ラーメン
指先の感覚がなくなり、かじかんだ手で真っ赤な暖簾をくぐる。締め切ったすりガラスの引き戸を開けると、鼻腔を凍らせてしまいそうな空気に、食欲を誘う香味油の匂いが混じる。
「いらっしゃいませ!」
活気のある挨拶が返ってくるが、メガネが曇って声の主はわからなかった。コートの袖でレンズを拭いていると、空いてる席どうぞ、と声をかけられた。マフラーを外し、コートを脱ぎながらカウンター席に着く。
店員から不揃いな形をした氷が入ったお冷を受け取ると、そのまま注文をした。いつもの味噌ラーメン。麺は太めで、ネギは多め、健康診断が近いので、背脂は抜きでお願いした。細かい注文にも関わらず、店員は顔色ひとつかえず伝票に書き留めると、少々お待ちくださいと残して、厨房へ入っていった。
やっと一息つけると、大きく息を吐いた。この時期はどうしても仕事が長引いてしまう。
店内を見回すと、自分を含めて男性客が四人。みんな一人で来ていた。時計を見ると夜の十時を過ぎている。この時間にもなれば客層が偏るのも無理はなかった。
未だ温まりきらない指先をこすりながら料理が来るのを待った。
「ごめんください、まだやってます?」
玄関の扉を開ける音と共に、息の上がった女性の声がした。この時間に女性客が来るのは珍しい。水を飲みながらそんなことを考えていると、
「先輩、お疲れ様です〜。」
真横に近づく人影の方を見やると、知っている顔が隣に腰掛けた。
「加古さん? お疲れ様。」
「いやあ、今日も寒いっすね〜。息白かったですもん。」
色落ちした茶髪を後頭部でひとつくくりにした部下がにこやかな笑みを浮かべている。「今年一番の冷え込みだそうだよ。」と教えてやると、マジすか、と軽い相槌が返ってきた。
「とんこつにしようかな。あ、醤油も美味しそ。」
ラミネートされたメニューを両手で持ちながら悩む加古さんにふと尋ねた。
「加古さんも、この時間まで会社残ってたの?」
僕らが勤めているのは小さな広告会社だが、それなりに仕事はある。最近ではウェブ広告の制作も行なっている。この時期はクリスマスから正月にかけてのイベント行事も多く、さらにマーケティング部なのに経理の業務も分担して行うため、残業も珍しくなかった。それでも、六年前の働き方改革が成立される前より残業は減っている方だった。
「そうなんすよ。私、年末有給使ってライブ行くんで、仕事終わらせないとヤバくて。年に一度の自担の大感謝祭なんですよ。しかもアリーナ席当たっちゃって!」
「そうなんだ。」
いやあー、と推しの話を続ける加古さんを聞き流しながら、彼女と出会った頃のことを思い出す。去年の九月、秋採用でうちの会社に面接に来たのを覚えている。部長に「君は見る目あると思う。」なんて囃されて、人事を務めた。
「加古望です。よろしくお願いします!」
溌剌とした笑顔が自信の現れのようで眩しかった。話した内容は深く覚えていないが、他の就活生が霞んでしまうほど印象に残った。
「向いてると思うんですよね!」
根拠のない自信。向こうみずで計画性がないとも取れる彼女の性格も、このステレオタイプの会社に何か新しい風を吹かせてくれるんじゃないかと思った。
「私、採らなきゃ損しますよ。」
何が楽しいのか、口の両端を釣り上げて笑う彼女の目は、爛々と輝いていた。そんな彼女と僕は働いてみたかった。
「君、なんであの子推すの?」
部長や社長に怪訝な顔をされた際に、元気だからですかね、と返したが、半ば納得がいっていないように首を傾げていたことだけは覚えている。
正直、もう少しマシなプレゼンをすべきだったかと後悔したが、上はあっさりと内定を出した。
「新人教育も任せたよ。」
百パーセントうちの会社に来る確証はないものの、彼女の教育係を任されたことに浮ついていた。
「——先輩、ラーメンきましたよ! 味噌っすか? 味噌いいですよね!」
「あ、うん。加古さんは結局何にしたの。」
「私のは、」
「お待たせしましたー。」
タイミングよく運ばれてきたラーメンには、鉢から溢れんばかりのチャーシューが盛り付けられていた。それだけではなく、スープの色がわからないくらいびっしりと背脂が敷き詰められていた。
「とんこつラーメン、麺細め、チャーシュートッピング、背脂マシマシご注文の方ー。」
「おお、キタキタ!」
文字を見ただけで胃もたれしてしまいそうな注文をなんの躊躇いもなくできるのは、若者の特権だなと、少し羨ましく思った。この時間に女性が摂る食事にしては、少々重い気もしたが、本人の頬の緩んだ顔を見れば僕が口を出すのは烏滸がましい気がした。
いただきますと手を合わせると、お互いの間に麺を啜る音だけが流れた。隣でふふ、と笑う声の方を横目に見ると、恍惚とした表情の加古さんがいた。どこにでもあるチェーン店のラーメンで、ここまで幸せそうな表情を作れる加古さんが羨ましかった。美味しいは美味しいが、僕はきっとつまらなさそうな顔をしているのだろう。
