█████雨 ケース3 日本で一番人口が多い交差点
世紀末、世界は「熱」と「愛」に溶かされた。狂気と変異のパンデミック・ホラー。
新宿アルタ前。
その日、新宿の東口広場は、世界で最も過密な臓器の海となっていた。
巨大な街頭ビジョンは変貌を遂げていた。
液晶パネルはドロドロに融解し、数千人の眼球がモザイク状に埋め込まれた複眼となっている。
ブヨブヨと波打ちながら、眼下の広場を見下ろしていた。
広場を埋め尽くしているのは、もはや表現できないものだった。
待ち合わせスポットだったライオン像の前には異形が鎮座していた。
数十人のギャルやホストたちが、一つの球体状に固まった肉塊だった。
ハイヒールが突き刺さった眼球。ネイルアートが施された指が、無数に生えた舌。
彼らは互いの顔を舐め合いながら、スマートフォンと融合した手で、自分たちの醜悪な姿を撮影し続けている。フラッシュが焚かれるたびに、肉の球体がビクリと痙攣し、黄色い膿を周囲に撒き散らす。
その横では、サラリーマンたちの成れの果てが行進していた。
彼らは「ムカデ」になっていた。
前の人間の尻に、後ろの人間の頭がめり込み、さらにその後ろの人間の頭が……と、数十人が数珠つなぎに融合している。
足が何十本にも増え、それぞれが勝手な方向に動こうとして骨折し、折れた骨が皮膚を突き破って、アルタ前を這いずり続けている。
新宿通りの方からは、さらに巨大な影が近づいていた。
風俗店の看板と、そこで働いていた女性たち、そして客たちが、建物ごと液状化して流れ出した河だった。
河と言っても、水ではない。
人間の脂肪と血液、そしてあらゆる体液が撹拌された、高粘度のゼリー状物質だ。
そのゼリーの中から、時折、巨大な何かが鎌首をもたげる。
人間の下半身だけが肥大化し、上半身が退化した異形。
あるいは、頭部だけが巨大化し、手足が萎縮した胎児のような怪物。
それらが、互いに交尾し合いながら、「生殖パレード」として広場へ雪崩れ込んでくる。
排気ガスの臭いは消え失せ、代わりに熟れすぎた果実の腐臭と血生臭さが、湿気と共に立ち込めている。
駅ビル「ルミネエスト」の巨大な壁面は、かつて流行の服を纏ったモデルの垂れ幕で飾られていたが、今は「生きた壁画」となっていた。
無数の「人面蟲」が、垂直な壁を這い回ってる。彼らは、元は人間だった。
手足の関節が五つにも六つにも増え、鋭利な鉤爪となってコンクリートに食い込んでいる。
背骨はエビのように湾曲して隆起し、そこから硬い甲殻が生え、かつての衣服の柄を模した極彩色の模様を描いている。彼らはカサカサという乾いた音と、ペタペタという湿った音を交互に響かせながら、壁面を高速で移動していた。
時折、すれ違いざまに共食いを始める。
負けた方は壁から剥がれ落ち、眼下の広場を埋め尽くす肉の海へと落下し、瞬時に飲み込まれて消化される。
「オギャアアアア! オギャアアアア!」
広場の中央、バスロータリーだった場所に神輿が練り歩いていた。
それは歩く子宮だった。
直径五十メートルほどの半透明な膜に包まれた球体が、人間の太腿を数十本束ねたような太い脚で、ドスンドスンと歩いている。膜の中は羊水で満たされ、そこには数十人の未熟児が浮遊していた。
彼らはへその緒で互いに繋がり、栄養を循環させながら、驚異的な速度で成長と細胞分裂を繰り返している。
数秒おきに、膜の一部が裂け、中から完成体が吐き出される。
翼の生えた赤ん坊。腕が刃物になった少年。頭部が巨大な眼球だけになった少女。
産み落とされた彼らは、周囲の異形を襲い新たな肉を取り込んで成長を始める。
