第五章:保健師・大塚さんへの告白
その日の、退勤間際、いつもより少しだけ長く感じた一日が終わろうとしていた時、私は、思い切って、元同僚で保健師の大塚さんを呼び止めた。彼女は、今は私とは違う部署に所属しているけれど、時々、職場の健康相談などで顔を合わせることがあった。何より、その穏やかで、物腰の柔らかい雰囲気の中に、しっかりと芯が通った、温かい人柄を、私は、心から信頼していた。
「どうしたの、松雪さん。珍しいね、相談なんて」
大塚さんは、少し驚いたように、でも、いつもの優しい笑顔で、私の言葉に応えてくれた。
「あのな、大塚さん、実は、ちょっと、どうしても聞いてほしいことがあってな。誰にも、まだ、打ち明けてへんことなんやけど、もう、そろそろ、この心が、音を立てて壊れてしまいそうやねん」
私は、そう、重い口を開いて、切り出した。彼女の表情は、その瞬間、いつもの穏やかなものから一変して、真剣な眼差しへと変わった。
「私で良ければ、いつでも聞くよ。無理に話さなくていいから、話せることだけで」
私は、意を決して、ぽつりぽつりと、話し始めた。まずは、自分の、誰にも打ち明けていない、病状について。家族にさえ、詳細を伏せていること、そして、人差し指を立てて、「シー!」と、誰にも、絶対に、この話をしたことを漏らさないでほしいと、懇願するように伝えた。
「病状について、詳しくはお話ししたくないんやけど、医者からは、余命中央値10年、そして、近い将来、車椅子での生活になる可能性が、かなり高いって言われとる。原因不明で、国の指定難病にすら、認定されへんくらい、患者数の少ない、珍しい疾患なんや」
大塚さんの顔色が、私の言葉を聞くにつれて、サッと青ざめていくのが分かった。それでも、私は、言葉を止めることはできなかった。
「今、一番、俺が悩んでるのは、今、一緒に生活してる、あいつと、これから先、どうしていくかってことやねん」
私は、同居人の話をした。過去には児童相談所にもケースがあり、壮絶な虐待を受けた経験のある子であること。性虐による思春期早発症や、複雑性PTSDなど、想像を絶するような、大変な過去を背負ってきた子であることを。支援の網から、まるでこぼれ落ちてしまったかのような、この子を助けたいと強く感じたのは、今思えば、必然だったのかもしれない、と。
「あの子の、分厚い仮面の奥に隠された、助けを求めるSOSに、気がついてしまったから。被虐待児特有の、複雑性PTSDだと、すぐに分かった。前の彼女は、この子を、俺が必死に助けようとすることに、全く理解を示してくれへんくて、辛かった。『助けたい人に手を差し伸べられない自分を、この先もずっと強いられるなら、あなたとは、もう一緒にいられません』って、はっきり伝えて、前の人とは、別れることになったんや」
私と、今の同居人との関係は、世間一般で言うような、恋愛感情というよりは、家族愛とか、兄妹愛に近いものだということ。緊急避難という形で始まった共同生活が、気がつけば、もう四年も続いていて、周りの人に説明するのが面倒やから、これまで対外的には「彼女」と説明してきたけれど、きちんと明文化された、彼氏彼女という関係ではない、曖昧な状態であること。向こうは、俺のことをかなり好きみたいやけど、俺が全く手を出さないから、「性的虐待を受けたから、自分は穢れているのではないか」という、痛ましい問いかけを何度もされて、その度に、激しい喧嘩になること。家のことをよくやってくれて、本当に助かっているという、感謝の気持ちも、もちろんあること。俺の日常生活で、どうしても一人ではできない部分を補ってくれてることで、救われた子どもたちも、たくさんいると思うこと。
それら全てを、私は、信頼できる大塚さんに、洗いざらい打ち明けた。
そして、最後に、一番、今、私の心を掻き乱している、福原さんのこと。
「そんな、複雑な状況の中、偶然出会った、世界で一番可愛くて、仕事ぶりも、本当に尊敬できる女性に、まさか、こんな歳になって、本気で恋をしてしまったのが、運の尽きというか。もともと、すごく頑張ってる方やなと思ってたし、可愛い人だとは思ってたけど、何かで、その人が書いた文章を読んだ時、その考え方とか、言葉の選び方とかが、本当に素敵やなって、心の底から感じて。その時は、相手に彼氏がいるなんて、全く知らんかったから、もう少し、よく知ってから、慎重に、間を詰めるべきやったんやけどな」
十五年ぶりの、本当に久しぶりの恋で、自分の中に、まだこんなにも熱い感情が残っていたことに、改めて気づかされるくらい、僕の心は大きく揺れ動いたこと。福原さんが、大切な彼氏と同棲中だと知り、それでも、どうしても、その結婚待った!をかけたくなってしまったから、もう、どうにもこうにも、自分の気持ちを抑えきれなくなり、あの、後先考えなしの告白をしてしまったこと。その後の、後悔と、自己嫌悪の念で、精神的に、別の意味で死にそうになっていること。
あの、稚拙なラブレターの内容について、福原さんが一切触れてこないのが、地味に、本当に、精神的にキツイこと。
「落ち着いて、冷静に考えたら、向こうは、俺に、四年も一緒に住んでいる人がいることを知っていて。当然、世間一般的には、結婚間近だと思われているやろうし、そんな状況で、よりにもよって、彼氏と同棲中の自分に、『マジ天使』なんて、軽々しく口走ってくる、救いようのないクソ野郎だと、心の底から思われているかと考えると、心臓発作で胸が痛いんか、それとも、ただの恋の痛みなんか、もう、マジで、自分でも全く区別がつかない状態や」
