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沸騰する1999 -黒い雨の聖餐-  作者: クトゥルフ好き


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16/20

█████雨 ケース1 雨の日の合唱コンクール

世紀末、世界は「熱」と「愛」に溶かされた。狂気と変異のパンデミック・ホラー。

私はカミュの『異邦人』を読んでいた。

地下の書店特有の、埃とカビとインクが発酵したような匂いが好きだった。


地上の騒がしさもクラスの人間関係も、どうでもいい。それが心地よかった。


「ねえー、サナエ。まだ読んでんの? もう一時間だよ?」


甘ったるい声が、私の意識を踏み荒らす。

エリだ。


私の幼馴染で、でもクラスのカースト上位に君臨する。私とは正反対。

制汗スプレーのシトラスの香りがする。


彼女が近づくと生々しい体温を感じさせる。


「あと少しだから。もうちょっと待って。」


私は視線を本から外さずに答える。

エリがパタパタと手で顔を扇ぐ気配がした。


「外、雨降りそうだよ。湿気すごいし、髪うねるし、最悪。ねえ、このリップの色、可愛くない? サナエもこういうの塗ればいいのに。顔立ち地味なんだからさ、少しは盛らないと損だよ?」


彼女は私の腕に、自身の汗ばんだ二の腕を押し付けてくる。

ヌルッとした感触。


(こういうところが嫌いなんだ。)


心の中で毒づきながら、同時に私は、嬉しさと、どうしようもない劣等感と嫉妬を抱いていた。


誰とも仲良くなれて好かれる。

私とは違う、、、幼稚園からの友達。


私にはないような鮮やかさ。


その時だった。

店内のBGM――古臭いクラシック――の隙間に、異質な音が混ざり込んだのは。


ベチャッ。

ベチャ、ベチャ、グチュ。


雨音?

いや、違う。そんなものじゃない。


まるで、腐った果実を高いところから叩きつけたような湿り気を帯びた粘着質な音。

同時に、甘ったるい匂いが押し寄せてくる。


「うわ、なにこの音。……雨漏り?」


エリが顔をしかめて天井を見上げる。

蛍光灯の明滅する天井板の継ぎ目から、どす黒い雫が滲み出していた。


それは重力に逆らうように膨らみ、そして耐えきれずに滴り落ちた。


ポタリ。


一滴の黒いインクが、エリが開いていたファッション誌のページに落ちた。

満面の笑みを浮かべた外国人モデルの顔に、黒い穴が空く。


ジュッ、という微かな音と共に、紙が溶け、モデルの笑顔がドロドロに崩れていく。


「え、なにこれ……インク?」


エリが不用意に手を伸ばし、その黒い染みに触れようとした瞬間。


天井が、裂けた。


ドサッ!!


大量の黒い汚泥が、滝のようにエリの頭上から降り注いだ。


悲鳴を上げる間もなかった。

一瞬で黒いタールのような液体に覆い尽くされた。


「……ッ!? ぐ、あ……!?」


エリが喉の奥で空気の塊を潰したような音を立てる。


信じられないことが起きていた。


エリの輪郭が、崩れていく。


ジジジジ、ジュウウウウ……。


肉が溶ける音。皮膚が沸騰する音。

そして立ち込める、強烈な甘い臭気。

焦げた砂糖と、鉄錆と、腐った肉を混ぜ合わせたような匂いが鼻腔を蹂躙する。


「エリ……!?」


私は本を取り落とした。

エリが、ゆらりと私の方を向いた。


「サ、ナ……エ……?」


顔がない。

目も鼻も口も、黒い粘液の中で溶け合い肉塊になりかけている。


左目だけが、充血して飛び出しそうになりながら、私を凝視していた。

そこには、私の知っているエリはいなかった。


あるのは、理解不能な激痛と、恐怖だけ。


「あつい……いたい……なにこれ、めがあかないよぉ……」


泣き声。

でも、涙の代わりに、溶けた眼球の硝子体が頬を伝って流れ落ちている。


瞼自体がもう無いのだ。


彼女が手を伸ばしてくる。

その指先はもう、5本の形を保っていなかった。


骨が露出し、皮膚が垂れ下がり糸を引いている。


「助けて……サナエ……!」


ドンッ!


エリが私に倒れ込んできた。

逃げる暇、いや、逃げるなんて思いもしなかった。


私の全身にのしかかる。


「ひっ!?」


熱い!

