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沸騰する1999 -黒い雨の聖餐-  作者: クトゥルフ好き


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12/20

【Episode 7: 5日目】

【1999年8月上旬 - アーカム財団日本支部 第7解析室 Day 5】


【05:00 - 海】


5日目の未明。

マサルは、ピチャ……ピチャ……という、粘着質な水音と、鼻をつく発酵臭で目を覚ました。


「……解けたわ。……やっと、分かった」


部屋の中央。田中冴子が、床の汚水に裸足の膝を浸しながら、ホワイトボードに向かっていた。


巨大な乳房は、赤黒く鬱血し、表面に無数の青い静脈が蛇のように走っている。

その質量は限界を超え、自重で床につき垂れ下がっていた。


そして、肥大化した乳頭からは、絶え間なく白濁した液体が噴出している。


「おはようございます、田中さん……。何を?」


「おはよう、ヤマモト君。……見て、この構造式を」


田中は振り返った。汗と脂、ミルクにまみれた顔で笑みを浮かべる。


「あの子を観察していて気づいたの。あの子は本能が強すぎる。……癌細胞と同じよ。不完全なの」


彼女は、部屋の奥にあるビニールプールを指差した。

そこでは、肉塊が母乳の海を泳ぎ回り、飢餓感に満ちた声を上げていた。


「……だから、物理的に焼き切ることにしたわ」


「焼く……?」


「そう。ナノマシン群は、特定の極超短波を使って互いに通信し、一つの『集合意識』を形成している。微生物学でいう『クオラムセンシング』の応用ね」


田中は、ホワイトボードに描かれた複雑な周波数チャートを指先でなぞった。


「この通信波長――を特定したわ。ここに高出力のマイクロ波を収束照射して、ナノマシン間のアンテナ機能だけを破壊するの。個々の細胞修復機能は残したまま、全体を統率する『脳』だけを蒸発させる」


彼女は乳房を邪魔そうに抱え上げ、机の上にドンと置いた。


「言わば、去勢よ。……脳を焼き、外部入力で動く従順な機械に変えるの」


【09:00 -出荷】


田中は直ちに理論を論文にまとめ、本部に要請を送った。

『高周波マイクロ波照射装置』そして『適合係数Aの未成熟な生体サンプル』。


マサルは通信パネルに掴みかかった。


「正気ですか!? 子供を使うなんて! 田中さん、あなたは!」


田中は自分の濡れた胸を、愛おしそうに撫でた。

その指の間から、白い液体が溢れ出る。


「だからこそよ」


モニターに映る地上のオペレーターは、無表情だった。

彼女の背後では、怒号とサイレンが飛び交っている。地上も限界が近いのだ。


『……現在、南米の防衛ラインは崩壊寸前です。既存の兵器は全て「学習」され、無効化されました。……タナカ博士の「意思剥奪理論」に賭けるしかありません』


彼女は冷酷に告げた。


『検体番号「79」を出荷しました。……身寄りのない6歳の雌です。好きに使ってください』


「人間ですよ!? ストックだなんて……!」


『人類という種が存続するためなら、個体の尊厳など誤差の範囲です』


プツン。通信が切れる。

マサルは崩れ落ちた。


【11:00 - 来訪者】


重苦しい油圧音と共に、大型搬入ハッチが開いた。

運び込まれたのは、拘束衣を着せられ、ストレッチャーに固定された小さな女の子だった。


年齢は6歳くらい。粗末な検査着一枚。手には何もない。

ただ、小さな拳を白くなるほど握りしめている。


「……ヒッ……ウゥ……」


少女は、部屋に充満する異臭――腐ったミルクとオゾンの臭い――そして、田中の異形な姿を見て、限界を迎えた。彼女の股間から、じわりと温かい液体が広がり、ストレッチャーのシーツを濡らした。


