第9話「浴の起動 — 働く湯・商う湯・休む湯」
朝。湯は四十三度、呼吸は一定。市場の井戸は、夜のあいだによく眠った。
看板の端に今日の一行を刻む。
《第二区画・浴の起動》
《浴は三態:働く湯/商う湯/休む湯》
《角:入口一/中央二(可動)/出口一》
《神域線:灰/祈りは休湯》
グラナイトが尾で定時を打つ。「浴を起こせ」
「寝かせから起こしへ」
僕は井戸の回転柵を左へ半周だけまわし、井戸底に眠っていた三本の溝を露わにした。溝の縁に刻まれた矢印は三方向。
一:働く湯(浅・高温・短時間)
二:商う湯(中・一定温・通行兼用)
三:休む湯(深・低温・静音)
ミーナが笑って肩を回す。「厨房もそれだよ。沸かす/保つ/休める」
ルシアンが頷く。「祈りは三番の“休む湯”の休湯時だけ」
まずは働く湯の路を開く。
配管の節を軽く叩き、温度の段を二つ作る。入口足元に粗砂、その先に木の縁。短時間で筋肉を起こすため、四十七度を四十秒、次いで四十四度を八十秒。
勇者が眉を上げる。「稽古みたいだ」
「短く、効く、無理をしない」
次に商う湯。
市場の通路を縫う細い流れ。足首まで、常時四十三度。蛇行に沿ってゆっくり動く。人が行き交いながら温まる。においは薄い。
レーム(商人組合頭領)がすぐ合流し、角貨の棚に**“流れ割”**の札を足した。《流れに沿えば一刻二分の一》
理由が先に立つ。値が後ろを付いてくる。
そして休む湯。
井戸から最も離れた静域に深槽を掘り、周囲に低い視線の壁を回す。拍子は禁止、話し声は低音、鈴は不使用。入替えは十拍。
テオが座らない椅子を等間隔に置き、譲りの影をつくる。
グラナイトが目を細める。「いい。竜の昼寝に似てる」
準備が整う。
そのとき、市場の床下でコトンと乾いた音。
空気の袋が一つ、場所を変えた。
僕は足裏で位置を確かめ、角を一本ずらす。働く湯の出口側に**“浮き段”を追加。荷重が集まる前に、疲れを吸うため。
ルシアンが小さく指で灰**を撒き、境界を薄くなぞる。「目に見えないほど、人は守る」
初回の鐘。
働く湯の列の先頭に立ったのは、早朝清掃を終えた鍛冶屋の女主人。
僕は板に短く刻む。
《働く湯・手順》
一、手洗い・足洗い(塩の雨):二拍
二、四十七度:四十秒(短く)
三、四十四度:八十秒(長く)
四、水分:一杯(無料)
五、休む湯へは五拍あけ
女主人は手順どおりに入って、出て、笑って肩を回した。「今日の鉄は、朝から笑うよ」
証言は場を温める。低音で。
商う湯の通りでは、果物屋が試食の皿を流れに沿って斜めに置いた。流れに逆らわない。角が一つ、滑らかになる。
レームが**“理由札”を足す。《風下移動協力割》《角三→二に緩和(夕刻)》
透明は渋滞を減らし、怒りを理由**に変える。
休む湯では、年長司祭が鈴を鳴らさず、目で祈る。
静域は薄暗く、声は低い。
看板に一行。
《休む湯:言葉は半分、息は二倍》
昼前。
問題は三つ、まとめて来た。
一つ目、働く湯の出口で靴紐の転倒未遂。
二つ目、商う湯の流れに香辛料をこぼした屋台。
三つ目、休む湯で声の高い談笑。
順番に、角で潰す。
靴紐には、結び台を置いた。低い棚に紐図を刻み、《ここで結べ》の灰文字。通路から四歩外。
香辛料は風下の灰で吸い、塩の雨で薄める。屋台には角貨で**“注意一回で角一割引”の罰とも恩ともつかない理由札**。
談笑には布の拍子を低音で二回。看板に一行。《休む湯は拍子なし》
音で熱を下げ、角で向きを変える。剣より速い。
