薄れゆくのが人生
私の車の助手席には、いつもその女が座っていた。
二年前、中学時代の友人から中古のその車を買った時からたぶんずっと。
うっすらと見え始めたのは、半年ほど前からだ。
車に乗り込むとまず、目に入る。そして目をそらしてもそこに『居る』のが分かる。
法事は午前十時からだというのに、妻の佳乃はまだグズグズしている。
「ねえさん、早く」茅乃が玄関から声をかけるが、
「車、乗りたくないんだよね……」
廊下に黒ずくめで佇んでいる方がよほど、幽霊に見えると言ってやりたかったが、さすがに娘の七回忌、また余計なことを言う、となじられたくなかった。
「エンジンかけとく」
それだけ言って、先に家の前に停めた車に向かった。
やはり、助手席に長い髪の女が座っていた。
イグニッションスイッチを押すと、ううう、ともひゅうう、ともつかぬ微かな呻き声が隣の女の方から聴こえてきた。いつものことだが、つい、そちらを見てしまう。
女はまっすぐ前を向いている。髪が長く垂れて、こちらを向くことはないので表情まではうかがい知れない。ことばを発しない薄い唇には血の気がない。
すっと伸ばした右手、人差し指をパネルの『ジョイント』に触れている。触れているというか、そこに指が吸い込まれて取れなくなっているようにも見える。
どうもジョイントとは、霊気を吸い込んでエネルギーに変換する部分のようだ。
仕事柄、『死』に縁の切れない自分には、このタイプの車は向いていないのかも知れない、いつもそう思うのだが、ガソリン価格高騰が止まらない社会で、燃費を重視するのならばやはり、このタイプしか選択肢はない。
八年前に開発された、死霊の放つ霊気で走る『霊排気エンジン車』は当時大騒動を引き起こした。
未使用の霊一体をジョイントできれば約五万キロの走行距離が稼げるとあって、特に石油産出のない日本国内ではおおいに話題となった。
しかし、倫理的な諸問題で実現化は難航……結局は、政府方針により、そしてポジティブな宣伝活動が功を奏し、霊排気車は一般的になったのだ。
ようやく車の所まで来た佳乃は、しかし後部座席のドアを開けた。
霊感なぞ全くなさそうな妹の茅乃も、いっしゅん不思議そうな顔をしたが、自分も後部座席に入った。
「間に合うよね?」
茅乃がスマホを取り出す。「20分くらいかな」
カーラジオがちょうど、渓流釣りに行ったまま行方不明になっていた会社役員が遺体で発見された、というニュースをやっていた。私は聴き入っていたらしく
「義兄さん」何度か呼ばれていたのにやっと気づいた。
「ごめん何?」
「駐車場、お寺の横に停められるの? この車」
慌ててナビに目をやる。
「いや、大通りを挟んで反対側だな……ちょっと歩くかな、10分はかからないと思うけど」
寺社は霊排気車の乗り入れ禁止を三年前に撤回していた、しかしできるだけ本堂や墓地から離れた場所に駐車スペースを設置するのが常だった。
燃料がなくなりそうになった車が、霊の集まりそうな場所に真夜中にやって来て、こっそりと『吸い盗っていく』ケースが後を絶たなかったからだ。
もちろん、盗られたと言っても誰にも見えない『霊』だ。
もうすぐ燃料が空になる車は、排気スイッチでわずかに残る霊気を排出してから、新しく、まるまる一体の霊気を吸い上げることができる。車のダッシュボードにある『ジョイント』から『集気端末』のついた専用ケーブルを車外に伸ばし、スイッチを入れると手近な死霊が一体、車に吸い込まれる、らしい。
普段はディーラーや整備工場などで行う作業なので、素人の私にはちょっとできるようにも思えなかった。専用ケーブルも、大きなカー用品店にはあるようだし、実際に病院近辺や寺社近くなどでケーブルを外につき出した車を数回は見たことがあった。
当初は特に違法扱いはされていなかったが、資源ごみから欲しいものだけ抜き取っていく『抜き取り』のごとく、近頃では条例で禁止される地区も多くなったらしい。
「それにしても」