火傷しそうなほどの体温。いや、これは体温じゃない。


溶けた皮膚が、私のブラウスに触れ、繊維を溶かし、私の肌に直接張り付いてくる。


ぬちゃり。


生理的な嫌悪感で、背筋が粟立つ。

冒涜的な感触。


「 エリ! 」


私は叫び、彼女の肩を押した。

でも、手が沈んだ。


私の指が、エリの肩の肉の中に、ズブズブとめり込んでしまったのだ。

押し返せない。

柔らかすぎる。


彼女の身体は、もう固形を保っていなかった。泥だ。


「いやだ……痛いのはいや……サナエ、冷たい……気持ちいい……」


エリが、私にしがみつく力を強める。

彼女の溶解した胸が、私の胸に押し付けられる。


私の心臓の鼓動と、彼女の不規則で激しい脈動が、皮膚一枚を隔てて重なる。

そして、その境界線が、曖昧になっていく。


チリチリチリ……。


皮膚が食い破られる痛み。

私の毛穴から何かが侵入してくる。


痛い。でも、それ以上に恐ろしい。

私の中に、エリが入ってくる。

物理的に。


「うそ……くっつ、いてる……?」


引き剥がそうとした私の右手は、もうエリの背中の肉と一体化していた。


「サナエ……サナエ……ずっと一緒だよ……」


耳元で、濡れた声がした。

エリの顔だったものが、私の首筋に埋もれている。


彼女の唇だった裂け目が、私の頸動脈の上で震えている。


「やめて……! 誰か助けて!」


私は半狂乱になりながら、足をもつれさせて後ずさった。

重いエリを引きずりながら。


本棚が倒れる。


私は、もつれ合うようにして、書店の出口へと向かった。


いや、私たちは向かった、だ。

私の本能とエリの本能が。


階段を上がるたびに、エリの重みが増していく気がした。

薄暗い階段の先、地上からの光は、かつてないほど不吉な灰色をしていた。


地上の光は、死んでいた。


階段を転がり出るようにして辿り着いた地上。

そこで私を迎えたのは、太陽ではなく、鉛色の空から降り注ぐ「黒い雨」だった。


豪雨。


いや、これは雨ではない。

巨大な内臓が破裂して、その中身を私たちの上にぶちまけているのだ。


「あ、ぅ……、まぶしい……」


私の左肩に埋まったエリが、濡れた声で呻く。


彼女の視神経が私の脳と混線しているのだろうか。


商店街のアーケードは、巨大な肋骨のように変形していた。

鉄骨が飴のように捻じ曲がり、その表面をピンク色の粘膜が覆っている。


雨樋からは雨水の代わりに、ドロリとした白い脂が垂れ落ちていた。


「なに、これ……」


私は足を止めようとした。

けれど、左半身がそれを許さなかった。


ズズッ、ズズッ。


左足が、私の意志とは無関係に前へと進む。


私の左足は、エリの肉を吸収して丸太のように肥大化し、靴を突き破っていた。

剥き出しになった足の裏が、アスファルトを踏みしめる。


グチュリ。


地面が柔らかい。

舗装された道路ではない。これは、誰かの皮膚だ。


道路一面に、何千という人々の皮膚が敷き詰められ、ひとつの巨大な絨毯になっている。


「……あったかい」


足の裏から、情報が逆流してきた。

恐怖。絶望。快楽。諦念。


道路になった人々の感情が電気信号となって私の神経を駆け上がり、脊髄を震わせる。


『痛い、痛い、痛い』


無数の他人の声が、私の頭の中で反響する。

普段の私なら発狂していただろう。


でも、不思議だった。

今の私は、その情報の奔流を「心地よい」と感じていた。


(ああ、そうか。これが「読む」ってことなんだ)


活字を目で追うというまどろっこしい行為の、なんと不完全なことか。


「ねえ、サナエ。見て、あれ」


私の首筋に移動したエリの顔が、耳元で囁く。

彼女の唇はない。思考が直接鼓膜を揺らす。


彼女の視線の先――いや、私たちが共有する視界の先には、ショーウィンドウがあった。


かつてブティックだった場所だ。

ガラスが割れ、中からマネキンたちが溢れ出していた。


いいえ、マネキンではない。

逃げ遅れた店員や客たちが、プラスチックの人形と溶け合ってしまった成れの果てだ。


若い女性がマネキンに抱きつき、そのまま腹部を融合させている。

マネキンのツルリとした硬質な肌と、女性の柔らかい生身の肉が、マーブル模様を描いて混ざり合っている。


女性の口からは、黒い泡が吹かれていたが、その表情は安らかだった。


「きれい……」


私の口から、言葉が漏れた。

感嘆のため息だった。


グロテスク? 醜悪?

