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沸騰する1999 -黒い雨の聖餐-  作者: クトゥルフ好き


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17/20

█████雨 ケース2 勤労感謝

世紀末、世界は「熱」と「愛」に溶かされた。狂気と変異のパンデミック・ホラー。

一九九九年某日。東京、大手町。

午後三時のオフィス街は、アスファルトを溶かすような熱気に包まれていた。


私は、首元にまとわりつくネクタイの結び目を少しだけ緩め、ハンカチで額の脂汗を拭った。


暑い。

今の東京は、巨大なサウナの中にいるのと同じだ。


「……あー、くそ。このままじゃシャツが張り付いちまう」


ビジネスバッグを持ち直し、早足で歩き出した。

バッグの中には、明日提出予定の月次報告書と、先日発生した発注ミスの謝罪文が入っている。

特に謝罪文の方は重要だ。


頭の中は、部長の不機嫌な顔と取引先の怒鳴り声でいっぱいだった。

世界の終わりなんて予言よりも、住宅ローンの返済のほうがよっぽど恐怖だった。


異変に気づいたのは、地下鉄の入り口まであと数十メートルという地点だった。


急に、暗くなった。

日食のような、不自然な翳りではない。


空気が、濁ったのだ。


見上げると、ビルの谷間を縫うように、どす黒い雲が湧き出していた。

積乱雲のような白や灰色ではなく、紫がかった黒色をしていた。


「……なんだ」


立ち止まった私の鼻腔を、奇妙な臭気が掠めた。

甘い。


腐った果実を煮詰めて、そこに鉄錆を混ぜ込んだような、濃厚で吐き気を催す臭い。

生物的な芳香。


ポタリ。


頬に、冷たいものが当たった。

雨か。

私は手の甲でそれを拭った。


「……ッ?」


拭った手の甲を見ると、黒いインクのようなものがべっとりと付着していた。

ヌルリとした粘り気がある。


そして、微かに熱い。

拭った部分の皮膚が、チリチリと痺れるような感覚を訴えている。


ボトッ。

ベチャッ。


音の質が変わった。

雨音ではない。


重く、湿った音が周囲で響き始めた。


「うわっ、なんだこれ! 服が!」


近くを歩いていたOLが悲鳴を上げた。

見ると、白いブラウスの肩が黒い染みで汚れている。


いや、汚れているだけではない。

ジュウウウ……という微かな音と共に、化学繊維が溶け、その下の白い肌が赤く爛れていくのが見えた。


「痛い! やだ、熱い!」


彼女が肩を押さえてうずくまる。

その指の間から、黒い液体と混ざった赤い何かが糸を引いている。


危険だ。

あれに触れてはいけない。

あれは雨ではない。


ザアアアアアアアア……ッ!!


空が決壊した。

ポツポツという前兆から、一気に暴風雨へと変わる。


視界が黒く塗りつぶされていく。


「逃げろ!」


私は叫び、ビジネスバッグを頭上に掲げて走り出した。

どこへ?


ビルの中へ? いや、自動ドアが開くのを待っている時間はない。

目の前に、地下鉄への入り口があった。


あそこなら逃れられる。


私は、転がり落ちるような勢いで、地下鉄の入り口へと飛び込んだ。


タッタッタッタッ……!


