第八章:近づく距離、深まる葛藤
医務室での、あの、予期せぬ出来事以来、福原さんの、私を見る目は、明らかに変わった。以前のような、冷たい警戒心や、露骨な嫌悪感は、まるで嘘だったかのように消え、代わりに、時折、心配そうな、気遣わしげな眼差しや、ほんの微かな、しかし、確かに存在する、優しい感情が宿るようになった。仕事中に、私が、咳き込むことがあれば、すぐに、温かいお茶を、まるで当たり前のように差し出してくれたり、少しでも、私の顔色が優れないと、心配そうな声をかけて、休憩を促してくれるようになった。
「松雪さん、今日、なんだか、少し、顔色が良いですね」
そんな、何気ない、優しい一言でさえ、私の胸は、まるで、鋭い刃物で抉られるように、締め付けられるように痛む。彼女の、その、何の打算もない優しさが、私の、長く凍てついていた心を、じんわりと温めていく一方で、彼女に、重大な嘘をつき続けていることへの、どうしようもない罪悪感を、日に日に、募らせていく。
ある日のこと、私は、部署の、いつもの飲み会で、ほんの少しだけ、昔のように、気が緩んで、酒を飲みすぎてしまった。昔のように、完全に意識を失うほどではないけれど、足元が、ほんの少しだけ、おぼつかない。
「松雪さん、大丈夫ですか?」
背後から、聞き慣れた、優しい福原さんの声が聞こえた。振り返ると、彼女が、心配そうな、潤んだ瞳で、私を見上げていた。
「ああ、大丈夫や。ちょっと、気が緩んで、飲みすぎただけやな」
私は、そう言って、なんとか平静を装い、足を踏ん張ったが、体が、ほんのわずかに、しかし確かに、ふらついた。すると、福原さんが、まるで、壊れやすい宝物に触れるかのように、そっと、私の腕に触れた。
「……送っていきましょうか?」
その、思いがけない、優しい言葉に、俺は、まるで、心臓を鷲掴みにされたかのように、ハッとした。このまま、彼女に送ってもらえば、これまで必死に隠してきた、同居人の存在も、そして、誰にも言えなかった、自分の病状も、全て、彼女に知られてしまうかもしれない。何より、彼女に、これ以上、重すぎるものを、背負わせたくなかった。
しかし、その翌日、出勤すると、寺田さんが、いつものように、俺のデスクにやってきて、ニヤリとしながら、俺の肩を軽く叩いた。
「松雪、聞いたで。福原さんが昨日、あんたのこと、ずいぶん心配してたみたいやんか。送って行こうか、言うてたやろ? なんで、素直に甘えへんかったんや」
「いや、その……迷惑かけたくなかったし」
「迷惑って、何やねん。心配しとんやろ、福原さんが、あんたのこと」
寺田さんの、まるで全てを見透かしているような言葉に、俺は、返す言葉が見つからなかった。
「なあ、松雪。いつまで、一人で、全部抱え込むつもりなんや? あんたの病気のこと、同居人のこと、福原さんに、今すぐ全部話せとは言わへんけど。でも、あんまり、一人で抱え込んで、隠し通そうとすると、逆に、相手を深く傷つけてしまうこともあるで」
寺田さんの言葉は、昨日、大塚さんが言ってくれた言葉と、重なり合った。俺の心は、二つの、相反する選択肢の間で、激しく、しかし、どうすることもできずに、揺れ動いていた。そんな、どうしようもない葛藤の中で、俺は、同居人との、これから先の関係について、改めて、真剣に考え始めた。
俺が、この世から去った後も、彼女が、一人で、しっかりと生きていけるように。そして、いつか、心の底から愛せる、新しい恋を見つけて、普通の、幸せな人生を歩めるように。そのために、今の俺に、一体何ができるだろう? 彼女にとって、俺は、もはや、なくてはならない存在になっているのかもしれない。俺が、もし、本当にいなくなってしまえば、彼女は、きっと、また、深い孤独に苛まれるだろう。新しい、安心して身を置ける居場所を見つけ、新しい人間関係を、一から築き上げていくには、今の彼女にはまだ、乗り越えなければならない、あまりにも多くの、高い壁が、目の前に立ちはだかっている。
俺は、自分の命が、これまで以上に、有限であることを、痛いほど強く意識するようになった。残された、わずかなかもしれない時間で、俺は、一体、何を成し遂げたいのだろう。福原さんへの、どうしようもない気持ちは、日に日に募っていく。しかし、この、今にも壊れてしまいそうな、危うい恋が、本当に、彼女を幸せに導くとは、どうしても、思えなかった。




