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沸騰する1999 -黒い雨の聖餐-  作者: クトゥルフ好き


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【Intermission 3: 財団評議会 】

世紀末、世界は「熱」と「愛」に溶かされた。狂気と変異のパンデミック・ホラー。

【Intermission 3: 財団評議会 】


【1999年8月上旬 - アーカム財団本部 "円卓の間"】


そこは、世界の「脳」と呼ぶにふさわしい場所だった。


漆黒のドーム状空間。


中央には、地球の縮図とも言える巨大なホログラフィック・グローブが浮かび、その周囲を13の光の玉座が取り囲んでいる。


だが今、その空間を満たしていたのは不快な電子音と怒号の嵐だった。


ホログラムの映像は赤と黒の警告色で染まり、明滅するたびに、現地の地獄を焼き付けてくる。


『説明したまえ! 何が起きている! 現実解離深度が計測不能だと!?』


「将軍」のホログラムが、怒りのあまり赤く発光し、仮想のテーブルを拳で殴りつけた。

その衝撃エフェクトが、卓上に展開された南米戦線の3Dマップを揺るがす。


『正規軍の第3機甲師団、鉄槌大隊だぞ! 劣化ウラン弾と対BC兵器防護を完備した、人類最強の陸上戦力だ! それが……コンタクトからわずか1200秒で消失しただと? 通信ロストではない。質量そのものが、マップから消え失せている!』


教授は、自身のホログラム・インターフェースに必死に指を走らせていた。

その顔色は死人のように蒼白だった。


彼が信奉してきた物理法則という神が、目の前で冒涜されているのだから無理もない。


『……落ち着いてください、将軍。消失ではありません。「変質」です』


教授の声は、恐怖で微かに震えていた。

彼は空中に、現地のドローンが捉えたスペクトル解析データを展開した。


『第一段階、天の楔の作動は確認されました。南米エリアを中心とした半径50キロメートル圏内において局所的な固定化、およびエントロピー増大則の凍結。……ここまでは、完璧でした』