違う。


「サナエも、そう思うでしょ?」


エリの思考が流れ込んでくる。

彼女の単純で、明るくて、少し馬鹿っぽい思考回路。

それが、私の理屈っぽい意識を中和していく。


私は自分の左腕を見た。

そこはもう、腕という形状をしていなかった。


エリの上半身が完全に埋まり込み、巨大な肉の棍棒のようになっている。

皮膚が裂け、その隙間から覗く筋肉繊維は鮮やかなピンクだ。


黒い血管が蔦のように絡まり、幾何学的な模様を描いている。


「……うん。可愛いね、エリ」


私は認めた。

理性が崩壊する音が水音のように響いた。


私たちは歩き続けた。

目的地などなかったはずなのに、足は確信を持って進んでいた。


街角を曲がるたびに、新たな芸術作品が現れた。

自動販売機と融合し、口から血を吐き出し続けるサラリーマン。

電柱に絡みつき、送電線と神経を繋いで、バチバチと青白い火花を散らしながら痙攣する子どもの群れ。


彼らは皆、私たちを見ると、その変異した器官を震わせて挨拶をしてきた。


それは言葉ではなかった。

歌だ。


原初のスープの中で、単細胞生物たちが奏でていたような、生命の律動。


「聞こえる? サナエ」


エリが嬉しそうに言う。


「パーティーだよ」


ズキン。

私の心臓が、大きく脈打った。

期待。興奮。そして、渇き。


私の背中の皮膚が、メリメリと音を立てて裂けた。

痛みはない。脱皮する昆虫のような開放感だけがあった。


裂け目から、翼が肉質の突起となって芽吹く。


「行こう、エリ」


私は笑った。

口が耳まで裂ける感覚があったけれど、気にしなかった。


大きく笑ったほうが、たくさんの黒い雨を飲み込めるから。


私たちは、街の中心にある広場へと向かった。

そこには、かつて図書館だった建物がある。

私の聖域だった場所。


そこがいま、最も賑やかな「歌声」の発生源になっていた。


グチャ、グチャという湿った足音が、リズミカルなドラムビートのように私たちを鼓舞する。


もう逃げることなんて考えていなかった。

だって、こんなにも世界は美しく生まれ変わったのだから。


図書館は、呼吸をしていた。

エントランスの自動ドアから、ピンク色の肉厚な粘膜が垂れ下がり開閉を繰り返していた。


プシュー、プシューという湿った排気音が、甘い腐臭と共に吐き出される。


「着いたね、サナエ」


首筋のエリが嬉しそうに震えた。

私たちの足は、吸い寄せられるように、口腔へと踏み入った。


整然と並んでいたはずの書架は、有機的な曲線を描く肋骨のように変形し、天井まで伸びていた。

棚に並ぶ無数の本たちは、黒い雨を吸ってブヨブヨにふやけ、背表紙が裂けて中身が溢れ出している。

ページの一枚一枚が湿った舌のように蠢き、床に落ちた活字たちが、黒い昆虫となってカサカサと這い回っていた。


太宰も、カフカも、シェイクスピアも。


エリの笑い声が、私の喉を通して響く。


ズズズズ……。


中央の吹き抜けホールから、地響きのような音が聞こえてきた。

私たちは、ホールの手すりから下を覗き込んだ。


そこには、神がいた。

あるいは、悪魔と呼ぶべきか。


巨大な「肉のトーテムポール」が、ホールの中心にそびえ立っていた。

高さ十メートルはあるだろうか。

それは、ここに逃げ込んだ数百人の人間たちが、互いに押し合いへし合い、高熱と圧力で溶け合って形成された柱だった。


一番下には、スーツ姿の大人たちが土台となって埋まっている。

その上には、制服姿の学生たち。

さらに上には、子供や老人が、葡萄の房のようにぶら下がっている。


彼らの境界線は完全に消失していた。

誰かの右手が誰かの左肩から生え、誰かの顔が誰かの腹に埋まり、無数の内臓がパイプのように絡み合って全員の血液を循環させている。


「……すごい」


私は感嘆のため息を漏らした。


無数の口が、一斉に開閉していた。

それは言葉ではなかった。


