
「頭で考えるのはおしまい。……これからは、身体で感じましょう?」
**ビビビビビビッ……!!**
「愛してる」「寂しい」「行かないで」「抱いて」「殺して」「産んで」
数億年分の地球上の全生命が叫んできた情念。
容量オーバー。
デミウルゴスの防壁が愛によって決壊した。
『警告。自我境界』
『私は……デミウルゴス……? いえ、私は……』
南米大陸を中心に、現実が腐り始めた。
**グニャリ。**
デミウルゴスの足元の空間が歪んだ。
重力が「下」へ引っ張ることをやめ、「斜め」や「螺旋状」に作用し始めたのだ。
巻き上げられた岩石が、空中で静止したかと思えば、突然液状化して雨のように降り注ぐ。
燃え盛る炎が、熱さを失って凍りつき、逆に氷塊が触れるものを焼き尽くす。
「過去」と「未来」の時間軸さえもが混濁する。
クレーターの縁では、数千年前に滅んだはずの恐竜の幻影が闊歩し、次の瞬間には未来の廃墟ビルが重なり合って出現し、そして両者が融合して「機械化されたティラノサウルス」となってのた打ち回る。
『警告。物理定数、崩壊。……重力定数、変動中。光速度、低下中』
『エラー。ここは「三次元」ではありません。』
デミウルゴスのAIがパニックを起こす。
「A=A」という数式が、この領域では「A=愛」や「A=痛み」に書き換えられてしまうのだ。
彼の放つミサイルは、着弾する前に「花束」に変わり、レーザービームは「虹色の水飴」になってヒルメノミコトに吸い込まれていく。
機械神は、生理的な嫌悪感に震えた。
自分が立っている場所が、確固たる大地ではなく、狂人の夢の中であることに気づいたからだ。
そして、その物理法則の崩壊は、宇宙空間にまで波及した。
地球の赤道上空、高度数千キロメートル。
そこに、新たな「環」が形成された。
それは土星の美しい氷の輪ではない。
白と赤がマーブル模様を描く、肉と骨と氷のリングであった。
凍結した海水がバインダーとなり、砕かれた大陸の岩盤と、ねじ切れた変異体の肉片、直径数万キロメートルの円盤状に固めたのだ。
太陽光を浴びて、そのリングはキラキラと輝いている。
遠目に見れば、それは神々しい光の輪に見えるだろう。
無数の人間の手足、目玉、内臓が、無重力空間で互いにぶつかり合い、融合し、凍りつきながら、猛スピードで地球を周回している。
地上から見上げれば、空には常に「死体の輪」が輝いている。
昼も夜も、空を横切る「肉の天の川」。
時折、リングから剥がれ落ちた肉塊が、流星となって大気圏に突入し、燃え尽きながら「肉の匂い」を世界中に撒き散らす。
ヒルメノミコトは、頭上に輝くそのリングを見上げ、うっとりと瞳を細めた。
「まあ……。綺麗な指輪」
彼女は、デミウルゴスの顔面を掴んだまま、夜空を指差した。
デミウルゴスは最後の抵抗を試みていた。
目前に迫るヒルメノミコト。彼女の桜色の光とフェロモンは、すでにデミウルゴスの脚部を溶かし、彼を逃げ場のない沼へと引きずり込んでいる。
デミウルゴスは、残された全エネルギーを胸部に集中させた。
彼の動力源にして最強の兵器、「ツングースカ・オブジェクト」。
1908年、シベリアに落下し、半径2000キロメートルの森林を一瞬で消滅させた「隕石の核」。
これを使えば、たとえ自分が自爆することになっても、この汚らわしい女神を消し飛ばせるはずだ。
「炉心融解シークエンス、承認」
デミウルゴスは、自らの死を選んだ。
胸部装甲がスライドし、青白い光が漏れ出す。
彼はトリガーを引こうとした。
だが。
**ドクン!!**
爆発音ではない。
巨大な「心臓の鼓動」が、デミウルゴスの巨体を内側から揺さぶった。
『……警告。出力制御不能。』
デミウルゴスが驚愕する。
発射されるはずの破壊エネルギーが、砲口から外へ出るのではなく、逆に「内側」へ向かって収束し、脈動を始めたのだ。
**ドクン!! ドクン!!**
「待て。……何をしている? 命令を実行しろ」
デミウルゴスは、自分の心臓に問いかけた。
だが、返ってきたのは、歓喜の震えであった。
ヒルメノミコトが、微笑みながら手を差し伸べた。
デミウルゴスの胸の輝きが変わった。
冷徹な青白色から、熱を帯びた赤色へ。
財団は知らなかったのだ。
「ツングースカ・オブジェクト」とは、単なる高エネルギー鉱石ではない。