茅乃はため息まじりにつぶやく。
「ケイリュウヅリ、って何? 会社役員がやるような趣味なのかな」
「あら、最近伸くんも行ったんだよ、わざわざ道具買って。どこだっけ?」
「山梨と静岡の境くらいの……って説明しても分らないだろ」
「まあね」でもさ、と茅乃が身を起こした。
「行方不明だった人も、山梨かどこか、って言ったよね……良かったね、義兄さん無事で」
「まあね……」
「もしかしたらその役員にどこかで会ってたかもよ」
「まさか」
そう相槌を打ったものの、もしかしたら義妹は、何かが見えるのかもしれない、とそっとバックミラーを覗いた。
法事の後、駅近くのコインパーキングに車を入れて頼んであった店に向かった。しかし、
「ご予約ですか……」
カウンターから出てきた年配の女性は、いったん奥に戻ってからまたやって来た。
「河合様のお名前で、本日十二時半、承ってないようですが」
「パパ、」佳乃の口調がとがる。奈津が生きていた頃の呼び方に変わっている。
「ちゃんと電話したんだよね?」
「したさ……」
問い詰められると、もしかしたら、という気分になってしまう。色々と調べて駅に近い、コインパーキングも近くにあるこの店にしたのだ。昔、独身の頃にも何度か飲みに来たし、親戚の法事の後に使ったこともあった。
しかし、本当に予約したんだったろうか?
急に不安に駆られる。
「スマホだったら、履歴に残るでしょ?」
義妹に言われてスマホを取り出すが、すぐまたポケットにおさめた。
佳乃が鼻にしわを寄せる。
「履歴とかすぐ全部消しちゃうんだよ、この人」
「オマエだって言うだろ、いつまでも溜めないで、片付けろって」
「部屋のゴミの話だよ。取っとかなきゃないないものだってあるでしょ? 区別つかないの?」
「確かに電話で予約を……」急に自信がなくなった。声が尻つぼみになる。
佳乃、今度は店員に強い口調で迫った。
「三人分くらい、席はないんですか?」
「申し訳ありません」判で押したような返答だった。笑みまですでに刷り込まれていた。
「本日は満席でして」
「いいじゃん」
自身、後ろめたさがあったのは否めない。私は明るさを取り繕って佳乃に声を掛けた。
「家で何でもいいから作って食えば」
「はあ?」
佳乃は険悪な目つきで振り返った。
「法事の後で、身も心も疲れてる人に作らせるの?」
「まあまあ」
半笑いの茅乃が割って入った。
「義兄さん、私はいいから、こっから駅近いし、もう帰るから」
「でもカヤちゃん、昼飯」
「うちはいいの、こういう上品なお店は緊張しちゃう、イエメシ最っ高」
店員がわずかに顔をこわばらせる。そんなことはお構いなしに茅乃はぐっと距離を詰めて小声で言った。
「コンビニでもスーパーでもいいから、美味しいお寿司でもたくさん買ってさ……ちょっと奮発してやってよ」
「でもさ」
「義兄さん、また明日から出張なんでしょ? せわしないだろうし、ここで解散にしよ」
確かにまた明日から面倒な出張がある。でも、と言いかけたが
「すみませーん、また次の機会に」
茅乃のわざとらしい大声に、店員はすでに背中を向けていた。
「出よう」
佳乃はそう言ったきり、私を見もせずに、大股で外に出た。
義妹の姿が駅構内に消えてから、やっと私は佳乃に真っすぐ向いた。
「ほんとすまなかった」
彼女への謝罪ではない、という意味を込めて付け足す。
「カヤちゃんには余分に何か、美味しいもの贈っといてくれるかな? そうだな……一万円くらいでいいかな」
佳乃は返事をせずにまだ駅を見ている。
「車に戻ろう、でさ、コンビニで寿司でも買って帰ろう」
駐車時間が気になって、少しせかし気味に佳乃の腕に触れる。いっしゅん、空を切った気がした。
「佳乃?」
「え」
振り返った表情は茫洋としていた。急に助手席の女の霊を思い浮かべた。
「だいじょうぶか」
「何が」
「ぼおっとしてたぞ」
「そうかな」佳乃は、ようやくいつもの表情に戻った。
ちょっとばかり険のある、それでも私の大好きな顔に。
