第1話「竜の労基は、雷より速い」
追放式は見世物だった。
王都中央の円形広場、雨上がりの石畳は黒く、群衆の口は白い。壇上の勇者は剣を掲げ、神官は鈴を振る。僕は縄で両手を縛られ、足元の木札には大きく「無能(映えない)」と書かれている。親切にふりがなまで振ってあった。読みやすい恥はよく燃えるらしい。
「土魔法士レント。今日をもって、勇者一行からの除名を言い渡す!」
歓声。笑い。投げられる麦殻。湿った紙片が頬に貼りつく。
僕はひと呼吸だけ、石畳に膝をついた。石の向こうに沈む土は、雨を飲んでやわらかい。そのやわらかさの中に、焦げた匂いが混じっていた。雷でも火事でもない。もっと底の、誰も聞かない低さで鳴る、地下の息。
(ここ、歌ってるな)
土魔法は見た目が地味だ。無から有を創れない。ただ、流れを整え、ほどく。水が行きたい方へ、熱が眠りたい方へ。僕の手のひらは土に当たると、微かな拍を拾う。雨音より遅い、脈拍みたいな拍。三拍目で、僕は笑ってしまった。
「最後に弁明はあるか」
勇者の声が高い。観客に聞かせる声はいつだって高い。
僕は立ち上がり、縄を自分でほどいた。驚いた衛兵が槍を上げる。けれど僕はただ、壇の縁から石畳に指で線を一本引いた。
「排水が詰まってます。このままだと三分後に冠水します。式が台無しです。だから――少し、掘ります」
「ふざけるな!」
ふざけてなんかいない。
石畳を軽く撫で、目地に溜まった泥を解す。下の砂利が笑う。流れたい、と土が言う。僕はその“行きたい”を、ほんの少し手助けする。
最初の音は、誰にも届かないほど小さかった。ポッ。次にポポッ。石の下で、水と空気が喉を鳴らす。観客の足元で、黒い石が白く曇る。
「……湯気?」
誰かが言った。次の瞬間、円形広場の中心から白い柱が立ち上がった。
湯だ。熱は高くない。四十二、三。その上に、薄い硫黄。
ざわめきが歓声に変わるより速く、地の低い声が響いた。
「人間」
石畳の真下から、声。
亀裂が、僕の引いた線に沿ってすうっと走る。土を押し上げて現れたのは岩ではなく、鱗だった。濡れた石のような灰、古い刃物の光沢。おそらく王都の誰もが人生で初めて見る、古い古い竜の額。
「ここは、おれの管理区画だ」
群衆が悲鳴を上げる。勇者が剣を抜く。神官が鈴を取り落とし、カランと乾いた音がした。
竜は剣も人も見ず、湯面に鼻先を寄せ、温度を一度確かめるみたいに息を吐いた。
「四十三。悪くない」
僕は自然に頭を下げていた。
「はじめまして。土魔法士のレントです。勝手に目地をほどきました」
「見てた。手際はいい。だが、式の邪魔はよくない」
竜がゆっくり顔を上げ、勇者を見た。目はやたら澄んでいる。
「お前がこの人間を捨てるなら、代わりにおれが雇う」
広場が、完全に黙った。
雨上がりの雲が切れ、陽が湯気を金に染める。剣の金より、湯気の金のほうが柔らかい。
「雇うだと?」「何を勝手に――」
「地脈の手当ては、命の手当てに直結する。おれの街の管理人が要る。人手不足だ。募集はしていたが、さいきんの応募者は残業ばかりしたがる。愚かだ」
竜は真顔で言った。
「残業はするな。過重労働は敵。衛兵、そこに立つな。動線を塞ぐ」
衛兵が思わずどく。
王都のど真ん中で、竜が動線という言葉を使い、勇者が剣を持ったまま口を開け、群衆は湯気に見入っている。
この混沌に、最初に値札をぶら下げに来たのは貴族だった。羽根飾りを揺らした男が、従者を引き連れて踏み込む。
「ヴォルケ男爵だ!」「利権嗅ぎつけたぞ」
「この湯は――王都の公示なしに開けることはできん。営業権は我が家が持つ。徴収所はここに設け――」
「そこでやるな」
静かに言ったのは僕だ。
湯の出口の真横を指さし、土に図面を描く。入口、出口、列の蛇行、非常時の逃げ道。湯の温度と人の気温が喧嘩しない線を一息で引く。
「ここで徴収すると、渋滞ができて転倒事故が起きます。徴収所は出口から二十歩以上離し、しかも直線は避けてください。曲がり角に置くと、流れが自然に緩みます。足元は粗砂で。濡れた革靴は滑る」
「誰がそんな決まりを!」
「地下街管理本部」
竜がゆっくり頷く。