肺から絞り出される空気の振動が、ホール全体を共鳴させ、一つの巨大な和音を作っていた。


「サナエ! あそこ!」


エリの意識が、柱の一部を指し示した。

そこには、見覚えのある制服の一団が融合していた。


クラスメイトのミキとヨウコだ。

彼女たちは、胸と胸を融合させ、あたかもシャム双生児のように一つの心臓を共有していた。

彼女たちの顔は、エクスタシーに歪み、白目を剥いて天を仰いでいた。


「おいでおいで」

「あったかいよ」

「サナエちゃんも、エリちゃんも」


彼女たちの腹部から伸びた無数の触手が、私たちに向かって手招きをしている。


ドクン!!


私の心臓が、早鐘を打った。

いや、全身の細胞が歓喜していた。


帰りたい。

あの温かい泥の中へ。

あそこでなら、私はもう、難しいことを考えなくていい。

賢いサナエを演じなくていい。


「行こう、サナエ」


エリが囁く。

彼女の顔が、私の頬にすり寄ってくる。


ヌルリとした粘液が、私の顔を覆う。


「うん、行こう」


私は、手すりを乗り越えた。

恐怖はなかった。


私は宙を舞った。

重力に引かれ、肉の柱へと落下していく。


バチュウウゥゥン!!


着地の衝撃はなかった。

まるで巨大なゼリーに飛び込んだかのように、肉の柱が私を受け入れた。

ミキとヨウコの間の肉が裂け、私を飲み込む。


ジュワアアアア……ッ!


熱い!

全身の皮膚が、強酸に触れたように溶けていく。


私のセーラー服が繊維レベルで分解され、私の裸が彼女たちと直接触れ合う。


「あ、あ、あぁぁぁッ!!」


激痛。

けれど、それは一瞬で、脳髄を焼き切るほどの快楽へと反転した。


私の神経が、ミキの神経と接続される。

ヨウコの血管が、私の血管に潜り込んでくる。


情報が、感情が、生命が、濁流となって私の中に流れ込んでくる。

ミキの失恋の痛み。ヨウコの進路の悩み。

それらが、私の読書への執着や、エリへのコンプレックスと混ざり合い、中和されていく。


(ああ、なんだ)


私は理解した。

私が今まで読んでいた小説なんて、ただの文字の羅列に過ぎなかったのだと。


ここでは、言葉はいらない。

ただ、混ざればいい。


「サナエ……大好き……」


首筋のエリが、完全に溶けて私の中に入ってきた。

彼女の意識が、私の意識と完全に融合する。


私とエリの境界線が消滅した。


私はサナエであり、エリであり、ミキであり、ヨウコであり、ここにいる全員になった。

私は無限の海の一部になった。


寂しくない。

もう、絶対に一人ぼっちにはなれない。

だって、私の身体の一部は、誰かの身体の一部なのだから。


私の喉が熱くなった。

こみ上げてくる衝動。


それは渇望だった。


私は口を大きく開けた。

人間の骨格ではありえないほど、顎が外れるまで大きく。

私の喉の奥から、新しい器官――肉の笛――がせり上がってくる。


周りのみんなも、私を見ていた。

無数の目が、祝福するように私を見つめている。

無数の口が、私のリードを待っている。


私は息を吸い込んだ。

腐敗と、羊水と、甘い蜜の匂いがする空気を、肺いっぱいに。


第一声。

肉体が発する、生の咆哮。


私の歌声に呼応して、肉の塔全体が震えた。

数百人の声が重なり、倍音となってホールを満たす。


ガラスが割れ、本が舞い上がり、天井が崩れ落ちる。

降り注ぐ黒い雨さえも、私たちの歌声に合わせてリズムを刻んでいるようだ。


私は歌った。

涙を流しながら、よだれを垂らしながら、恍惚の表情で。


かつて少女だった私は、もういない。

ここにいるのは、幸福な肉の一部。


外の世界では、文明が崩壊し、人類が終わろうとしているのかもしれない。

でも、構わない。

私たちの物語は、ここでハッピーエンドを迎えたのだから。

――これは、僕が僕でなくなるまでの、最後の数ヶ月の物語。

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