「で、何買ってくれるの? お昼」
「コンビニで寿司かな」
「やだよぉ」駄々っ子みたいな言い方も戻った。
「うず潮寿司に電話して、すぐ。特上持ち帰りでね」
「はいはい」
ようやくいつもの感じに近づいたようだが、やはり、佳乃は後部座席に入った。
「なんでさ」
寿司を受け取ってから、家までの道中にようやく佳乃に訊いた。
「なんで、って何」
バックミラー越しの顔には特に表情はない。
「オマエこの頃、助手席に乗らないからさ」
「なんかね、」妻は窓の外を見ている。
「この車に替えてから、酔いやすくなったみたいで。特に前に乗るとさ」
「酔いやすい?」ははっと笑ってみせる。
「前の車の時は全然大丈夫だったじゃん」
「前はね、ガソリン車だったから」
妻は決して、『霊排気』とは言わない。始めに友人からこの車を譲ってもらうことになった時にちゃんと説明はしたが、私が「霊」と言うたびに、まるで殴られたかのようにびくりと肩を震わせ、顔色を変えたものだ。
「あの……新しい方が振動も少ないし、静かだろう?」
「だから余計、気分が悪くなるのかも」
エンジン音の代わりに、ひゅうう、と微かな音が断続的に耳に入る。
しばらく黙っていた佳乃が急に「車検、来月なんだよね」とつぶやいた。
「そう、二八日までだからもう予約は入れたよ、一二日に」
「新橋くんから、買ったんだよね。中学の同級生だっけ」
「クラスメイトだよ、家近所だったし仲良かった」
「今度の車検で何年目になるの」
あまり車に興味のない佳乃にしては珍しい、私はちらりと助手席に目を走らせ、慎重に言葉を選ぶ。
「彼が新車で買って三年乗ってからだから、五年になるね、燃料も」私も気をつけて『霊』と言わないようにしている。
「彼はあまり距離乗ってなかったから、次の二年後の車検までだいじょうぶ」
とつぜん佳乃が遮った。強い口調ではなかった。
「今度の車検で、替えてくれない?」
「えっ」ブレーキを踏んでしまい、後ろの車にクラクションを鳴らされた。
「なんで?」ことばを選ぶ余裕もなかった。「霊排気車が嫌なのか?」
「そうだね」妻はまた外を見ている。「正直に言えばそうかも」
「でもさ……」メディアでもさんざん繰り返されている前向きな科白しか浮かばない。
「今やガソリン車の方が入手困難なんだよ、それにスタンドだってもう数えるほどしかない、価格もぜいたく品の範疇だし、それに霊エネルギーは環境にも優しくてしかも人格を否定するものではなく逆に」
「パパ……伸くん、ここのところ助手席ばかり気にしている」
喉がつまり、目の前が暗くなる、私は出来る限りすばやく路肩に車を寄せた。
「何があるの、そこに」
私はぎこちなく首をめぐらせ助手席を見る。女は急な路肩停車にも関わらず、髪の毛ひとつそよがせず、身体を揺らすこともなくそこにひっそりと座っていた。
「なにもないよ」
思いのほか平静な声が出た。
見えるようになってから、もうひとつ、気になることがあった。
「普通なら10パー切ったら交換ですがね」
新しく入ったらしい整備担当者はあっさりと言った。名札には『皆さまのカーライフを守る 安田和夫』とある。
半年ふつうに乗っているだけなのに、霊量の減るペースがだんだんと早くなっていた。
今ではすでに霊気残8%だった。
「かかりが悪くなってきたでしょう?」
「いや別に」
やけに静かだと思ったらエンジンがかかっていなかったことが何度かあったが、つい、嘘をつく。
「あまり変わりがないけどね」
「これ、女性霊ですね多分」
「なんでわかる?」
「いや……」私の口調に急に安田の歯切れが悪くなる。
「まあ、何台も見てますからね」
「車検通らないかなあ」
「車検は大丈夫ですが、でもこのままだと走行中にふいに止まっちゃったり、ってことになりかねませんよ」
「どのくらいで?」
「そこが不安定なんですが……」安田は目をピットの天井に泳がせた。
「もっても半年?」
その言葉にぐさりと刺され、私はよろめいた。
