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沸騰する1999 -黒い雨の聖餐-  作者: クトゥルフ好き


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14/20

【Episode 7: 7日目】

【1999年8月上旬 - アーカム財団日本支部 第7解析室 Day 7】**


【07:00 - 最後の朝】


閉鎖環境での最終日、7日目の朝。

目を覚ますと、湿度は依然として高く、床は白い液体でぬかるんでいるが、あの腐敗臭は薄れ、代わりに消毒液の匂いが漂っている。


「……おはよう、ヤマモト君」


洗面台の鏡の前から、田中の声がした。

彼女は、ボロボロになった白衣を脱ぎ捨て、新しい白衣に袖を通していた。


乱れていた黒髪はきっちりと後ろで束ねられ、眼鏡も拭き清められている。

顔色は昨日までの興奮が嘘のように穏やかで、透き通るように白い。


それは清廉で不気味な静けさだった。


「おはようございます、田中さん。……今日は、早いですね」


「ええ。今日で終わりだからね。……外に出るなら、少しは人間らしい顔をしておかないと」


田中は照れくさそうに笑い、襟を正した。

だが、その白衣の下にある肉体は、隠しようもなく異形だった。


巨大化した乳房は布できつく巻き上げられ固定されていたが質量が白衣を押し上げている。

布の隙間からは、絶え間なく白い液体が滲み出し胸元を汚し続けていた。


「……痛くないんですか?」


マサルは思わず尋ねた。


「痛いわ。」


田中は平然と答えた。


「でも、心地よい痛みでもあるの。……私が生きていることの証明だから」


【08:00 - 祝膳】


配給口から、最後の朝食が届いた。


二人は、汚染された床を避けてデスクを寄せ合い、向かい合って座った。


「いただきます」


田中は、丁寧に箸を使い、魚の身をほぐしていた。その所作は育ちの良さを感じさせた。

マサルは箸が進まなかった。


こんな状況で喉を通るわけがない。


「ヤマモト君。君には感謝しているんだ」


田中が、ぽつりと話し始めた。


「私はね、ずっと孤独だった。研究室でも、学会でも。私の理論はいつも『極端すぎる』『倫理観が欠如している』と笑われてきたからね」


彼女は遠くを見る目をした。


「でも、君は逃げなかった。私の実験を最後まで見届け、記録し、こうして食事を共にしてくれてる。」


「……それは、仕事ですから」


マサルは複雑な思いで答えた。


目の前の女性は、子供を実験台にした悪魔だ。

だが同時に、ただ真理を追い求めてきた孤独な人間でもある。


「ねえ、ヤマモト君。君は『人間』って何だと思う?」


「え?」


田中は、自分の胸に手を当てた。


「私たちは、個体という壁に閉じ込められ、言葉という不完全なツールでしか意思疎通ができない。お互いの痛みを共有することも、喜びを完全に分かち合うこともできない。……だから争い孤独を感じる」


彼女の瞳に、深い悲しみが宿る。


「3年前、南米の地底湖で『蒼白き女神』に出会った時、私は悟ったの。……あの方には『個』がない。全てが融合し、溶け合い、一つの巨大な愛の中で循環している。そこには孤独なんて存在しないの」


「だから……人間を辞めようと?」


「いいえ。新しい形になるだけよ。人間は進化の袋小路に入ってしまった。……このままでは、私たちは孤独に干からびて死ぬだけよ」


田中は肉塊と少女を交互に見つめた。


「だから私は、新しい『器』を作りたいの。」


彼女の言葉には、悲痛なまでの切実さがあった。

世界に絶望し、自分自身の肉体を持て余していた彼女にとって、この研究は「魂の救済」だったのだ。


【11:00 - 疑念】


午前中は、データのバックアップ作業に費やされた。

膨大な解析データと、実験記録。それらをサーバーに転送しながら、マサルは時計を気にしていた。


あと6時間。17時にはロックが解除される。


ふと、田中が手を止めた。


「……静かだね」


「ええ。空調の音しかしません」


「外の世界も、こうならいいのにね」


田中は、ガラスの向こうの隔離室を見つめた。

そこには、銀色の少女が立っている。


「感情も、痛みも、恐怖もない世界。……あれこそが、私が目指す『安らぎ』の形よ」


「でも、それは死んでいるのと同じじゃありませんか?」


マサルは反論した。


「少女は笑わない。泣かない。……それを幸せとは呼びたくない」


「フフッ。……君はロマンチストね」


田中は優しく微笑んだ。


「でも、その感情こそが、人間を弱くしているのよ。……恐怖が判断を鈍らせ、愛着が足を止める。宇宙に進出し、何百年も何千年も航海する人類にとって必要なのは、『何も感じないこと』よ」