失禁。極限の恐怖が麻痺させたのだ。


「あらあら。……汚い子ね」


田中は近づき、少女を見下ろした。

彼女の巨大な乳房が、少女の顔の真上で揺れる。ポタリ、と母乳の熱い雫が少女の頬に落ちた。


「でも大丈夫。すぐに『きれい』にしてあげるわ。」


少女はガチガチと歯を鳴らし、過呼吸を起こしかけていた。

助けを求めるようにマサルを見るが、その瞳孔は恐怖で開ききり、焦点が合っていない。


「さあ、始めましょう……」


【12:30 - 精製】


実験の準備が整った。

搬入されたのは、巨大な円筒形の「マイクロ波照射ユニット」。

田中は、シャーレの「カオス・ドロップ」を装置にセットした。


黒い液体は、危機を察知したのか、シャーレの中で激しく暴れ回り、ガラス壁に棘を突き立てて威嚇音を発した。


『ギチチチ……!』

マサルの脳内に、直接不快なノイズが響く。


「暴れるなよ。……少し、頭を冷やすだけだ」


田中がスイッチを入れる。

ブウン……という重低音が響き、装置内部の空間が歪む。


「出力最大。照射開始!」


**ギ……ギギギッ……!! ギャアアアア!!**


真空の装置内で、液体が断末魔のような高周波を発した。

それは生物の悲鳴というよりは、金属がひしゃげる音に近かった。

ナノマシン間の通信ネットワークが焼き切られ、個が物理的に蒸発していく音。


数分後、音はプツリと途絶えた。


「処理完了」


オート・トレイが開き、シャーレが出てきた。

そこに残っていたのは、あの禍々しい黒色を失い、水銀色に変色した液体だった。

ピクリとも動かない。


完全な静寂。


「成功よ。」


田中は満足げに頷き、その銀色の液体を、太い金属製のシリンジに吸い上げた。


【13:30 - 再起動】


少女は手術台に固定され、痙攣していた。

田中は、シリンジを構えて近づく。


「動かないで」


「イヤッ……! 助けて……! ママ……!」


プシュッ。


田中は容赦なく、少女の細い首筋――頸動脈に、太い針を根元まで突き刺した。


「ギャアアアア!!」


幼い絶叫が、防弾ガラス越しに響く。

銀色の液体が、少女の小さな体へと圧力をかけて流し込まれていく。


「循環開始。……血液の置換率、上昇中」


少女の体が弓形に反り返り、激しく痙攣する。

皮膚の下、血管という血管が銀色に浮き上がる。

肌の色が、生気のあるピンク色から、土気色へ、そして銀灰色へと置換されていく。


少女の目が裏返り、口から銀色の泡を吹く。

それは、人間としての死であり新生だった。


「おおむね成功ね」


田中がモニターを見ながら実況する。

少女の痙攣が止まった。

彼女は手術台の上で、糸が切れた人形のように脱力した。


心電図は停止。呼吸も停止。


「……死んだのか?」


マサルが祈るように呟いた。死んだ方がマシだ。


「いいえ。ここからが本番よ。……再起動」


田中がコンソールを操作し、少女の脳幹へ電気パルスを送った。


**カッ!**


少女が、カッと目を見開いた。

瞬き一つしない。


そして、バネ仕掛けのように、ガバッと上半身を起こした。

予備動作が一切ない。

オンになったスイッチのように、0から100へ、唐突に起動したのだ。


「……接続完了。コマンド入力」


田中がキーボードを叩く。

声で命令するのではない。脳に埋め込まれたナノマシンへ、直接デジタル信号を送るのだ。


少女が、手術台から飛び降りた。

着地の音すらしない。重力を感じさせない、不気味なほどスムーズな動作。


彼女は直立不動の姿勢をとり、一点を見つめて静止した。


【14:30 - 動作試験】


「性能テストを行うわ」


田中はキーを叩いた。


バキッ!!


乾いた音が響いた。

少女は、自らの左手で、右腕の骨を躊躇なくへし折った。


表情一つ変えない。悲鳴も上げない。心拍数も変わらない。

折れ曲がった腕から銀色の液体が滴るが、彼女はそれを認識すらしていないようだ。


「痛覚遮断、確認。……次、再生シークエンス」


シュルルル……。


折れた腕の断面から、銀色のナノマシンが沸き立ち、骨と肉を編み上げていく。

わずか10秒。

腕は元通りになり、傷跡一つ残っていない。


「素晴らしい……。自己修復機能、反応速度、従順性。すべてが完璧だわ」


田中は歓喜の声を上げる。

そこにはもう、母親を呼ぶ子供はいなかった。


【16:00 - 二つの地獄】


夕方。

第7解析室は、二つの相反する地獄が同居する空間となっていた。


部屋の右奥、ビニールシートで囲われたプール。

そこでは、田中の母乳を貪り食い、無秩序に巨大化・暴走する肉塊が蠢いている。

それは熱く、湿り、腐臭を放っている。


部屋の左側、隔離実験室の中の少女。

直立不動で待機し、次の電気信号があるまで瞬きもしない彫像。

それは冷たく、乾き、無機質だ。


そして中央には、その両方を作り出した魔女――田中冴子が座っている。

プールに乳房を突き出して母乳を垂れ流しながら、銀色の少女のデータを眺めていた。


「素晴らしいわ……」


彼女の白衣ははだけ、巨大な乳房は紫色に鬱血し、血管が破裂しそうになっていた。

肉体的には限界を超えているはずだが、脳内麻薬が彼女を突き動かしている。


【20:00 - 対話】


夜。

配給口から豪華なディナーが届いた。財団からのささやかな報酬だ。


田中は、銀色の少女を侍らせ、プールの肉塊に餌を投げ与えながら、ワイングラスを傾けた。


「ヤマモト君。……君は、どっちになりたい?」


田中が、酔った目でマサルを見た。

その口調は、驚くほど理性的で、穏やかだった。

だからこそ、恐ろしい。


「あっちのプールで、みんなと溶け合って、お乳を飲んで気持ちよくなるか。……それとも、こっちの注射で、何も感じない完璧な超人になるか」


彼女はシリンジを持ち上げ、光にかざした。


「私のおすすめは、こっちよ。……君のその怯えた顔、見ていられないもの。」


「……どっちも、御免です。僕は人間として死にたい」


マサルは、デスクの下の「胎盤」を握りしめた。

胎盤は、今にも爆発しそうなほど高熱を発し、激しく脈打っていた。


**ドクン! ドクン!**

それは、部屋の中にある二つに対する猛烈な殺意だった。


「人間として? ……ふふっ、センチメンタルね」


田中はクスリと笑い、ワインを飲み干した。


「でも、残念ね。」

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