第3話「一番湯 — 衛生ラインと価格戦略」
朝。湯はよく眠り、よく目覚めた。
四十三度、まろやか、呼吸は一定。土と水と熱の拍を耳で、掌で、足裏で確認する。僕は看板に今日の運用を書き足した。
《本日より有料》
《入湯:大人銅貨二/子ども・高齢一/初回割二分の一》
《朝湯(労働前)割/夜湯(労働後)割》
《休湯時間:時の砂三回ごとに十》
《衛生ライン:青→手洗い/赤→調理禁止》
線は土で引く。青は細かい砂利を混ぜてザラつきを、赤は焼いた瓦粉でわずかに色味を出す。朝の光が当たると、線ははっきりと感触で読める。
「文字が読めない人にも分かるのがいい」
背後で、ミーナが伸びをしながら言った。肩にかけた布は新しい。屋台の看板も移動済みで、風下。
「さて、値付けは揉めるよ。揉めるのが普通。揉めなかったらたぶん怖い」
「揉める前提で透明化します」
僕は石盤を立て、今日の温度と入浴料、無料対象(乳児・療養証明・作業奉仕一刻)を刻む。
その横に、もう一枚。
《価格の理由》
・湯守り(清掃・塩素・温度管理)
・休憩(人も湯も)
・配管保守
・緊急備蓄
「理由を書いちゃうの、好き」
ルシアンが神殿から来て笑った。「“不透明は信仰を腐らせ、透明は信仰を不要にする”って、昔の司祭が言ってた」
「あなた、神殿の人でそれを言う?」
「言う。腐るよりましだ」
勇者は今日も剣を下げず、しかし抜かず、列の最後尾で列整理係をやっている。肩の泥は落ちて、目の下のくまが少し薄い。
そして、あいつも来た。ヴォルケ男爵の従者の少年だ。名を聞いた。「テオ」。
彼は昨日の求人札を見て、小さく震えながら頭を下げた。「働きたいです」。
「条件は一つ」
僕は看板の裏を指した。
《休憩厳守》
「守れない人は雇わない」
テオは真剣にうなずいた。少年の真剣は、時々、世界をすこし真剣にする。
初回の鐘が鳴る。
有料の一発目、つまり“一番湯”が始まる。
列は自然に二本の蛇になり、青い線に沿って手洗い場へ導かれる。塩素は薄く、匂いは控えめ。手順は壁の絵で示す。文字が読めなくても従える絵。
勇者が前で見本を示すと、子どもが笑って真似した。手を擦り、指の間、親指、爪の周り。湯気は笑いで薄まる。
「徴収の仕組みは?」
ミーナが腰に手を当てる。
「石札にしました」
僕は掌に収まる丸石を見せる。淡い斑点のある石。片面に入浴種別(大/小/朝/夜)の刻印、もう片面に返却穴が空いている。
「湯の出口から二十歩以上離れた曲がり角に台を置き、テオが石札を配る。先払い。出口で穴に通して返却。数が合わなければ、どこかに詰まりがある合図になる」
「貨幣じゃないんだ?」
「最初に貨幣を握らせると、列が硬くなる。石なら落としても音が軽いし、拾える。それにほら」
僕は石札を一枚、湯の端に置いた。石が温まる。
「体温みたいで、いい」
ミーナは笑い、テオは両手で箱を抱えて所定の位置に走る。
すぐに来たのは、値切りだ。
「昨日はタダだったろうが」
「昨日は開業記念でした。今日は運営です」
「子どもが二人で大人一人ぶんじゃだめか」
「だめです。混雑は体重じゃなく、動線を詰まらせるので」
僕は図を描く。大人は動きが大きく、子どもは予測不能。危険度は別軸で、まとめ割は平時の市場でやること。安全優先の現場ではやらない。
言葉は冷静に、線ははっきり。反発は起きるが、説明の所要時間を短くすると、反発も短い。
やがて押し問答は消え、列の呼吸が整っていく。
トラブルは三つまとめて来た。
一つ目は、屋台の若者が赤線(調理禁止ライン)をまたいでテントを広げたこと。
二つ目は、湯の浅槽に石鹸を持ち込んだ酔っ払い。
三つ目は、転売だ。石札をまとめ買いして、列の後ろで割高に売る輩。
順番に潰す。
「赤は調理禁止です。湯の匂いと喧嘩するうえ、油膜が浮きます」
「ここ、風がいいんだよ」
「風向きは午後に変わる。変わると煙が湯の風上に入る。ならば、朝の半刻だけ例外運用をする。看板に時間限定で書く。午後は強制撤収」
若者は渋い顔でうなずき、テントの脚を持ち上げた。時間で納得してもらうのは、空間で押し返すよりずっと楽だ。
石鹸問題は、勇者がやった。
酔っ払いの手首をそっと掴み、静かに下げる。
「ここは“身体を温めるところ”だ。洗うところは別に作る」
僕はすでに用意していた洗い場へ案内する。排水は直接下水導線へ落とし、沈砂槽を経てから別の古い坑道へ。
「湯の中で泡を立てると、塩素が役目を果たせない。菌は泡が好きなんだ」
酔っ払いは「菌が好きなら泡をやらねばな」と言いかけて、自分で笑ってやめた。
湯が笑わせるのではない。恥ずかしさが湯に溶けやすいのだ。
転売は、テオが見つけた。
曲がり角の陰で、革帽の男が石札を四つ握っている。「子ども割はねぇのさ」と、鼻で笑う。
テオの顔が強張る。
「どうする?」と目が問う。
「仕組みで勝つ」
僕は新しい穴を地面に開けた。返却穴の隣に**“無効化穴”。
看板に書く。《転売品は無効穴へ。新しい札と交換》
