下
「何故黙っていた」
二時限目の20分休憩を使い、校舎裏に移動しサイをポケットから掬い上げた。
「うわ、乱暴だなぁ。パンツ見えるじゃんか」
「見えたとして、減るものでもないだろう」
どうせ作り物なのだから。
「ヒドイなぁ」
サイが頭をかきあげる。その瞬間、手の甲に3という数字が浮かんでいるのが嫌でも見えてしまい胸が締め付けられた。心の雑巾を絞られているような気持ちになる。
昨日陸上部に入るまではなかった痕だ。梶の言っていた事が真実だという事が解る。
このまま何もせねば、サイは3日後に消えてしまう可能性しかないという事だ。
最初、フィギュアが動き出した時には消えてくれとしか思わなかったというのに。
今は、どうにかして消えないでいてくれる方法を考えてしまっている。
「そうだ…契約完了というには落ち度だらけではないか!俺の更生を願ったという割には、俺は非リアのままだ。セリカに直談判は出来ないのか?」
「…昨日女生徒と楽しそうに走ってたじゃん。サイが仔犬と格闘していた時にね…」
少しのヤキモチが入っているのを愛しく思うものの、今はそれどころではない。
なんとしてでも、消えて欲しくはなかった。リア充に見えた理由が宮野の事を言っているのが分かる。だが、あれは楽しそうというよりも俺の中学出身の佐伯彩芽という選手について聞かれていただけなのだ。
「あれは雑談していたのではなく『佐伯彩芽』という選手を知っているかと問われただけだ。宮野は佐伯という選手に憧れているんだと言っていた」
「へぇ…そうなんだ」
ソッポを向いて、気の無い返事をする。
「サイは俺の事も梶の事も知っていたのだろ?ならば佐伯彩芽という人を知ってはいないか?」
「…うーんどうだろ。忘れた」
サイの返事に少しの間が空く。
「…」
その瞬間、サイは佐伯彩芽を知っていそうだと反射的に直感した。
梶も何かの情報を握っていそうだが口を割ってはくれない。やはり、調べてみる必要があるだろう。その糸口が佐伯彩芽にあるだろうと思わずにいられなかった。
「そんな難しい顔してたら、つまんないじゃん。幸せが逃げちゃうぞ?」
「幸せじゃなけりゃ、まだ望みは叶ってない事になるのではないか?」
屁理屈を捏ねてみる。
「…残念。望みが叶ったとジャッジされてるからこうなってるじゃん?」
手の甲の3という文字をサイが掲げた。
「…という事は、やはりサイはセリカに願い事をしたと認めたようなものだな」
「ヒドっ!!!カマかけるなんて汚いぞ!翔」
サイがキーキー怒っている。
「一体、望みを叶えて貰うのと引き換えに出されたお題はなんだ」
「さあ忘れた」
忘れたのなら思い出させるまでさ。
記憶にない佐伯彩芽という生徒についても調べてみせる。
今日は事情を知っている梶も交えて屋上で昼食を食べた。
「梶、肉ばっか食べすぎ!野菜を残すな」
意外にもサイと梶は旧知の仲といったように打ち解けている。
「はいはい。サイ、シャケおにぎりとみかん食う?好きだろ?」
「食べる~」
梶もサイの好物を把握しているようだ。何故、昨日の今日知った梶にそこまで気を許しているのか。俺にも見せないような無防備な顔をして。心に小さな棘が何個も刺さる。
「俺は今から図書室に行ってくるがサイはどうする?」
パンのゴミをまとめて立ち上がってサイを促した。
「サイは梶とみかん食べてる。翔騙したもん」
一緒に行けばまた根掘り葉掘り聞かれてると思っているような疑いの目を向けてきた。
「わかった。サイがその気なら、俺一人でも調べるさ」
冷戦状態になってしまったサイと俺ははじめて別行動をする。
単独で図書室に行くことにした。サイの本意ではなかったとしても、みすみす消えさせたりはしたくなかったからだ。何か、糸口でも見つかればと、佐伯彩芽という人物を調べてみる事にした。図書室の先生に、月刊陸上という雑誌が置いてあるかという事を確認する。どうやら毎月購入してくれていたらしくスポーツのコーナーに並べてあるとの事だった。スポーツ強豪校に感謝だ。バックナンバーも置かれているらしい。
去年の夏あたりから手当たり次第探してみる。宮野が有名選手だったという位なのだから、雑誌に載っていてもおかしくはないと思ったからだ。
中学生の四種競技という項目が載っている号を探し当てページを捲る。
一枚めくるたびに、写真と名前を見ては落胆を繰り返した。
何冊か調べた後、ついに見つけたのだ。見開きで載っている佐伯彩芽を。
宮野が言っていた通り、北中の生徒だったようだ。
同じ学校の生徒だったというのに、記憶の糸を辿っても彼女に結びつかない。
何故、その少女を覚えていないのだろう。何かがおかしい。ジグソーパズルで1ピースだけ埋まらないような。しっくりこない感じだ。だが、それと同時に驚愕もしていた。
佐伯彩芽が見た事のある顔だったからだ。
美少女というだけあって、大きくピックアップされている。
12月29日生まれ。美しすぎるホープと銘打たれていた。
長い手足に小麦色に焼けた肌。大きなアーモンド型の瞳。溌剌とした笑顔。
一度見たら忘れられない太陽のような印象の子だ。
そして、その笑顔が梶のデータカードに貼られていたプリクラの少女と瓜二つだった。
多分梶のカードの子は佐伯彩芽に間違いがないだろう。
しかも、スマホの着信履歴をみる限りでは俺とも繋がりがあったのは間違いがない。
そこで、やっと気付く。俺に佐伯彩芽の記憶がない事に。
自分にとって、どんな存在だったのかも分からない。彼女以外の他の記憶は全てある。
だから気付かなかったのだ。きっと事故にあった時、怪我だけでなく記憶も無くしていたのだろう。だから、母親もうるさく学校に行けと言わなかったというのならば納得がいく。無精な俺から何度も電話を掛けているような相手だ。
好意もあったのかもしれない。いや、多分あった。それは断言できる。
梶のカードの写真を見て、人に興味のない俺が会ってみたいと思ったのだから。
そもそも、事故にあった理由が既にあやふやではないか。
自動車に跳ねられた事以外覚えてはいない。
もしかして、梶と三角関係の末、恋に破れた俺は自殺でもしようとしたのだろうか。
ならば、合点もいく。梶のカードを見た時の得体の知れない執着心の意味も。
となると、引きこもりになっている事を不憫に思って魔法使いと契約したサイは、梶の先祖か、彩芽の先祖か何かなのだろうか。幼い頃死に別れた姉妹の可能性も浮上してくる。
考えを巡らせている間に予鈴が鳴る5分前になっていたので、サイを梶から引き取る為に屋上に戻った。扉を開こうと思ったその時。
二人の会話が耳に飛び込んできて足を止めた。
盗み聞きしているようで、悪い気もするが入るタイミングを逃してしまったのだ。
「サイ、はやまんな。」
梶がサイを説得している。
「やだ。翔が傷付く位なら自分なんて消えちゃった方が良いもん」
俺が傷付く?傷など付いてもサイが消えないというのならば、些細な事なのだが。
そもそも、サイがフィギュアに宿って、生きる屍状態だった俺を救ってくれたのだから、命の恩人といってもいい。それが消えようとしているというのならば、何が何でも止めてみせる。扉の裏でギュっと掌を握りしめた。
「せめて俺には、どんな条件出されてんのか言うべきだろ」
「やだ。梶に言ったら、翔にバラす気だろ?」
サイが膝を抱えて梶の隣に座っていた。
「セリカに出された条件によるな」
「…」
「一人で抱え込む気なら、俺の知っているお前の事全部、翔に話すとすっかなぁ。お前が誰なのかとか…翔が記憶喪失な事とか」
梶の言葉で、自分がやはり記憶喪失になっている事を確信した。
それに梶はかなりの情報を持っているようだ。
「やめろっ。やめてくれ」
サイが叫ぶ。
「なら、条件を言え。そしたら協力するで」
