7 過去から現実に
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そして婚約を約束した二人は、ウォータ伯爵家に留まった一週間の間に沢山遊んだ。
木を登ったり、追いかけっこをしたり、木の枝を剣に見かねて剣術ごっこもして遊んでいた。
そんな遊びをしていたから、ユージンの剣の腕前が凄いことに気付いたアリエスはあの時のあれは偶然じゃなかったんだと気付き、ユージンから稽古をつけてもらうことをせがむ。
ユージンは一瞬迷ったが、アリエスの周りに乱暴な男がいる事を考えるとアリエスが乱暴された時に対処できるようになることはいいことだと、アリエスの願いを叶えた。
何故ならユージンはこの滞在を終えたらお家にある公爵邸へと帰ることになる。
馬車で一週間かかる距離が離れているデクロン邸とウォータ領では気軽に会いに来ることも出来ない。
ユージンがあの時の様に、この先アリエスを守ることが出来ないのだ。
だからこそ教えることにした。
ただ本格的なものではない。
子供の男女の力は大差なくても、今から成長した時にはその差は謙虚に出てくるだろう。
だから体をどのようにして鍛えれば効率がいいか、そして自分よりも力が強く大きな人間を相手にしたときの対処法をユージンは教え込んだ。
アリエスと同じ年のユージンは、公爵家の跡取りという事、そして世の中には善人ばかりじゃない事を子供ながらに良く知っていた。
だからこそ公爵家で受けていた教育以外にも独学で体の構造を学び、そして鍛えていたのだ。
そして一週間の滞在が過ぎ、王都へと帰ろうとするユージンをアリエスは悲し気な表情で見送っていた。
「アリス、そんな悲しそうな顔をしないで。また会えるから」
「でも……」
悲しそうな表情をし続けるアリエスにユージンは近づき、アリエスの柔らかい頬を両手で包み込む。
そしてちゅっと可愛らしい音を立ててキスをした。
きょとんとするアリエスは、キスをされたことに気付き顔を赤く染める。
「正式な婚約はまだだけど、それでも僕たちは結婚するでしょう?だから、行ってきますのキスだよ」
そう笑顔で告げるユージンはアリエスの頬から手を離す。
アリエスは真っ赤な顔で口元を手で覆いながら、ユージンを見上げた。
「………なら私はいってらっしゃいのキスをしなきゃだね」
そしてアリエスもユージンの様に……口ではなかったがユージンの白い頬に唇を寄せた。
「恥ずかしいからほっぺで許してね」と目を伏せながら告げるアリエスに、ユージンはゴクリと唾を飲み込んでアリエスに手を伸ばす。
だが抱きしめようと手を伸ばしたユージンの手は、そのまま空中で空振りするだけに終わった。
子供らしく可愛らしい二人に和んでいた大人たちだが、口にキスをする行動には口元を引きつらせたからだ。
ユージンは「まだ結婚してないんだからキスするなら手の甲にしなさい」と注意され、アリエスも「貴方も簡単に許さないこと」と叱られる。
貴族令嬢として、いくら婚約した相手だとしても身持ちを固く持たなければ素行が悪い女性と誤解されるかもしれないからだ。
「はーい」と素直に返事をした二人は手紙を書くという約束をして別れた。
アリエスは見えなくなるまでユージンが乗った馬車を見送り、ユージンは馬車からアリエスが住むウォータ家が見えなくなるまで窓から眺めていた。
こうして別れた筈のアリエスとユージンはこの日を境に、ぱたりと交流が途切れたのだった。
■
そんな昔の事を、今は家族しか呼ばない愛称と相手の容貌を見て思い出したアリエスは、ときめく心臓を見て見ぬ振りしながらきゅっと口を結ぶ。
アリエスが心を動かされたのは、変わらず輝く綺麗な銀髪に、成長しても衰えるどころか美しくなったユージンを見たからだ。
そして他にはなにも見えないと言わんばかりに、綺麗な瞳に真っすぐアリエスを映すユージンに、アリエスの心臓はドキドキと高鳴る。
だがアリエスは成長した。
淑女として、婚約者でもない男性に色目を使うなどというハシタナイ言動はあり得ないと理解しているし、過去に交流があったとはいえ関係のない男性に気軽に接してはならないことを知っている。
「会いたかった」
ユージンはアリエスの前まで来ると、ふわりと微笑みを浮かべながらアリエスを抱きしめた。
昔とは違う、制服姿ではわからなかったがその肉体に触れた瞬間随分と鍛えたとわかるユージンの体つきを感じたアリエスは困惑する。
だが共にいるマリアが息を飲む音に正気を取り戻したアリエスは、ユージンの体を両手で押し返す様に引き離した。
「……無礼を、お許しください、デクロン公爵令息様」
ユージンの体に手を付き地面を見つめたまま告げたアリエスに、ユージンは何が起きたのかと目を瞬いたままじっとアリエスを見つめていた。
そして動揺した様子のまま口を開く。
「…あぁ、ごめんね。苦しかったよね。それより、何故、僕の事を家名で呼んでいるんだ?前みたいに呼んで欲しいんだけど」
アリエスは動揺するユージンの声色に顔を上げた。
そして動揺した時や困った時、恥ずかしそうに照れた時等、感情に戸惑った時には首元を触る癖がそのまま今もあるユージンを見てアリエスは視線を逸らす。
「…あの、それでは誤解を招いてしまうと…互いに婚約者がおりますでしょう?」
「は?」
アリエルの言葉にユージンは硬直した。
アリエスは不思議そうにユージンを見上げる。
五歳の頃以来だとはいえ、成長したユージンはとても背が伸びていた。
それでも可愛かった容姿は美少年に変わり、どことなく面影を残したまま成長したユージンを懐かしく思っているとユージンは眉間に皺を寄せる。
「待って。アリスの言葉は僕以外の婚約者がいる、と聞こえたのけど、これは僕の気の所為、だよね?」
「いえ。気の所為ではありません。そもそもデクロン公爵令息様との婚約話は破談に終わっておりますので、私達の間には正式な婚約は一度も結ばれてはおりません」
「は…?」
ユージンはアリエスの言葉に更に深い皺を眉間に刻む。
そして詳細を尋ねようとした瞬間、次の授業を知らせる予鈴が聞こえた。
淑女クラスは予定されている本日の授業は全て終了しているが、騎士クラスと一般クラスはそうではない。
その為淑女クラスでは絶対ないユージンの妨げにならないよう、アリエスとマリアはユージンの前から立ち去った。