第10話「歩く古竜 — 地下巡回と“湯札”の親戚会議」
朝。湯は四十三度、呼吸は一定。
看板の端に今日の一行を刻む。
《地下巡回:梁/通気/角の摩耗》
《札会議:石・貝・角貨・順路・湯札》
《灰は薄く/声は低く/拍は三》
グラナイトが尾で定時を打つ。「歩く」
古竜が歩く日は、街全体の基準音が下がる。低音の基準があると、人の高音はすぐに恥ずかしくなる。便利だ。
テオは和音穴の音板を持ち運び仕様に組み替え、ミーナは塩の雨の小壺を肩に、ルシアンは神域の灰を少量。勇者は肩の壁をつくる意識だけ持って軽装。
僕は点検棒を一本。棒と言っても、先が鈍い角の形をしている。突くのではなく、撫でるための棒だ。
市場の床を出て、徴税所、通気井戸、そして暗がりの古い通路へ。
最初の点検は梁。
梁の節に指を当て、湿りと硬さの落差を見る。グラナイトは鼻先で鉱気を舐め、微かな砂鉄のざらつきに眉(の代わりの目の縁)を寄せる。
「ここの梁、眠りが浅い」
「昼寝延長で」
僕は“働く湯”の温度を一段落として、風の窓をひとつ増やす。梁が眠るには、空気も眠らせるのが早い。
二つ目は通気。
回転柵の軸に脂が足りない。軋み音は列の心拍を上げる。
ミーナが灰に油を少し混ぜ、軸へ薄く塗る。「匂いが立たない油ね」
回転は静か。静けさは、街の利息だ。
三つ目、角の摩耗。
市場中央の移動角は、人の足でほんの少し尖り始めている。
勇者が布を巻き直し、僕は角の角を撫でて丸める。テオが和音穴の低い音を一音。
角は刃であり枕だ。寝かせた刃は、人を傷つけない。
巡回の折り返しで、地面が一拍だけ低く鳴った。
遠いところで、小さな落ち。崩落ではない。抜けに近い。
グラナイトが顔を少し傾ける。「湯の祖先の通りだ。行く」
祖先?
僕らは薄暗い横穴へ入った。壁に古い指の跡。その一つが子どもの手で、少しだけ高い位置にある。
鼻に、うっすらと海の匂い。
床に、擦れかけた二文字。
——《湯札》
ここか。湯札の寝床。
床石の下で、乾いた薄板が重なる音。
僕は点検棒の鈍角で地面をほどき、薄い石板を十数枚、息を合わせて起こした。
指の腹で触ると、微熱。
刻まれた印は、温度記号と拍だ。文字は少ないが、和音でしゃべる。
一:四十七度・一拍(起こす)
二:四十三度・二拍(保つ)
三:四十度・三拍(休める)
裏面に、音の記号がある。低い丸が一つ、二つ、三つ。穴に通して鳴らす前提だ。
「親戚会議だね」
ミーナが笑う。
石札(入浴種別)、貝札(労の先手)、角貨(市場の理屈)、順路札(和音)、そして湯札(温度×拍)。
僕らは回廊の脇に灰で輪を描き、そこへ札たちを並べた。
グラナイトが低い声で開会を告げる。「短く、低く」
最初の議題は記号の統一。
テオが和音穴の音板を広げ、湯札の裏の音記号と合わせて鳴らす。
低→低低→低低低。
温度と拍の和音が、順路と噛み合った。
僕は看板に小さく刻む。
《札の約束》
・石札=入浴の権利
・貝札=労の先手
・角貨=理由の値
・順路札=和音の道
・湯札=温度の拍
「次、偽造対策」
ルシアンが神域の灰を指で転がす。「印璽は押さない。押せば火になる。音で守る」
僕は和音穴の弟を作ることにした。温板を薄く入れた**“温穴”。湯札を通すと温度差で微細に音が揺れる**。偽は揺れない。
テオが目を輝かせ、「温と音で偽を弾く」とメモを取る。
三つ目、順路の渋滞。
湯札を導入すると、働く→商う→休むの三和音が四和音に化ける恐れがある。
勇者が肩を回し、「一音は“沈黙”にしとけ」と短く言う。
なるほど。沈黙も音だ。
僕は順路札の三和音に、“無音”の小さな印を足した。無音は優先の余白。
看板に一行。
《第拾陸条:和音に“無音”を混ぜろ。余白は渋滞を食う。》
会議の終わり際、床下でふっと軽い抜け。
そこだけ空気が薄い。落盤の芽より、腐れの芽。