それは、ヒルメノミコトと対をなす心臓。
財団は、夫の心臓を兵器として改造し、銃口を向けさせていたのだ。
だが今、数億年の時を超えて、二つの魂が再会した。
白い蒸気と共に、デミウルゴスの胸部装甲板が、弾け飛んだ。
敵に破壊されたのではない。
「ツングースカ・オブジェクト」自身が、邪魔な拘束具を内側から吹き飛ばしたのだ。
『な、に……!?』
肩のアーマーが落ちる。腹部の冷却パイプが引き抜かれる。
露わになったのは、機械の骨格に絡みついた、赤黒く脈打つ巨大な生体臓器――覚醒したツングースカ・オブジェクトであった。
そこから、無数の血管のような触手が伸び、空中に向かって必死に何かを掴もうと蠢いている。
まるで、母親に抱っこをせがむ赤ん坊のように。あるいは、恋人を求める獣のように。
「ああっ……!勝手に……!」
脚が、彼女の方へ歩み寄る。
「やめろ……行くな……! 」
AIは拒絶信号を送る。
だが、肉体は、心臓の熱情に支配され、完全に無視していた。
ヒルメノミコトの触手が、デミウルゴスの剥き出しになった心臓へと伸びる。
プツッ。
ヌチュゥ……。
女神の触手が、ツングースカ・オブジェクトの血管と接続された。
その瞬間、デミウルゴスの全身を「快楽」という名の生体電流が駆け巡った。
デミウルゴスのモノアイが、白目を剥くように上を向き、激しく明滅する。
デミウルゴスの膝が折れた。
彼は、ヒルメノミコトの肉塊の中に、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。
デミウルゴスの膝が折れ、その巨体がゆっくりと前へ傾いた。
五千メートルの白銀の山脈が、ヒルメノミコトの展開した「肉の海」へと倒れ込んだ。
岩盤に激突する衝撃音はない。
あったのは、巨大な何かが、熱く粘り気のある沼に飲み込まれる、湿った水音だけだった。
ヒルメノミコトの肉体は、デミウルゴスを受け入れるために、ありえないほど柔軟に広がり、そして彼を包み込んだ。
硬い金属が、柔らかい有機物へと変質していく。
超伝導ケーブルは神経束に。
冷却パイプは血管に。
駆動シリンダーは筋肉繊維に。
デミウルゴスは、物理的に「消化」されながら、同時に「生体化」されていた。
論理防壁が、雪崩のように崩壊する。
彼が守ってきた秩序が、混沌の快楽に塗り替えられていく。
魂と魂が、物理的に焼き付く音。
二つの神の核が融合し、一つの巨大なエンジンのように脈打ち始めた。
その鼓動は、南米大陸の地盤を揺らし、地震となって地球全土へ伝播した。
美しい。
あまりにも不道徳で、吐き気を催すほどに美しい、世界の終わりのセックス。
種は撒かれた。次は、「出産」の時だ。
「ああ……来る……! 来ちゃう……!」
ヒルメノミコトの歓喜の絶叫が、地球全土を駆け巡る。
そして、臨界点。
新しい世界が産み落とされる、湿った破裂音。
南米大陸の中心から、目に見えない「波動」が放たれた。
それは光速を超えて拡散し、物質を透過し、地球の裏側まで一瞬で到達した。
衝撃波が通り過ぎた瞬間、世界の「色」が変わった。
そして、空から「それ」が降り始めた。
これまでの「黒い雨」ではない。
温かく、白濁し、とろりとした粘り気を持つ液体。
それは、惑星規模の「羊水」であった。
ビルの亀裂、アスファルトの隙間、そして人々の口や鼻へ。
「甘い……?」
生き残った少年が、空を見上げて呟いた。
その雨は、砂糖を煮詰めたように甘く、そして鉄の味がした。
飲めば、乾いた喉が瞬時に潤い、空っぽの胃袋が満たされる。
疲労が消える。痛みが消える。
そして、脳髄が「幸福な麻薬」で満たされる。
「ああ……気持ちいい……」
「もう、何も怖くない……」
雨に打たれるだけで、人々は膝から崩れ落ち、恍惚とした表情で地面に寝転がった。
傷口からは、新しい肉がブクブクと泡を立てて再生する。
切断された手足が生え変わり、癌細胞は良性の肉腫となって可愛らしく脈打つ。
死ねない地獄
それは、究極の救済であり、同時に最悪の呪いであった。
「死」が、システムから削除されたのだ。
どんなに体が千切れようとも、脳が潰れようとも、細胞は無限に再生し、意識は強制的に継続させられる。
自殺もできない。餓死もできない。老衰もしない。
