【Episode 7: 5日目】
【1999年8月上旬 - アーカム財団日本支部 第7解析室 Day 5】
【05:00 - 海】
5日目の未明。
マサルは、ピチャ……ピチャ……という、粘着質な水音と、鼻をつく発酵臭で目を覚ました。
「……解けたわ。……やっと、分かった」
部屋の中央。田中冴子が、床の汚水に裸足の膝を浸しながら、ホワイトボードに向かっていた。
巨大な乳房は、赤黒く鬱血し、表面に無数の青い静脈が蛇のように走っている。
その質量は限界を超え、自重で床につき垂れ下がっていた。
そして、肥大化した乳頭からは、絶え間なく白濁した液体が噴出している。
「おはようございます、田中さん……。何を?」
「おはよう、ヤマモト君。……見て、この構造式を」
田中は振り返った。汗と脂、ミルクにまみれた顔で笑みを浮かべる。
「あの子を観察していて気づいたの。あの子は本能が強すぎる。……癌細胞と同じよ。不完全なの」
彼女は、部屋の奥にあるビニールプールを指差した。
そこでは、肉塊が母乳の海を泳ぎ回り、飢餓感に満ちた声を上げていた。
「……だから、物理的に焼き切ることにしたわ」
「焼く……?」
「そう。ナノマシン群は、特定の極超短波を使って互いに通信し、一つの『集合意識』を形成している。微生物学でいう『クオラムセンシング』の応用ね」
田中は、ホワイトボードに描かれた複雑な周波数チャートを指先でなぞった。
「この通信波長――を特定したわ。ここに高出力のマイクロ波を収束照射して、ナノマシン間のアンテナ機能だけを破壊するの。個々の細胞修復機能は残したまま、全体を統率する『脳』だけを蒸発させる」
彼女は乳房を邪魔そうに抱え上げ、机の上にドンと置いた。
「言わば、去勢よ。……脳を焼き、外部入力で動く従順な機械に変えるの」
【09:00 -出荷】
田中は直ちに理論を論文にまとめ、本部に要請を送った。
『高周波マイクロ波照射装置』そして『適合係数Aの未成熟な生体サンプル』。
マサルは通信パネルに掴みかかった。
「正気ですか!? 子供を使うなんて! 田中さん、あなたは!」
田中は自分の濡れた胸を、愛おしそうに撫でた。
その指の間から、白い液体が溢れ出る。
「だからこそよ」
モニターに映る地上のオペレーターは、無表情だった。
彼女の背後では、怒号とサイレンが飛び交っている。地上も限界が近いのだ。
『……現在、南米の防衛ラインは崩壊寸前です。既存の兵器は全て「学習」され、無効化されました。……タナカ博士の「意思剥奪理論」に賭けるしかありません』
彼女は冷酷に告げた。
『検体番号「79」を出荷しました。……身寄りのない6歳の雌です。好きに使ってください』
「人間ですよ!? ストックだなんて……!」
『人類という種が存続するためなら、個体の尊厳など誤差の範囲です』
プツン。通信が切れる。
マサルは崩れ落ちた。
【11:00 - 来訪者】
重苦しい油圧音と共に、大型搬入ハッチが開いた。
運び込まれたのは、拘束衣を着せられ、ストレッチャーに固定された小さな女の子だった。
年齢は6歳くらい。粗末な検査着一枚。手には何もない。
ただ、小さな拳を白くなるほど握りしめている。
「……ヒッ……ウゥ……」
少女は、部屋に充満する異臭――腐ったミルクとオゾンの臭い――そして、田中の異形な姿を見て、限界を迎えた。彼女の股間から、じわりと温かい液体が広がり、ストレッチャーのシーツを濡らした。
失禁。極限の恐怖が麻痺させたのだ。
「あらあら。……汚い子ね」
田中は近づき、少女を見下ろした。
彼女の巨大な乳房が、少女の顔の真上で揺れる。ポタリ、と母乳の熱い雫が少女の頬に落ちた。
「でも大丈夫。すぐに『きれい』にしてあげるわ。」
少女はガチガチと歯を鳴らし、過呼吸を起こしかけていた。
助けを求めるようにマサルを見るが、その瞳孔は恐怖で開ききり、焦点が合っていない。
「さあ、始めましょう……」
【12:30 - 精製】
実験の準備が整った。
搬入されたのは、巨大な円筒形の「マイクロ波照射ユニット」。
田中は、シャーレの「カオス・ドロップ」を装置にセットした。
黒い液体は、危機を察知したのか、シャーレの中で激しく暴れ回り、ガラス壁に棘を突き立てて威嚇音を発した。
『ギチチチ……!』
マサルの脳内に、直接不快なノイズが響く。
「暴れるなよ。……少し、頭を冷やすだけだ」
田中がスイッチを入れる。
ブウン……という重低音が響き、装置内部の空間が歪む。
「出力最大。照射開始!」
**ギ……ギギギッ……!! ギャアアアア!!**
真空の装置内で、液体が断末魔のような高周波を発した。
それは生物の悲鳴というよりは、金属がひしゃげる音に近かった。
ナノマシン間の通信ネットワークが焼き切られ、個が物理的に蒸発していく音。
数分後、音はプツリと途絶えた。