階段を駆け下りる。

私は、一段飛ばしで階段を降り、踊り場を曲がり、さらに深く、深く潜っていった。


地上の熱気が嘘のように、地下の空気は冷たく、そしてカビ臭く湿っていた。

私はようやく足を止め、膝に手をついて荒い息を吐いた。


「ハァ……ハァ……ッ……助かった……」


頭上に掲げていたバッグを下ろす。

黒い革の表面には、黒い雫が付着し、そこだけ革が白く変色して泡立っていた。


もし、これを直接浴びていたら。

私は身震いした。


だが、安堵したのも束の間だった。

人々で溢れかえっていたのだ。


数百の人間が、改札前の広場や階段にすし詰めになっている。

衣服から立ち上る生乾きの臭い。制汗剤と体臭が混ざり合った臭気。そして、「焦燥」。


地下の閉鎖空間でむせ返るような熱気となって充満していた。


「……クソッ、電波が入らない」


柱の陰に身を寄せ携帯電話を振ってみたが、圏外を示したままだ。


私はバッグを開けた。

一番上に、明日提出の「始末書」が入った封筒がある。

端が少し湿気で波打っていたが、文字は滲んでいない。


「よかった……これなら書き直さなくて済む」


安堵のため息が漏れた。

半分は、まだ明日の朝礼での言い訳をシミュレーションしていた。

染み付いた社畜根性はタチが悪い。


私は「日常」が明日も続くと信じ込んでいたのだ。


周囲の空気は、急速に殺伐としたものへと変わっていった。


「おい、押すなよ! 痛いだろうが!」

「あんたこそ傘が当たってんだよ! 畳めよ!」


怒号が響いた。

中年のサラリーマンが、リュックを背負った大学生を突き飛ばしていた。


狭い空間で濡れた身体同士が触れ合う不快感が、導火線に火をつけたのだ。


「なんだその口の利き方は! こっちはこれから大事な商談があるんだぞ!」

「知るかよ! どけよジジイ!」


中年の男が、若者の胸ぐらを掴む。

殴り合いが始まった。


誰も止めようとしない。

周囲の人間たちは、巻き込まれるのを恐れて後ずさりし、冷ややかな目で見つめている。


ドゴッ。


鈍い音がして、若者の鼻から血が噴き出した。

鉄の臭いが、ムワッと湿った空気に広がる。


私は眉をひそめ、ネクタイをさらに緩めた。

血を見ても、可哀想だとは思わなかった。


ただ、汚らしいと感じた。

こんな連中と同じ空間にいることが、生理的に耐えられなかった。


早く電車が来てくれればいい。

冷房の効いた清潔な車内で一息つきたい。


ゴオオオオオオオ……。


その時、ホームの奥、トンネルの暗闇から風が吹いてきた。

生暖かく、湿り気を帯びた突風。


それが頬を撫でた瞬間、私の背筋に悪寒が走った。


「……なんだ、この臭いは?」


甘く、焦げた、肉の臭い。濃厚な死臭。


「電車だ! 電車が来たぞ!」


誰かが叫んだ。

その声で、殴り合っていた二人も動きを止め、我先にとホームの端へ殺到する。


私もバッグを抱えて立ち上がった。


これで会社に戻れる。あるいは家に帰れる。


だが、私は、足がすくむほどの恐怖を感じていた。

近づいてくるあの音。


ガタンゴトンという規則正しい音の中に、何かが混じっている。


グチャッ、グチャッ、ズルルルル……。


まるで、巨大なナメクジが這いずり回るような。


キィィィィィィィ……グシャァ……!