教授が指し示したグラフでは、物理法則のゆらぎを示す波形が一本の直線になっていた。


『対象エリア内の空間は固定されました。これによって、「黒曜」の異常な細胞分裂や質量保存則を無視した増殖プロセスは、物理的に不可能になったはずでした。……』


『ならば、なぜ奴らは止まらない!』


『奴らは……適応したのです。』


教授は、悪夢のような映像を拡大した。

そこに映っていたのは肉塊ではなかった。


『見てください。奴らは、自らを超高密度の生体結晶へと変化させました。その硬度はダイヤモンドの数倍。モース硬度で言えば15を超えます。』


映像の中、黒く輝くクリスタルのような棘が、地面から突き出していた。

それは、戦車隊が放つ徹甲弾をガラス細工のように弾き返していく。


『彼らは自らを巨大な質量弾として射出し、我々の防衛ラインを物理的に粉砕したのです!』


賢人たちが息を呑む音が、円卓の間に響いた。

彼らは知恵比べを挑んだつもりだったが、相手は盤面ごとひっくり返して殴りかかってきたのだ。


『……ふざけるな。』


『石ころではありません! 触れた物質を連鎖的に結晶化させていく……!』


『ええい、御託はいい!』


銀行家が悲鳴を上げた。

彼の背後にある世界経済の予測モニターは、南米市場の警告音を鳴らし続けている。


『次だ! 次の手があるのだろう!? タナカ博士の置き土産は! あの「銀色の兵士」たちはどうなったんだ!』


視線が、医療部門の「錬金術師」へと集まる。

彼は、この絶望的な状況下にあってなお、口元に恍惚とした笑みを浮かべていた。


『ご安心を。……子供たちは、期待以上の働きを見せていますよ』


錬金術師が指を鳴らすと、ホログラム映像が切り替わった。

上空からの視点。ジャングルを埋め尽くす黒い結晶の森に対し、空から降り注ぐ銀色の雨。


それは雨ではなかった。

数千体の、流体金属で構成された人型兵器――銀の兵士。


「検体79号」のデータを基に量産された殺戮機械たちだった。


『投入された試作体、1,000体。彼らはナノマシン集合体であり、物理的な「形」に固執しません。……見てください、この美しい流動性を』


映像の中、銀色の兵士たちは、着地と同時に液状化し、黒い結晶の森へと浸透していく。

硬い結晶に対して、彼らは「水」となって隙間に入り込み、内部から回路を食い破る。


黒い棘が兵士を貫くが、兵士は瞬時に液状化して衝撃を逃がし、逆に棘に絡みついて、その表面を銀色に侵食していく。


『効果絶大です! 黒曜の硬化に対し、我々は流動で対抗しました! 彼らは、現場の素材を取り込み、その場で新たな兵士を生産しているのです』


『現地生産だと……?』


静観者が眉をひそめた。


『はい。彼らは自己複製型の探査機と同じ原理で動いています。敵の残骸、岩石、有機物……あらゆる物質を原子レベルで分解し、自らの構成素材として再構築する。……弾薬補給は不要。彼らが進む場所、すべてが資源庫なのです』