梶が否を許さない強い口調でサイに告げた。
「…」
「俺は、お前に消えて欲しくない。俺にとってもお前はかけがえのない存在だ。こうしてまた話せるとは思わなんだで」
空を仰ぎながら梶が呟く。嬉しそうな、それでいて悲しそうな声音だった。
幽霊のサイと梶は昔馴染みのようだ。
「やだ。翔が辛い思いする方がやだ。サイなんて消えた方が良い」
サイが首を横に振る。
「言わんつもりなら、本気で翔に言うだけだで問題ない。きっと今だって翔はお前を消さない為の方法を調べに行ってるんだろうで、二人で協力して、お前が消えるのを阻止するだけだし」
「やだ、やだよ。翔が傷付くのは嫌だ」
俺の事ばかりサイは考えてくれている。胸がギュッと締め付けられた。
どうにかして、サイを助けたい。それこそ、自分などどうなっても良いと思っているのは俺も同じなのだ。今すぐにでも二人の前に躍り出て、サイに詰め寄ってしまいたい。
だがそれをすれば、サイは頑なになって余計口を閉ざしてしまうだろう。
だから、グッと堪えた。
「遅かれ早かれ、セリカの条件にたどり着くんだから、言えって。翔が実はバリ賢いの知ってんだろ?」
梶がそう言ってサイの説得にかかる。梶は気付いていたらしい。俺が普段手を抜いて勉強している事を。そして、サイも同様に気付いていたらしい。
「…だね。まぁ…腹をくくるさ。どちらにせよ条件をクリアするのは難しいと思うけど」
「やってみんとわかんねぇーじゃん」
梶が駄目押しをする。消えて欲しくないと願う梶の粘り勝ちだ。
サイが折れた。
「翔が記憶を取り戻せるかどうか…だ」
「なら、俺が教えりゃ済むことじゃね?」
「それでは意味がない。記憶ごと思い出せなければクリアにはならんからな。だからこのままで良いんだ。翔も無駄に傷付かずに済む」
サイが言い終わるタイミングで、俺は屋上に踏み出した。ギクっとしたサイがこちらを凝視している。梶は俺が聞いていた事を知っていたかもしれない。表情にゆとりがあった。
「あまり人を見くびるなよ?サイ。俺はお前に言われずとも記憶を失っている事を自覚している」
「翔、聞いてたのか…」
「記憶を取り戻す事で、サイが消えないというのなら、人事を尽くすさ」
サイを掌の上に乗せ、目線の高さまで持ち上げサイの瞳を覗き込んだ。
絶対に消えさせたりなどしない。
部活の時間。今度は落としたり、仔犬に襲われたりしないよう、サイをバッグの中に避難させた。見ていたかったというが背に腹はかえられない。期限が来る前に犬に壊されてはあった話ではないからだ。
もう一つ、サイを隔離しておけば梶から色々話が聞き出せるという理由もあった。梶を連れ出しロードに出て来る旨をキャプテンに告げる。怪我からの復帰ということもあり、難なくオッケーが出た。道案内に同じクラスの梶というのは適役だったようだ。
川沿いの遊歩道をどこまでも走って折り返して来るのが、この学校のロードらしい。学校の裏門から土手を上がり、川縁のジョギングやクォーキング用に舗装された道を走り始める。下が柔らかいので、足は痛めなさそうだ。
「翔、お前気付いてたのか…記憶が一部ない事を」
「はっきり気付いたのは昨夜だがな…宮野に佐伯彩芽を知っているかと聞かれた時点でおかしいと思いはじめた」
「そうか」
長距離走な嫌いな梶は、1kmほど走った時点でベンチを指差した。
そこで休もうというらしい。
「佐伯彩芽は梶のカードのプリクラの子だよな」
「まあ…な」
「で、梶の大事な人でもある」
首に掛けたタオルでジンワリかいた顔の汗を拭う。梶はといえば、手に持っていたペットボトルのスポーツドリンクを噴き出した。どうやら図星らしい。
「…何故そんな事まで…」
梶は口元を拭いながら、俺を凝視する。
それから気を取り直して、またスポーツドリンクに口をつけた。
「そして、これも予想だが。きっと俺は佐伯彩芽に好意を持っていた」
俺が言った瞬間。今度は梶が咳き込んだ。
「…ナニソレ。なんでヒトゴトなん?」
「記憶のない俺にしてみれば、ヒトゴトに近いのだよ」
現に今は、好感が持てる容姿程度にしか見えてはいない。
むしろ、サイを消さない為の方に記憶を取り戻そうとしているくらいだ。
サイの方がかなり優先順位が高いと言っても過言ではない。
「俺の予想では、恋破れた俺が自殺をはかった為に、一番辛い記憶が失われていると思ったのだが」
俺がそれを伝えた瞬間。梶の小さい目が見開かれた。そして、ブハっと笑い転げる。
「すげぇ…翔、お前小説家にだけはなれんわ…何その三文芝居的ストーリー」
「失敬な。お前ほどラノベを読んではいないのでな」
毎休み時間ごと、俺に絡むか本を読むかしかしていない梶に言われると身も蓋もない。
本革のブックカバーなどをつけようものなら(狙いまくった露出度高めの挿絵さえなければ)文学青年に見えなくもないだろう。
現に国語の成績だけは抜群に良いだけに、三文芝居と言われると若干凹む。
「身近なものから紐解いてみたらいいんじゃね?スマホの中身とか、身内に事情聴取してみるとか」
「ナルホド。一理あるな」
そういえば、母も何か知っている風だったな。
スマホも開かずのフォルダが一つあった気がする。
「もしくは、物理的な衝撃を与える?とか」
「それはベタだな。それこそ三文芝居だと思うが」
記憶喪失の少年が、もう一度頭を打ち付けて記憶を取り戻すというアレだ。
記憶喪失中のその期間の記憶が残っていたり、残っていなかったりはそのストーリーによって違うが、だいたいが衝撃を加える事によって記憶を戻している。
俺が作家でもそうしたであろうと思う。
「記憶って本当は脳の隅っこに存在してるって話じゃん?覚えてる記憶って道が繋がってるイメージで、忘れてる記憶ってのは道路が通行止めだったり、寸断されてたりするだけらしいぞ?」
珍しくまともなことを梶が言っている。
明日は雹でも降るのではないかとしんぱいになってきた。
「で、その邪魔な物を取り除く、ないしバイパスを繋げれば、その記憶にたどり着けるというのだな」
「おう、そんなイメージだ」
梶にしては上出来だ。ゲームとラノベと陸上にしか興味のない奴かと思いきや、意外に深くものを考えているらしい。
「佐伯彩芽という人物は、どんな人物なのだ」
「俺の幼馴染。物心つく前から一緒にいた。小学校で転校するまでは」
「へぇ」
だから、あれほど心許しているような表情でプリクラに写っていたのか。
「当時グレて問題行動ばっかとってた俺を一人見捨てずに更生させてくれた。親でさえ手を焼いて施設に入れるか迷ってた状態だったのにな」
「梶にとって正義のヒーローか」
「そういえば、なりたがってたな。美少女戦士に」
懐かしそうに梶が目を細めた。
「ずっと、陸上頑張り続けてて、俺が公園でフラフラ遊んでる時もずっと走ってて、誰からも疎まれてた俺に競争しないかって持ちかけてきた。小学校3年くらいだったか」
「それで?」
「背も自分より小さくて女になんか負けるかよって面白半分で競争した。問題児だったが運動神経は3歳で補助輪なしで自転車乗れたくらいだで」
この頃から、梶は勝負が好きだったのか。
「何で勝負したんだ?」
「公園のランニングコース外周一周、500m。内側がサッカーもできる運動場になっててな」
9歳の子供なら長めの距離だ。普通なら男の方が有利だろう。
男の方が身体の作り的に心肺が10パーセント強いと聞く。
「結果は?」
「俺の失格負け」
「失格?」
今では考えられない事だ。体力テストでも周囲がざわつく程の運動能力だというのに。
「走ってる途中で、全く勝てなくて彩芽の肩掴んで引っ張ろうとしたら、なんと情けない事届かなくてな。カッコ悪すぎて草生えたし」
「嘘だろ?梶が?」
肩透かしを食らったのだと言う。