「大丈夫ですか? 河合さん」
「……ごめん、膝が急に」
奈津が亡くなる前に、医者から言われた科白とまるで同じだったからだ。
「おじょうさん、この状態でよく頑張りました。しかし、長くて半年? そのくらいまでで、できるだけご家族の時間を大切になさってください」
ジョイントにほこりがついて来てるので、たまに専用キットでかるく拭きとってくださいね、安田はそう言って、彼女の指が吸い込まれている穴の蓋を跳ね上げ、中に専用の綿棒を差し入れてくるりと回した。女はそこに入った右手を動かそうともせず、ただ座っていた。像が重なり、いたたまれなくなって私は
「ねえ」
つい声に出てしまった。安田はびっくり眼でこちらを向く。
「その穴に、何がつながってるって……聞いてるかな」
ええと、とあいまいな声を上げて安田が目を彷徨わせる。
「専用ケーブルの話ですか? エネルギー充電の? あとスマホとかも充電しますよね」
「走行中も、霊気とか関係あるのかな? ほら例えば乗ってる霊がそこから」
「またまたぁ」安田が急に朗らかな笑い声を立てる。目は怯えを含んでいる? そう思ったのは束の間、彼はまた真顔になった。
「まあでも、誰も見えませんからね、実際どうなのかは」
数日後、霊交換の予約は保留のまま、私は車検の通った車を受け取りに行った。
代車も霊排気だったが、びっくりするほど、ふつうの感覚だった。霊排気車特有の、あの不思議なうなり声じみたかすかな排気音以外は。
代車運転中に私は何度か、助手席を盗み見たがそこはからっと明るいだけだった。
出来上がった車は洗車され、車内もすっかり清潔になっていた。
そして、女は変わらず助手席に座っていた、指をジョイントにつっこんだ姿勢で。
家に向かう途上、急に激しい思いに襲われた。
コンビニの駐車場になんとか滑り込み、ハンドルに突っ伏す。
なんてことだ、と口の中で繰り返す。
うっすらとでも見える、というだけでこんなに動揺してしまうとは。女は一度も文句を言ったことはない、表情も変わらないし第一、目も合わせようとしない、
見えていなければ、単なる燃料のはずなのに、フロントパネルに表される数値と、運転中のかすかなエンジン音だけが『在る』だけなのに。どうしてこんなに、『彼女』に対して色々と考えてしまうのだろう?
縁もゆかりもない人物だったはずなのに、いや、本当にそうなのだろうか。
コンビニを出る間際、またそっと、彼女の方を見る。
横顔だけとは言え、彼女には本当に、見覚えがなかった、誰にも似ていなかった……私が仕事上かかわった誰とも。
たまたま新橋と電話で話すことがあった。元々明るい性格の彼は開口一番こう言った。
「どぉ? 車の調子」
安く買えてよかった、ありがとう、調子いいよ、と答えると、がははと笑い、こっちこそ思ったより高く買ってもらって、おかげで欲しいヤツ手に入ったよ、今度は外車でさ、とよどみない。
話のついでと言った感じで、ようやく聞いてみた。
「この車の燃料さ、最初どこで入れてもらったんだっけ?」
「あれ、忘れたとか?」どこまでも口調は明るい。
「ディーラーだと高いじゃん? したら、近所のホラ、昔よく遊びに行くと宿題教えてくれたアヤねえちゃん、忘れたとか?」
「……宿題? いや」言われればどこかにぼんやりと浮かんでくるイメージがあった。
「高校生だった人、あの人独身でずっと実家にいたんだけど、不幸があって……」
「えっ」
「アヤねえちゃんのお袋さんがさ、うちのオフクロと仲良くて、どうせなら知ってる人に霊気差し上げたい、って」
返そうとおもうことばは、全部心の中に萎んでいく。
「オマエもよく知ってたし、アヤねえアヤねえ、って慕ってだだろ? だから。
この話、ちゃんとしてたよな? 車譲る時さ」
全然、記憶になかった。
介護施設への数回訪問を含む出張がようやくひと区切りついて、家でぼおっとしていた時だった。
「どっかでご飯買って、公園に行かない?」