戦況マップ上で、銀色の領域が急速に拡大し、黒い領域を押し返していく。

人類の反撃が成功したかに見えた。


だが。


その拡大スピードが、計算値を超えて加速し始めた時、教授の顔が再び凍りついた。


『……おい。待て。なんだ、あの数値は』


教授が、警告アラートの鳴るコンソールを指差した。


『識別信号のエラー? ……味方機からの応答が消えていく?』


映像の中、一人の銀の兵士が、逃げ遅れた人間の歩兵を見つけた。

歩兵は安堵の表情で手を振る。味方の増援だと思ったのだ。


だが、銀の兵士は止まらなかった。

無機質な銀色の瞳がスキャンする。


兵士の腕が鞭のように伸び、歩兵の体を包み込んだ。


「ギャアアアアアア!!」


断末魔の悲鳴。

だが、それは一瞬で途絶えた。


歩兵の肉体がブクブクと沸騰するように銀色の泡へと分解されていく。

骨が溶け、血液が水銀に変わり、脳髄がナノマシンに置換される。


わずか数秒後。

そこには、新たな銀の兵士が一体、無表情で立っていた。


『な……なにを……!?』


将軍が絶句する。


『暴走……いや、氾濫です!』


錬金術師が、頭を抱えて――いや、笑いを噛み殺すように顔を歪めた。

『彼らは最適解を導き出したのです。』


教授が叫ぶ。

『グレイ・グー(Gray Goo)シナリオ……! ナノマシンの暴走による捕食だ!』


『彼らは、敵も味方も区別していません! 森も、動物も、我々の戦車も、そして空気中の酸素さえも! ……すべてを「自分たち」に変えようとしています!』


モニターの中で、地獄絵図が展開されていた。

黒い結晶の軍勢と、銀色の流体金属の軍勢。


二つが激突し、互いを食らい合い、混ざり合いながら、南米大陸を猛スピードで侵食していく。


現地の人々が、ある者は黒い肉塊に取り込まれ、ある者は銀色の波に飲まれて彫像へと変えられていく。


『南米大陸の30パーセントが、既に「非生命圏」へと置換されました!』


オペレーターの悲鳴。

『このままでは、地球は二色で塗りつぶされます! そこに「人間」の居場所はありません!』


あまりの事態に、賢人たちの理解が追いつかない。

毒を消すために撒いた毒が、さらに強力な猛毒となって世界中に広がりつつある。


『……失敗だ』


大導師が、重く、鉛のような声で呟いた。

『すべて裏目に出た。』


『どうするのです……マスター』

銀行家が、震える声で問う。


『このままでは、経済どころか、物理的な地盤が消滅します』


大導師は、ゆっくりと顔を上げた。

『……掃除だ』


「将軍」が、血走った目でコンソールを操作していた。

彼の手元にあるのは、人類が保有する中で最も純粋な破壊のスイッチだ。


『……承認コード確認。安全装置、全解除。「槍」、起動シークエンスへ移行』

将軍の声は、怒りと恐怖で震えていた。


『ターゲット、南米大陸座標。「マルス」着弾地点、……焼き払うのではない。削り取るのだ。この宇宙から、奴らの存在した座標ごと!』


教授は、祈るように両手を組んでいた。

彼にとって、この兵器の使用は科学者としての敗北を意味する。


だが、手立てはなかった。


『……重力波偏向シールド、展開。地上への余波被害予測……計算不能。構いません、撃ってください。大陸一つと引き換えにしてでも、切除しなければ、地球が死にます』


円卓の中央に、新たな映像がウィンドウとして割り込む。

それは高度36,000キロメートル、静止軌道上に浮かぶ巨大な建造物の姿だった。


全長12キロメートルにも及ぶ、長大な円筒形の構造体。

超伝導コイルが幾重にも巻かれたその砲身は、太陽光を反射して冷たく輝いている。


戦略衛星兵器「槍」。

本来は対・小惑星迎撃用、あるいは敵対的な地球外文明の母船を撃墜するために極秘裏に建造された、人類史上最大・最強の粒子加速砲である。


『エネルギー充填率、120%。臨界点突破。……反物質生成チェンバー、開放』


オペレーターの声が、死刑執行のカウントダウンのように響く。


『反陽子ストリーム、加速開始。……光速の99.9999%へ到達』


真空の宇宙空間で、巨大な砲身が変形を開始した。

先端部が花弁のように展開し、その中心に、肉眼では直視できないほどの闇――人工的に生成された反物質の特異点――が凝縮されていく。


『照準、固定。……神よ、我らの罪を許したまえ』


将軍が、拳を振り上げ、そして赤い物理キーを叩き下ろした。


『発射!!』


音のない世界で、光が走った。


それは空間そのものが悲鳴を上げ、引き裂かれた傷跡だった。


目に見えない反物質の奔流が、大気圏を一瞬で貫通した。

雲が消滅し、空気がプラズマ化する暇もなく原子分解され、南米の上空に、成層圏から地表までを貫く巨大な真空のトンネルが出現した。


そして、その切っ先が、ジャングルの中心にある黒曜の心臓部へと突き刺さった。


ズンッ……!!


