第三章:クソ野郎の過去(後半)
神奈川県の、某有名ショッピングモールの、フードコートの中にあるラーメン屋。アルバイト先の、その騒がしいラーメン屋で、僕は、信じられないくらい頭が良くて、信じられないくらい綺麗な人に出会った。芸能人に例えるなんて、到底できない。もう、自分にとっての、完璧な美の化身を想像してほしい。マジで、天使か、あるいは女神が、そこに立っていると思った。心臓に、矢がズキューンと突き刺さった音が聞こえたし、「回れ回れメリーゴーランド♫」という、懐かしい歌が、頭の中でリフレインしたし、まさに、ビビッときて、雷に打たれたような衝撃だった。
もちろん、見た目だけじゃなくて、声や、言葉遣いや、ふとした仕草、その全てが、ど真ん中、百点満点という感じで。その人が、僕にとっての、初めての、本物の恋だった。脳みそと、その圧倒的な外見以外は、育ってきた環境が完全に親ガチャに外れていて、子供の頃から病気がちだったその人は、「絶対に小児科医になりたい」という、強い夢を持っていて、毎日、めちゃくちゃ頑張って、アルバイトと受験勉強を両立させていた。
僕たちは、よく一緒にフードコートの隅のテーブルで勉強した。わからないことを教え合ったり、くだらない話をしたりするうちに、自然と仲良くなった。あの人の生い立ちを聞いているうちに、僕は、無性に腹が立って、悔しくて、涙が溢れてきてしまった。
「なんで、そっちが泣くのかな」って、彼女は、泣きながら笑っていた。その、泣き笑いの表情を見た時、僕は、この人なら、きっと、ありのままの自分を受け入れてくれるんじゃないか、と、強く感じて、どんどん惹かれていった。
自分が、これまで、生きるために、嫌悪していたオバさんたちに媚び諂ってきた、汚れた体。本当の気持ちを言えない、空っぽならまだ良いけれど、ドス黒いものしか詰まっていないような心。もちろん、お金もない。何も持っていない。彼女に、何も、与えられるものなんて、何もないのに。そんな僕に、あの人は、「何もいらないよ。好きだと言ってくれるなら、その気持ちだけで十分。むしろ、年上の私が、何かしてあげたいから」と、そう言って、真昼間の、キラキラと輝く湘南の砂浜で、初めて、心のあるキスをした、忘れもしない、五月の優しい日差しの中だった。
でも、別れは、あまりにも唐突だった。彼女の持病が悪化したのだ。入院後、すぐに容態が急変して、その年の八月には、もう二度と、彼女の温もりを感じることも、会うことも、言葉を交わすことも、できなくなってしまった。僕は、家族じゃないという理由で、最期の最期まで、病室にいることさえ許されなかった。まだ、ほんの少しだけ会話ができた頃、彼女が、僕に最後に見せた、弱々しいけれど、どこまでも優しい笑顔と、その後にこぼれ落ちた一粒の涙が、今でも、まるで昨日のことのように、鮮明に頭から離れない。
少し顔が痩せて、お風呂にも入れていない彼女が、それでも、ほんのわずかな化粧の崩れや、かすかな匂いを気にしていた。心配しなくても、君はいつだって完璧だったのに。こんな、ろくでもない僕を受け入れてくれた彼女の目に、この世界はどう映っていたんだろう。彼女を容赦なく奪い去ったこの世界が、僕は、憎かった。でも、それ以上に、彼女が確かに愛したこの世界に、彼女が生きていた、確かな意味を、何としても作りたかった。何の意味も目的もなく、ただ黒く塗りつぶされていた僕の存在に、一条の光を与えてくれた彼女に、僕は、報いたかった。
めちゃくちゃ綺麗な人だった。あれから、もう十五年以上という月日が流れた今でも、彼女の面影は、強制的に思い出されるし、たとえ、この先、歳をとってボケてしまったとしても、たぶん、あの時見せてくれた、泣きながら笑った、愛おしい顔だけは、きっと、覚えているだろう。
彼女が眠る、金沢文庫の近くの霊園は、コロナ禍で県外移動が制限されたり、様々な自粛要請があったから、しばらく行くことができていないけれど、「また、恋をしました。世界で一番可愛い人です。まだ、そちらには行けません」と、ちゃんと報告しないといけないと思っている。たぶん、ちゃんと報告しないと、きっと後悔する。
ここ最近は、激しい痛みを誤魔化すために、毎朝、劇薬を飲んで、重い体を無理やり動かして、もうそろそろ、潮時かなあ、妹も弟も、もうすっかり大きくなったし、アニキがいなくても、きっと大丈夫だろうなあ、とか、ぼんやりと考えていたら、まさか、この歳になって、二十年ぶりに、誰かに本気で恋をするなんて、全く予想もしていなかった。恋で胸が痛いのか、それとも、ただの心臓発作の前兆なのか、自分でも全く区別がつかないのが、正直、怖い。
彼女の見ていた世界が見て見たくて、十五歳の時、めちゃくちゃ嫌だったけれど、少しでも生活費を減らすために、アルバイトの時間を減らして、その分、少しでも多く勉強時間を確保して、自分が、あの人の叶えたかった夢を、代わりに叶えることを誓って、実家に帰った。
実家に帰ったら、なんか、見慣れない妹が一人増えていたし、全く知らない、胡散臭い男が、当たり前のように父親ヅラをして、ちゃぶ台の前に座っていた。すぐに、母は二人目の子供を妊娠したけれど、実は、その男は、既婚者で、本妻がいて、他にも、信じられないほど多くの女に、平気でちょっかいを出している、救いようのないクソ野郎で、母は、何も知らずに、まんまと騙されたというわけ。
騙されるのは、まだ百歩譲って良いとしても、二人目の子供まで産むなっつーの、本当に、救いようのないバカ母。一人目の時点で、いい加減、気がついてくれ。
一気に、家庭の状況は悪化して、それでも、生まれたばかりの妹と弟は、本当に可愛くて。勉強もしないわけにはいかなくて、完全にフル稼働だった。高校在学中は、何度も過労で倒れた。それでも、母はろくに働いてくれなくて、妹と弟の生活は、ほぼ完全に、僕の肩にかかっていた。当時は、児童養護施設のことや、児童相談所の存在なんて、全く知らなかった。というか、そんなことまで頭を回している余裕があるなら、一つでも多く英単語を覚えないといけなかった。だけど、体は成長し、毎日、鏡を見れば、自分が一番嫌いな、あの暴力的なオトコの顔に、少しずつ近づいていくようで、毎朝、憂鬱で仕方がなかった。
大学卒業から、今に至るまでの話は、また、いつか別の場所で語るとして。ただ、もし、今、辛い境遇の中で、それでも必死に受験勉強を頑張っているような、若い誰かが、この物語を読んでくれていたとしたら、一つだけ、僕から、心からのアドバイスを送りたい。金銭管理は、絶対に、自分自身でやれ!親も、周りの大人も、一切信用するな。僕は、それで、母親に二百万円くらい騙し取られて、大学に入るまでの貴重な時間を、四年も無駄にしてしまったから。今の自分に、あの四年があれば、これから先の物語は、きっと、全く違った展開になっていただろうに……。
さて、少し時間を巻き戻そう。現在の、時間軸に。




