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第8話「神域協定 — 眠る市場、歩く古竜、働く規程」

 朝。湯は四十三度、呼吸は一定。

 看板の端に今日の一行を刻む。


《第二区画:市場跡(仮)》

《角:入口二/中央一(移動式)》

《祈り:休湯中/神域線は灰》


 ルシアンが鈴を鳴らさずに来た。目だけで祈り、低い声で言う。

「神域協定の“仮条”を持ってきた。短い。短いのが正しい」

 紙には三行だけ。


神域は“働く場所”と重ねない(祈りは休湯内)。


神子の称号を業務に付けない(湯守は湯守)。


神札は価格と同じ場所に置かない(寄付は視線の外)。


「全部、角の言い換えですね」

「角は宗教にも効く」

 僕は頷き、灰色の小石で神域線の試験引きをする。刺激しない境界。灰は今日も仕事が多い。


 グラナイトが尾で定時を打つ。「市場、行くぞ」

 テオは検温穴の小槌を肩に、勇者は列整理の棒……ではなく、“肩の高さ”の意識を持って同行。ミーナは塩の雨の小壺、ルシアンは仮条の控え。

 通気井戸を降り、昨日閉じて寝かせた第一区画(徴税所)を横切って、更に奥へ。

 風は細く、冷たく、生き物の気配は薄い。


 通路の先、開いた空間が息を吐き出していた。

 市場跡。

 石畳は丸く摩耗し、屋台の足跡が点々と残る。梁の間から下がる鉄のフック、壁面の計量台。中央には井戸。

 井戸の口には、木でできた古い回転柵がかかっている。押す方向が矢印で刻まれているが、もう誰も押していない。

 そして、床を覆う黒い淡い粉。

 僕は一歩だけ近づき、匂いを嗅いだ。甘い。腐った果実の記憶。

「乾いた酵母です。湿ると一気に起きる」

 ルシアンが眉を上げる。「歌い出す前に、餌をやる?」

「ええ。別食を先に」

 ミーナが背負子を降ろし、藁と枯れ葉と古布を井戸から少し離れた角にこんもり置く。「ここで食べてね、の角」

 角は生き物にも効く。方向を付けると、増え方が暴れない。

 続いて風の窓を二つ、天井のひびに合わせて開ける。湯の熱をほんの少し回して、煙突効果を作る。

 グラナイトが鼻で空気を舐め、「旨い」と短く言った。竜の旨いは、人間の安全だ。


「神域の線、どこに引く?」

 ルシアンの問いに、僕は市場の中央四角を指した。

 端に引くと、働きとぶつかる。中央に引くと、道が回る。

「灰の輪を置き、休湯でだけ灯す。仕事の時間は、見えない神域」

「見えない神域?」

「線は心の温度に引きます。見えないほうが守る人が増える日もある」

 ルシアンは少し驚いて、それからうなずいた。短く、低く。「信頼する」


 ひと通りの呼吸を整えてから、井戸の回転柵に手をかける。

 押す方向は左。理由は石に刻まれている。“人は右回りに速い。左で遅く歩け”