音速を超えた衝撃波が、数秒遅れで地球全土を揺らした。


円卓の間のモニターがホワイトアウトする。

カメラの受光素子が、発生したエネルギー量に耐え切れず焼き切れたのだ。


『着弾確認! ……マイクロ・ブラックホール生成! シュバルツシルト半径、拡大中!』


予備の観測衛星からの映像が復帰した時、そこに映っていたのは完全な黒だった。


ジャングルの中心に、直径500キロメートルの黒い球体が出現していた。

そこには光も、色も、形もない。あるのは、周囲のすべてを飲み込む絶対的な重力の穴だけだ。


ゴオオオオオオオ……。


物理的な吸引音が、マイクを通じて響いてくる。

暴走していた銀の兵士たちも、増殖を続けていた黒い肉塊も、区別なくその球体へと吸い込まれていく。


彼らは抵抗しようと触手を伸ばし、爪を立てるが、空間ごと吸い込まれていく流れには逆らえない。

銀色の流体が、事象の地平面に触れた瞬間、光となって消滅していく。

強烈な重力潮汐力によって素粒子レベルまで引き裂かれ、事象の彼方へと廃棄されたのだ。


『成功です……! 奴らが、消えていきます!』


錬金術師が歓声を上げた。

『素晴らしい!再生能力? 進化? 関係ない! 存在そのものを否定する力の前には、いかなる生物も無力だ!』


モニターの中で、汚染された大地が、円形に抉り取られていく。

まるでスプーンで掬い取るように、南米大陸に巨大なクレーターが穿たれていく。


『重力震、安定。……あと30秒で反応は収束し、ブラックホールは蒸発します。』


教授が、脂汗を拭いながら安堵の息をついた。


だが。


黒い球体は消えなかった。


『……おい。なんだ、あれは?』


将軍が、モニターを凝視した。


本来であれば、ホーキング放射によってエネルギーを放出し、小さくなって消えるはずのブラックホール。その周囲に、赤黒い稲妻のようなものが走り始めたのだ。


『異常検知! 重力波のパターンが乱れています! ……ブラックホールが、振動している!?』


オペレーターの悲鳴。


『馬鹿な、特異点が振動するだと? あり得ない!』


『見てください! ……球体の表面に、何かが張り付いています!』


映像を最大まで拡大する。

そこには、信じがたい光景があった。


ブラックホールによって削り取られた大地の底、マントルに近い深層から、太く、巨大な黒い根のようなものが伸びていた。


それは、マルスの本体――彗星の核であった部分だ。

ブラックホールの縁に絡みつき、しがみついていたのだ。


『吸い込まれて……いない?』


銀行家が呆然と呟く。


『いえ…… 奴らは…事象の地平面を足場にしているのです!』


そして、悪夢は次の段階へと進んだ。


黒い根から、無数の触手が伸び、ブラックホールの表面を覆い尽くしていく。


それは捕食だった。

有機生命体が、天体現象を捕食しようとしているのだ。


『エネルギー逆流! ……吸い込まれた物質がブラックホール内部でエネルギーに変換され、逆に根の方へと流れ込んでいます!』


教授が、ガタガタと震えだした。眼鏡が床に落ちて砕けるが、彼は気づかない。

『嘘だ……。』


モニターの中の黒い球体が、禍々しい赤色に発光し始めた。


彼らが取り込んだ物質を、超重力で圧縮・分解し、純粋なエネルギーとして消化するための消化器官へと作り変えられてしまった。


『オオオオオオオオオオ……!!』


重力波の振動が、巨大な咆哮のように聞こえた。

それは、新たな心臓を手に入れた怪物の歓喜の産声だった。


ブラックホールの強大な重力場は、今や黒曜によって制御され、周囲の物質を引き寄せる掃除機として利用されていた。銀の兵士たちも、逃げ惑う動物たちも、今度は抵抗できずに次々と吸い寄せられ、赤い球体の中でエネルギーへと変換され養分となっていく。