その言葉には、妙な説得力があった。

坂本さんも、高木も、人間らしい感情を持っていたからこそ、絶望の中で死んでいった。


感情を捨てれば、確かに楽になれるのかもしれない。


「あなたの胎盤。あれもまた黒曜よ。おそらく、数億年前に飛来した。あれには地球の進化のデータが含まれている。」


「胎盤が?」


「あの子が言ってるわ。お兄ちゃんって。同じ種なのよ。あの胎盤を分析すれば、人間の意志を残したまま融合できる道が開けると思うの。」


【14:00 - 通信途絶】


午後2時。

田中がメインコンソールの裏側に回り込み、配線をいじり始めた。


「田中さん? 何を?」


「最終チェックよ。ノイズが入るといけないから」


バチン。

通信パネルのランプが消え、非常用回線のインジケーターも沈黙した。

地上の管制室とのリンクが、物理的に切断された。


「……ちょっと、田中さん。それじゃあ、17時の解錠信号が受信できないんじゃ」


「手動で開ければいいわ。……それにね、ヤマモト君」


田中は配線を握りしめたまま、振り返った。

逆光で表情が見えない。


「外の世界は、もう終わっているかもしれないわよ」


「え?」


「今朝のデータログを見た? ……地上のサーバーからの応答が、0900時以降、完全に途絶えているの」


田中の声が低くなる。


「南米の怪物が、防衛ラインを突破したんでしょう。あるいは、財団がパニックを起こして回線を切ったか。……どちらにせよ、迎えは来ないかもしれない」


「そ、そんな……」


マサルの顔から血の気が引いた。

見捨てられた?


家族は? 母さんは? ヒナは?