 昔の市場の角だ。

 僕は低音で読み上げ、みんなに回す。左だ。

 回転柵がきしまずに回り、井戸の蓋が半月ぶんだけ開く。

 中から、冷たい金属の匂いと、乾いた紙の匂い、そして果実の淡い残り香。


「開業記録」

 テオが一番に見つけた。井戸の縁に差し込まれた小さな木札。

 《朝の角三/昼の角二/夜の角四》

 角の数で混雑曲線を動かしていたらしい。過去の運用が、今にそのまま刺さる。


 足音。

 地上から降りてくる新しい靴の音がした。

 現れたのは、商人組合の若い頭領。名前はレーム。目は利いて、声は意外に低い。

「市場が開くと聞いて来た。規程の写しを見せてくれ」

 僕は灰色の箱から地下街営業規程の第一版の写しを出し、合わせて仮条・神域協定も示す。

 レームは無駄なく目を走らせ、「角を借りる」と即答した。

「角貨を導入していいか?」

「角貨?」

「客の流れで割引や優先を細かく変えるための木札だ。角の数で値が変わる。値は変えても“理由”を変えない」

 僕は笑った。透明が前提の値付け。市場の健全な嘘つき方だ。

「灰で縁取り、低音で呼びかければ、火にならない」

「了解」


 午前の試運転を始める。

 市場の入口に蛇行を刻み、角を二本。中央に移動式の角をひとつ。井戸の周りに灰の輪。

 ルシアンが休湯に短い祈りを置き、ミーナが塩の雨で手と足を清める場所を作る。

 勇者は肩の壁の位置を三つ確認。テオは検温穴の携帯版を持って、偽角貨をはじく係。

 グラナイトは尾で定時を刻み、「昼寝」――上司の昼寝は市場に低音を撒く。


 最初の客は、果物屋の老夫婦だった。

 彼らは昔の屋号の木札を持っていて、壁の同じ場所にぴたりとはめた。

 木札が石と音で合う。

「戻った」

 老夫婦の声は低い。声が低いと、泣き声さえ静かにいい響きになる。

 果物の箱が一つ開く。香りが、乾いた酵母の粉に吸われて、危険の芽がふくらみかける。

 すぐに、別食の角へ塩の雨を薄く。粉は喜んでそっちへ移住した。

 角は、菌にも効く。


 昼前、トラブルは噂の形で来た。

 「神子が市場に立った」「湯守の加護が付いた品だけが売れる」

 売れない棚の人間は、熱くなる。

 僕は看板に短い一行を追加した。


《神子は不在。湯守は湯守。》


 そして、角貨の棚に**“理由札”**を置く。

 《角を足したから一刻だけ値引き》《風下に移る協力割》《休憩を取った人の先割》

 理由が値を冷ます。

 レームがすぐに同調した。「見える嘘ではなく、見える理由で商う」

 商人組合の頭領が言うから効く。肩の壁より効く相手もいる。


 午後、神殿側の調整役が追加で来た。ルシアンの上司筋、年長の司祭。

 彼は最初、眉が角だった。

「神域に市場の声がかぶさっている」

「休湯で祈り、働く時間に角を足しました。灰の輪は見えるときだけ灯します」

 僕は低音で説明し、灰を足して見せた。

 年長司祭は指で灰をつまみ、匂いを嗅いだ。「……灰は、争いの色を食う」

 彼は自分の白衣の袖口を見て、苦笑した。「白は、時に刺激だな」

 袖口に灰を軽く撫でて、一言。「協定どおり。神札は視線の外」

 低音で折れる人は、強い。


 夕暮れが近づくと、地下の空気が一段冷たくなった。

 風が変わる。

 井戸の奥から、遠い拍。

 生鮮ではない。金属でもない。

 足音だ。

 隊商の。

 地上では消えたはずの古い路から、遅れて届く記憶みたいな足音が、地下の市場の床に重ねて流れてきた。


「角を一本増やす」

 僕は中央の移動角を井戸寄りにずらし、視線の壁を低く立てた。記憶と現場の目がぶつからないように。

 ルシアンが祈りを置かないことを選ぶ。祈りは休湯にだけ置く。今は働く時間だ。

 グラナイトが尾で定時を打ち、短く言う。「よく聞け」


 遠い足音は抜けていった。

 市場は自分の足音に意識を戻す。


 夜。

 初日の市場は、転倒ゼロ、喧嘩ゼロ、噂の火は二回で消火。

 角貨の偽造は一枚、テオが低い音で弾いた。

 レームは基金に小袋を置き、「視線の外で頼む」とだけ言って去った。

 年長司祭は灰の輪を指でなぞり、「目に見えない神域は、人が守る」と低く言って去った。

 ミーナは屋台の火加減をさらに落とし、「勝っても低音だよね」と笑う。

 勇者は角の布を巻き直し、「剣も巻いておくか」と冗談を言い、巻かないで去った。

 グラナイトは定時を打って、「寝かせろ」で締めた。


 僕は看板の裏に、神域協定・第一稿を刻む。


《神域協定(第一稿)》

一、祈りは休湯。働く時間に祈りを押し出さない。

二、称号は混ぜない。湯守は湯守、神子は置かない。

三、寄付は視線の外。価と並べない。

四、灰で囲い、低音で守る。

五、角は神殿も持つ。人を押し返さず、曲げるために。


 条は短い。短いと、覚えが速い。

 最後に、第拾参条を足した。


《第拾参条:見えない線ほど、人はよく守る。》


 テオが首をかしげる。「見えないのに、どうして守るの?」

 僕は笑って、灰の輪の外に小さな椅子を置いた。座らない椅子。

「座ってもいいと書くと、譲る人が出る。見えない線は、譲りたい人を増やす。譲る仕掛けが、守りの仕掛けになる」

 テオは目を丸くし、それから笑った。「角って、優しさの道具なんだ」

「攻めない刃だね」


 最後の見回りで、井戸の縁の石に小さな欠けを見つけた。

 古い刻印の端が擦れて、一文字だけ読める。


 ——《浴》


 湯は、ここにも住んでいた。

 市場の真ん中で、浴。

 明日、この浴を起こす。働く湯。商う湯。休む湯。

 全部を一度に起こさない。寝かせて、順番にやる。


 グラナイトが尾で定時を打ち、目を細める。

「第二区画、合格」

「補遺を一枚」

 僕は箱に紙片を入れた。《角貨の“理由札”は値より先/左回りで遅く/灰は神域と衛生の両用》

 ルシアンが短く祈る。「転倒ゼロ、継続」

 勇者が肩を鳴らし、「低音で勝ち続ける練習」

 ミーナが布巾を絞る。「湯加減、次は“浴”」

 テオが胸を張る。「角、三つ持って行きます」


 空は地上にないが、星の気配はある。湯気が少しだけ濃く、声は少しだけ低い。

 街は角で守り、灰で静まり、低音で歩く。

 看板の端の空白を、指で軽く叩いた。拍が返ってくる。

 明日、浴。

 湯は働き、人は休み、神域は見えずに守られる。


――次回/第9話「浴の起動 — 働く湯・商う湯・休む湯」

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