「処理完了」
オート・トレイが開き、シャーレが出てきた。
そこに残っていたのは、あの禍々しい黒色を失い、水銀色に変色した液体だった。
ピクリとも動かない。
完全な静寂。
「成功よ。」
田中は満足げに頷き、その銀色の液体を、太い金属製のシリンジに吸い上げた。
【13:30 - 再起動】
少女は手術台に固定され、痙攣していた。
田中は、シリンジを構えて近づく。
「動かないで」
「イヤッ……! 助けて……! ママ……!」
プシュッ。
田中は容赦なく、少女の細い首筋――頸動脈に、太い針を根元まで突き刺した。
「ギャアアアア!!」
幼い絶叫が、防弾ガラス越しに響く。
銀色の液体が、少女の小さな体へと圧力をかけて流し込まれていく。
「循環開始。……血液の置換率、上昇中」
少女の体が弓形に反り返り、激しく痙攣する。
皮膚の下、血管という血管が銀色に浮き上がる。
肌の色が、生気のあるピンク色から、土気色へ、そして銀灰色へと置換されていく。
少女の目が裏返り、口から銀色の泡を吹く。
それは、人間としての死であり新生だった。
「おおむね成功ね」
田中がモニターを見ながら実況する。
少女の痙攣が止まった。
彼女は手術台の上で、糸が切れた人形のように脱力した。
心電図は停止。呼吸も停止。
「……死んだのか?」
マサルが祈るように呟いた。死んだ方がマシだ。
「いいえ。ここからが本番よ。……再起動」
田中がコンソールを操作し、少女の脳幹へ電気パルスを送った。
**カッ!**
少女が、カッと目を見開いた。
瞬き一つしない。
そして、バネ仕掛けのように、ガバッと上半身を起こした。
予備動作が一切ない。
オンになったスイッチのように、0から100へ、唐突に起動したのだ。
「……接続完了。コマンド入力」
田中がキーボードを叩く。
声で命令するのではない。脳に埋め込まれたナノマシンへ、直接デジタル信号を送るのだ。
少女が、手術台から飛び降りた。
着地の音すらしない。重力を感じさせない、不気味なほどスムーズな動作。
彼女は直立不動の姿勢をとり、一点を見つめて静止した。
【14:30 - 動作試験】
「性能テストを行うわ」
田中はキーを叩いた。
バキッ!!
乾いた音が響いた。
少女は、自らの左手で、右腕の骨を躊躇なくへし折った。
表情一つ変えない。悲鳴も上げない。心拍数も変わらない。
折れ曲がった腕から銀色の液体が滴るが、彼女はそれを認識すらしていないようだ。
「痛覚遮断、確認。……次、再生シークエンス」
シュルルル……。
折れた腕の断面から、銀色のナノマシンが沸き立ち、骨と肉を編み上げていく。
わずか10秒。
腕は元通りになり、傷跡一つ残っていない。
「素晴らしい……。自己修復機能、反応速度、従順性。すべてが完璧だわ」
田中は歓喜の声を上げる。
そこにはもう、母親を呼ぶ子供はいなかった。
【16:00 - 二つの地獄】
夕方。
第7解析室は、二つの相反する地獄が同居する空間となっていた。
部屋の右奥、ビニールシートで囲われたプール。
そこでは、田中の母乳を貪り食い、無秩序に巨大化・暴走する肉塊が蠢いている。
それは熱く、湿り、腐臭を放っている。
部屋の左側、隔離実験室の中の少女。
直立不動で待機し、次の電気信号があるまで瞬きもしない彫像。
それは冷たく、乾き、無機質だ。
そして中央には、その両方を作り出した魔女――田中冴子が座っている。
プールに乳房を突き出して母乳を垂れ流しながら、銀色の少女のデータを眺めていた。
「素晴らしいわ……」
彼女の白衣ははだけ、巨大な乳房は紫色に鬱血し、血管が破裂しそうになっていた。
肉体的には限界を超えているはずだが、脳内麻薬が彼女を突き動かしている。
【20:00 - 対話】
夜。
配給口から豪華なディナーが届いた。財団からのささやかな報酬だ。
田中は、銀色の少女を侍らせ、プールの肉塊に餌を投げ与えながら、ワイングラスを傾けた。
「ヤマモト君。……君は、どっちになりたい?」
田中が、酔った目でマサルを見た。
その口調は、驚くほど理性的で、穏やかだった。
だからこそ、恐ろしい。
「あっちのプールで、みんなと溶け合って、お乳を飲んで気持ちよくなるか。……それとも、こっちの注射で、何も感じない完璧な超人になるか」
彼女はシリンジを持ち上げ、光にかざした。
「私のおすすめは、こっちよ。……君のその怯えた顔、見ていられないもの。」
「……どっちも、御免です。僕は人間として死にたい」
マサルは、デスクの下の「胎盤」を握りしめた。
胎盤は、今にも爆発しそうなほど高熱を発し、激しく脈打っていた。
**ドクン! ドクン!**
それは、部屋の中にある二つに対する猛烈な殺意だった。
「人間として? ……ふふっ、センチメンタルね」
田中はクスリと笑い、ワインを飲み干した。
「でも、残念ね。」




