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沸騰する1999 -黒い雨の聖餐-  作者: クトゥルフ好き


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【Episode 1: 予兆】

世紀末、世界は「熱」と「愛」に溶かされた。狂気と変異のパンデミック・ホラー。

一九九九年、七月。 日本の夏は、湿気を帯びた熱気と共に幕を開けた。


世紀末という言葉が、人々の口の端に上るようになって久しい。

テレビをつければ、ノストラダムスの大予言、恐怖の大王、アンゴルモアといった単語が、まるで流行歌のように繰り返されていた。


書店には終末論を煽るムック本が平積みされ、街角では独特の空気が漂っている。


だが、そんな世間の喧騒とは隔絶された場所がここにある。


東京都内某所、オフィスビルの地下深くに広がる巨大な空間。

世界的規模を誇る学術組織「アーカム財団」の日本支部である。


室内の温度は常に一八度に保たれ、地上の蒸し暑さとは無縁だ。

蛍光灯の光が廊下と無数の職員たちの顔を青白く照らし出している。


ここで働く人間たちは、ノストラダムスになど興味はない。

彼らが管理するのは、本当の意味での「脅威」、そして「真実」だ。


その組織の末端、吹き溜まりのような部署に、マサルという名の男がいた。


彼の所属は「第4資料編纂室」。

響きだけは立派だが、実態は組織内のゴミ捨て場に近い。


世界中から送られてくるオカルト雑誌、眉唾物のUFO目撃報告書、心霊写真、自称予言者からの手紙。

そうした「真実性の薄い」ガラクタを分類し、アーカイブ化し、あるいは廃棄する。

誰にでもできる単純作業が彼の日課だった。


「……あーあ。また『宇宙人によるインプラント手術』の告発かよ」


マサルは欠伸を噛み殺しながら、デスクの上に積み上げられた書類の山を崩した。

ホッチキスで乱雑に止められたレポートの束を放り投げると、乾いた音が部屋に響く。


大学院を出て、運良くこの財団に潜り込んだものの、配属されたのはこの窓際部署だった。


組織が裏で行っているとされる「超常的脅威の対処」や、エージェントたちの活躍と無縁の場所だ。


デスクは、整理整頓とは程遠い状態だった。

未処理の書類、飲みかけの缶コーヒー、そして埃を被った数々の「資料」たち。


そして、デスクの端、モニターの脇に、異質な存在感を放つ物体が置かれていた。

「乾燥した奇妙な胎盤」だった。


数ヶ月前、南米の遺跡発掘現場から送られてきたものだ。


現地のシャーマンが儀式に使っていたとされるそれは、一見すると枯れ木の根か、あるいは干からびた爬虫類の死骸のようにも見える。直径は一五センチほど。表面は黒く変色し、革のように硬化しているが、よく見るとそこには自然界のものとは思えない、複雑怪奇な幾何学模様が刻まれていた。