グラナイトが鼻を鳴らす。「菌が道を探している」
ミーナが別食角の材料を取り出して、急ごしらえの晩餐を設置。藁と古布、そしてほんの少しの糖。
菌を角で呼び分ける。
僕は浮き段の兄弟、“沁み段”を作った。土に細い毛細孔を刻み、水分を斜めに運ぶ。菌は水の濃いほうに集まる。角は生き物にも効く(本日二度目)。
地上に戻ると、広場で噂が先回りしていた。
「新しい札で先に入れるらしい」「札が多すぎて分からない」
分からないは熱に化ける。
僕は看板に大きな図を彫った。札の親戚図。線は太くない。角は丸い。
《札の親戚図》
石札→入る
貝札→働く
角貨→商う
順路札→向かう
湯札→温める
下に、和音の見本。低・低低・低低低・無。
テオが和音穴で順に鳴らす。
“無”は鳴らさない。鳴らさない音に人が首を傾げ、そして笑う。
笑うと、列は曲がる。角は笑いにも効く。
午後の立ち上がりで、小さな騒ぎ。
転売屋が、今度は湯札の偽を持っていた。焼きは上手い。温度記号も真似ている。
だが、温穴は揺れを拾わない。
低い音が震えず、まっすぐ過ぎる。
テオが首を横に一度。
僕は声を上げない。看板の端に小さく刻む。《無音で無効》
偽札は無音穴へ。新しい札は視線の外から渡す。
男は舌打ちを呑み込み、去る背は前より薄い。疲れが混じっている。疲れさせるのも、戦いだ(本日二回目)。
夕刻、歩く古竜が地上の広場に顔を出し、布の拍子を一度だけ打った。
低い、柔らかい音。
彼はゆっくり言う。「条文を足せ」
僕はうなずき、札の親戚の合意を条に落とす。
《第拾漆条:札は“理由”を運ぶ。値や特権を運ばない。》
《第拾捌条:札の数が増えたら、図を減らす。》
《第拾玖条:偽を声で追うな。音と余白で枯らせ。》
ルシアンが指で灰を撫で、「短い条は信仰を楽にする」と笑う。
ミーナは湯札を湯気で温め、「手に“ちょうどいい”が残る札は、人を黙らせる」と頷く。
勇者は結び台を手入れし、「靴紐は戦か前戯かの境だ。台は重要」と真顔で言って笑われる。
テオは音板を拭いて、「和音のほうが喉が楽」と肩の力を抜く。
グラナイトは尾で定時を打ち、「昼寝」と言って実際に三拍だけ目を閉じた。上司の三拍は、街の三拍。
夜の前、一件だけ大きな課題が残った。
休む湯の静域で、泣き声ではなく笑い声が高い。
笑いは良いが、高い笑いは刃になる。
僕は看板に小さな椅子をもう三脚足し、《笑いは椅子に座って》と灰で書いた。
座って笑うと、腹が動く。声は低くなる。
年長司祭がそれを見て袖口の灰を撫で、「礼拝堂にも置く」と呟いた。
宗教と行列は、腹から落ち着く。たぶん普遍だ。
閉湯。
会計板に新しい列ができた。湯札の運用率。
初日、六割。和音は乱れず、事故はゼロ。
レームが基金に小袋を置き、短く言う。「図を減らして、札を整える。明日」
“図を減らす”。商人は時々、いちばん良い助言をさらりと置いていく。
最後の見回りで、徴税所の石棚に置いた墨石(薄墨の下敷き)を撫でた。
自制の道具。
男爵の薄墨は、一代もの。
僕は湯札の束の一番上に薄墨の小さな点を押した。優先ではない、先に温める印。
働いた人、譲った人、無音を守れた人に、この点を今日だけ足す。
ミーナが横目で見て笑う。「地味に人の心を甘くするやつ」
地味は続く。続くは、強い。
看板の裏に、最後の条を刻む。
《第廿条:基準音を持て。竜でも椅子でもよい。》
基準音があれば、高音は勝手に下がる。
角があれば、直線は勝手に曲がる。
灰があれば、境界は勝手に守られる。
札があれば、理由は勝手に届く。
グラナイトが尾で定時を打ち、「休め」。
「命令、了解」
湯に足を沈め、三態の和音を胸で反芻する。働く/商う/休む。
耳の奥で、無音が一音ぶんだけ光った。
それは、明日へ開けておく余白だ。
――次回/第11話「灰の祭 — 見えない神域と“図を減らす日”」