「おれの署名を入れる。法的に効く。竜法第三条――人命は収益より優先。異議は?」
男爵は声を失い、勇者は剣を握り直し、神官は拾った鈴をまた落とした。カラン。
群衆の誰かが拍手をした。最初は一人。次に二人。湯気の柱の向こうで、子どもが笑う。足を湯に入れた老婆が、目を閉じて座り込む。疲れの芯がほどける速度で、騒ぎが静まる。
「レント」
竜が僕の名を呼ぶ。
「おれはグラナイト。地脈の古竜で、労基にうるさい上司だ。言葉は明快に、看板は大きく、休憩は定刻に。――管理人をやれ」
胸のどこかが、雨に打たれていた火のように一気に明るくなる。
ここまで見世物の恥だったものが、職務になり、責任になり、手当てになる。僕は握り拳をほどき、掌で湯の温度を測った。
「条件は三つ。残業はしない。安全が売上より上。それから、今日だけは無料開放。式の人にも、観客にも、平等に」
「よろしい」
グラナイトが尾を一度だけ打つと、地面のあちこちから温い湯の芽が立ち上がった。
群衆がどよめき、勇者がついに剣を下ろす。神官は鈴を握りしめたまま、初めて口を閉じた。
僕は石畳の上に、最初の条例を書いた。
《第零条:人は湯より大事。》
拍手が広がる。
その波に逆らうみたいに、ヴォルケ男爵が最後の見せ場を取り戻そうと声を張る。
「だが、許認可は――!」
「書類なら、ここに」
僕は土を少し持ち上げ、乾いた盤を作る。そこに項目を刻む――泉温/成分/排水路/非常停止/衛生基準/営業時刻/休湯時間。
ひとつひとつ、線に温度と人間を紐づける。紙より先に地面に刻む。紙は濡れるが、地面は街を覚える。
「王都役所に提出する写しは後で。今日は“仮運用”。事故ゼロで終わったら、本採用にして」
男爵は言葉を失い、従者を押しのけて後ずさる。群衆が笑う。笑いは湯気に混じってやわらかく、けれど確実にざまぁの温度を持っている。
「では――開業」
僕の声に、湯が応える。
列は自然に二列に割れ、子どもと老人が前に通される。屋台の女主人が手を挙げる。
「衛生、どうする?」
「塩素を薄く。匂いで嫌がる人には、手洗い場を別に用意。排水はここ。食べ物の動線は湯の風下を避けて」
「了解!」
勇者が近づいてくる。剣は鞘に戻され、顔だけが戦いの手前のままだ。
彼はぎこちなく、手袋を外した。
「……さっきの、詰まりを取ったのは、お前にしかできないのか」
「誰にだって、覚えればできます」
「俺に、教えろ」
広場が、二度目の沈黙をした。
僕は頷く。勇者の肩に泥が跳ねている。泥は温い。今日は雨上がりで、湯気が街を丸くしている。
「まずは、土の声を黙って聞く練習から。剣より退屈で、剣より使う場面が多い」
勇者は苦笑し、列の最後尾に回った。拍手がまた、自然に広がる。
グラナイトが小さく目を細める。竜が目を細めるときは、だいたい満足しているときだ。もしくは眠いか。
「レント。休憩は一時間ごとに十分。お前も浴びろ」
「開業一時間で入浴命令?」
「労基」
この国の誰も、竜から労働基準を叩き込まれる未来を想像できなかったはずだ。
僕は笑って、湯気の向こうへ声を投げる。
「王都は本日、臨時温泉都市です。転倒注意、心はやわらかめで」
笑い声。白い息。靴音。鈴が今度は祝福みたいに鳴る。
そして――
地下が、もう一度低く鳴った。
それは脅しでも、崩れでもない。遠いところで扉が開くような音。地図にない通路が、向こうからこちらへと伸びてくる。
「……聞こえるか、レント」
グラナイトが顔を傾ける。
「王都の下には、忘れられた街が眠っている。そこを起こすには、管理人が要る。おれ一頭では足りない。――お前の初仕事は、湯の運用と、忘れた街の再開通だ」
指先の土が、わずかに震えた。怖さと、昂ぶり。
僕は湯の温度をもう一度確かめ、掌を地面に当てた。歌の方向を確かめる。
広場のざわめきが、遠いオーケストラの調律みたいに、ぴたりと合う。
この街は、今から生まれ変わる。
「――了解。管理人、レント。第一条、制定します」
僕は土に刻む。
《第壱条:休ませ、流せ、笑わせろ。》
湯気が拍手した。
王都は、雷より速く、暮らしに落ちた。
そして物語は、働く人と湯けむりの速度で、走り出す。