ブレーキ音がおかしい。

鉄の車輪がレールを削る甲高い音ではない。


大量の骨を臼ですり潰すような、湿った破砕音が地下空間に響き渡った。


「……な、なんだあれは」


最前列にいた中年の男――さっき若者を殴っていた男だ――が、凍りついたように立ち尽くしていた。


丸ノ内線の赤い車体は、内側からの圧力でパンパンに膨れ上がっていた。

ステンレスのボディは脈打ち、継ぎ目からはピンク色の蒸気が漏れている。


そして何より、窓だ。

電車の窓ガラスには、内側からびっしりと「何か」が張り付いていた。


人の顔だ。

数百、数千の乗客の顔が、窓枠という額縁の中に無理やり押し込まれ、プレスされ、融合している。


白目を剥いた老婆、口を大きく開けたサラリーマン、泣き叫ぶ子供。

彼らの皮膚は溶け合い、境界線を失い、窓を埋め尽くしていた。


ドンッ、ドンッ、ドンッ。


窓ガラスが内側から叩かれている。

手ではない。顔面で叩いているのだ。


助けてくれ、出してくれ、いや、入れてくれ。


「ドアが……開くぞ!」


誰かの悲鳴。

通常なら「プシュー」という軽快なエア音が響くはずのその瞬間。


ベチャッ、ヌチャアアアア……。


完熟した果実の皮が裂けるような音がした。

耐えきれなくなった「中身」が、ドアをこじ開けて溢れ出した。


ドロリ。


彼らは巨大な「肉のスープ」となって、ホームへと決壊した。


「ギャアアアアア!!」


最前列の中年男が、真っ先に肉の津波に飲み込まれた。

逃げようとした彼の足首を、スープの中から伸びた無数の腕が掴んだ。


「熱い! 痛い! 助けてくれ!」


男が転倒する。

スープが彼の上半身を覆う。


ジュッ、という音がして、スーツが瞬時に溶けた。

皮膚がバターのように溶け、赤い筋肉繊維が露出し、スープの一部へと還元されていく。


「ア……ガ……ァ……」


彼の顔が、肉のスープの中に沈んでいく。

その直後、スープの表面に、彼の顔がボコりと浮かび上がった。


苦悶に歪んでいた表情は、一瞬でとろけるような恍惚の笑みへと変わっていた。


中年男の口が動き、若者を誘う。


「ひ、ひいいいっ!!」


殴られていた若者が、腰を抜かして後ずさる。

だが、逃げ場はない。


あちこちの車両のドアから、次々とスープが溢れ出し、ホームにいる避難民たちを浸食し始めていたからだ。


阿鼻叫喚。


逃げ惑う母親の背中で、赤ん坊が黒い飛沫を浴びて変質し、母親のうなじに食らいつく。


「嘘だ……こんなの、嘘だ……!」


後ずさった。


肉の波が、私の靴先に触れた。

ジュッ。


革靴の先端が溶け、足の指先に焼けるような熱さが伝わる。


「うわあああああっ!!」


私は踵を返した。

群衆を突き飛ばし、改札とは逆方向、線路の闇の方へと目を向けた。


ホームの端から線路へと飛び降りた。


背後で響いているのは、肉が肉を貪る湿った咀嚼音と、とろけるような歓喜の悲鳴だけだった。


「ハァッ……ハァッ……!」


走った。

改札口へ向かう階段は、すでに人と肉の雪崩で埋め尽くされているのが見えたからだ。


生き残る道は、反対側――闇の奥へと続くトンネルしかなかった。


足元は最悪だった。

逃げ足をもつれさせる。

しかも、そこには既に「何か」が流れてきていた。


くるぶしまで浸かるほどの、生暖かい粘液。


バシャッ、バシャッ。


走るたびに跳ね上がる飛沫が、スーツの裾を重くしていく。

暗闇の中で、何かを踏んだ。

柔らかい、弾力のある感触。


見たくなかったが、非常灯の薄明かりが一瞬それを照らした。

誰かの千切れた腕だった。


「うっ、ぷ……!」


胃液がこみ上げる。

だが、足を止めれば、背後から迫ってくる波に追いつかれる。


トンネルの壁面が、ドクンドクンと脈打っているように見えた。

コンクリートの壁に走るケーブル類が、血管のように膨張し収縮運動を始めているのだ。


ガツッ!