佳乃に誘われて「どこの?」と車のキーを取り上げたが
「ううん」薄く笑みを浮かべ、佳乃は外に顎を向ける。
「第一公園、歩いていこうよ」
真ん中の芝生公園入口、木陰のベンチで買って来た包みを拡げる前に訊かれた。
「あの車」
単刀直入だった。
「助手席に霊がいるとか? 見えてるんじゃないの?」
陽射しの明るさと、そこに車がないことに背中を押され、私は案外と素直に白状した。
半年前から、助手席に女性の霊が見えるようになったこと。
元の持ち主である友人に訊いたが、霊が誰なのか全然見当がつかないということ(これは明らかな嘘だったが、そこはすらすらと口から出た)。
その霊が、指をジョイントに突っ込んで全くこちらを見ようともせず、ただ座っているだけだということ。
そして、近頃霊量の減りが半端なく、あとふた月の間にいつもの店に頼んで次の霊を補充しようと思っていること、を。
「その霊、というかその人」
佳乃はいつになく静かな目をしていた。
「誰なのかは分からないんでしょう?」
「もちろん知らない」
即答した。食い気味だったかもしれない、とわずかにひやりとしたが、佳乃はぼんやりと公園の向こう側、噴水の方をみつめたきりだった。
遠くを見たまま、佳乃はまた私に問いかけた。
「もし奈津が、うちみたいな車のエンジンに使われていたら、どう思う?」
「えっ」むきになって言い募る。
「なわけないだろう、奈津はちゃんとお葬式も法事もしているし、墓も念のため本堂近くにしてもらったし」
「でも誰の霊がどこで、どう使われているかなんて、本来なら誰も知らないんでしょう?」
何をどう答えても、言い訳にしかならない。私は黙って、彼女と同じ煌めく噴水を眺めるだけだった。
「でもよく分かったよ」こちらを向いた佳乃は寂しげに笑う。
「伸くん、本当は不安だったんだな、って」
どうだろう、と口の中でもごもごと言い澱み、次の彼女のことばがすぐに心に落ちてこなかった。
彼女は言ったのだ。
「昨日、病院で言われたんだけど、あと二ヶ月くらいだ、って、ウチ」
私は呆けたようにキラキラと落ちる水しぶきを見ていた。
「だから、今度のエンジンに私を使ってよ……そんな消えかかった女、放り出してさ」
例はいくらでもあった。近頃では、介護施設に預けた身内を『合法的に見えるように』消してほしい、という依頼がことのほか多くなってきていた。そんな中で私は出来る限り、最善を尽くして職務を遂行していた。
渓流釣りの会社役員を始末するよりも、段取りは複雑ではなかったし、どうせすぐに寿命がくるのだから、と自身に言い聞かせていたせいもある。
しかし、組織からたまに
「ご遺族が、霊排気エンジン用に御霊をご所望なので」
と言われることが度重なり、やはり、と思いながらどうしても、認められなかったのだ。
妻だけは、佳乃だけは、車に閉じ込めておきたくなかった。最後の最後まで、消費したくなかった。
おねがいよ、と最期に手をつないで、彼女が逝ったのはちょうど、それからふた月後だった。
救急病棟の外、あわてて駆け付けたせいでわずかに斜めに停まっていた車に走り寄る。最後まで私の仕事を知らないままだったのか、今さらどうでもいい、とにかく早く、と私は震える手でドアを開けた。
助手席には、相変わらずの姿があった。
私はためらうことなくエンジンをかけ、助手席側のドアを半開きにしてから、『排出』ボタンを押す。
ひゅう、と軽い音とともに霊は霧のごとく、徐々に窓の外へと流れていった。わずかに髪がそよいで見えた。
自分でも信じられないことに、ありがとう、と口をついて出る。
霊は消えゆくさいごの一瞬、こちらを見た。優しく微笑み、指を上げたまま。
『この問題、よく解けたね』
深いアルトの声が、聴こえた気がした。
助手席には、最近買ったばかりのケーブルがぽつんと残されていた。
それから助手席には誰の影もない。車は順調に走り、私は相変わらず殺人請負で日銭を稼いでいる。
薄れゆくのが、人生なのかもしれない。
〈了〉