「先輩、どうかしました?」
案の定、気を使わせてしまったようで申し訳なかった。いやなんでも、と返して少しづつ柔らかくなる麺を啜り上げた。
相変わらず加古さんは、この世で一番美味しいものを食べたと言わんばかりの顔をしている。自分とは違い、彼女だけ高級なフルコースを食べているんじゃないかと錯覚する。
未来ある若人が自分とは違ってこうも生き生きしていると、そのまま腐らず過ごしてほしいと願いたくなる。
会社のため、なんていうのは大義名分で、本当は彼女の明るさに助けてもらいたかった。下心に塗れた先輩の元に彼女を置いておくのも、申し訳ないように思えた。
「加古さんは、この会社に入ってよかったと思ってる?」
気づけばそんなことを口にしていた。
「そうっすね。楽しいですよ。先輩優しいし。」
「そうか。」
「なんすか。先輩病んでるんですか?」
いや、と口にしたものの否定はできなかった。側から見れば、僕は病んだ人の部類に入るのだろう。
「大丈夫っすよ。明日はいい日になりますよ!」
「そう、だね。」
初めて会った時は、彼女の明るさに救われたかったんだと思う。いい方向へ導いてくれそうな予感がしたから。
——僕にはちょっと、眩しすぎるな。
ただ、その光は自分にとっては目を痛めてしまうほど強かった。僕と彼女は違う。彼女を隣に置いたところで、僕の未来が明るくなるわけはなかった。月が恒星になれないのと同じだ。
「加古さんは、悩むことってあるの?」
そんな僕の問いに、彼女は吹き出して答えた。
「先輩、私をなんだと思ってるんですか! そりゃ、悩みますよ。」
意外だった。太陽のような彼女にも悩みがあるらしい。
「でも、悩んでもしゃーないときってあるんで。辛いときは美味しいもの食べるのが一番です!」
「そうなんだ。」
女性の悩みを深く聞くのは失礼かと思い、話を区切るように水を飲み干した。温まった食道に冷たい感覚が通り過ぎた。
「先輩は、私のことどう思ってるんですか? ほら、第一印象とか。」
「生きるのが楽しくて仕方ない人なのかなって。」
加古さんはなるほどと顎に手を当ててうなずくと、満面の笑みを作って一言、
「でも、私死のうとしたことありますよ。」
耳を疑う返事が返ってきた。
「え。」
「私将来とか見えなくて、就活もやばくて、落とされるたびに社会に必要とされてないんだなって実感して、あーもう死んでやるって思って。」
世界に否定されたような感覚だと彼女は語った。僕にもその気持ちはわかる。新人の頃、企画が通らないたびに胃に穴が開くようなストレスを嫌というほど抱えてきたのを思い出した。
「それで、住んでるアパートの屋上に行ったんですけど、あと一歩踏み出せなくて。毎日泣いて、もう就活諦めるかってなったときに今の会社からスカウト来たんです。」
そんな事情知る由もなかった。エントリーシートから読み取れる情報なんて、本当に僅かなんだと改めて知った。
「で、はったりでもいいから自分を大きく見せて、できるって言い聞かせて、明るい自分を装って面接に臨んだら通っちゃって。それから、嘘でも自分はすごいって暗示かけてるんです。そしたらだんだん生きるの楽しくなってきたんですよね。」
言葉が出なかった。いつもの明朗闊達な彼女からは想像もできない話に相槌を打つことさえできなかった。
「ここだけの話、私この会社以外内定もらえなかったんすよ。」
人差し指を立てて顔を綻ばせた彼女は、照れくさそうに背中を丸くさせた。
「あ、話重かったですか? 今はピンピンしてますし、あのとき死ねなくてよかったって思ってるんで安心してください。」
そう言われても、次の言葉が紡げなかった。彼女の境遇を完全にわかってあげることはできないし、すでに立ち直っている人に憐憫をかけるのも違う気がした。どう返すのが適切か脳内で考えていると、
「先輩が私のこと認めてくれたみたいで、感謝してるんですよ。」
気を利かせたように彼女から言葉が返ってきた。
「僕は、加古さんが入社してくれてよかったと思ってるよ。」
「本当ですか、嬉しい!」
加古さんはラーメンを食べたときと同じ表情をしていた。
彼女の先輩でいられる限り、僕は少しづつでも前を向けるような気がした。
「今日は僕の奢りで。」
「いいんですか! ありがとうございます!」
店を出ても子供のようにはしゃぐ彼女を見送ると、帰路についた。同じラーメンなのにいつもと少しだけ満足感が違った。
眠るように静かな街路でふと空を見上げると、今日はいつもより星が輝いて見えた。
お読みいただきありがとうございます。
こちらの作品は去年の文フリ京都にて書き下ろした作品です。
自分が思わないところで、誰かの助けになっている世界であってほしいなと思い、綴りました。
また、次にラーメンを食べるときには、ちょっと美味しく感じたら嬉しいなと思う私です。
ではまた。