テオが胸を張る。「転売札は、冷たいから分かる」
触って分かる。温まっていない。
革帽の男は二つ三つの札を冷や汗ごと捨て、逃げた。
「よく気づいたね」
テオは小さくうなずき、青い線をなぞる指が、少し自信**を覚えている。
午前が終わる。休湯。
僕は配管を撫で、温度を均す。温度は人の心みたいに段が要る。上げ続ければ焦げつく。下げ続ければ冷える。
グラナイトが尾で軽く地面を叩いた。「昼寝」
「上司、堂々と昼寝を宣言」
「労基」
彼は目を閉じ、呼吸を深くした。竜の昼寝は、都市全体を五分やわらげる。
その間に、僕は会計を取る。石札と銅貨の突合、返却率、事故率ゼロ。
ミーナが肘でつつく。「取り分、受け取りな。三割」
僕は首を振る。「今日は基金に回す。非常時のための備蓄。塩、布、薬、縄、灯り」
「あんた、惚れるくらい地味だね」
「地味は、続く」
午後。風向きが予告通り変わった。赤線の内側が少し温かい。
僕は若者のテントを撤収させ、代わりに足拭き場を拡張する。角に丸みを、段に凹みを。滑りそうな靴底を引っかける場所を増やす。
ルシアンが鈴を小さく鳴らし、休湯祭の短い祈りを捧げる。声は低く、言葉は少ない。
「転倒ゼロの祈り、届きますように」
「届きました」
僕は昼までの事故ゼロの板を看板に掛け替える。《本日、転倒ゼロを継続中》
“やれている”を街に知らせるのは、士気の保守だ。
夕方。
湯の呼吸が一段落ち着いた頃、ヴォルケ男爵が第三の台を出した。今度は規程どおり曲がり角の外、二十歩以上。
でも、台の脇に箱がある。箱のふたは半分開いて、見えるように銅貨が入っている。
“富の見せびらかし”は列に苛立ちを混ぜる。空気がざわつく。
僕は彼に近づいて、台をじっと見る。
「見える箱は、盗まれる箱です」
「盗まれたら衛兵を呼ぶ」
「その前に、列が止まる。列が止まれば、湯が冷える。冷えれば、明日の売上が落ちる。やめましょう」
男爵は歯をきしませる。昨日より分別のある怒りになっただけ、少し進歩だ。
彼は箱を台の下に収めた。
僕はついでに、台の角に布を巻いた。
男爵は鼻を鳴らす。「恩を売るつもりか」
「保守です。明日もあなたが稼げるためにやってます」
男爵は何も言わず、わずかに会釈した。きっと無意識だ。無意識は未来の練習だ。
逢魔が時。
光は青く、湯気は薄く、声はやわらかい。夜湯割の時間だ。
作業を終えた人が、手にひび割れを抱えてやって来る。硬い手が湯に溶ける。
テオが列をさばき、勇者が長椅子を運ぶ。ルシアンは鈴を鳴らさず、目だけで無事を数える。
僕は湯の呼吸をもう一段しずめ、高温槽の温度を四十七に合わせた。頑固な老人が満足げに目を細める。
「これだ。これ」
「短くどうぞ。心臓がびっくりするから」
「若いのに口がうるさい」
「労基です」
老人は鼻で笑い、しかし短く上がった。約束を守る人は、だいたい次も来る。
夜。
広場から人が減り、湯だけが歌う時間。
テオが箱を抱えて戻って来た。顔は火照り、目は冴えている。
「石札、全部戻りました」
「偉い」
「それから……男爵が、僕に賃金をくれました。今日の分。今まで、僕はもらってなかった」
彼は小さく笑って、少し泣いた。笑いと泣きの混合液は、湯とよく混じる。
「テオ」
僕は看板にもう一行刻んだ。
《第参条:賃金は、仕事の“あとで”ではなく“ために”。》
ルシアンがゆっくり読み上げる。「いい条だ」
グラナイトが目を細める。「条文は寝かせろ。熱いと読みにくい」
「では休む」
「命令」
僕は笑い、湯に足を入れ、配管図の続きを地面に描いた。
忘れられた街への第一配管。空気の井戸の再開通。逆流弁の位置。非常停止の石鍵。
地面に残る線は、星より確かだ。星は雲で隠れる。地面は街に踏まれて強くなる。
最後の見回りで、足元に小さな貝殻を見つけた。王都の真ん中で、海の欠片。
水脈が昔、ここまで呼吸していた証拠だ。
「グラナイト」
「聞こえてる」
「この貝、札にしよう」
「石札の次は貝札か」
「明日から“早朝清掃一刻”で一枚配る。働いた人が朝の一番湯を先に取れるように」
「いい。暮らしは循環だ。湯だけが流れても、街は流れない。人も流せ」
僕は頷き、看板の端に小さな丸を彫って、そこに貝殻を埋めた。
触ると少しひんやりする。明日の冷静の予感だ。
空を見上げると、星は昨日より多い。湯気が薄いのか、心の曇りが薄いのか、どちらでもいい。
テオが舟のオールみたいに細い腕で箱を抱え、勇者は長椅子を片付け、ミーナは布巾を絞り、ルシアンは鈴を鳴らさず祈り、グラナイトはいびきを我慢している。
王都の下では、忘れられた街が喉をひらく準備をしていた。
僕は掌で地面を押し、温度を確かめる。ちょうどいい。
「――明日は通気井戸を開けます」
夜気に向かって宣言すると、湯が小さく拍手した。
街の拍だ。人の拍だ。湯の拍だ。
そして僕は、石の縁に腰かけて、休憩をとった。命令だから。
命令で休む街は、案外、強い。
――次回/第4話「行列学入門 — 動線と人の“気温”」