表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/11

第7話「ざまぁ一番風呂 — 古文と印璽で完勝」

 明朝、空は淡い灰。湯は四十三度、呼吸は安定。

 看板の端に、今日の一行を刻む。


《開扉日:第一区画(徴税所)》

《角:入口と出口に一本ずつ増やす》

《声:低く/祈り:休湯内》


 グラナイトが尾で定時を打つ。「鍵」

「はい」

 僕は貝札の裏に仕込んだ刻印を、通気井戸の掌窪みへ合わせた。石の中で、鈍い金属が静かに噛み合う。

 深呼吸。角を心にも一本足す。

「開きます。ゆっくり」

 鍵を回す。

 地が低く鳴り、井戸の壁がひと呼吸ぶんだけ緩む。古い風が細く上がり、湯気と絡んで冷たい白を作る。

 石段の先、木扉が一枚。表面は磨かれ、指の脂と歳月で艶がある。取っ手は鉄。錆は、休ませ方のよさを語っている。

 扉の中央に、刻まれた三字。


 ——《徴税所》


 ルシアンが息を止める。「祈りはあと」

「ええ」

 僕は扉の脇に灰色の丸を二つ描いた。境界の印。熱を呼ばない線。

 ミーナは桶を提げ、塩の雨の準備。勇者は肩の高さで壁になる位置を取る。テオは検温穴の小槌を握り、耳を澄ませる。

 グラナイトが低く言う。「寝かせてから起こせ」

「第玖条、了解」

 僕は扉に掌を当て、呼吸を合わせる。…今。

 扉は音を立てずに開いた。


 中は薄暗い。湿りは薄く、紙の匂いがする。

 石床の左右に、木の机。壁には石棚。棚の上に、石板と木簡、巻物。

 最奥、ひときわ背の高い石棚に、印璽が三つ。

 ひとつは、王都役所に酷似した紋。ひとつは、神殿の古い印。ひとつは、見知らぬ紋章——波の線と、湯に立つ湯気。

 ルシアンが小声で言う。「湯守印……記録にない」

「記録にするために、あります」

 僕は机の上の最上段の石板を手に取った。角は丸く、指が何度も触れた痕で滑らかだ。

 刻まれた文字は、古いが読める。低い音で読み上げる。


《地下温泉(湯脈)運用之事》

《湯守:衛生・価格・通路・休湯を先とし、営利は後》

《徴(税)所:湯の出口より二十歩、曲がり角に置く》

《祭礼:休湯の時に限る》

《違反:印璽を以て、無効》


 ルシアンが目を閉じ、頷く。「今と同じだ」

「今が昔に追いついたんです」

 次の石板。


《湯守任命之記》

《地脈竜(ここでは“地竜”の字)と王都役所と神殿、三印璽を以て湯守を任ず》

《任:労(働)を重んじ、休むを怠る者を罰す》

《人命は収益より上》


 グラナイトが目を細める。「労基が刻まれている」

「あなたの先輩ですね」

「誇りだ」

 テオがそっと石棚の下段を探り、薄い木簡を見つけた。