同棲している、大切な彼氏さんがいて、そんな、安定した状況の中で、俺が積極的にアプローチしたら、彼女にとって、どれほど大きな迷惑になるかは、火を見るよりも明らかであること。真面目で、誠実そうな福原さんが、同棲までしているくらいだから、今の彼氏さんとの関係を、どれほど大切に思っているかは、容易に想像できる。
仮に、万が一、億が一、もし、向こうが、ほんの少しでも、こちらに好意を持ってくれたとしても、今の、安定した関係を壊すという、あまりにも大きな決断を迫るのは、彼女にとって、負担以外の何物でもないのに、そんなこと、全部、頭ではちゃんと分かっているのに、好き過ぎて、可愛すぎて、もう、あの時は、まともな、健全な形の表現が、どうしても、できなかったこと。
「前提が、長々と、本当にすみません。大塚さんだったら、もし、自分が、結婚間際という、人生の大きな転換期を迎えるようなタイミングで、見ず知らずの男から、あんな、一方的な、猛烈なアプローチを受けたら、一体どれくらい、迷惑に感じますか?」
大塚さんは、私の、混乱した、しかし切実な言葉を、真剣な顔で、一言も漏らさずに聞いていた。
「どれくらい迷惑なのか、自分の、浅はかな想像じゃなくて、実際に、他の人の言葉で、具体的な迷惑度合いを言われたら、いざという時に、暴走しがちな自分を、何とかして止めるための、大切な鎖の一つになりそうなので、どうしても、聞きたいんです」
「あと、大塚さんの旦那さんが、何かしらの、誰にも言えない、重い病気を抱えていて、それを、ずっと隠していたという事実を、後から知った時、大塚さんなら、一体どう思いますか? もし、その事実を、事前に知らされていたとしたら、大塚さんなら、今の旦那さんとの関係を続けながら、次の、新しい恋に、素直に進むことができましたか? それとも、全てを知った上で、それでも、今の旦那さんと一緒にいるという、茨の道を選ぶ決断をしたと思いますか? 自分としては、うちの、同居人には、自分の病気のことは、一切知らせず、徐々に嫌われて、自分から、この家を出ていってもらう方向に、事を進めていくつもりです。ただ、もし、自分の、そんな、腹黒い意図が、相手にバレてしまった時、ものすごく、相手を深く傷つけてしまうのは、過去の経験から、すでに実証済みで、そんな、最悪の事態になるくらいなら、いっそのこと、自分の口から、全てをゲロってしまうのも、一つの手かなとは、正直、思っています。自分の、演技力に、ほんの少しだけ期待して。バレないために、一体、何が一番大切でしょうか?」
そして、大塚さんへの信頼が築かれた出来事の一つでもあり、過去に打ち明けて相談したこともある、あの人の話。
「大切な人との死別は、本当に、想像を絶するほど辛かったんで、同じような、悲しい思いを、誰かにさせてしまうのは、本当に、心の底から嫌で。でも、自分の命の有限さを、リアルに感じ始めて、義務感だけで、今の人と一緒にいることの限界と、本気で好きな人に、素直に好きと言うわけにはいかない、この、どうしようもない状況の間で、心が、まるで引き裂かれるように苦しくて。一体どう転んでも、幸せな未来が、どうしても、頭の中に思い浮かべへんから、シンプルに、ただただ、苦しんでいます」
私は、堰を切ったように、本心を、全て吐露した。
「自分に対して、もし、奇跡が起こるとしたら、どんな未来が一番嬉しいかと、問いかけるなら、やっぱり、本気で好きな人に、ただ、幸せでいてもらうのが、一番嬉しい。もし、許されるなら、残りの、わずかなかもしれない時間を、その人と一緒にいられるなら、なお、嬉しい。てな感じでしょうか」
そして、同居人の、これから先の将来についても、率直な思いを語った。
「あと、今の人には、まず、俺がいなくても、しっかりと、自分の足で生きていけるようになってもらいたいし、俺が、この世からいなくなったら、どうか、次の、心から愛せる人を見つけて、普通の、幸せな人生を歩んでほしい。でも、俺自身が、本当の意味での、次の恋をするまでに、十五年という、途方もない時間が必要だったことを考えると、今の人、まだ、結婚適齢期の中にいるけれど、果たして、そんなに早く、次の、本当に幸せな恋を見つけることができるんかなと、どうしても、不安に思ってしまうんです」
私が、全てを話し終えると、大塚さんは、静かに頷き、しばらくの間、何も言わずに沈黙した後、ゆっくりと、しかし、はっきりとした口調で、静かに口を開いた。
「……松雪さん。あなたは、自分が思っている以上に、ずっと、不器用で、そして、誰よりも優しい人なんだね。あなたの病気のこと、同居人さんのこと、そして、福原さんへの、どうしようもなく切ない気持ち。どれも、簡単に、誰かに答えを出してもらえるようなことじゃない」
彼女の、温かい、しかし、どこか冷静な言葉は、私の、長年の孤独と苦しみで、まるで凍り付いてしまったかのような心を、ゆっくりと、しかし確実に、溶かしていくようだった。
「まず、福原さんの件だけど……正直言って、もし私が、結婚を真剣に考えている彼氏がいる状況で、そういう情熱的なラブレターを受け取ったら、迷惑に感じると思うわ。特に、松雪さんに、同居している人がいると思われているなら、尚更ね。でもね、松雪さんの、あの時の、少しばかり突飛な言動の裏には、今、あなたが話してくれたような、あまりにも壮絶な背景があるってことが、福原さんには、全く伝わっていない。だから、まずは、その、大きな誤解を解くことが、何よりも大切だと思う」