「で、負けるのが嫌すぎて、コース外れて公園の内側の運動場を一直線にショートカットしたってもんよ」
「ズルいな」
「なのに、負けたし」
「一体、何者なんだ佐伯彩芽は」
「バケモノ。純真で諦めることを知らなくて、何にでも全力投球ってやつだ」
まるで今の梶を体現したようだと思う。今の梶を作ったのが佐伯彩芽ということか。
「凄いな」
「そっから、彩芽が走るときには一緒に走るようになって、どれだけ勝負挑んでも引っ越すまで一度も勝てなかったしな」
梶が勝負ごとを好きになった理由が分かる気がした。
梶にとって勝負は、自分に向き合って貰える大事な時間なのだろう。
梶の諦めなさを好ましいと思った俺が佐伯彩芽を好ましく思うのも無理はないと思った。
「やってみよう。休憩が長すぎた。走るぞ…梶」
「えぇー」
嫌がる梶を連れ、そこから2km先まで走ってUターンする。春の風が頬をすり抜けていく感じが心地いい。サイを連れて出てやれば良かったと思った。明日は土曜日なので、どこかにサイを連れて行ってみよう。日曜日の夜まで時間は残されているのだから。
「サイ、明日どこかに行きたい所はあるか?」
帰って、制服をハンガーに掛けながらサイの方を振り返った。
サイはといえば、部活中バッグの中にいて息が詰まったと、大きく伸びをしながらペットボトルキャップに注いだミカンジュースを飲んでいる。
もちろん片手にはアンちゃんを持ってだ。右手の甲には3という文字が浮かんでいた。
「どこ…といってもなぁ。これといって…ディズニー?」
「遠いし金がない」
中部圏から関東になど、高校生が行けるはずもない。
「なら、恋人達の聖地巡り」
「傍目からは、俺がボッチでそこに立っているように見えると解っているか?」
サイが行きたい場所に恋人という名前が出たのは嬉しいが、それはあまりにシュールな絵面になるだろう。
「あ、ワンコ動物園に行きたい」
「…ナルホド」
近くて、一人に見えてもおかしくない場所。
サイとアンちゃんをバッグのポケットに入れて歩けば、単なる犬好きだと思われるだけだろう。一理あると眼鏡を押し上げた。
「ならば明日、そこに行こう」
俺が言えば、サイはメチャクチャ嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねた。
「えへへ、これでもう思い残す事はない」
「馬鹿言うな。そうはさせない。俺は絶対無くした記憶を取り戻す」
そう宣言すれば、サイが泣き笑いのような顔をする。サイの本意ではないかもしれないが、ここは折れない。絶対、サイが消えるのを阻止してみせる。
「母さん。俺が事故した時の状況を話してくれないか」
夕食時切り出せば、母が手から箸を取り落とした。兄は残業でいないらしく、今日は母と二人での夕食だ。正確には違うな。離れたくないからと胸ポケットにサイが入っているから三人というところか。
「何を言い出すのかと思ったら、もう良いじゃない怪我も治ったんだし」
母が動揺ているのが手に取るように分かった目玉焼きにかけているケチャップの量が尋常ではない。母の頬は解りやすく引き攣っていた。
「事故の時の記憶がないんだ」
「思い出す必要ないじゃない。そんな嫌なこと」
「いや、知っておきたいんだ」
否を言わさない強さで言い切った。母は視線を彷徨わせ、大きく溜息をつく。
食卓に沈黙が訪れた。
「信号無視の車がいて、たまたまその場にいた人たちが巻き込まれたのよ。事故現場にはあなたが今持っているそのフィギュアがあった」
フィギュア?俺がフィギュアを持っていたという状況が読めない。
兄の部屋のフィギュアですら捨ててしまいたいと思っているというのに。
兄の為にお土産にでもしようとしていたのか?思考が混乱する。
「医者からは事故前後の記憶が曖昧なところはあるけど、脳に異常はないから平気だろうって言われたから、そのままにしておこうと思ったの」
「事故の記憶だけでなく、佐伯彩芽という生徒の記憶もないのだが」
「…」
母が押し黙ってしまう。
何か理由がありそうな事は分かっているのに、母の口からソレを聞く事は出来なかった。
部屋に戻って、スマホを開く。
画像フォルダには、図書室で写メしてきた佐伯彩芽の画像が入っていた。
「サイはコレを見てどうおもう?」
「黒いな…体流れてるのによく跳んでるな…とか?」
高跳びをしている所を指差して言う。
「そういうことじゃないだろ」
「サイ、眠いからもう寝るね」
返事も待たずに、サイはお皿のベッドに入ってハンカチの布団を被って俺に背を向けた。
一人残された俺は、スマホの画面をじっと見つめる。一つだけロックナンバーが分からずに開けなかった開かずのアプリがあるからだ。手掛かりはここにある気がした。
まずアイコンとアプリ名からどんなアプリなのかを調べてみる事にする。
検索で引っかかってきたのは、画像が貼れる日記アプリだった。
パスコードを設定できるらしく、本人以外は開けられない仕組みになっているらしい。
とりあえず、思い当たる限りの四文字パスコードを入力してみた。
自分の誕生日や年号、身内の誕生日。
どれも開く事はできなかった。
もしかしてと雑誌に載っていた佐伯彩芽の誕生日から1229と入れてみる。
すると、画面が日記の画面に切り替わった。それは、かなり前から書かれている。
日記によると梶が言っていた通り、佐伯彩芽は小6の二学期、俺の学校に転校してきていた。周囲の生徒達から可愛いだのアイドルみたいだの持て囃していた事が書かれている。
それに関して否定的に書いてないところをみれば、可愛いとは思っていたのだろう。
俺自身の感想はといえば、《俺とは接点がなさそうなタイプだ》としか書いてなかった。
小6当時の日記を読み進めていく。
二学期のある日までは、ほとんど彩芽の事は書かれてはいなかった。
時々、彩芽の頭が良さそうだとか、後期の学級委員に選ばれた程度には書かれてはいたが、執着している感じではない。むしろ、その頃の日記の大半を占めていたのは、全てがたるい。だの、毎日遅くまで働く母親への愚痴だ。幼少の頃から酷く大人びていて、家に母親がいない事を寂しく思うという子でもなかった。
《僕より仕事の方が大事なんだね》などと嘆くような無駄な事もしなかったし。
ただ、ただ不器用な人だと哀れんでいた。今出来る事に最善を尽くしてはいるが、もう少し先を見て行動すれば良いのにと書いてある。
現状のスキルで就ける仕事など割が良いわけがない。
安い単価で時間を売るという事は、長い時間働かなくてはならなくなる。
何故最初に単価を上げる努力をしてから、仕事先を選ばないのかと書いてあった。
我ながら、子供らしくない。
またある日は、酒を飲んで愚痴を言う母親に向けて、何故その酒を飲む金があるならば、通信大学などで資格をとってスキルアップをしないのだろう。
少ない自由時間だから、これくらいの贅沢はと無駄にするから、少ない自由時間が多くはならないのだと当時の俺は言っている。
ほぼほぼに母親へ対しての愚痴だ。
全力で何かに取り組んで、上に上がれば上がるほど保護者の協力が必要になる。
少ない自由時間の母親の自由を奪うわけにはいかないから、当時の俺は全てに全力で取り組むと言う事を放棄していた。
学校では熱くならず、クールだと言われていたのは今でも覚えている。
当時は適当な順位で、目立たず、ひっそりと。
目立てば、PTAなどに母親が抜擢されやすくなり、母親の負担が増えるからだ。
仲のいい友達を作れば、そこに人間関係が生まれ、母親も借り出される羽目になるからそこまで仲のいい友人を作ろうともしなかった。かといって、ボッチを決めこめばイジメの標的にされ、母親への負担が更にかかってしまう。