将軍が、膝から崩れ落ちた。

『この星の物質をすべてブラックホールに放り込めば、無限に成長できる』


南米の中心に、不気味に赤黒く輝く暗黒の太陽が鎮座していた。

その周囲では、重力が狂い、空間が歪み、物理法則は完全に黒曜の支配下に置かれていた。


もはや、そこは地球ではなかった。

彼らの中心核が完成してしまったのだ。


『……終わったな』

議長席の大導師が、静かに言った。

その声には、怒りも焦りもなかった。


『科学の敗北だ。……我々の知性は、彼らの本能の前に敗れ去った』


大導師は、空中に浮かぶ最後のウィンドウを開いた。

そこに表示されているのは、二つの選択肢。


【Project ARK(箱舟計画):起動準備完了】

【System DEMIURGEデミウルゴス:拘束解除シークエンス】


大導師が、亡霊のような賢人たちに呼びかける。

『……残るは、我々が最も忌み嫌い、そして恐れていた遺産だけだ』


『……デミウルゴスを使うのですか?』

教授が、力なく問う。


『あれは……制御できません。起動すれば、ブラックホール以上の災害になるかもしれません』


『構わん』

大導師は、淡々と答えた。


『どうせ地球は死ぬのだ。』

大導師の指が、二つのボタンの上を彷徨う。


『選ばれた者たちを箱舟に乗せ、宇宙へ逃がせ。……残る人類には悪いが観客になってもらう』


『そして、デミウルゴスを解き放て。……あの人造神が、どこまで通じるか。……せいぜい、時間稼ぎにはなるだろう』


大導師の指が、決定キーを押した。


ピピッ。


その軽い電子音が幕開けを告げた。


南米の地下深く。

数千メートルの岩盤の下に眠る、超古代の格納庫で。

封印されていた「白銀の巨人」の瞳に、数千年ぶりの灯がともった。


円卓の間から、喧騒は消え失せていた。

そこに満ちていたのは、諦念の静寂だった。


中央のホログラム・グローブは、もはや戦況図としての意味を成していなかった。

地球という惑星の表面積の60%が、赤黒い有機的汚染によって塗りつぶされていた。


残された40%の領域も、異常気象と重力震によって、緩慢な死を待つのみだ。


大導師は、老いた手で目の前の虚空を撫でた。


『……美しいな』

彼はポツリと漏らした。


『……マスター』


情報統制官「紡ぎ手」の声は、ノイズ混じりの砂嵐のようだった。

世界中の通信網が、物理的に寸断されているのだ。


『世界中の主要都市から、生体反応が消失しています。パニックすら起きていません。人々は……ただ、静かに受け入れ始めています。終わりの時を』


『そうか。……ならば、幕を引こう』

大導師は、震えることなく、最後のコマンドを入力した。


『オペレーション「出エジプト」。……箱舟の発進を許可する』


北米フロリダ、ケネディ宇宙センター。

カザフスタン、バイコヌール宇宙基地。

南米ギアナ、フランス領宇宙センター。

そして、日本の種子島。


偽装された地下サイロのハッチが、悲鳴のような金属音を上げて開放された。

そこから現れたのは、スペースシャトルなどという可愛らしいものではない。

全長300メートルを超える、巨大な核パルス推進型移民船――「箱舟」の群れだった。


『メインエンジン、点火。……推力、最大』


ズゴォォォォォォォ……!!