「これ、ヴォルケ家の名前……」

 僕は受け取り、慎重に開いた。


《湯路保護の誓約》

《ヴォルケ家、湯の出口・入口に徴税台を設けないこと》

《徴(税)は曲り角の外、二十歩以上》

《湯守へのまが事あらば、家印一代の停止》

《三印璽》


 ミーナが口笛を飲み込んだ。「直球のざまぁが棚にあるやつじゃん」

「叫ばないざまぁにしましょう」

 僕は石板と木簡を布で包み、灰色の箱に入れた。温度を上げない箱だ。

 印璽は……三つとも、生きている。古いが輪郭がはっきりしている。刻印面に欠けがない。

「起こす前に、寝かせたからね」

 自分で呟いて少し笑う。

 勇者が扉の外へ目配せをする。王都役所の検使が、呼ばれる前から気配で立っていた。

「見せても?」

「公開で」

 僕は灰色の箱を抱え、通気井戸から広場へ戻った。


 すでに、人だかり。

 地下街営業規程の石板が並ぶ壁の手前に、仮設の台を起こす。角は丸い。足に布を巻く。視線の壁を低く立てる。

 看板に一行。


《古文・印璽の公開閲覧(十拍交代)》


 ルシアンが鈴を鳴らさず、目で祈る。「低音の祈り」

 ミーナは塩の雨を軽く降らせ、手のひらを清める列を別に敷いた。

 テオは検温穴の横で箱を見張り、偽札を即座に弾く。勇者は先頭で肩の壁。

 僕は灰色の箱を開け、最初の石板を示した。声は、低く。


《湯守:衛生・価格・通路・休湯を先とし、営利は後》

《徴税台は二十歩の外、曲がり角》

《祭礼は休湯》

《違反は無効》


 ざわめきは起きたが、火にはならない。灰色の箱と低音が、熱を食べる。

 次に、湯守任命。労(働)と休むが刻まれた、僕らの好きな条。

 最後に、ヴォルケ家の誓約。

 群衆が息を飲む。男爵は、来ていた。金縁の裏紋章札を携え、従者を従えて。

 彼は石板に目を走らせ、顔の熱が行ったり来たりした。

 逃げる背ではない。戦う背だ。

 審理官と検使が、その場で印璽を照合する。

 役所印、合致。神殿印、合致。湯守印、合致。

 ルシアンが深く頷く。「三印璽、揃った」

 審理官が声を落とす。「誓約違反の疑い、濃い」


 男爵は、低い声で言った。

「家の恥は、家で片づける」

 人の目がざわつく前に、僕が角を足す。「公開の場で、規程で片づけましょう」

 ルシアンが短く続ける。「休湯の鐘を鳴らす」

 グラナイトが尾で地を打つ。定時。湯は休む。人も休む。

 熱が一段下がったところで、僕は灰色の板に補足を書いた。


《補足規程:誓約の履行》

・徴税台は二十歩外/曲がり角

・鈴→拍子(低音)

・寄付箱は視線の外

・労働に休憩を(定時)

・家印が誓約に反すれば、一代停止(古文の写し)