だからクラスの中でも陰キャと言われるようなイジメと背中合わせのポジションではなく、ヒエラルキー上のグループの一番下あたりの目立たない位置をとっていた。
勉強や運動ならば、一番は狙わない。
例えば上位5人がレギュラーのバスケなら5人目か6人目あたりを。
勉強なら100点で表彰のものには98点あたりを。
4×リレーなら4人目に入るギリギリを狙っていっていた。
母親がいなければ、生活出来ない年齢だという事が分かっていたので、母親の顔色ばかりを伺って立ち回る幼少期だったとも言える。すべてのものを冷めた目で分析し、適当に処理している当時の俺は機械のようにも感じられた。
転機が訪れたのは、10月に行われた運動会シーズンの日記たりだ。
クラスの速い子ばかりを選んで出す、男女最強8人リレーに俺と彩芽が選出された事がきっかけだった。100mで繋ぐリレーは各クラスの威信がかかっている。
彩芽は下手な男子よりもはるかに速く、女子からもカッコイイと黄色い悲鳴が上がっていたようだ。勿論クラスも優勝を目指すぞという気運が高まり、俺は内心で辟易していた。
茶番だ。抜いた抜かれたと言って騒いでもトータルのタイムが速いチームが勝つのだ。
あるとすれば、接触やバトンミスなどのアクシデントくらいだ。
しかも勝ったからといって貰えるものは、クラスに飾られる賞状という紙切れ一枚。
その頃の日記の内容が愚痴で埋め尽くされていた。
彩芽が面倒臭い。
本気を出していないと責められる。
マズい目をつけられたかもしれない。
などと、日々書いてあった。
休み時間に運動場に連れ出され、練習させられた事もあるらしい。
練習の最中、長めに書かれていたのは、運動会の練習をするぞと言い出した彩芽に呼び出され、公園に行った時の事だった。
先に公園に来ていた彩芽が捨て猫に餌をやっているのを見て文句を言った事が記されている。
《最後まで面倒見きれないのなら、中途半端に優しく餌などやるな》
そう本人にも直接言っていたようだ。
《最後まで面倒みるし。生きようとしてる仔の未来を断つ権利はない。少しでも可能性は広げてあげられるかもしれない。私が今日餌をあげた事で明日になれば誰かが助けてくれるかもしれない》
そう彩芽が言い返してきたと書かれている。
そこから数日の日記は、毎日彩芽が餌をやり続けた事に触れていた。
言い出したら聞かない。とんだ頑固者だとも書いてある。
それは仔猫が交通事故に遭うまで続けられていたようだ。ある日公園に二人で練習に向かう途中。交通事故で瀕死になっている猫を見つけ、彩芽と一緒に病院に連れて行った事が書かれていた。仔猫は最後の力を振り絞って、感謝の意を表すように何度も何度も彩芽の手を舐めて息を引き取った。
《こんな辛い未来が待っているなら、そのまま餌なんかあげない方が良かったのかな》
そう泣く彩芽に
《いや、違う。最期あの仔猫は彩芽を舐めていた。あの猫はこの数週間でも彩芽に愛情を貰えて、誰かに愛されて幸せだったのだと思う》
そう返した。少なからず、俺にショックを与えた事件だったらしく詳しく書かれている。
無駄になりそうな努力ならばしない。
すべてを手を抜く、ベストを尽くすよりもベターくらいが面倒な事がおこらずにちょうどいい。そう考えていた俺自身を俺の言葉が否定していた。
この時点で俺の中で何かが変わりつつあったのかもしれない。
運動会を一週間に控えた頃の日記にはこう書かれていた。
ついにイライラが爆発して彩芽と対峙したらしい。
《何故、俺にばかり干渉する。他の奴らも特訓すれば良いだろう》
そう言った俺に彩芽はキッパリ答えた。
《他の子達は全力出してる。翔だけは全然余力あるから》
《何故そう思う》
聞いた俺に
《仔猫抱えて走った時の翔、私よりも速かった。先に行って医者の受付を済ませてくれていた。皆んなクールだって言ってるけど本当の翔は誰より先が見えてしまっていて、誰よりも大人で、誰よりも優しい》
そう彩芽が言ってきた。
《…面倒なだけだ》
《違う。優しいんだ。いつでも他人優先で本気にならないでいる。凄いのに諦めてるのが見てて辛い》
図星だった。あまりに図星過ぎて言葉を失った。
《全力を出すと親に迷惑がかかる》
《胸を張れる迷惑なら、親は困ったなぁって言いながら幸せそうに笑うよ。自分の子供が輝いてて嫌な親なんて一人もいない》
彩芽の言葉には重みがあった。
本当にそうかもしれないと思わせるだけの説得力が。
だから俺は、一度だけ本気を出してみようと思ったのだ、その瞬間に。
その堅い決意がその日の日記には、したためられていた。
運動会当日の日記は、晴れやかなものだった。
《快勝。俺で三人抜いて1位まで出た。彩芽が20m以上二位と差をつけてゴールした。母さんが見たことのないような笑顔で『速かったね。翔の意外な才能みた』と褒めてくれた》
彩芽の言う通り、母親は喜んでくれたのだ。初めて褒められたとも書いてある。
その日からの日記は愚痴ではなく。
彩芽の事が徐々に増えていった。
彩芽に誘われて陸上部に入った事。
全力で取り組む楽しさ。
全てがキラキラしていて、世界に色が入ったようだった。
自分自身を理解してくれる彩芽が総てに気付いたらなっていたようにも見える。
《最近翔色んなものに頑張るようになったね》
班長に選ばれた日は、自分の事のように褒めてくれた。母親も意外な顔をしつつも嬉しそうで。この頃の日記は見ていて、爽やかな恋愛小説を読んでいるみたいな気分になった。
彩芽がいるから頑張れて。
彩芽とならば何でも出来て。
彩芽さえいれば、他はいらないくらいになっていた。
いつしか、独り占めしたくなって。
日記には。
他の男子が彩芽に話しかけるのが嫌だ。
俺が好きになるような子なのだから人気なのは分かるが、自分だけに向いていてくれたらいいのに。そういう切なさを日記に書くようになっていた。
告白した日の日記は赤面ものだ。修学旅行で同じ班になっていたらしい。
ウチの地区では、奈良京都が定番だった。
班で自由行動なので、皆で行き先を決めたのは覚えている。
(そこに彩芽がいた事がすっかり抜け落ちてはいるが)
清水寺もルートに当然入っていた。だから珍しく俺はその付近にある、地主神社に行きたいと提案したのだ。時間がないという反対意見も押しのけた。勿論縁結びで有名な神社だったからだ。当日、その神社で買ったピンクと水色2つセットの縁結びのお守りを、神社内で二人きりになれるように彩芽の手を引っ張って行って、ピンクの方を手渡した。
《好き…なんだ》
《ありがとう》
受け取った彩芽が、ストラップ型のお守りを買っていたらしく、開封して青色のものを俺にくれる。
《先、越されちゃったじゃん》
地主神社に並んでいたものだ。お守りかストラップかで迷っていたから覚えていた。
嬉しくて嬉しくて、宝物箱に入れたと日記に書かれている。部屋をキョロキョロ見回すと、確かに宝箱があった。見ればいつも天然石ブレスレットを入れてある箱の奥の方に大切に袋に入れたまま保管されている。もう、何年も経つのにだ。
両想いになれてからは、どんどん感情がエスカレートしていっていた。
中学でも陸上部に入り、遅くまで練習した後、更に彩芽と二人きりでトレーニングをしていたらしい。毎日の帰宅時間が遅くなった事で、母からの待ったがかかり始めていた。
日記には、帰りが遅い事をたしなめられるようになったと書かれている。
年頃になったからと心配しているのが明らかだった。
手を繋いだり、ハグしたり…その先だって想像してしまいたくなるお年頃だ。心配するのは当たり前だと、冷静な高校生の俺が見れば分かる。
だが、この時の俺は盲目的に彩芽を好きだった。母の心配が重荷だという愚痴が増えてくる。中学二年生までは、母の小言も右から左へとスルーしていたようだ。
大会で結果を出す事で。試験でまあまあな成績をキープする事で文句を言わさなかった。
