9 ユージンの事情
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ユージンは小さくなっていくアリエスの後ろ姿を見つめながら、力の限り握りしめた拳を震わせていた。
だがそれはアリエスが憎いというわけではない。
アリエスに自分以外の婚約者がいるという事実が、ユージンの心に闇を落としていた。
そもそもユージンにはアリエスと婚約出来ていないという認識はなかった。
幼い頃母親が亡くなった事故で、ユージンはすぐに意識を取り戻せなかった時がある。
頭を強く打ったことが予想されたため無理に起こしてはいけないと、自然に目が覚めるまで待つようにと医師の指示に従いユージンの父であり、デクロン公爵はユージンの目覚めを待っていた。
だが人生のパートナーである夫人が亡くなった事実は、確かに公爵の精神状態をおかしくさせていた。
それに加え、一人息子であったユージンがこのまま目覚めなければという不安が、他の跡取りを望む親族の声を大きくさせ、公爵の不安をあおりに煽った。
普段酒を飲まない公爵はユージンの目覚めを待っている間、強い酒を飲んだという。
悲しい気持ちを紛らわせるためだろう、一人で何本も空にするほどの酒を飲んでいた。
だが目を覚ますと隣には見知らぬ女性が寝ていた。
公爵は一度は女性を追い出したが、ユージンが目を覚ました後、あの時の女性の妊娠が発覚したことがどこからか伝わり、再婚をして責任を取るべきだと声を上げた親族の望み通りに籍を入れることになった。
新しい母に動揺しながらも、産みの親を弔うべく葬儀に参列したユージンは、何を考えているのかわからない瞳を自分の父親に向けた。
デクロン公爵もそんな息子の眼差しを真っすぐ見ることが出来ずに顔を背ける。
そしてユージンが六歳になった時、再婚相手の女性は金髪の男の子を出産した。
ユージンにはない髪色に、デクロン公爵は自分の息子だという思いを強く感じてしまう。
それから無事男児を出産した再婚相手の女性は、公爵夫人として顔を大きくさせ振る舞った。
気に入らない家具や変え、内装を変え、高級なドレスを身に纏った。
そんな女性にデクロン公爵はなにもいうことはなく、放置していた。
公爵家の財がそういう判断にさせていたのだろうか。
公爵の心境までは誰にも分らず、それでも再婚相手が好き勝手しても怒ることもない公爵に、再婚相手の行動は次第にエスカレートした。
そして遂にユージンを冷遇しだす。
長男であるユージンが後継ぎになるのは自然の流れにも関わらず、自分の息子を後継ぎにしたいと考えていたのだ。
刺客を雇いユージンを殺害しようとする再婚相手に、これには流石に公爵も口を出す。
だがとった行動は再婚相手を咎めることでも、ユージンを守ることでもなかった。
公爵はユージンを祖父母がいる領地へと送ったのだ。
命を狙われるという危機は去ったことに安堵しながらも、ユージンはアリエスと連絡が取れない事を危惧した。
だが公爵家に仕え、幼い頃から良くしてくれた乳母からアリエスの手紙が届いたら必ず送ると、そしてユージンの手紙もアリエスに届けるという言葉を信じて、ユージンは旅立つ。
可愛らしい文字は少し歪んでいる部分もあったが、それでも自分を気遣う手紙の内容にユージンはすぐに返事を書いた。
ウォータ伯爵領から王都にある公爵邸は馬車で一週間だが、デクロン公爵領までは更に遠い為、アリエスからの返事も相当な時間がかかった。
ユージンの返信が届く前にアリエスも返事を書いたのか、噛み合わない内容の手紙のやりとりが続いたが、ユージンにとってはそれでもよかった。
アリエスの手紙だけが全てだったのだ。
だがある時からいくら待ってもアリエスの手紙が届けられることがなくなった。
理由を調べるとユージンを育ててくれた乳母が退職したという。
だが乳母の年齢を考えれば仕方ないことだった。
だから再婚相手の目を盗みながらユージンに手紙を届けるものがいなくなれば、アリエスの手紙が届かなくなったのも当然の流れだった。
ユージンは今までのアリエスからの手紙を大事に保管し、学園に入学する数年間、デクロン家の次期当主として祖父母からの地獄のような特訓を受け続けていた。
逃げたくなるほどの辛い特訓。
それでも続けたのは自身を殺そうとする再婚相手から身を守るため、そして将来結婚するアリエスを継母から守るため。
それだけの為に頑張ってきた。
それなのに一年遅れで入学したアリエスはユージンを拒否した。
それどころか婚約者は別にいると告げる。
一体どこのどいつだと顔も知らない男に殺意を抱きながら、そういえばアリエスは渡り廊下から外にあるベンチの方向を眺めていたと思い出す。
流石に予鈴が鳴った後ということもあり、ベンチには人の姿はなかったが、触れるとまだ温かさが残るベンチに誰かが座っていたことを確信した。
ユージンは指を鳴らし、領地から連れてきた従者を呼びだすと、アリエスに関わる全ての情報を入手するように指示を出した。
もしかしたら信じていた全てが間違っていたのではないかと、そんな不安を抱えながらユージンは一般クラス棟へと戻っていく。
その瞳はまるで蛇のように鋭く、狙った獲物を逃がさないような冷酷さが感じられた。