歩く子宮は一体ではない。
広場のあちこちに、何十体もが徘徊し、鼠算式に怪物を量産し続けているのだ。
ズゥゥゥゥン……。
地面が揺れた。
甲州街道の方角から、ビルの3階まで届くほどの巨人が現れた。
それは「満員電車」だった。
車両一両分に詰め込まれていた数百人の乗客が、高圧で圧縮され、四角いブロック状の肉塊となり、それがさらに積み重なって人型を形成している。
巨人の皮膚は、押し潰されたサラリーマンのワイシャツや学生服のパッチワークだ。
指の一本一本が、人間の胴体でできている。
巨人が一歩踏み出すたびに、足の裏になった数十人の顔面がアスファルトに押し付けられ、「グチャリ」という音と共にすり潰される。
だが、彼らは死なない。
すり潰された端から再生し、地面の汚れを取り込んで、さらに巨大化していく。
空を見上げれば、そこもまた地獄だった。
有翼の捕食者たちが、黒い雨雲の下を旋回していた。
彼らは、人間の背中から肋骨が飛び出し、皮膜を張って翼になったものたちだ。
顔は鳥のように嘴が伸びているが、その先端には人間の唇が残っており、艶めかしく濡れている。
彼らは急降下しては、地上の群衆の中から一人を鷲掴みにし、空高く舞い上がる。
そして空中で引き裂き、内臓の雨を降らせる。
落ちてくる血肉を、下の群衆が口を開けて待ち構え、歓喜の声を上げて受け止める。
広場だけで十万、いや百万単位の生命反応がひしめいていた。
ビルの窓という窓から、ピンク色の肉がはみ出し、垂れ下がっている。
街灯は肉に埋もれ、血管の脈動に合わせて明滅している。
地下街への入り口は、巨大な肉の煙突となり、地下で増えすぎた変異体たちを、ところてんのように地上へ押し出し続けている。
広場の中心で、さらに巨大な変異が始まろうとしていた。
それは、広場の中心、アスファルトが最も深く陥没した場所から隆起した。
ズズズズズ……バキバキバキッ!!
耳をつんざくような骨の破砕音と共に、地下街の天井が突き破られた。
噴き出したのは、地下に溜まっていた数万人の圧縮された肉塊だった。だが、それらは無秩序に散らばるのではない。
空中で組み上がり、接合し、一つの巨大な構造物を形成していく。
塔だ。
いや、それは楽器だった。
高さ百メートルにも及ぶ、巨大な「肉のパイプオルガン」が、新宿の空に屹立した。
パイプの一本一本が、人間の喉をつなぎ合わせて作られている。
数千人の食道を縦に連結し、硬化した軟骨で補強された生々しい管。
それが大小無数に束ねられ、天に向かって口を開けている。
鍵盤にあたる部分には、人間の脊髄が並び、そこから伸びた神経束が、内部の送風機関――何万個もの肺を圧縮した巨大なふいご――へと繋がっている。
その威容は、冒涜的で、涙が出るほど神々しかった。
ゴシック様式の大聖堂を、生肉と骨だけで建立したかのような建築美。
広場を埋め尽くしていた怪物たちが、一斉に動きを止めた。
アルタビジョンの巨大な複眼も、ビルの壁面の蟲たちも、空を舞う有翼の捕食者たちも。
すべての視線が、その楽器へと注がれる。
ヒュゥゥゥゥ……。
楽器が、息を吸い込んだ。
周囲の空気が薄くなるほどの、猛烈な吸引。
そして。
**『ヴォオオオオオオオオオオオオ…………』**
音が、放たれた。
それは空気の振動ではなかった。
重低音が、鼓膜ではなく、細胞の核を直接揺らす。
聞いてはいけない音。
それは、あらゆる痛みと、あらゆる快楽と、あらゆる絶望を煮詰めて、一滴の黒い雫として垂らしたような、甘美な旋律だった。
歌だ。
