【Episode 7: 4日目】
【1999年8月上旬 - アーカム財団日本支部 第7解析室 Day 4】
【06:00 - 湿気】
4日目の朝。
コンクリートの壁や天井にびっしりと結露が張り付き、水滴となってボタボタと床を叩いている。
その湿気の発生源は、部屋の奥、ビニールシートで作られた「培養プール」だった。
そして、その縁に座り込んでいる田中の肉体だった。
「……はぁ……はぁ……」
田中は、プールの縁に崩れ落ちるように座り、浅い呼吸を繰り返していた。
彼女の上半身は裸だった。昨夜破り捨てたTシャツの残骸が、雑巾のように足元に転がっている。
そして、彼女の胸部は病的な肥大を遂げていた。
もはや「乳房」という形状すら保っていない。
重力に負けて太腿を覆い隠し、さらに床にまで垂れ下がるほどの巨大な肉の袋。
皮膚は極限まで薄く引き伸ばされ、半透明になっており、その下で青黒い静脈が網の目のように脈打ち、内部の白い液体が流動しているのが透けて見える。
「……おはよう、ヤマモト君」
田中がうつろな目でこちらを見た。
彼女の全身は汗と、そして溢れ出る母乳で濡れそぼっていた。
乳首からは壊れた蛇口のように白い液体が絶え間なく流れ出し、プールへと注がれている。
彼女は一晩中、自身の体液でプールを満たし続けていたのだ。
「……手伝って。重すぎて、立てないの」
彼女は涙目で訴えた。
快楽ではない。純粋な肉体的な苦痛と消耗。
マサルは憐憫を覚えた。
【07:30 - 禊】
マサルは田中を抱え上げ(その肉体は高熱を発し、ずっしりと重かった)、簡易ベッドに寝かせた後、逃げるようにシャワー室へ飛び込んだ。
「落ちろ……落ちろよ……!」
熱いシャワーを頭から浴びる。
ボディソープをスポンジに含ませ、皮膚が赤くなるまでこする。
田中の体に触れた手のひらから、あの臭いとヌルヌルした感触が消えないのだ。
「うぅ……ッ」
マサルは嘔吐いた。
この部屋の空気そのものが、田中のフェロモンと、プールの生臭さで汚染されている。
どれだけ洗っても、自分の肺の中までカビが生えたように侵食されている気がする。
鏡を見る。
顔色は青白く、目は落ち窪んでいる。
自分はまだ人間か?
シャワー室を出ると、田中が大量のカロリーメイトと水を貪っていた。
彼女の食欲は異常だった。
失った体液を補うため、本能がカロリーを求めているのだ。
その姿は、科学者というより。
【12:00 - 飢餓】
昼。
部屋の奥の「培養プール」から、バシャバシャという水音が激しくなり始めた。
田中は這うようにしてプールの縁に戻り、水面を覗き込んだ。
「……お腹が空いたのね? いい子」
プールの中は、白濁した液体で満たされていた。
その中を、「灰色のアメーバ」が泳ぎ回っている。
昨日よりも確実に巨大化していた。ドラム缶ほどの体積がある。
それは不定形だったが、時折水面に顔を出し、田中の方へ触手を伸ばしてくる。
『……マ……マ……』
水音に混じって、確かに声が聞こえた。
声帯を持たないはずの肉塊が、水面を振動させて音を作っているのだ。
「はい、はい。今あげるからね」
田中は、自身の巨大な肉塊を両手で抱え、プールの水面へと突き出した。
重みで皮膚が張り裂けそうになり、乳頭から白い噴流がほとばしる。
ジュボッ!
アメーバが水面から飛び出し、田中の胸に食らいついた。
それは授乳ではなかった。
無数の触手が乳房に絡みつき、吸盤のように張り付いて、直接中身を吸い出そうとしている。
「ああっ……! 痛いっ……! 激しい……!」
田中が背中を反らす。
激痛と、それを上回る排泄の快感。
彼女の白目が剥かれ、口から涎が垂れる。
ドクンドクンと波打つ乳房が、見る見るうちに萎んでいく……かと思いきや、即座に新たな母乳を生成し供給を続けている。
「すごい吸引力よ、ヤマモト君……! 私の命が吸い取られていくみたい!」
彼女は恍惚と叫んだ。
マサルは直視できず、自分のデスクの下に潜り込んだ。
そこで震える「胎盤」を抱きしめる。
胎盤は、怒っていた。
【15:00 - 模倣】
午後。
満腹になったアメーバは、プールの中で新たな変化を始めた。
「見て、ヤマモト君。……形が変わるわ」
灰色の肉塊が、骨格を形成し始めた。
背骨が隆起し、肋骨が広がり、手足のような突起が伸びる。
それは、人間の胎児のようであり、同時に、南米の映像で見た「怪鳥」の雛のようでもあった。
そして、表面に「顔」が浮かび上がった。
眼球のない窪んだ眼窩。裂けた口。
その顔は、数秒おきに変化した。
田中の顔になり、マサルの顔になり、そして……。
「……高木?」
マサルは息を呑んだ。
顔が、あの日死んだ友人、高木の顔に変わったのだ。
苦悶に歪み、助けを求める高木の顔。
『……マサル……ニゲロ……』
プールの中から、高木の声がした。
「い、いやだ……! なんで……!」
マサルはパニックになりかけた。
だが、田中は冷静だった。
「模倣よ。私の記憶か、あなたの記憶を読み取って、再生しているだけ。……賢い子ね。私たちの気を引こうとしているわ」
「……なんて美しいのかしら」
この怪物を「美しい」と言える感性。
【20:00 -密室】
夜。
床は母乳と、プールの飛沫で水浸しになっている。
配給された夕食は、湿気でベチャベチャになっていたが、田中はそれを手づかみで貪り食った。
「足りない……。もっとエネルギーを……」
彼女の体は、痩せ細るどころか、さらに肥大化していた。
胸だけでなく、腹部や太腿にも、異常な脂肪がつき始め、人間離れしたシルエットに変貌しつつある。
「母体」としての機能に特化するために、余計な人間性を捨て去ろうとしているかのようだ。
「ねえ、ヤマモト君」
田中が、脂ぎった口元を拭いもせずに言った。
「その胎盤……。あの子に食べさせてあげない?」
「……は?」
「あの子、欲しがってるのよ。……『お兄ちゃん』を食べたいって」
田中は、プールを指差した。
水面から顔を出した肉塊が、ギョロリとしたゼリー状の目で、凝視していた。
口からは、ダラダラとよだれを垂らしている。
「ふざけるな……! 近寄るな!」
マサルは胎盤を抱えて後ずさりした。
胎盤が、ドクン!! と跳ねた。
「あら、残念。……」
田中は不気味に笑った。
マサルは、ペーパーナイフを握りしめ、一睡もせずに夜を明かした。




