第5話「利権の影 — 徴収の罠」
朝一番、湯はいつもどおり四十三度。だが、地面の別の温度が少し高かった。
徴収所の曲がり角、昨日はなかった微妙な硬さ。土に掌を当てると、古い釘と新しい釘の混成音が返ってくる。
誰かが夜のうちに、角の下へ木箱を埋めた。
「ミーナ、今日の風向き」
「午前は北から、午後は逆。匂いは軽め」
「よし。角をもう一本足す。あと、赤線の内側に灰色のドットを十歩刻みで撒いて――“ここで立ち止まると冷める”表示」
角は街の刃だ。刃を足せば、熱は割れる。
神殿のルシアンが鈴を鳴らさずに来て、僕の視線を追った。「見る目になったね」
「見せたいものと、隠したいものの温度差が目に刺さる日です」
僕は膝をつき、硬い部分から砂粒をひとつ摘み上げた。砂はオイルを吸って黒い。
木箱の座りを確かめる緩衝油――列が踏むたび、箱の中身が静かに鳴るように仕込んである。
「仕掛けか」
勇者が肩越しにのぞき込む。
「鳴らして集め、集まったところで“転倒”を作る。誰かが『危ない!』と叫べば、箱が上がる」
上がる? そう、くさびと梃子だ。踏圧が閾値を超えると角が突然立ち、列を躓かせる。
転倒が起きれば、徴収所は善意で“寄付”を募れる。あるいは、運営の過失として僕らが罰金を払う。
どちらでも儲かる。
「撤去する?」
テオが石札箱を抱えたまま、拳を握る。
「撤去はしない。証拠にする。角の角で勝つ」
僕は看板に書き足した。
《第陸条:罠は角で無効化せよ。》
《急角度の蛇行を一つ追加/踏圧分散の“浮き段”を設置》
“浮き段”――土の下に空気の袋を作り、荷重が来たらふわりと受け流す。躓きの刃を乳歯に変える仕掛けだ。
同時に、木箱の真上に灰色の丸を四つ塗る。地味は人の足を遅くする。
ルシアンが薄く笑った。「灰色は神殿の色。今日はそれで行こう」
鐘が鳴る。一番湯が動き出す。
ミーナの屋台は風下、魚は鮮やか、匂いは控えめ。勇者は手洗い見本の手際が上がり、テオは石札配布のリズムを掴んだ。
列は息をしている。
そこへ――金縁が現れた。
ヴォルケ男爵は、昨日の金縁札を裏紋章で妥協したはずだ。が、今日は台に金属の鈴を付けていた。
列が近づくたび、鈴が高い音で鳴る。
音は熱だ。大勢の心拍と同調すると、列の温度が上がる。上がったところで、仕掛けの角。
なるほど、二段構え。
「音を下げてください」
僕は静かに言う。
「商売の合図だ!」
「ならば音階を下げましょう。高い声は火です」
看板を指差す。《声は低く。高い声は火。》
「鈴を外すなら、保障は?」
「代わりに布の拍子を差し上げます」
僕は土から小さな拍子板を起こし、布で包んで渡した。打つと、低い音が鳴る。列の呼吸と同期しやすい。
男爵は鼻で笑い、鈴を外した。外させることが目的ではない。音を温度に合わせることが目的だ。
しかし、彼らの手は早い。
鈴が沈黙した十分後、別の罠が起きた。
塩素桶に、誰かが油を混ぜたのだ。匂いで分かる。泡が立たない。殺菌力が落ちる。
僕は即座に休湯を宣言、「塩の雨」を降らせた。
塩の雨――地面に極薄の塩水の霧を撒き、足裏と手を同時に清める。水は風の道に落とし、沈砂槽へ。
看板に赤い線で追記する。《臨時・塩の雨/十拍》
ルシアンが頷いた。「儀式でもあり、衛生でもある。両立は、信仰を楽にする」
ミーナが油の瓶を掲げる。「盗れる匂いだ。厨房の子が気づいた。基金から油の補填を回そう」
「ありがとう。基金は街の筋肉だ」
午前の山を越えたころ、検使が来た。
王都役所の腕章を付け、巻物を抱えている。臨時監査。
予想していた。だが早い。
「温泉都市の営業許可。神殿との協定。徴収記録。事故記録。提出を」
「事故はゼロです」
「記録は?」
「地面に」
検使の眉が上がる。
僕は彼を看板の裏から裏へ、地面に刻んだ**“原本”へ案内した。温度曲線、休湯の刻、塩素濃度、風向、事故ゼロ。
彼は最初の三分を半信半疑で眺め、次の三分で黙り、最後の三分で頷いた。
「紙より多い」
「街は紙より厚いので」
検使は巻物に印を押し、そして困った顔をした。「ただ……貴族側から申立が来ている。徴収所の妨害**、名誉の棄損、宗教的侵害。明日、聴聞だ」
聴聞――言葉で戦う日だ。
グラナイトが尾で地を軽く叩く。「条文を寝かせておけ。熱いまま持ち込むな」
「了解」
僕は看板の端に、新しい枠を描いた。《聴聞準備》
・徴収所の安全配慮(角と距離の証拠)
・神殿との非干渉協定(休湯時間内の儀礼)
・基金の出納(透明)
・転倒誘発装置の存在(発見・未撤去の理由)
