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第6話「湯けむり行政 — 地下街営業規程・公布」

 朝。湯は四十三度、呼吸は安定。

 看板の裏で寝かせておいた条文に手のひらを乗せ、温度を確かめる。熱は引いた。今日、起こす。


《聴聞日》

《列の角:一本増やす/声は低く》

《休湯:砂三回ごと十》


 グラナイトが目を細める。「条文、起床の時間だ」

「はい。まずは見える場所へ」

 僕は地面を起こし、薄い土の盤を何枚も作った。表面を叩いて締め、角を丸め、そこに昨日までの条文を一行ずつ刻む。

 板を湯の風下の壁に並べると、湯気の揺れに合わせて文字が呼吸した。


《第零条:人は湯より大事。》

《第壱条:休ませ、流せ、笑わせろ。》

《第弐条:忘れられたものを先に温めろ。》

《第参条:賃金は“ために”。》

《第肆条:声は低く。高い声は火。》

《第伍条:角を足せ。直線は熱を呼ぶ。》

《第陸条:罠は角で無効化せよ。》

《第漆条:熱い金は冷ましてから触れ。》

《第捌条:記録は刃。湯は鞘。》


「書体がいい」

 ルシアンが頷く。「神殿の石板にも混ぜたいくらいだ」

「混ぜるなら、休湯時間にお願いします」

「もちろん」


 勇者は今日も列整理係。肩の力は抜け、声は低い。テオは石札箱を抱えて走る前に、板の列を一瞥して小さく笑った。

「読みやすい。角が丸いと、目も喧嘩しない」


 午前の一番湯を短く回して、休湯へ。

 湯の呼吸を落ち着かせるのと同時に、僕らは聴聞の会場へ向かった。場所は王都役所の公開審理室。正面に楕円の席、その上に古い印璽が据えられている。

 検使が迎え、審理官が三名。片側にヴォルケ男爵、もう片側に僕ら。男爵の背後には金縁の木札を抱えた従者と、昨夜灰色の丸を踏み潰した男がいる。

 グラナイトは会場の外に残り、尾で定時連絡をくれることになった。竜が入ると、審理どころではなくなるから。


 審理官が鈴を鳴らす。鈴は低音で、いい。

「温泉都市の臨時運営に関する聴聞を開始します。申立は三件――徴収所への妨害、名誉の棄損、宗教的侵害。順に聞く」


 僕は深呼吸を一つ。角を心にも足す。

「まず、安全からお話しします」

 僕は携えてきた砂の盤を机に載せた。湯の入口から出口まで、蛇行と角が刻まれ、赤線と青線、灰の丸、小石帯が細かく乗っている。

「ここが曲がり角の徴収所。規程では湯の出口から二十歩以上。直線を避け、曲がり角で速度を落とします。灰色の帯は“見えにくい境界”で、刺激より沈静を選んだサイン。浮き段は踏圧を分散し、転倒誘発を無効化します」