色々な大会での戦績が克明に記録されている。
問題は、受験生になる三年になってからだった。
母が受験生なのだから慎めと、彩芽との逢瀬を何かと理由をつけては阻むようになったのだ。部活があるうちはまだ良かったが、引退してからは自主練にも行かせて貰えなくなった。塾にも入れられて、彩芽に逢う量が極端に減ったと嘆いている。
程なく、彩芽が同じ塾に入ってくれた事で二人の時間は最低限確保出来るようになったのが救いだと書かれていた。その塾に梶がいて、陸上を通じて、彩芽と幼馴染だという事も発覚した事もあり仲良くなったのだ。三人で同じ高校を目指そうとも書いてあった。
塾のない日は、学校から帰って家を抜け出さないように母が兄に命じ俺を監視させていたらしい。兄がバイトでいない日は、通販で買った宅配荷物の受け取りや用事を言いつけ外に出さないようにした。
《今日も荷物の受け取りで逢えない》
そういう記述が増えていく。親友だと思っていた学友の川北が彩芽にちょっかいを出していると知ったのはクラスのラインで知ったのだ。俺と彩芽が付き合っている事をしっていた筈だというのに。逢えなくて淋しい彩芽の心につけ込むように、川北は彩芽に接近した。ラインの噂では、俺とではなく川北と彩芽が付き合っているという噂すら流れ始めていたと日記に書いてある。もしかしたら、俺といない間に彩芽といるのは川北なのかと思い、日々心が千切れそうだったのだろう。その時の日記が不安と不信に苛まれている。
逢えない事によるストレスは増大し、彩芽の寂しそうな顔を見ていることが辛くなった俺は12月頃から現実逃避に走っていったようだ。
どうせ家にいても勉強など手がつかないからと、スマホゲームにハマりやり込んだ。
そのゲームの名前がマジマジだった。
二次元にハマる事を苦々しく母も兄も思っていたようだが、実害(受験生の彩芽の家への迷惑)をかけないで済むのならと黙認されていたようだ。
その日記を読んで俺は自分の目を疑った。
ヲタクなのは、兄ではなく俺自身だったのだ。
《このまま、俺のヲタク化が進めば、見兼ねた母が外出を許すかもしれない》
そう書かれているのだ。
《彩芽がゲームにハマった俺を責めるような目で見ているのがツライ》
《逢いたいと願ってのは俺だって同じだというのに》
心の悲鳴が克明に書き記されている。
《同じ高校行こうって言ってるのに、なんでゲームばっかやってんの?》
そう言って彩芽に叱られる事も多くなっていた。彩芽の意思に反した事しか出来ない俺は、学校で喋る時間すら学友に取られるようになってしまったのだ。
学友の裏切りとも言える行為に失望し。
俺への叱咤ともいえる冷たい視線を送る彩芽に見捨てられる恐怖が心を頑なにする。
そんな二人を見ていたくなくて、現実逃避が進むという悪循環を繰り返していた。
マジマジのセリカは、好きな人を救う為に人間である事を捨て、好きな人とは永遠に結ばれない絶望を知り、死んでいったキャラだ。その切なさと一途さとひたむきさとが自分に被り、ハマり込んでしまっていた。フィギュアを買い始め。
母や兄から奇異の目を向けられた時には、もう心は疲れ果ててクタクタになってしまっていたのだ。
《いい加減目を覚ましなよ。現実を見てよ私を見てよ》
彩芽にそう言われたのだと、日記の最後には書かれていた。
マジマジのセリカは愛に生きて愛に死んでいったが、実際の人間はどこまで信じたら良いかさえ不確かだ。二次元は裏切らない。
彩芽はわからない。怖い。怖いのだ。
これ以上、好きになれば狂ってしまいそうで。
そう書いてあった。この数日後、俺は事故にあって公立高校の入試を受けられず、既に受かっていた私立高校に通う事になったという訳か。スマホを閉じて、大きく深呼吸した。
兄の部屋に大量にあるフィギュアの山は俺の苦悩の残骸だったわけか。
俺がヲタクを嫌っているのは、過去の自分への戒めという事だ。
母や兄が腫れ物に触るように接していた理由もなんとなくわかってしまった。
やり過ぎた、追い詰めすぎたという悔恨がそうさせているのだ。自分の身に起こった事だというのに、どこか絵空事なのは、記憶が戻らないからなのだろう。
日記はそこで更新が止まっていた。佐伯彩芽とはどうなっているのだろう。
連絡が取れなくなっている事を考えたら、フラれた後なのだろうか。
疑問が次から次へと沸き起こってくる。チラリとベッドのヘッドスペースを見れば、サイが布団を蹴飛ばして眠っている。それでも片手でアンちゃんを抱えているのが微笑ましい。パンダの着ぐるみに着替えていたので腹は出してはいないが、ハンカチの布団をかけて時計を見れば午前1時を回っていた。サイの手の甲の数字は2に変わってしまっている。
このまま、思い出せなければあと2日でサイが消えてしまう。
スマホ画面でブラウザを開き『記憶喪失 治し方』でググってみる。
出てきたページを開いてみると、どうやら俺は解離性健忘という状態にあることが分かった。治癒方法ページをタップするとズラっと説明が表示される。
欠落した記憶が回復しない場合や、急いで記憶を取り戻す必要がある場合には、記憶想起法がしばしば効果を発揮するとの事だった。
記憶想起法には催眠と、薬物を利用した面接(バルビツール酸系薬剤やベンゾジアゼピン系薬剤などの鎮静薬を静脈内投与した上で行う面接)があるらしい。
催眠と薬物を利用した面接は、記憶の空白期間に関わる患者の不安を軽減するとともに、苦痛に満ちた経験や葛藤を思い出さないようにするために、患者が心の中に築いた壁を突き崩したり出来る効果があるようだ。
だが、間違った記憶にすりかわらないよう他者の情報源による確認も必要になるらしい。
なるほど、ドラマや映画のように同じ衝撃を与えれば戻るというものでもないのだな。
最悪、思い出す事が出来なければ最後の日(日曜日)に梶を連れて救急病院に行くしかないという事になるが、休日に専門医がいる可能性を考えたらゼロに近いのではないかとも思う。最悪の事態を想定しながら、この土日で足掻いてみようと心に決め、眼鏡を外し床についた。
土曜日、朝9時を回った頃だろうか。天気は快晴で、外では小鳥たちがさえずっている。
「今日はワンコたちを観まくるぞー」
早起きのサイが俺の腹の上によじ登りラジオ体操をしながら俺を起こした。
「う…サイもう少し優しく起こしてくれないか。胃液が迫り上がる」
眠い目を擦りながらサイを掌の上に乗せて起き上がった。
「だってワンコ動物園に行けるんだそ!!あの可愛いワンコ達に会えるんだぞ!」
サイは嬉しそうにアンちゃんのマスコットに頬擦りをしている。
サイが見て回れるように表側にポケットのついたバッグを選ぶ。
いつもならばリュックかヒップバッグなのだが、今日は斜めがけのものを選んだ。
ポケットの大きさはサイなアンちゃんのマスコットを抱いだ状態で上半身が出るくらいのものなので、途中落ちる事も見えないという事もないだろう。
斜めがけバッグなら、サイと話しながら回れるからちょうど良い。サイがコンタクトが
良いと駄々を捏ねるので眼鏡を外して1DAYタイプのコンタクトを装着する。
外に出てみれば、春特有のポカポカした陽気だった。
高校までの距離とさほど変わらない距離の所にワンコ動物園がある。
高校が自宅から北に向かうとしたら、ワンコ動物園はある一点を境に東に向かう。
自転車置き場に自転車を停めて、入場券売り場に一直線に進んだ。
高校生料金で支払い、中に入った。はじめてきた筈なのに、迷う事なく順路を回れる。