最後に、証言。
ミーナ、ルシアン、勇者、テオ――それぞれの声の高さを揃える。低く、短く、分かりやすく。
午後、風は予告通りに南へ回る。
赤線の外、足拭き場の角に、見慣れない靴が立った。磨きすぎた革。
男は小声で言う。「和解金。受け取れ。聴聞は流れる」
金は熱い。
僕は地面に小さな円を描いた。《第漆条:熱い金は冷ましてから触れ》
「基金で公開で受けるなら、寄付として」
「個人で受け取れ」
「断る。安全は、私財で売らない」
男は肩をすくめ、去り際に足で灰色の丸を踏み潰した。子どもみたいな癇癪。
癇癪は救いだ。大人の皮を剥ぐと、罠の雑が見える。
その雑が、夕方の罠を雑にした。
木箱――上がらない。
昼に足した浮き段が、荷重をふわりと散らし、くさびの角度を死角にした。
代わりに、鈴の代替えを試したのだろう。笛。高い音。風に乗る。
だが、灰色の小石の帯が音の視線を吸い、列の角が増えたぶん、焦りは薄く砕けた。
“事故を起こしたい側”が、事故を起こすために学ばねばならない街――疲れるはずだ。
疲れさせるのも、戦いだ。
休湯。
テオが箱を抱え、肩で息をしながら寄ってくる。「奇妙な札が混じってる」
見ると、僕らの石札と見た目は同じ、だが指に触れると硬さが違う。熱の入りが遅い。
「焼きが違う」
石の焼成温度が高い。偽札だ。温まらない、つまり列の温度にも同調しない。
僕は無効穴の隣に、さらに**“検温穴”を作った。穴の内側に薄い金属環を仕込み、温伸縮で音が変わるようにする。
テオが面白そうに目を輝かせる。「音で札を選ぶんだ」
「うん。人にもできる楽器だ」
テオは何枚か通し、耳で聞き分け、偽札を撥ねた。
列の温度は上がらない。音が低い**からだ。低い音は、落ち着きを連れてくる。
夜。
聴聞前夜の静けさは、湯の上に薄く張った膜に似ている。
破れば波が立つ。寝かせれば澄む。
僕は看板の裏に、条文を並べて寝かせた。
《第零条:人は湯より大事》
《第壱条:休ませ、流せ、笑わせろ》
《第弐条:忘れられたものを先に温めろ》
《第参条:賃金は“ために”》
《第肆条:声は低く。高い声は火》
《第伍条:角を足せ。直線は熱を呼ぶ》
《第陸条:罠は角で無効化せよ》
《第漆条:熱い金は冷ましてから触れ》
グラナイトが目を細める。「よく寝てる条文だ。明日は起こせ。短く、低く」
「了解」
ルシアンが小さく合掌する。「神殿は証言を出す。協定どおり、休湯時間内に祭礼をやり、収益に手を出さなかった、と」
ミーナが腕を組んで笑う。「うちは衛生の証言を出すよ。油の混入は“外から”だった。匂いは嘘をつかない」
勇者は肩を回し、短く言う。「俺は列の証言。押しが来たら上で止める。角は命を守る」
テオは少し迷って、手を上げた。「……僕も、言いたい」
「何を」
「賃金の話。今日、初めて“仕事のために”もらえた。あれは明日のための力になった。今日のあとじゃ、遅い」
ルシアンが目を細めた。「証言は、それだけで街を温める」
最後に、僕は忘れられた街の通気井戸をもう一度覗いた。
風が柔らかく冷たい。
耳を澄ますと、遠くで板が擦れる音。
看板だ。
地上の看板と同じ材(石と木と鉄)でできた、地下の看板。
擦れて読めたのは、三つの文字。
——《徴》
——《税》
——《所》
僕は息を呑んだ。
王都の下、忘れられた街の最初の区画は、徴税所だ。
つまり――記録が眠っている。
古い印璽、台帳、境界。
もしそこに、ヴォルケ家の古い誓約が眠っていたら?
あるいは、営業権を“湯守”に委ねる古文が?
ルシアンが小さく囁く。「神殿の書庫にない文書が、そこにある」
グラナイトが尾で地を打つ。「明日は開けるな」
「開けません。聴聞のあとに」
「よろしい」
竜は瞼を閉じた。
「裁きには、湯と記録がいる。湯は心をやわらげ、記録は心を止める」
僕は頷き、看板に小さな矢印を描いた。
“下を見よ”。
人の目は上へ向きがちだ。けれど、街の骨は下にある。
明日、言葉で戦い、その足場を地面に置く。角で守る。休憩で強くする。
最後の仕事。
曲がり角の木箱に、印を付けた。
撤去しない。見せる。
罠の痕跡は、罠の主を呼ぶ。
呼んで、角で受け、低い声で介錯する。
ざまぁは叫び声ではない。静かに片づく音だ。
湯は穏やかに歌い、夜はゆっくり降りる。
僕は土にもう一行だけ刻んで、寝かせた。
《第捌条:記録は刃。湯は鞘。》
刃を抜くのは明日だ。今日は鞘で眠る。
街は角を増やし、明日に曲がる準備を終えた。
――次回/第6話「湯けむり行政 — 地下街営業規程・公布」