当初、これは「未知の生物学的サンプル」として科学局に持ち込まれた。


DNA解析の結果は「劣化により測定不可能」。遺物としての価値は低いと判断された。

そして、「廃棄待ち」の赤いタグが付けられたまま、この第4資料編纂室へと回されてきたのだ。


「お前も、行き場なしか」


マサルは指先でその胎盤を突いた。カツカツと、硬質な音がする。


彼はそれをペーパーウェイト代わりに使ったり、仕事に行き詰まるとその奇妙な幾何学模様をぼんやりと眺めたりしていた。


若くして窓際族の自分と、廃棄待ちの胎盤。その境遇が重なるからだろうか。

なぜか奇妙な愛着のようなものを抱き、廃棄処理を保留していた。


ふと、彼は奇妙な感覚を覚える。


指先が触れた胎盤の表面から、微かな「温かさ」が伝わってきたような気がしたのだ。

冷房の効いた室内で、数ヶ月も放置されていた乾燥標本が温かいはずがない。


マサルは眉をひそめ、今度は手のひら全体でそれを包み込んでみた。


じわり、と。 まるで、生き物の体温のような、あるいは微弱な電流が流れているような感覚。

そして、気のせいか、ドクン、と掌の中で何かが脈打ったような……。


「……疲れてるな、俺」

苦笑しながら手を離した。


残業の影響、といっても中身のない書類整理だが、。


乾燥して硬化している有機物が脈打つなど、あり得ない。

それは科学者としての常識以前の問題だ。


彼は胎盤をデスクの隅へと追いやると、背伸びをして椅子から立ち上がった。


時刻は午後三時を回ったところだ。 日課の休憩時間である。


マサルは小銭入れとIDカードだけをポケットに突っ込み、部屋を出た。

長い廊下を歩く。


すれ違う職員たちは皆、忙しなく歩き回り、マサルのことなど目に入っていない。

白衣を着た研究員たちが、深刻な顔つきで議論しながら通り過ぎる。


「……例の海底遺跡の件だが」

「ああ、セキュリティレベル4の案件だろ?」


会話の端々から漏れ聞こえる単語は、好奇心を刺激するが、その詳細を知る権限はない。


エレベーターホールへ向かい、下層階行きのボタンを押した。


エレベーターが重低音と共に下降を始める。


B-1


B-2


B-3……

表示板の数字が変わるごとに、空気の質が変わっていくのを感じる。


清潔な空気から、オイルとコンクリート、そして微かな埃の匂いが混じった、地下特有の澱んだ空気へ。


B-4フロア。


機密度の高い保管庫が並んでおり、一般職員の立ち入りは制限されている。

だが、マサルは顔パスだ。


扉が開くと、鋼鉄の扉と無骨なコンクリートの壁が続く、殺風景な通路が広がっていた。

足音が反響する通路を抜け、突き当たりにある警備室のドアをノックする。


「どうぞー。開いてるよ」


くぐもった、温かみのある声が中から返ってきた。


ドアを開けると、初老の男性が一人、古びたパイプ椅子に座ってスポーツ新聞を広げていた。

坂本さんだ。


アーカム財団日本支部の設立当初から勤務しているというベテラン警備員である。


白髪交じりの短髪に、笑い皺が刻まれた目元。警備服を着崩し、机の上には湯飲みと煎餅の袋が置かれている。昭和の派出所のような懐かしい雰囲気を醸し出していた。


「お疲れ様です、坂本さん」


「おお、マサルくんか。ちょうど良かった、お湯が沸いたところだ」


坂本さんは新聞を畳み、電気ポットの方へ手を伸ばした。湯呑にお茶を注いで向かいの席に置く。

マサルはそれを見て、向かいの丸椅子に座った。


休憩時間にここへ来て、坂本さんと他愛のない話をする。

上層階のエリートたちは、警備員を「ただの風景」としか見ていない。

挨拶すらせず、無視する者も多い。


マサルにとって坂本さんは、心を許せる友人であり、父親のような存在でもあった。


「どうだい、上の仕事は。相変わらず忙しいのかね?」

坂本さんが、自分の湯飲みにも熱いお茶を注ぎながら尋ねる。


「いや、暇なもんですよ。今日も、世界中から届く妄想の整理です。ブラジルで吸血鬼が出たとか、アラスカで雪男が踊ってたとか」


「ははは、夢があるねえ。わしなんて、一日中モニターとにらめっこだよ。映るのは、たまに通るネズミくらいだ」


坂本さんは豪快に笑った。


彼は、財団が裏で何を管理しているのか、詳しくは知らない。あるいは、知っていて関心を持たないようにしているのかもしれない。


「そうそう、マサルくん。これを見てくれよ」


嬉しそうに、制服の胸ポケットから一枚の写真を取り出した。

待ってました、とばかりにマサルは身を乗り出す。


いつもの「孫自慢」の時間だ。写真には、生まれて間もない赤ん坊が写っていた。

柔らかそうな頬、握りしめられた小さな手、そして眠っている穏やかな表情。


「かわいいだろ。昨日、娘から送られてきてな」


「へえ、これが……」


「そう、初孫の『未来』だ」

坂本さんは目を細め、写真を指で撫でた。


「ミライちゃん、ですか。いい名前ですね」

「だろう? 娘夫婦がつけたんだがね。これからの時代、明るい未来があるようにって」


未来。一九九九年の今、その言葉はどこか皮肉な響きを含んでいた。

世間では数週間後に世界が滅びると騒いでいる。


「定年まであと少しだ。この子のために、じいちゃんももうひと踏ん張りしないとな」

坂本さんは相好を崩し、笑った。


その姿を見て、マサルはふと、家族のことを思い出した。

母のアキナ、姉のカエデ、妹のヒナ。


女手一つで自分たちを育ててくれた母。

いつも明るく、少しおせっかいな姉。

そして、生意気だが根は優しい妹。


家に帰れば、当たり前のように温かい夕食があり、くだらないテレビ番組を見て笑い合う時間がある。


坂本さんが写真に見せる眼差しは、母が自分たちに向けてくれるものと同じだ。


「……そうですね。頑張らないと」

マサルはお茶の残りを飲み干し、頷いた。


「おっと、そろそろ戻らないと。サボってると課長に怒鳴られますから」


「ああ、引き止めて悪かったな。今度、また一杯やろう。地下じゃなくて、地上の居酒屋でな」


「ええ、ぜひ。ミライちゃんの写真、また見せてくださいね」


坂本さんは手を振り、再びモニターの方へと向き直った。


その背中は少し丸まっていたが、哀愁のようなものが漂っていた。


マサルは警備室を出て、再びコンクリートの通路へと足を踏み出した。

背後で、重厚なドアが閉まる音。


エレベーターへ向かう道すがら、マサルはあの「胎盤」のことを思い出していた。


(廃棄待ちのタグ……か)


坂本さんは定年を控え、孫という未来へのバトンを持っている。


自分はどうだ?

毎日、意味のない書類を右から左へ流し、ガラクタを整理し続ける日々。


あの胎盤は、自分を暗示しているようではないか。

乾燥し、ひび割れ、誰からも必要とされずに捨てられるのを待っているだけの存在。


「……やめだ、やめ」


マサルは頭を振り、ネガティブな思考を追い払った。


エレベーターのボタンを押す。

到着を待つ間、彼はポケットの中で指を遊ばせた。


指先に触れたのは小さな欠片だった。

さっき胎盤を触った時、端の一部が欠けて落ちたのを、拾ってポケットに入れたままにしていたのだ。


指の腹でそれを転がす。

硬いはずのそれは、体温で温められたせいか、妙に弾力をおびているように感じられた。

そして再び、あの感覚。 ドクン。 微かな、しかし確かな脈動。


エレベーターが到着し、扉が開く。


冷たい風が、マサルの火照った頬を撫でた。


欠片を握りしめたまま箱の中へと乗り込んだ。

――これは、僕が僕でなくなるまでの、最後の数ヶ月の物語。

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