 検使が身を乗り出す。「転倒誘発?」

 僕は別の盤を出した。角の下に埋められた木箱の図、くさび、梃子、緩衝油。

「夜間、誰かが仕掛けました。撤去は証拠保全のため行わず、角で無効化しました。事故ゼロを記録しています」

 審理官の一人が巻物に目を落とし、「事故ゼロ、確かに地面原本に記録あり」と読み上げた。


「妨害だ!」

 男爵が立ち上がる。「徴収所の鈴まで外させた! 客の流れを止める行為だ」

「音は温度です」

 僕は落ち着いて看板の写しを示した。《声は低く。高い声は火》

「高音は列の心拍を上げ、事故の温度を高めます。代替として拍子板をお渡しし、低音で合図を続けてもらっています。営業停止ではなく、安全配慮です」

 審理官が拍子板を叩く。コトン、と低い音。「たしかに、場が落ち着く」


「名誉の棄損について」

 男爵側の弁者が続ける。「彼らは我が徴収を“違法”と喧伝し、寄付箱を“見せ金”と侮辱した」

「違法とは申していません。距離と角の規程を守るよう求めました。寄付箱は視線を集め、列を止めます。箱は台の下に、角は布で丸める――お願いをしました」

 僕は布を巻いた台の角を持参し、審理官に触ってもらう。

「丸い角は、人の心の角も少し丸くします」

 審理官の一人が笑いをこらえた。「詩は不要だが、触感はわかった」


「宗教的侵害について」

 神殿のルシアンが一歩進む。声は低く、言葉は短い。

「協定どおり、祭礼は休湯時間内に限定。収益に関与せず、寄付は基金へ。神殿は無害化に努め、誤解の柵を先に建てた。侵害はない」

 審理官が神殿印の写しを照合する。「神殿の印璽を確認。協定は有効」


 勇者は列の実務を証言した。「押しが来たら上で止める。角は命を守る。列整理は剣より多くの場面に効く」

 ミーナは匂いで語った。「油は外から。塩の雨で場は落ち着いた。風下へ屋台を移すのは、誇りじゃなく理」

 テオは短く、しかし芯のある声で。「賃金を“ために”もらえた。今日のために、明日を支える金。給金は列を丸くする」


 会場の温度が、目に見えて下がっていく。低音の証言は、火を食べる。

 審理官は三度、鈴を低く鳴らし、結論を口にした。

「温泉都市・臨時運営は、安全配慮を満たし、神殿協定に違反せず、徴収所の運用に対し合理的な助言を行っている。申立の棄却を宣言する」

 男爵が椅子を軋ませる。審理官は続けた。

「ただし、規程が口伝と看板のみである点は、混乱の温床となりうる。よって――地下街営業規程の公布を求める。地面原本に加え、写しを王都役所と神殿に備え置くこと」


 ここだ。

 僕は背筋を伸ばし、用意していた最終盤を広げた。

 盤には、条文と運用図、緊急停止、塩の雨、検温穴、無効穴、浮き段、風の道――これまで街が身につけた動きが、すべて刻まれている。

「地下街営業規程――第一版です」

 審理官が印璽を取ったとき、会場の外から地が低く鳴った。定時連絡だ。グラナイトが時間厳守で尾を打った合図。

 審理官は笑って印璽を押す。「竜の労基は時計より正確だな」


 こうして、地下街営業規程は公布された。

 条文は石板と紙と地面に刻まれ、三箇所原本の体制になった。

 審理官は最後にこちらを見た。「記録を持っているか」

「明日、下を開けます」

 男爵が顔を跳ね上げる。「何を言う!」

「忘れられた街。最初の区画は徴税所です。古い記録が眠っています」


 帰路、王都の空は薄く曇り、風は西へ。

 広場に戻ると、看板の前に人だかり。規程の板が、すでに読み込まれて指の脂で少し艶を帯びている。

 ミーナが目を輝かせる。「お触れは、人を黙らせるんじゃなくて、動かすんだね」

「動かすために書きました」

 僕は看板の端に、公布印の写しを押した。《王都役所・神殿・地下街管理本部 共同公布》

 ルシアンが頷く。「三つの印は、三本足。揺れても倒れない」


 午后、湯は規程通り休憩を取り、列は角を守り、低音で歩いた。

 男爵は曲がり角の台の鈴を外したまま、布の拍子を覚え始めている。最初は照れくさそうだったが、三度目には拍が列と合った。

 テオは検温穴の音を聞き分けるのがさらに上手くなった。偽札は鳴き方が違うのだ。

 勇者は相変わらず列整理係。剣の重さは湯の外で、肩の軽さは湯の中で守る。

 グラナイトは、昼寝を正時に取り、尾で定時を知らせ、労基を街に吸わせる。


 夕方、検使が広場へ来た。「掲示を確認した。良い。写しも受領した」

 彼は少し迷ってから、帽子を脱いだ。「……個人的な所感を言ってもよいか」

「どうぞ」

「地面原本は、役所を甘やかす。紙は濡れる。だが、地面は街に踏まれて強くなる。羨ましいと思った」

 彼は照れくさそうに咳払いし、足元を見た。「役所の床も、少し角を足すべきだな」


 夜。

 聴聞勝利で湯はよく歌い、街はよく眠った。

 僕は通気井戸の縁に膝をつき、耳を当てる。

 遠くで、鍵が石に触れる音。

 石鍵だ。

 井戸の奥の壁に、掌の形の窪みがある。昨日描いた配管図の非常停止の位置と合う。

 僕はグラナイトを呼び、ルシアン、ミーナ、勇者、テオを集めた。

「明朝、開けます。第一区画」

「猶予は?」

「休湯の二つ分。空気を通し、菌に餌を出し、風の窓を二つ。角を一本。声は低く」


 グラナイトが目を細める。「規程どおりだ」

「規程に従って、規程を増やす」

 僕は看板の端に、第玖条の枠を描いた。まだ空白。

「開けた後に、空白を埋めます。街が教えてくれるから」


 テオが手を上げた。「鍵は?」

「ここに」

 僕は井戸の縁の貝札を外し、裏側の小さな刻印を見せた。石鍵と貝札は対だ。“働いた人”が朝の一番湯を先に取れる札は、街を開ける鍵の兄弟だ。

 ルシアンが目を細め、「儀式は短く。祈りは休湯の中で」

「了解」


 風が一段冷たくなる。

 遠く、地下の鐘が一回だけ鳴った。

 それは昔の徴税所の時報か、それとも誰かの記憶が鳴らす音か。

 いずれにせよ、開く。


 最後の見回り。

 僕は規程板の端に、補遺の箱を作った。街が日々生んだ小さな工夫――石札の温め方、塩の雨の濃度、子ども角の丸め方、拍子の打ち方。

 ミーナが笑う。「料理のレシピみたいだね」

「街は台所です」

 勇者が頷く。「剣の手入れより、角の手入れのほうが難しいな」

 テオが箱に紙片を入れる。「裏紋章の位置、返却が一拍速くなりました」

 ルシアンは鈴を鳴らさず、目で祈る。「転倒ゼロを明日も」


 グラナイトが定時を尾で打つ。

 その低い音に合わせて、僕は第玖条に一文字だけ刻んだ。


《第玖条:起こす前に、寝かせろ。》


 条文も湯も、人も街も。

 寝かせると、旨味が出る。急ぐ日は角を足し、起こす日は低音で。


 湯は静かに拍手し、夜は鞘のように街を包んだ。

 明朝、鍵が回る。

 忘れられた街の扉は、規程に従って、ゆっくり開く。

 ざまぁは叫び声ではなく、規程の公布のあとに来る静かな片づきだ。

 その音を聞く準備は、もう、できている。


――次回/第7話「ざまぁ一番風呂 — 古文と印璽で完勝」

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