 審理官が印璽を押す。現行規程に古文の補遺が重なった。今が昔を採用する。

 男爵は、低い声を保ったまま、従者の少年(テオの旧主)を振り返る。

「和解を提案する。明日から寄付は基金へ。徴収は規程に従って運営。鈴は拍子で。家印は、一代薄墨」

 薄墨——完全停止ではなく、自制を示す古い合図。

 審理官が僕を見る。

「受ける。ただし、働いた人に先に湯を」

 僕は貝札を掲げる。「早朝清掃一刻で一番札を配る。働いた人が最初に温まる」

 男爵は目を伏せ、小さく会釈した。癇癪の子ではない。大人の練習が顔に戻ってきた。


 ざまぁは、叫ばない。

 規程と印璽で、静かに片づく。

 これで、勝ちだ。


「一番風呂」

 グラナイトが尾で地を打ち、湯の休湯が終わる。

 ルシアンが短い祈りを置く。「転倒ゼロを今日も」

 ミーナが塩の雨を薄く散らし、手と足の入口を清める。

 勇者は肩の壁を解いて、代わりに長椅子を走らせる。

 テオは石札の箱を胸に、検温穴の横で合図する。

 僕は看板の端に、拾い条を刻んだ。


《第拾条:古文は未来の“取り扱い説明書”》


 列の先頭に立ったのは、鍛冶屋の女主人だった。早朝清掃を終え、手のひび割れに灰色の粉が付いている。

「まずは、働いた人から」

 彼女は笑って頷き、一番札を返却穴へ通し、湯に足を沈めた。

 低い息が広場の温度を下げ、白い湯気が心を上げる。

 次は、子ども。角を丸めた段に座り、指先で湯の縁を叩き、拍を合わせる。

 勇者は列の最後尾に回って、手本をもう一度だけ見せた。

 ミーナは風下で火を弱め、匂いが湯と喧嘩しないように火加減を落とす。

 ルシアンは鈴を鳴らさず、目で祈る。

 男爵は曲がり角の台の布の拍子を打ち、低音で列の呼吸を同期させた。ぎこちないが、合っていく。


 一番風呂は、誰かのための拍だ。

 今日の拍は、働いた人。

 湯は、その拍に応える。


 昼。

 徴税所の中を、第二回の閲覧に開く。

 テオが木簡の写しを作る。写しは地面原本の弟で、紙の兄だ。

 僕は補遺箱に新しい紙片を入れた。《拍子の打ち方(低音)/寄付は視線の外/薄墨の家印の扱い》

 ミーナは基金箱の位置をより低く、見えない側に変える。「よけいに入るんだよ、見えないほうが」

 ルシアンが頷く。「信頼は、隠で増える」

 勇者は角の布を巻き直し、摩耗を撫でて手入れをする。

 グラナイトは尾で定時を刻み、「休め」と短く命じる。命令はやさしい。


 午後。

 噂が来る。「地下で光る石を見た」「湯守の幽霊が歩く」

 僕は看板に一行だけ追加した。


《今、見えるのは文字と印璽》


 嘘を暴かない。今を言う。

 噂は灰へ戻る。灰は角で掃く。

 テオが検温穴で音を聞き分け、偽札を三枚がらんと低く鳴らして弾いた。子どもが真似して笑う。

 低い音は、笑いを低くする。低い笑いは転倒を遠ざける。


 夕暮れ。

 第一区画の扉を一旦閉じ、寝かせる。一日で全部を開けない。旨味を逃がさないために。

 閉じる前に、石棚の端に小さな欠片を見つけた。黒い石に白い筋。


「これ、なに?」

 テオが首をかしげる。

 僕は指で温度を測り、耳で音を聞く。…硬い。

「墨石。印を押す下敷きだ。薄墨にするための」

 ルシアンが眉を上げる。「自制の印か。薄く押すための道具」

「自分を弱める道具。王都には、あまりない」

 グラナイトが目を細める。「持っておけ。明日、第二区画で使うかもしれん」


 夜。

 湯は勝利の温度で、しかし低音のまま歌う。

 僕は看板の裏に、新しい条を二つ刻んだ。


《第拾壱条:勝っても低音。》

《第拾弐条:古文は“今”に従わせ、今は“地面”に従え。》


 ミーナが笑う。「勝っても低音、好き」

 勇者が頷く。「剣は歓声で鈍るが、角は静けさで研がれる」

 テオが箱を抱えて胸を張る。「検温穴、明日は手伝いを増やせます」

 ルシアンは鈴を鳴らさず、「転倒ゼロの記録、地面に写しておく」

 グラナイトが尾で定時を打ち、目を細める。「寝かせろ」


 僕は最後の見回りに出て、角を撫で、布を締め、灰を掃き、塩を薄く撒き、湯の呼吸を整えた。

 王都の下の忘れられた街は、徴税所という刃を見せ、印璽という柄を差し出した。

 刃は規程に収まり、柄は地面に固定された。

 ざまぁは叫びではない。

 湯気と印璽と低音が、ゆっくり片づけて、残るものだけが残った。


 空を見上げる。星は昨日より近い。

 湯は静かに拍手し、街の角は丸く、刃は鞘に収まっている。

 看板の端の空白を指で撫でて、僕はひと拍だけ考えた。

 明日、第二区画。

 市場か、仮宿か、湯か。

 どれだって、角を足して、低音で行く。


「管理人」

 グラナイトが低く呼ぶ。

「休め」

「命令、了解」

 僕は湯に足を沈め、一番風呂の余韻を、最後の客が去ったあとに少しだけもらった。

 勝っても低音。

 湯はちょうどいい。

 街は、明日に曲がる。


――第1章「湯が街を呼ぶ」了。

――次章/第2章「神域協定 — 眠る市場、歩く古竜、働く規程」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