見渡せば、犬、犬、犬だ。本来トラやライオン、クマ、レッサーパンダ、ゾウという仕切りなのが動物園だとしたら、ヨークシャテリア、トイプードル、マルチーズといった犬種やサイズ別で小屋が分けられている。開門したばかりの朝一だというのに、犬達は煩く吠え回る事なく、尻尾を振っていた。飼いならされていて、犬が苦手な子供も恐れずに済むかもしれない。皆穏やかな顔をしている。
「わぁ、可愛いなぁ」
サイがポケットから身を乗り出せば、犬が興味深そうに首を傾げた。
周りに人が居ないのを瞬時に確認する。
そして、柵スレスレに近付いてやれば、サイが手を伸ばして頭を撫で始めた。
「サイ、よく怖がらずに撫でられるな」
頭から齧られてもおかしくない状態だというのに。
近くには50円でエサが買えるようになっていて、柵越しに餌やり体験もさせてくれる状態だ。犬達がサイを餌だと思い込んでしまったが最後、サイが襲われてもおかしくない。
「この子たちは平気だもん。餌やり体験コーナーにいる子たちは長老たちで、もう勝手を知っている賢い子ばっかだし」
言われてみればそうだ。
ここの中にいる犬達は若干おっとりしていて、毛並もくたびれているようにも見える。
「ワンコ動物園事情にやたら詳しいな」
「元々犬好きだしね!それに友達のママがここの子達専属の獣医さんだから、聴いたことある」
なるほど、詳しいわけだ。それ以前に友達の母親が獣医という事は、サイはそこまで時代の古い幽霊はないという事だ。しかもママ呼びをするとなると、ジェネレーションが俺と大差いのではないかとも思う。
各国を代表とする犬のブースを回り、大型犬の大きさに圧倒されながら順路を回っていく子供騙しかと思いきや、なかなか広い敷地で、周り終わる頃には昼時になっていた。
「お腹減ったー」
「そろそろ昼食にするか」
売店で買ってきた犬の形を型どったワンタンを昼食として食べる。サイにはペットフード風のクッキーを手渡した。
「シャレにならないな。ここでソレを食べていると、柵の向こうにいてもおかしくないな」
パンダの着ぐるみを着ているサイにペットフードが似合いすぎて吹き出してしまう。
「酷っ!!このクッキー買ったのって翔でしょ?」
「まぁな」
ボーロくらいの大きさのクッキーはサイの手で持つとドッジボールを持っているようにもみえる。怒りつつも甘党のサイはムシャムシャ食べているうちに顔には笑みが浮かんでいた。ずっと見ていたいと願ってしまう。
けれどボーロを持つ手に浮かぶ2の文字に心が締め付けられた。何故、思い出せないのだろう。佐伯彩芽との日記を読んで、俺が抱えていた恋心は理解出来ているというのに、記憶が戻る事がない。なにかをせねばと焦れば焦るほど何もきっかけはつかめなかった。
午後3時からの犬の大サーカスを見て、はしゃぐサイをホッコリしながら見つめるも、やはり何もヒントは得られなかった。きっと今の俺がサイをずっと見ていたいと願うように中学時代の俺も綾芽の事を想っていたのだろう。
この時間は二度と得られないかもしれないという悲壮感と、今居られる幸せを同時に抱えながは時間を過ごす。
体験ゾーンで、散々子犬と戯れ日も傾いだ頃サイがやっと、重い腰を上げた。
「次は、お土産屋さん行こ」
「あ、ああ」
出入り口付近にあるお土産屋さんに入った。プレハブにカラーリングを施したようなチープな作りの売店がマイナーパークならではだと思いつつ、自動ドアの向こう側に一歩踏み入れてれば、中にはズラりとこれでもかという犬グッズが並べられている。大した品揃えだった。お土産コーナー定番の犬のイラストが描かれたクッキーから、ストラップを一つ一つ見ていく。声を発したくても発せられないサイはポケットからアンちゃんを抱えながら半身乗り出している。
このままだと落ちるぞと人影に隠れて注意しようとするが間に合わなかった。
体勢を崩したサイは持っていたアンちゃんのマスコットを取り落としてしまう。
案の定、やったかと溜息をついて拾おうと下瞬間。
先に店員の女性が拾い上げてくれる。
「ありがとう」
感謝の言葉を口にするが、店員は目を見開いた後、俺とマスコットを見比べ、数秒後に破顔した。
「このマスコット。大切にしてくださってるんですね!!」
「え?!」
なぜ、この女性は俺の事を知っているかのように話しかけているのか。
「最後の2体を買われたお客様なので覚えていました」
ここで、購入したものだったというのか。
これは。どおりで、ワンコ動物園の順路を迷わずに回れた筈だ。
「すみません。事故で記憶が曖昧で。よろしければ情況を教えて頂けませんか?」
こんな所で、自分を覚えている人に会えたのは何かの縁かもしれない。
ラッキーカラーのピンクのブレスレット(ローズクォーツ)をサイに無理やり嵌めさせられたのが功を奏したのか?
(たまたまだと信じたいが)
「そうなんですか。一緒にいらした彼女さんもあなたも美男美女で印象深くて、店員同士で盛り上がっていたんです。確か去年。夏休み前の在庫チェックをした翌日だったから8月1日だったかしら」
女性の言う日は俺の誕生日だった。
俺はスマホを開いて、佐伯彩芽の画像を見せる。
「この女の子ですか?」
「そうそう!!この女の子が、コレを酷く気に入って、お揃いで持ちたいって言い出してね!誕生日のプレゼントにってあなたにプレゼントしてたの」
この犬のマスコット(アンちゃん)は彩芽からのプレゼントだったのか。誰からの貰い物ったのかという記憶は無くしていても、大切だとは思っていた。
かけがえのないものだと、魂で解っていたのだ。
「このマスコットは、数量限定で販売したウチの限定品なんですよ二体1組になっていて、揃えると御守りにもなるって有名ですぐ完売してしまったものなんです」
「そう…だったのですか」
大事そうに女性店員からマスコットを受け取る。
家へのお土産を買って店を出た俺は、サイにそのマスコットを持たせた。
「翔の大事なアンちゃん落としてゴメン。良いのか?そんな大切なものをサイが持ってて」
「大切なものだから、信用ているサイに持っていて貰うんだ」
「ありがと…翔」
サイが、ギュっとアンちゃんを抱きしめている。
涙目になっているところみると、サイにとってもなくてはならないものなのだろう。
とても怒る気になれなかった。俺の中に1つの仮説が浮かんだからだ。
明日になればサイの手の甲には1の文字が浮かんでしまう。俺は自分の仮説にかけることにした。どうしても、思い出さなくてはいけないとわかったから。
「いや、いい。明日は俺の行きたいところに付き合ってくれ」
本当は今からでも行きたいくらいなのだが、帰る頃には行きたい店は閉まっているだろう。
「付き合って欲しい所ってここ?」
翌日、連れて行った店の前でサイが呟く。
今日のラッキーカラーが、緑だからとサイが選んだ石はクリソプレーズという、クリアな緑色の石のブレスレットだった。サイの手の甲に現れた数字は1。
サイといられる最後の日だった。
今夜0時を回ったらゼロになってしまう。今日中に思い出さなければならないという事だ。俺の仮説が正しければ、また一歩記憶に近づける筈だ。
だから俺は、その糸口である《ビューティハウス近藤》にサイを連れてきた。
「ああ、サイがおススメっていった店だ」
扉を開け店に入る。
中に入って少しすれば、コロンとした優しげなおばあちゃんが出てきてくれた。
「あら、いらっしゃいな」
「こんにちは、今日は石の事で知りたい事があってきました」
ペコリと頭を下げれば、おばあちゃんは目を俺のポケットにいるサイに視線を移して目を細める。
「そのお人形には、魔法がかかってるね」
ただものではないとは思っていたが、そういった類のものまでが見える人らしい
どこまでも澄んだ目でおばあちゃんがサイをじっと見つめた。
「分かるのですか?」
「無駄に敏感で困っちゃうけどねぇ」
隠れても仕方がないと気付いたサイが散髪台の鏡の前に降りてお辞儀をした。