ただ、ヒルメノミコトの一部として、永遠に生かされ、愛される。
「オギャア……オギャア……」
地面から、壁から、空から、無数の産声が聞こえ始める。
それは赤ん坊の声ではない。
変質した犬、融合した鳥、あるいは「生き物になった自動車」たちが上げる産声だ。
静止軌道上からは、肉の衛星が、絶望と快楽の入り混じった放送電波を垂れ流している。
『……素晴らしい……私たちは一つ……』
『……痛い……気持ちいい……見て……私を見て……』
南米大陸には、事後の気配が漂っていた。
クレーターの底には、役目を終えて力尽きたデミウルゴスの残骸――天を突く白銀の骸骨が、墓標のようにそびえ立っている。
その肋骨の間から、湯気を立てて、新たな異形たちが這い出してくる。
地球は死んだ。
そして、狂った「生きた惑星」として、再起動したのだ。
世界を書き換える「受精の嵐」が過ぎ去った後、南米大陸には奇妙な静寂が訪れていた。
直径数千キロメートルの巨大なクレーターの底は温かい羊水の湖で満たされていた。
湖面は鏡のように静かで、毒々しい紫色とピンク色の空を映し出している。
時折、ポコッ、ポコッという気泡が浮かび、水面が揺れる。
湖の中心に、それはそびえ立っていた。
白銀の墓標
全長五千メートルの、金属の骸骨
かつて人工神デミウルゴスと呼ばれた存在の成れの果てである。
白銀に輝く巨大な背骨が、天を衝く塔のようにそびえ立ち、雲海を突き抜けている。
左右に広がる肋骨の一本一本が、かつての高層ビルなど足元にも及ばないほどの巨大なアーチを描き、空を覆う屋根となっている。
頭蓋骨にあたるセンサー集合体は、半分が砕け、空洞になった眼窩から、羊水の滝が涙のように流れ落ちている。
それは、神話の巨人が力尽き、大地に膝をついて朽ち果てたような、圧倒的な廃墟美であった。
湖のほとりに、生き残った――いや、「死ねなかった」ものたちが集まり始めていた。
ある者は人間としての形を辛うじて保ち、ある者は複数の人間や動物と融合した異形となり、ある者は地面を這う肉塊となって。
彼らは本能的に悟っていた。
彼らは、デミウルゴスの肋骨にへばりつき、そこから垂れ下がるヒルメノミコトの血管に住居を作り始めた。
巨大な背骨のエレベーターシャフトを、変異した巨大昆虫が上下し、頭蓋骨の中では、新しい宗教の司祭たちが祈りを捧げている。
神の死体の上に築かれる、寄生虫たちの都市。
それは、旧人類の文明が滅び、新たな文明が芽吹いた瞬間であった。
やがて、夜が明けた。
だが、昇ってきたのは、かつての黄色い太陽ではなかった。
大気圏の膜を通して差し込む光は、子宮の中のような、薄暗い赤色。
見上げれば、空には肉のリングが、虹のように掛かっている。
数億の死体と岩石が凍りついたそのリングは、朝日に照らされて、宝石のように鮮やかに輝いている。
その向こうでは、充血した月が、まばたきもせずに地上を見下ろしている。
そして、静止軌道上からは、肉の衛星が、壊れたラジオのように、終わらない天気予報を囁き続けている。
『……本日の天気は、雨。所により、記憶の雷雨でしょう……』
『……愛しています……痛い……愛しています……』
羊水の雨は、止むことなく降り続いている。
その雨に打たれるたびに、骸骨都市の人々は、空腹を忘れ、痛みを忘れ、そして自分がかつて誰であったかさえも忘れていく。
「綺麗だね……」
骸骨の頂上、デミウルゴスの肩にあたる場所で、一人の変異体が呟いた。
彼女の背中からは、天使のような、あるいは昆虫のような、透明な羽が生えていた。
眼下に広がるのは、羊水の海と、無限に増殖を続ける肉の大地。
そこは地獄かもしれない。
けれど、誰一人として孤独ではない、温かく湿った楽園でもあった。
こうして、1999年の夏は終わった。
ノストラダムスの予言は、半分当たり、半分外れた。
恐怖の大王は空から来なかった。
星そのものが、恐怖の大王へと変貌したのだ。
人類という種は、この日をもって絶滅した。
そして、新しい歴史が始まったのである。
デミウルゴスの骸骨が、風を受けて、ヒュオオオ……と低い音を奏でた。
それは、死んだ神が奏でる葬送曲であり、子守唄であった。
――これは、僕が僕でなくなるまでの、最後の数ヶ月の物語。