その瞬間、新宿という街から「動」が消えた。
ドサッ。
ドサッ、ドサッ、ドサッ。
波が引くように。
広場を埋め尽くしていた数百万の怪物たちが、一斉にひれ伏した。
ビルのような巨人も、膝を折り、アスファルトに額を擦り付けた。
壁を這っていた蟲たちは、剥がれ落ちるのではなく、壁に張り付いたまま頭を垂れた。
空を飛んでいた者たちは、翼を畳んで地上へ舞い降り、地面に這いつくばった。
誰も動かない。
痙攣一つしない。
さっきまでの、共食いも、交尾も、絶叫も、すべてが嘘のように消え失せた。
あるのは、絶対的な静寂だけ。
パイプオルガンから流れる歌声だけが、朗々と響き渡る。
シン……。
やがて、歌が終わった。
だが、誰も顔を上げない。
誰も声を上げない。
死都で、肉の楽器だけが、余韻を含んだ湯気を、ゆっくりと空へと吐き出していた。
**バツンッ!!**
広場にひれ伏していた数十万の怪物たちが、一斉に破裂した。
新宿だけでは無い。
東京中、日本中の空気が一瞬で圧縮され、逃げ場を失った大気が、肺や内臓を内側から圧搾した。
ビルの窓ガラスという窓ガラスが、内側に向かって粉砕。
人面蟲たちが、気圧差で眼球を飛び出させ、ボトボトとアスファルトの海へ落下していく。
次の瞬間、南の空が「壊れた」。
水平線の向こう、分厚い黒い雨雲が、円形に抉り取られ、そこに現れたのは、太陽よりも明るく、溶接のスパークよりも鋭い、絶対的な白。
**カッ!!!!**
影が焼き付く。肉塊が、溶解したアスファルトの上に、黒く焦げ付いて定着するほどの熱線。
地球の裏側、南米大陸で起きた「大陸粉砕」の閃光が、地平線を越えて届いたのだ。
デミウルゴスという名の質量兵器が、物理的な貫通を果たした瞬間。
新宿の気温が、コンマ数秒で数十度跳ね上がり、黒い雨が空中で瞬時に蒸発し、熱湯の霧となって降り注ぐ。
広場全体が、巨大な蒸し焼き器になった。
怪物たちの皮膚がただれ、水膨れができ、それが破裂して体液が沸騰。
しかし。
彼らは。中央にそびえ立つ「肉のパイプオルガン」は、沸騰する蒸気の中で、歓喜に震えていた。
パイプオルガンが絶叫する。
交尾の絶頂で発せられる、獣の喘ぎ声。
怪物たちは沸騰する体液を撒き散らしながら、互いに抱き合い、南の空に向かって腹を見せ、さらなる衝撃をねだるように股を開いた。
怪物たちのイメージ。
砕かれた大地から伸びた黒い触手が、白銀の装甲に絡みつく 。
神々の闘争が愛へと変換され、交尾へと変質していく 。
神と神の冒涜的な聖婚。
そして、本当の終わりが来る。
地平線の向こうから、山脈のような高さの空気の壁。
衝撃波。
東京湾の水が全て蒸発し、海底のヘドロごと巻き上げた暴風が、音速を超えて新宿を襲う。
林立していた高層ビル群が、積み木のように崩れるのでは無い。
大根おろし器にかけられたように、表面から削り取られていく。
コンクリートが粉になり、鉄骨が飴のようにねじ切れ、その中に詰まっていた「肉」が、霧状に粉砕されて吹き飛ぶ。
肉の楽器も、人面蟲も、巨人も。
全てが等しくミンチになり、超高温の暴風に混ぜ込まれ、成層圏まで巻き上げられていく。
世界が白く染まり、自分が溶けて、空と混ざる。
圧倒的な暴力的一体感。
南の方角から、黒い壁が迫っていた。
高さ数千メートルの津波と暴風が、物理的な終わりとして日本列島を飲み込みに来た。
新宿のビル群が、飴細工のようにねじ切れ、吹き飛ぶ。
一九九九年の夏。
新宿という街は、地図から消滅した。
――これは、僕が僕でなくなるまでの、最後の数ヶ月の物語。