「こんにちはおばあちゃん」
「おやおや動けるのかい。あら?…あなたは…」
どうやらおばあちゃんには、フィギュアに憑いている人物が解っているらしい。
それに気付いたサイがおばあちゃんに口止めするように口元で人差し指を立てる。
その瞬間。
俺の仮説がほぼ間違いない事を確信した。
「すみません。このブレスレットなのですが、これもコチラで作ったものでしょうか」
念のため今、着けているブレスレットを外してお婆さんに渡してみる。
「そうだね。私が作ったブレスレットにはこの金具が挟んであるから」
「このブレスレットを買い求めたのは、この子ですか」
スマホを出して佐伯彩芽の画像を見せれば、お婆さんは大きく頷いた。
「そうだよ。このブレスはこの子が私に頼んだものだよ。去年の春くらいからかしら、中々逢えない大好きな人のためにってウチのお仕事手伝ってくれにきていたよ」
「そうですか。ありがとうございます」
やはり、このブレスレットの贈り主も彩芽だったのか。
そして。彩芽が休日、川北と過ごしていたのではなく、ここでバイトしていたのだという事も解った。中学生が謝礼を貰う訳にはいかないからと、ブレスレットを作って貰い、丸玉を一つずつ貰っていたのだそうだ。
過去の自分に教えてやれば、あそこまで追い詰められなくても良かったのだろうにと思わずにいられなかった。
いつだって彩芽は俺の事を第一に想ってくれていたというのに。
そして、現在も想ってくれている。
目の前で。
この店を勧めたのはサイだ。ブレスレットをつけさせたのもサイなら。
犬のマスコットを大事そうに持っているのもサイだった。
もう考える先は一つしかない。
サイは彩芽の魂が乗り移ったフィギュアだといことに他ならないだろう。
考えたくはなかった。幽霊の正体、サイは彩芽だ。
おばあちゃんが言いかけた、あなた…の後に続く筈の言葉は『彩芽ちゃんよね』だっただろう。
「サイ…お前の正体が解った」
「解っても無駄だよ翔。セリカから出されているお題は、翔の記憶だし。思い出す必要
ない」
「思い出してみせる」
「思い出したら辛いだけだ」
サイがキッと俺を睨んでくる
辛い現実が待ち受けている事など百も承知だ。サイが彩芽だという事は彩芽の実体は、既にないという事なのか。それに類するような状況という事なのだから。
彩芽は死んでしまっている?!記憶が戻っていない状態でもかなりメンタル的にキツイ。
サイが消えるという現実も受け入れたくはなかった。
サイが彩芽だと気付いていた梶は一体どんな想いだったのだろう。
思い出せない不甲斐ない恋人の俺を一言も責める事なく友人でいてくれた。
梶にとってもなくてはならない大切な存在だというのに。
胸が痛くて、胸を抑え込んだ。
おばあちゃんがサイの異変に気付く
「お兄ちゃん、彩芽ちゃんの魂を早く元の体に戻さないと駄目だよ」
サイの手の文字が先ほどよりも濃くっているのだ。
「おばあちゃんも心配症だなぁ。大丈夫だって」
一人だけ、呑気な声音でサイが言う。でもそれが本心ではないのは明らかだった
「急ぎなさい。急いで。そうでないと手遅れになってしまうから」
お婆さんが言うのと同時に、俺のスマホに梶からの連絡が入った。お婆さんにお礼を言って、サイをポケットにもどして店の外に出る。
スマホの通話ボタンを押せば、珍しく焦ったような梶の声がした。
「翔…言おうか言うまいか迷っていたがその余裕がなくなった」
「…どうした」
「…サイの正体は彩芽だ…そしてお前の恋人だ。解った時に教えれば良かったがズルい事を考えた。教えるのが遅くてすまん」
こんな時に謝っている。梶のお人好しさに目頭が熱くなった。
自分が梶の立場なら、折角忘れているのに恋敵にあえて教えるだろうかと考えてみて
すぐさま否という答えが出る。
梶も葛藤してくれたのだろう。
「いや…。教えてくれて感謝する。ところで彩芽は…」
容体を聞く言葉が続かない
死んだのかと言う言葉が恐ろしくて、梶に尋ねることが出来なかった。
「お前と一緒に交通事故にあって、彩芽は脳死状態になってたんだ…だが容態が急変してて危ないって、今連絡があって…」
脳死状態だったのか。魂が他の器に移動してしまっている体は生きる事を放棄してしまっているのだろう。
今戻れば間に合うかもしれないというのに。
チラリとサイを見るとサイが目をそらした。
病院名と病室を聞き出して電話を切る。
「サイ…いや彩芽。今すぐ体に戻れ」
「…無理だ。契約がある」
「駄目だ。諦めるな」
「もういい。もういいって。翔は私があげたもの全て大切にしててくれてた。もう一度翔に逢えただけで幸せだったから、もう良い」
サイが首を横に振った。
諦めない彩芽が諦めようとしている。
俺の為に。
「駄目だ。諦めるな。好きなんだサイが…」
こんな時に九官鳥のように同じセリフしか出てこない。サイを説得する言葉が見当たらない。好きだからいなくならないでくれとしか言えなかった。
彩芽はこのまま最期の時を迎えようとしているのに。
「ありがとう。私、超幸せ者だ」
サイが儚く笑う。
不思議と彩芽表情が背景に見えた気がする
消えさせない。
見た目がどれだけ変わっていようとも。
たとえ人間の姿はしていなくても。
何度だって好きになるのは彩芽だけなのだ。
何度大切なものを喪えば良いのだろう。
サイも彩芽も両方喪うしかないのか。
何か方法はないのか。
俺が記憶を取り戻せなければ、サイ…彩芽の魂は泡のように消え失せてしまう。
そして、俺が記憶を取り戻したとしても、脳死状態の彩芽の本体がダメになってしまっては元も子もないではないか。
どうすれば、サイを元に戻せる。
考えろ。
無駄にある知能指数は何のためにある。
契約の内容はなんだった?
俺の『更生』だ。
ならば、俺自体がいなければ、更生させようもないわけで。
俺はサイをポケットから出し、自転車の籠の中に置いた。
「ならば、俺が死ねば契約もクソもなくなるだろう。自分の体に戻れ彩芽」
俺はそう言い置いて、歩道橋の階段を駆け上がる。
そのまま迷う事なく策を乗り越え宙に待った。
『人が落ちたぞー』
という叫び声と。
悲鳴。
そして次に来た体に走る衝撃。
その瞬間に記憶が走馬灯のように駆け巡った。
死を前にすると、人間は全ての記憶をおさらいするというが、本当らしい。
無くしていた記憶も流れていく。
あの事故の日の記憶も鮮明に思い出された。
「またフィギュア買ったの?もう、いい加減、現実見なよ」
受験を前に、やめろと言われているフィギュアを買っていたのが見つかって喧嘩になったのだ。
「現実と空想世界の区別くらいついている」
「私が嫌だって言ってるの。なんでそんなになっちゃってんの?我を忘れて二次元に逃げるなんて翔らしくもない」
「別に我なんて忘れてないし、別にこんなものなくたって良いし。彩芽が大事に決まってるだろうが」
証明しようとフィギュアを横断歩道に投げつけた。
その瞬間。
言いすぎたという顔をした彩芽が道路にフィギュアを拾いに行ったのだ。
歩行者信号は青だったし、普通に拾えた筈だった。
だが運悪く信号を無視した車が突っ込んできてしまったのだ。
彩芽が車に轢かれると思った瞬間、咄嗟に体が動いていた。
寸前のところで彩芽を突き飛ばして自分が車に接触した。
転がった拍子に頭を強打してしまった彩芽と、足を骨折した自分がいたというわけだ。
彩芽が俺に思い出して欲しくなかったのは、彩芽自身が死の狭間にいて、脳死状態だったのを自覚していたから。
彩芽のいない世界で生きなければならない現実を思い出させたくはなかったのだろう。
俺が彩芽の命より自分の命を捨てることを選んだように、彩芽もまた俺の幸せを命と引き換えに願ってくれていた。
どうか、彩芽の命だけはと。
願う事はそれだけだ。