足がもつれ、私は派手に転倒した。

抱えていたビジネスバッグが手から離れ、粘液へと飛んでいった。


「あ……」


バッグの口が開き、中身が散乱する。

白い紙が、赤黒い汚泥の中に舞い落ちる。

「誠意を持って対応いたします」という文字が、ドロドロに溶けて消えていく。


「……ははっ」


乾いた笑いが出た。


私は立ち上がった。

バッグは捨てた。

上着も脱ぎ捨てた。


身軽になった身体で、私は再び走り出した。


どれくらい走っただろうか。

肺が焼けつき、足の感覚が麻痺し始めた頃、前方に微かな光が見えた。


非常用出口だ。

トンネルの側面に、地上へと続く垂直の梯子がある。


「あ、ああ……!」


粘液が垂れ下がる梯子に飛びついた。

鉄の冷たさが、火照った掌に心地よかった。


一段、また一段。

必死に登る。


ゴウゴウという風の音と共に、肉のスープが水位を上げて迫ってくる気配がする。


トンネルの闇から、無数の声が追いかけてくる。

私は歯を食いしばり、頭上のマンホール――いや、点検用の鉄扉を肩で押し上げた。


ギギギッ……ガコン。


重い扉が開き、眩しいほどの光が差し込んだ。

地上だ。

助かった。


最後の力を振り絞り、アスファルトの上へと這い出した。

そこは、見慣れたオフィス街の、ビルの谷間にある公開空地だった。


いつもならキッチンカーが並び、OLたちがランチを楽しんでいる場所。


「ハァ……ハァ……地上だ……」


私は仰向けに転がり、空を見上げた。

安堵感で、涙が出そうになった。


だが。

その安堵は、わずか数秒で凍りついた。


空が、なかった。

ビルとビルの間を埋め尽くしていたのは、空ではなく、降り注ぐ「黒い絶望」だった。

ザアアアアアアアア……。


地上は、地下よりも酷い有様だった。

ビル風に煽られた黒い暴風雨が、オフィス街を洗い流していたのだ。


視界に入るすべての建物が、黒い粘液に覆われ、ドロドロと溶解し始めていた。


「あ……」


ポタリ。

一滴の黒い雨が、私の額に落ちた。


ジュッ。


熱い。

煙が上がり、皮膚が溶ける臭いが鼻を突く。


だが、なぜか薄らいでいた。

代わりに、奇妙な多幸感が広がっていく。


よろめきながら立ち上がった。

周りを見る。


誰もいない。

いや、かつて人間だったモノたちが、アスファルトと融合し、地面の一部となって蠢いている。


マンホールの蓋が口を開け、そこから地下の下水――スープが噴水のように吹き上がっている。


ズゥゥゥゥゥゥン……。


地響きがした。

地震ではない。


私は顔を上げた。


ビルの向こうから、それが現れた。

高さ五十メートルはあるだろうか。

周辺のオフィスビルと同じくらいの高さの巨人が歩いてきた。


剥き出しの筋肉と、無数の人間の死体が団子状に凝縮されてできた、歩く肉塊だった。

表面には、何千という顔が埋まり、苦悶と歓喜の表情で叫んでいる。


腕の代わりに、ちぎれた送電線や鉄骨が突き出し、足は踏み出すたびに周囲のビルを削り取り、肉の一部として取り込んでいく。


「……ああ、部長」


私は、巨人の膝のあたりに、見覚えのある顔を見つけた気がした。

部長の顔が、他の無数の顔と一緒に埋もれ、パクパクと口を動かしている。


『ア……ア……』


巨人が、私を見下ろした。

顔はない。


頭部にあるのは、巨大な亀裂のような一つ目だけ。

その目が、私を認識した。


逃げようとは思わなかった。

逃げ場など、最初からなかったのだ。


地下も、地上も、空も。


巨人の足が、ゆっくりと持ち上がった。

その足の裏は、潰れた人間の顔と、アスファルトの破片で構成されていた。


巨大な影が、私を覆う。


私はネクタイを外し、空に向かって両手を広げた。


黒い雨が、私の口の中に入り込む。

甘い。


ズドンッ!!


衝撃。

痛みは一瞬だった。

私の骨が砕け、内臓が破裂し、皮膚が弾け飛ぶ。


私はトマトのように潰された。


だが、意識は消えなかった。

踏み潰された私の肉体は、即座に巨人の足の裏へと吸収された。


情報の奔流。何万人の意識。

すべてがここにある。


みんなが私を歓迎してくれる。

ああ、なんだ。


ここはこんなにも暖かい。


私は、巨人の小指の一部として、新しい一歩を踏み出した。

世界は、こんなにも平和になった。

――これは、僕が僕でなくなるまでの、最後の数ヶ月の物語。

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