昼。休湯。
グラナイトが尾で定時を打つ。「昼寝」
上司が寝れば、街は低音でまとまる。
僕は会計板に三列の数字を刻む。働く/商う/休む。事故ゼロ。苦情二件(香辛料・談笑)。解決二件。
ミーナが肘でつつく。「一番札、追加で欲しい人が出てる。働いてから休む湯に行きたいって」
「順路札を作ろう」
僕は小さな矢印の札を刻み、《働く→商う→休む》の順に返却穴を三回通す仕組みにした。通すたび、低い音が一音ずつ違う。三和音で完了。
テオが目を輝かせる。「音で順路がわかる!」
「偽造が混じっても、和音にならない」
検温穴の弟分、和音穴の誕生だ。
午後。
風が少し湿を含み、地下の果実酵母が歌い出す気配。
ミーナの別食角へ藁をもう一束。菌の晩餐。
ルシアンが短く祈り、灰の輪に線香を一本だけ置く。火は小さい。煙は低い。
年長司祭が袖の灰を見て、また苦笑した。「白は主張だ。今日は灰が主役でいい」
そこに、歩く古竜が市場へ。
グラナイトが上半身だけ通路に出し、低い頭をゆっくり下げて進む。
市場の梁に触れない。角に布を回して擦れを防ぐ。
彼は商う湯を一歩またぎ、働く湯の出口で立ち止まった。
「前にここを歩いたのは、何百年も前」
「覚えてます?」
「匂いが覚えてる。果実と鉄と布。人は変わるが、働きは変わらん」
竜の回想は、街を落ち着かせる。低音の昔話は、今の乱流を消す。
夕方。
商う湯の流れに沿って、角貨の値が夕刻割に。レームの所作は早いが、低音だ。値が変わっても理由が変わらない。
勇者は肩の壁で親子のすれ違いを助け、テオは和音穴で順路を整える。
休む湯の静域では、泣き止めない赤子が一人。
ミーナが布の拍子を使わず、呼吸を合わせる。母親の肩に手を置き、看板の一行を指す。
《言葉は半分、息は二倍》
赤子の泣きは波になり、やがてひと呼吸ぶん静まった。
休む湯は、湯より息を温める場所だ。
ルシアンが鈴を鳴らさず、目で祈る。
年長司祭が指で灰を載せ、境界を一つ消す。「見えない線、守られている」
消したから守られなくなるのではない。守れる人を増やすために、消す。
日が落ちる。
働く湯は夜は短縮。商う湯は細く。休む湯は深く。
グラナイトが尾で定時を打つ。「閉湯」
僕は井戸の回転柵を左へ四分の一だけ戻し、三本の溝を半分眠らせる。
レームが基金に小袋を置いて短く言う。「理由の札は、値より前。明日も借りる」
年長司祭は灰の輪の灰を集め、視線の外で神札に小さく薄墨を押す。「自制の印」
勇者は長椅子を拭き、テオは和音穴の音板を撫でて帰す。
ミーナは火を落とす。「勝っても低音、続けようね」
最後の見回り。
市場の床に薄い線が浮いた。
古い刻印の残り。
指でなぞると、二文字が現れた。
——《湯札》
石札の祖先かもしれない。
明日、湯札を順路札と角貨と石鍵の親戚に迎える。温度で、音で、角で。
看板の裏に、二つ条を刻む。
《第拾肆条:湯は三態。沸かす/保つ/休める。》
《第拾伍条:順路は和音で示せ。》
グラナイトが目を細める。「条文、よく寝てる」
「起こす前に、寝かせました」
「よろしい。休め」
湯は低音で拍手し、灰は境界を薄く残し、角は丸い刃で夜を守る。
街は働く湯で明日を起こし、商う湯で循環し、休む湯で心を鞘に納める。
星は見えないが、和音が見える。
僕は湯に足を沈め、三拍だけ耳を澄ませた。働く/商う/休む。
ぜんぶ、ちょうどいい。
――次回/第10話「歩く古竜 — 地下巡回と“湯札”の親戚会議」