大地を焼き払うほどの熱量と共に、箱舟たちが上昇を開始した。

その噴射炎は、夜空を昼間のように照らし出し、周囲数キロメートルの森林を一瞬で灰燼に帰した。


選ばれた2,000名のエリートたちは、船内の深層部にある「コールドスリープ・ポッド」の中で、虫のように眠っていた。


彼らは外の景色を見ない。

見捨てた60億人の顔を見ない。


ただ、目覚めた時の新天地の夢だけを見るようにプログラムされている。


『軌道到達まで、あと300秒。……さようなら、地球』


地上の人々は、見上げた。

黒い雨に打たれながら。瓦礫の下敷きになりながら。


半身が銀色に変わりながら。


世界各地から、巨大な宇宙船群「箱舟」が、轟音と共に打ち上げられていく。

見捨てられた地上の民が見上げた空には、赤黒く輝くブラックホールと、逃げていく支配者たちの光跡。

そして、大地を割って現れる、巨大な神の影。


見捨てられた地上では、音のない地獄が完成しつつあった。

悲鳴や怒号といった騒音は、もはや稀少だった。


Case 1: ニューヨーク・マンハッタン


かつて世界経済の中心だった街は、巨大な臓器の森へと変貌していた。

有機ナノマシンが、コンクリートと鉄骨を触媒にして、建築物を生物化させたのだ。


エンパイア・ステート・ビルは、高さ400メートルの肉の塔となり、その壁面はあばら骨のように隆起し、窓硝子は白濁した眼球となって空を見上げている。


地下鉄の通気口からは、生温かいピンク色の吐息がリズムよく噴き出している。

タイムズスクエアの巨大スクリーンは、神経パルスで発光する皮膚組織に変わり、意味のない色彩の明滅を繰り返している。


路上に、人の姿はない。

彼らは皆、建物に取り込まれたのだ。


壁に浮き出た無数の顔が口をパクパクとさせながら異形のアメーバたちに栄養を供給されている。


ここはもう都市ではない。巨大な胃袋だった。


Case 2: ロンドン・シティ


ここでは、すべてが美しい銀の彫像へと置換されていた。

ビッグベンも、タワーブリッジも、テムズ川の水面さえも、流体金属によってコーティングされ、鏡のように磨き上げられている。


街角には、逃げ惑う人々の群像が残されている。

バスを待つ列、パブでグラスを掲げる老人、恋人を庇って覆いかぶさる青年。


彼らは一瞬にして全身を銀色に変えられ、分子運動を停止させられた。

その表情には、恐怖すら浮かんでいない。


風の音もしない。鳥の声もしない。

完全な静寂の中で、銀色の彫像たちだけが、かつてそこに人間がいたことを証明していた。


Case 3: 東京・新宿


極東の島国は、最も醜悪な様相を呈していた。

ここではグロテスクなモザイク画を描いていた。


首都高速道路は、アスファルトと人間の死体が融合した巨大ムカデとなり、ビルとビルの間を這い回って生存者を捕食している。


高層ビルの屋上では、自衛隊の残党が撃ち続けているが、既に肉に侵食されている。


地下街は、巨大な培養槽と化していた。

浸水した地下水と黒い雨が混ざり合い、その中で人々が溶け合いながら、集合精神を形成しつつある。


『イタイ……アツイ……タスケテ……』

何万人もの意識が混濁したテレパシーのノイズが、生存者の脳を直接焼き切っていく。


ここでは、死ぬことさえ許されない。


そして、南米アンデス山脈の地下深層。

人類が残した最後の悪意が、目覚めの時を迎えていた。


『デミウルゴス・システム、最終安全装置解除』


無機質な電子音声が、巨大な地下空洞に反響する。

酸素の代わりに冷却用ヘリウムガスが充満し、絶対零度近くまで冷やされた神殿だった。


闇の中に、全長5,200メートルの白銀の山脈が横たわっている。

南極の氷床下から発掘された、地球外起源の神性の死体をベースに、財団が改造した人工神だ。


神の肉体はナノチューブ積層装甲によって拘束され、失われた頭部は、数万個のセンサーアイが埋め込まれた無貌の仮面に置き換えられている。


『動力源、同期率上昇。……「ツングースカ・オブジェクト」、臨界点へ』


デミウルゴスの胸部装甲がスライドし、その心臓部が露わになる。

そこには、赤黒く脈打つ、直径50メートルの隕石の核が埋め込まれていた。


1908年、シベリアの森林を消し飛ばした、あの災厄の源だ。


ドクン……ドクン……。


心臓が鼓動するたびに、パイプラインを通じて高濃度体液が、神の死体へと循環していく。

死んでいた細胞が、強制的に叩き起こされる。


壊死していた神経に電流が流される。


『グゥ……オォォォォォォォ……』


空気の振動ではない。

岩盤を通じて伝わる、地殻変動のような呻き声。


『ターゲット確認。……黒曜中枢』


プログラムされた殺意が、神の脳髄を支配する。

モノアイが、毒々しい緑色の光を放った。


ズゥゥゥゥゥゥン……!!