田中は、用意していた銀色のトレイを手に取った。

そこには、鈍く光る「水銀色の液体」が入った金属製のシリンジと、数本のメスが並んでいた。


【16:30 - 善意】


解放予定時刻まで、あと30分。

部屋の空気は、張り詰めた弓のように緊張していた。


マサルは荷物をまとめ、出口の扉の前に立っていた。

田中は、部屋の中央でシリンジを磨いている。


「……ヤマモト君。座らない?」


「いえ、ここで待ちます」


「そうか。……君は、優しい子ね」


「は?」


「家族のことを心配しているんでしょう? もし外が地獄になっていても、君は彼らを守ろうとするはずだわ」


田中はシリンジを光にかざした。


「でもね、人間の力じゃ無理よ。君の体は脆すぎる。恐怖心は判断を鈍らせる。……家族を守るどころか、君自身が狂って死ぬのがオチよ」


田中がゆっくりと歩み寄ってきた。

その瞳には、善意と母性が宿っていた。


「だから、私が力をあげる」


「……力?」


「これを打てば、君は痛みを感じなくなる。恐怖も消える。傷ついても即座に再生する」


田中は本気だった。

彼女はマサルを実験台にしようとしているのではない。


本気で心配し、本気で良かれと思って提案しているのだ。

それが一番恐ろしかった。


「断ります。……僕は、人間のままでいい」


「頑固ねぇ。……でも、そこが君のいいところか」


田中は残念そうに肩をすくめた。

そして、時計を見た。


「16時59分。……時間ね」


【17:00 - 強制執行】


17時のチャイムは鳴らなかった。

扉も開かなかった。

静寂。


「……田中さん。開けてください」


「開かないわよ。私がロックしたから」


田中は、悲しげな顔で言った。


「君を、あのまま外に出すわけにはいかないの。……君は私の唯一の友人だからね。むざむざ死なせたくない」


田中が指を鳴らす。

パチン。


風を切る音。

部屋の隅にいた銀色の少女が、弾丸のようにマサルに飛びかかった。


「ぐわっ!?」


マサルは床に叩きつけられた。

少女の細い腕が、万力のようにマサルの首と手足をロックする。


彼女の顔には表情がない。銀色の瞳が、ただ事務的にマサルを見下ろしている。


「痛くはないわ。一瞬で意識が飛び、目覚めた時には、君は超人になっている。……そうすれば、家族もきっと守れるよ」


「そうね。あなたと、あの胎盤の融合実験も一緒にしましょう。きっと理性を残せるわ」


田中はシリンジを構え、マサルの腕を掴んだ。

シャツの袖を引き裂く。


「やめろ……! 離せ! 俺は人間だ!」


「人間だから弱いんじゃない! 分かってちょうだい!」


田中は叫んだ。

彼女の目から、涙がこぼれ落ちた。


狂っている。完全に論理が破綻している。だが、彼女の感情は本物だった。

歪みきった友情と善意が、マサルの腕に注射針を突き立てようとする。


その時。


**ギチチチチチチッ!!!!**


耳をつんざくような高周波音が、部屋の空気を引き裂いた。

それは音ではなかった。


「拒絶」という概念そのものが物理的衝撃となって具現化した、空間の悲鳴。


「うぐっ……!?」


田中が耳を押さえてよろめく。

マサルを押さえつけていた少女の腕が、ビクリと痙攣して緩んだ。


音源は、マサルのデスクの下。

タオルに包まれた胎盤だった。


【17:05 - 激昂】


バリバリバリッ!


タオルが内側から弾け飛んだ。

露わになった黒い肉塊は、赤熱し、部屋の照明を反射してぬらぬらと輝いていた。


言葉はない。

だが、そこから放たれる「殺意」は。


『…………!!』


マサルの脳内に、怒りのイメージが雪崩れ込む。


パリンッ!


