第七章:忍び寄る影と新たな決意
私の体調は、まるで気まぐれな猫のように、日によって、大きく波があった。激しい痛みを、強力な鎮痛剤でなんとか誤魔化してはいるものの、どうしようもない倦怠感や、微熱が続く日も、決して少なくなかった。そんな時、福原さんが、ふと、私の顔色を心配そうに、覗き込むことが、ごく稀にあった。
「松雪さん、なんだか、今日、少し顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」
その、優しい、まるで小さな棘のような言葉が、私の、深く沈んだ心に、チクリと刺さる。もし、彼女が、私の本当の病状を知ってしまったら、一体どう思うだろうか。善意から生まれた、その優しい心配が、いつか、彼女にとって、耐えられないほどの重荷になる日が、きっと来るかもしれない。
ある日のこと、私は、部署の休憩スペースで、不意に、激しいめまいに襲われた。視界が、まるで荒れた海面のようにグラグラと揺れ、立っているのがやっとで、体が、まるで操り人形の糸が切れたかのように、バランスを崩していく。とっさに、近くの壁に手をついたが、そのまま、ずるずると、床に崩れ落ちそうになった。
「松雪さん!?」
その時、今まで聞いたこともないような、福原さんの、悲鳴のような声が、耳に飛び込んできた。彼女は、まるで風のように駆け寄り、よろめく私の体を、必死に支えようと、小さな手を伸ばしてくれた。
「大丈夫ですか? どこか、具合が悪いんですか?」
福原さんの顔は、心配の色で、青ざめている。
「いや……大丈夫や。ちょっと、立ちくらみや」
私は、無理やり、ぎこちない笑顔を作ろうとしたが、顔は、きっと、酷く引きつっていたはずだ。
その、まるでスローモーションのような光景を、一部始終見ていた寺田さんが、すぐに駆け寄ってきた。
「松雪、大丈夫か!? ちょっと、無理したらあかん! 福原さん、悪いけど、松雪を、医務室まで連れて行ってあげてくれへん?」
医務室の、簡素なベッドに横たわり、意識が朦朧とする中で、私は、心配そうに、俺の顔を覗き込む福原さんの顔を見ていた。彼女の、潤んだ瞳には、これまで見たことのないほど、はっきりと、「心配」という、温かい感情が宿っていた。この、彼女の優しさが、いつか、彼女自身を深く傷つけることになるかもしれない。そんな、拭いきれない不安が、私の胸を締め付けた。
その日の夜、重い足取りで家に帰り着くと、同居人が、いつになく心配そうな表情で、私を見上げた。
「あんた、今日、なんか、いつもより、しんどそうやな。顔色、悪いで」
「ああ、大丈夫や。ちょっと、仕事で、無理しすぎただけや」
私は、そう答えたけれど、心の奥底では、刻一刻と、確実に、そして容赦なく迫り来る「その時」を、これまで以上に強く意識していた。
翌日、私は、再び、保健師の大塚さんを、昼休みの時間に呼び出した。
「大塚さん……あのな、俺、自分の病気のことを、福原さんに、話そうと思う」
大塚さんは、私の、突然の言葉に、驚いたように、目を大きく見開いた。
「……本当に? それは、簡単な決断じゃないよ。福原さんの気持ちも、考えないと」
「分かってる。そんなこと、百も承知や。でもな、このまま、福原さんに、ずっと嘘をつき続けるのは、俺には、もう耐えられへん。それに、もし、彼女が、ほんの少しでも、俺に好意を持ってくれたとしたら、後から、俺の病気のことを知って、きっと、今以上に深く傷つけてしまうことになる。それだけは、どうしても、避けたいねん。俺は、もう、誰にも、あの時と同じような、悲しい思いをさせたくない」
死別した、かけがえのない宏美さんのこと、そして、その後の、愚かな自殺未遂。大塚さんにだけ、打ち明けた、あの、壮絶な過去が、今の私の、この決断を、強く後押ししていた。
「それに、もし、奇跡的に、俺が、福原さんに好きになってもらえたとしても、あの、複雑な事情を抱えた同居人を、一体どうするかという、避けては通れない、大きな問題もある。俺が、この世からいなくなっても、あいつが、一人で、しっかりと生きていけるように。そして、いつか、次の、本当に心から愛せる人を見つけて、幸せになってほしい……」
大塚さんは、静かに、私の、重い言葉を、一つ一つ丁寧に受け止めるように、耳を傾けていた。
「……松雪さんの気持ち、よく分かったよ。でも、焦らないで。福原さんも、一度に、あなたの全てを受け止められるわけじゃない。少しずつ、ゆっくりと、あなたの真実を伝えていくことが、きっと、大切だと思う」
大塚さんの、温かく、しかし、どこか冷静な言葉に、私は、深く、深く頷いた。私は、福原さんの、俺に対する誤解を解き、人としての、ほんのわずかな興味を持ってもらうことには、なんとか、成功しつつあったのかもしれない。しかし、その先に待ち受けているのは、もっと、高く、そして、乗り越えるのが困難な、大きな壁だ。この、もしかしたら、もう、残りわずかかもしれない、自分の人生で、一体、私は、福原さんに、何ができるだろう? そして、私は、本当に、彼女を、心から幸せにすることができるのだろうか?