アンデス山脈が、内側から爆発した。

標高6,000メートルの雪山が吹き飛び、噴煙と土砂の中から、白銀の巨神が姿を現した。


その背中から、12枚の重力制御ウイングが展開される。

光の翼が空気を切り裂き、大気圏に衝撃波のリングを描く。


神は、飛び立った。


戦場は、南米大陸上空。

眼下には、ブラックホールと融合し、赤黒い触手を惑星規模で広げる黒曜。

上空には、光の翼を広げ、重力歪曲フィールドを纏った人工神。


大きさは互角。

力も互角。

そして、狂気も互角。


『オオオオオオオオオオ!!』


デミウルゴスが、成層圏から急降下した。

それは流星の落下などという生易しいものではない。

自身の質量を重力制御で無限大に増幅させ、大陸を砕く物理的ハンマーとなって突っ込んだのだ。


黒曜もまた迎撃する。

事象の地平面から、数千本の重力の槍を突き出し、巨神を串刺しにせんと待ち構える。


衝突。


その瞬間、地球上のすべての音が消えた。

あまりのエネルギー放出に、大気が一瞬で真空化したからだ。


遅れて届いたのは、世界の終わりを告げる轟音と、全てを焼き尽くす閃光。

南米大陸の地殻がめくれ上がり、アマゾン川が瞬時に蒸発した。


【Outro: 置き去りの空】


雨が降ってきた。

黒くて、粘つく、甘い雨。


世界は終わった。


崩壊した防波堤に打ち寄せる波は海水ではなかった。


それは黒い有機スープと、溶け出した銀色のナノマシンが混ざり合った混沌だった。


波が引くたびに、濡れた砂浜には新しい生態系が吐き出されていた。


背中から人間の指を生やして這い回る魚。

甲羅が銀色の回路基板に置き換わり、機械的な駆動音をさせて歩くカニ。


そして、互いに融合し、溶け合ったまま海岸線に打ち上げられた、数え切れないほどの水死体たち。


地獄のような渚に、二つの小さな影があった。


「……ねえ、お兄ちゃん」


防波堤のコンクリートブロック――半分が肉のように脈打っている――の上に座る少女が、震える声で言った。


「海が、光ってるよ」


「うん。……綺麗だね」


少年は嘘をついた。

海面は、腐敗ガスが放つ燐光と、ナノマシンの発光現象で、毒々しい紫と緑のまだら模様に輝いている。


それは星が腐っていく色だった。


少年は、隣に座る妹の肩を抱き寄せようとして、一瞬だけ指を止めた。

そして、覚悟を決めたように、その肩に触れた。


冷たかった。

氷のような冷たさではなく、冬場の鉄棒のような、無機質な冷徹さ。


妹の体は、左半分が銀に囚われていた。


左頬から首筋、肩、そして左腕全体にかけて、皮膚が滑らかな水銀色の金属質へと置換されていた。


彼女の左目は、もう瞬きをしない。

銀色の瞳孔が、カメラのレンズのように絞りを調整しながら、虚空を見つめている。


風になびく左側の髪の毛は、一本一本が極細の光ファイバーのようなワイヤーに変わり、チリチリと微かな電子音を奏でている。


「……重いよ、お兄ちゃん」


妹が泣きそうな声で訴える。


「左手が、私の手じゃないみたい。……動かないの」


「大丈夫だよ」


少年は、彼女の銀色の左手を、自分の両手で包み込んだ。

体温を伝えようとした。


だが、決して温まらない。


「それは、強い手になったんだ。……もう、怪我をしないように」


「……本当?」


「ああ。魔法の手だ」


少年は、妹の右目――まだ人間としての茶色い瞳を残した右目から、大粒の涙がこぼれ落ちるのを見た。

涙は頬を伝い、銀色の肌との境界線で弾かれ、地面に落ちた。


銀色の左目は泣かなかった。


その非対称な悲しみの表情が、少年には愛おしく見えた。


「見て」


少年が夜空を指差した。


分厚い黒雲の隙間を縫うように、いくつもの強烈な光の点が、天頂へ向かって昇っていくのが見えた。

轟音は、ここまでは届かない。


ただ、光だけが静かに遠ざかっていく。


アーカム財団が放った移民船団「箱舟」だった。

選ばれたエリートたち、政治家、資産家、そして賢人たち。


彼らは、自分たちが壊した地球を見下ろしながら、清潔なカプセルの中で眠りにつき、安全な宇宙へと逃亡していく。


「あれは、なに?」


「……流れ星だよ」


少年は再び嘘をついた。


「逆向きに流れる、流れ星だ」


「逆向き……? お願い事、叶うかな」


「叶わないよ。……あれは、願いを捨てていく星だから」


少年は知っていた。

ラジオから流れる「政府は健在です」という放送が、自動再生された録音テープであることを。


大人たちは空の彼方へ消えたのだ。


光の点は、やがて大気圏を突破し、星々の中に紛れて見えなくなった。

空には、重苦しい黒雲と粘つく雨だけが残された。


ズズズ……。


微かな地響きと共に、南の空が真昼のように明るく閃光した。


地球の裏側、南米大陸。

そこで今、人類が残した最後の悪意と星を食らう怪物が殺し合いをしている。


物理法則を無視したエネルギーの衝突は、オーロラのような極彩色の衝撃波となって、地球全体を包み込んでいた。


「神様たちが、喧嘩してる」


妹が、銀色の指で空をなぞった。


「どっちが勝つの?」


「……どっちも負けるんだ」


少年は冷めた目で光を見つめた。


「ねえ、お兄ちゃん」


妹が、少年の胸に顔を埋めた。

右半分の柔らかい肉体と、左半分の硬い金属の感触が、同時に伝わってくる。


「私、怖い。……私も、全部銀色になっちゃうのかな」


「……させない」


少年は強く抱きしめた。


「僕が守る。……たとえ、世界中が敵になっても」


それは、子供の誓いだった。

彼には力がない。


あるのは、ポケットに入れた錆びたカッターナイフと、拾った乾パン一袋だけ。


それでも。


「行こう」


少年は立ち上がった。


黒い雨が激しさを増し、アスファルトを溶かすような音を立てて降り注ぐ。

雨粒が肌に触れるたび、チリチリとした痛みが走る。


「どこへ?」


「……雨の降らない場所へ」


そんな場所が、まだ地球上に残っているのかは分からない。


少年は、妹の銀色の手をしっかりと握り、廃墟と化した国道を歩き出した。

背後では、海から這い上がってきた魚人たちが、ペタペタという足音を立てて上陸を開始していた。


二人の子供の影が、燃える空の光に照らされて、長く伸びる。

それは、人類の歴史が終わった後に始まる、誰も知らない、短くも過酷な旅路の始まりだった。


神よ、哀れみたまえ。

――これは、僕が僕でなくなるまでの、最後の数ヶ月の物語。

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