衝撃波で、部屋中のモニターが一斉に粉砕された。

照明がスパークし、火花が散る。暗闇の中で、非常灯の赤色だけが明滅する。


そして、田中の手の中にあるシリンジが、沸騰した。


「あつっ!?」


田中がシリンジを取り落とす。

床に落ちて割れたガラス管から、銀色の液体がこぼれ出した。


だが、それは床に広がることはなかった。

まるで、見えない重力源に引かれるように、液体が逆流し、空中で球体となった。


そして、銀色が急速に失われ、禍々しい赤黒い色へと変色していく。

死んでいたはずのナノマシンが、胎盤の意志を受けて新生したのだ。


「馬鹿な……! 通信機能は物理的に破壊したはずだわ!」


田中が叫ぶ。


赤黒く変貌した液体は、空中で鋭い棘を持つ形状に変形し、田中の顔面めがけて弾丸のように射出された。


「ひっ……!?」


田中が顔を庇う。

液体は彼女の手に食らいつき、皮膚を溶かしながら内部へ侵入した。


「ギャアアアア!!」


絶叫。

怒りに狂ったナノマシンの群れが、田中の細胞を一つ一つ食い千切り、爆破し、蹂躙していく。


「 79番! 排除して!」


田中が叫ぶ。

マサルを放した銀色の少女が、即座に反応した。

彼女は無表情のまま、マサルのデスクにある胎盤に向かって跳躍した。


だが、空中で彼女の動きが止まった。

彼女の銀色の肌に、黒い亀裂が走る。

胎盤が、彼女の体内のナノマシンにも介入したのだ。


ピキッ……パキパキッ……。


少女の体が、陶器のように砕け始めた。

銀色の破片がサラサラと崩れ落ち、ただの雨となって床に散らばった。


「あ……あ……」


マサルは、崩れ落ちる少女の残骸を見つめた。

その中に、小さな心臓のようなパーツが転がり、ドクリと一度だけ動いて停止した。


「嫌だ……嫌だ……! 私はマリアになるのよ! 新世界の聖母になるのよ!」


田中は、腕から肩、そして顔へと這い上がってくる赤黒い侵食に飲み込まれながら、泣き叫んだ。

左足が溶け、腰が溶け、内臓がこぼれ落ちる。


ドロリとした腸が床に広がり、その腸自体が蛇のように動き出して田中の首を絞める。


「マサル君! 助けて! 私たちは友達でしょう!?」


田中が、溶けかけた手をマサルに伸ばす。

その顔半分は既に肉腫に覆われ、複数の眼球がボコボコと発生していた。


マサルは、腰を抜かして震えることしかできなかった。

助けられない。


【17:15 - 浄化】


その時。

部屋のアラートが、赤一色に染まった。


『警告。レベル5バイオハザード確定』


無機質なシステム音声が響き渡る。

地上の管制室が失敗を悟り決断したのだ。


『汚染拡大防止プロトコル、「インシネレーター(焼却)」を承認』


「焼却……?」


マサルは天井を見上げた。

天井のハッチが開き、巨大な放射ノズルが現れた。

あの日、坂本さんを焼いたのと同じ、死の口だ。


「やめろ! !」


マサルは叫んだが、意味はない。


『3、2、1……』


**ボッ!!!!**


轟音と共に、数千度のプラズマ火炎と、高圧電流が部屋全体に降り注いだ。

視界が真っ白に染まる。


「ギャアアアアアアアア!!!!!」


田中の断末魔。

肉が焼ける音。骨が爆ぜる音。体液が沸騰して破裂する音。

それらが一瞬で混ざり合い、炭化していく。


マサルは、とっさに自分のデスクの下に潜り込み体を丸めた。

だが、そんなものは気休めにもならなかった。


デスクの金属天板が一瞬で赤熱し、輻射熱がマサルの皮膚を焼く。


「あづっ……! ぎゃあああ!!」


服が溶けて肌に張り付く。

髪の毛がチリチリと燃え上がり、頭皮が焼ける臭いが鼻腔を突く。

吸い込んだ空気が熱すぎて、肺胞が焼ける。呼吸ができない。


(熱い……痛い……!)


皮膚が炭化し、ひび割れ、そこから血が噴き出すが、その血も一瞬で蒸発する。

指先の感覚がなくなる。

視界が溶けていく。


ああ、高木も、坂本さんも、みんなこうして終わったのか。


意識が飛びそうになる。

死が、黒い幕を下ろそうとしていた。


その時。

胎盤が動いた。


胎盤だけが、瑞々しいまま生き残っていた。

いや、炎のエネルギーさえも吸収して、さらに活性化していた。


肉塊がぐにゃりと変形し、スライムのように広がる。

そして、マサルの焼け爛れた皮膚の上に、冷たい粘液を広げていった。


『…………』


声はない。

ただ、強烈な意志だけが伝わってくる。


ジュッ、ジュウウウゥゥ……!


焼けた肉の上に、胎盤の肉が融合していく音。

激痛が走る。


だが、それは火傷の痛みとは違う。

自分の肉に食い込み、神経を無理やり繋ぎ合わせる、生理的な不快感と痺れを伴う痛みだった。


「あ……ぐ……」


胎盤は、マサルの腹から股間へと根を張り、全身を薄い膜で覆った。

焼けて炭化した皮膚を強引に剥がし、代わりに新しい皮膚を形成していく。


高熱で壊死した血管に、胎盤の触手が入り込み、ポンプのように強制的に血液を送り出す。


マサルの意識が、胎盤の意識と混ざり合う。

南米のジャングルの映像がフラッシュバックする。


あの肉の森。融合した戦車。

自分が書き換えられていく感覚。


視界の端で、田中だったモノが崩れ落ちるのが見えた。

炭化した骸骨が、最後にこちらを見て、崩れ落ちた顎でニタリと笑った気がした。


それは、ようやく肉体の呪縛から解放された、安堵の笑みだったのかもしれない。


炎の轟音と、肉の焼ける匂い。

そして、胎盤がマサルの内臓を弄る、ぬちゃぬちゃという水音。

それらを最後に、マサルの意識は暗黒の底へと沈んでいった。


第7解析室は、完全な浄化の炎に包まれた。

生き残ったのは一人。


そして、人ならざるものが一つ。

それらは今や、分かち難く結びつき、新たな産声を上げようとしていた。

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