全てを思い出したのだ。セリカのお題にはクリア出来ただろう。
出来なかったとしても、契約不履行だ。
だからセリカ。あなたと同じ想いを彩芽にさせないでくれ。
そう何度も何度も願い続ける。
全身が痛いいうよりは冷たかった。
あたりの喧騒と救急車のサイレンの音が遠くなる意識の中で聞こえた気がした。
「大丈夫ですか?小林さん、小林翔さん」
誰かの呼ぶ声が聞こえて意識が闇の中から戻される。
うっすら目を開けると、真っ白い天井と白いカーテンが目に入ってきた。
病室なのか、白衣に身を包んだ看護師が慌てて医師を呼びに部屋を駆け出していくのが目の端に入る。
そして身じろいだ瞬間、全身に痛みが走った。
だんだん意識が鮮明になってくる。
どうやら、死に損ねたようだ。
ぐるり辺りを見渡すと、泣きたげな、それでいて怒っているような顔の梶がいた。
「翔、何んでこんな事になってんだよ」
擦過傷で包帯巻になった手足を見る。
ギプスはない所を見ると打ち所的には良かった方らしい。
奇跡的に軽傷だったと、看護師と共に診察に来た医師は言った。
「…梶、心配をかけて悪かった。ここは?」
「彩芽が入院している病院だ。彩芽の容体を聞いて駆けつけていたところに、お前のスマホの着信履歴で直近で話してたからって、俺のとこに救急隊の人から連絡がきて心臓とまりそうだった。なんの悪い冗談だよ…って」
憔悴しきった梶が、掠れた声で呟く。
「…無茶をした」
「翔、お前馬鹿だろマジで、俺も大概なもんだが」
「…悪い」
梶の声が震えていた
確かに、己の命を粗末に方法を選択するなど、愚行以外のなんであろうか。
解ってはいても、この方法しか思いつかなかったのだ。
「死ぬ程大事な奴二人、喪うところだったんだぜ?問題しかねぇーだろーが」
今にも泣きそうな声音だ。ギュっと握られた拳の色が変わっている
元気ならば殴られていた事だろう。
「…。サイはどうなった…彩芽は…」
全身打撲しているらしく、体がギシギシと軋んだが、そんな事を気にしてはいられなかった。記憶は戻っている。時間的には間に合っている筈だ。
「彩芽は…」
梶が最後まで言い終わる前に、身を起こし彩芽の病室までヨロヨロと移動する。2階から5階のエレベーターまで壁伝いで歩いた。
5階は重体患者が収容されている病棟らしい。
しかも梶から聞き出した彩芽の501号室は看護師の詰所前に位置する、危篤の患者が入る部屋だった。
どうか無事でいてくれと願いながらドアの前に立つ。
面会謝絶の札がない事に少しの不安を感じながら、彩芽の病室のドアを開け、俺は崩れ落ちた。
病室からはベッドが運び出され、開かれた窓から入る風でカーテンが揺れている。
既に中には誰一人いなくなっていた。
間に合わなかった…。
窓の外の緑色に輝く木々と爽やかな風が穏やかであればあるほど残酷に感じる。
いなくなってしまったのか。彩芽も…サイも。
もう二度と逢う事も、言葉を交わす事も出来ない。
ミカンの皮の剥き方一つでケンカする事も。
陸上で表彰台に上がり、互いでハイタッチする事も
梶と三人で高校生活を送る事もできないのだ。
もう。
二度と。
サイと過ごした日々、彩芽と過ごした日々が頭を駆け巡った。
大切な人を同時に二人亡くしたようなものだ。
何のために思い出したのか。
苦しみも悲しみも2倍になって襲ってくる。
立っていられずにその場に崩れ落ちた。
心の痛みなのか、体の痛みなのか、とにかく痛くて身を屈める。
この痛みを恐れ、彩芽は思い出さなくても良いと言い張ったのだろう。
確かに心が壊れそうだ
だが、この痛みが来ると解っていても。
それでも彩芽に生きて欲しかったんだ。
忘れはしない。今度は痛みから逃げたりはしない。
サイとしていた時の事も。彩芽の事も全て。
ただ、願わくば、一緒に生きたくて。
一緒に逝きたかった。
体と心が限界を迎えドロップアウトしてしまう。
「翔っ」
意識を失う前に、後を追いかけてきた梶の声が耳に届いた。
ユラユラ揺れる黄金色のゆりかごの中で
彩芽と二人、手を繋いで眠る。
ここは暖かくてなんて幸せなのだろう。
このまま永遠にここにいられれば良いのにと大切な人の温もりを感じながら眠り続けた。
「翔…起きて、翔」
耳に馴染んだ、声が聞こえる。
調子のいい幻聴だろうか。
ずっと聴いていたくなる声だ。
「起きて!」
小さな手が俺の顔に触れた。
瞼を震わせ、眉を持ち上げるうにして目を開く。
視界が悪いのは眼鏡もコンタクトもしていないからだろう。
ただ、頬のそばにはセリカのフィギュアが動く事なく立っているいる事は解った。サイがいない事に落胆して、視線をズラした先に目に入ったものを凝視した。
そこには。
好きで好きで堪らなくて。
先に逝ってしまったのかと絶望したほど想いを寄せた相手が。
彩芽がサイを持って微笑んでいたのだ。
「彩芽?!」
「おはよう。翔、ありがとう。寝坊助だなぁ、何日寝てんの…もう。心配するでしょうが」
「それはこっちのセリフだ。待たせて悪かった」
素直に謝る。病室には先ほどまで母もいたらしいのだが、花の水を替えにいっているらしく彩芽と二人きりだった。
どうやら、彩芽が死んでしまったと早とちりした俺は、そこから1週間意識を取り戻さなかったらしい。
「翔のおかげで賭けに勝っちゃった」
涙を浮かべながら、彩芽がサイを片手に持ちながらスマホを広げ、梶に俺が意識を取り戻した事を告げていた。
彩芽のスマホケースにはアンちゃんの片割れがぶら下がっている。
「間に合ったのか…」
「セリカが、戻してくれたの。真実の愛をありがとうって…」
脳死状態の彩芽を救ってくれたのだと言う。
「まさか…」
「翔のしてたお護りのクリソプレーズのブレスが身代わりになってくれた。二人分の命と引き換えにって悪いものを吸収したら粉々になっちゃったってセリカが謝ってた」
「そっか」
涙が自然に一筋流れた。
穏やかな、昼下がりだ。
日差しは暖かく。病室内の時計の音がチクタク鳴っている。
隣の部屋の人が観ているだろうテレビの音までもに感謝したくなった。
大切な人と同じものを見て感じられる事がこれほどまでに幸せだと知る。
花瓶の水を変えてきた母が病室に戻ってきた。
彩芽が母に俺の意識が戻った事を告げる。
すると、やつれた母が花瓶をそのままにして俺の枕元に慌てて駆け寄った。
「ごめん。ごめんね翔、彩芽ちゃん。あなた達をそこまで追い詰めてしまうと思わなかった」
「良いんだ…もう、済んだ事だし。母さんにも心配をかけてしまった」
「ううん。私のは自業自得よ。翔の為、翔の為って空回りして。私はね、彩芽ちゃんによって翔がどんどん変わっていくのが怖くて仕方がなかったの」
彩芽にも視線を移して母が詫びを入れる。
「いいえ、お義母さんは悪くないです。愛する子供を心配するのは当たり前だもの」
彩芽が慌ててフォローした。
母の目から大粒の涙がポロポロ流れ出す。
「翔が好きになるような子だもの。良い子に決まってたのに…」
何度も謝る母の背が小さく感じた。
「行ってきます」
家を出た先には制服姿の彩芽と梶が自転車で待っていた。
「おはよー翔!」
「おはよう。彩芽…と梶」
「え、俺オマケ感ヤバくね?」
梶が大袈裟に不貞腐れる。
「梶凄くない?片道15kmあるのに自転車で来たんだよ」
復帰後、一発で編入試験をパスした彩芽も同じ高校の制服を着ている。
「梶、本気か?…というか、正気か?」
「正気もなにも、体力テスト負けたから次は負けねーように、今から体力つけるんじゃっ」
「えー梶、一年先の対策をもうしてんの?なら私も点数で来年勝負しよっかなぁ二人に」
彩芽がニヤニヤ笑う。
「「や…彩芽は駄目だろ」」
俺と梶の声が被る。
「えー、二人してなんでー」
「中学の時から全種目オール10点取れる奴と競えるか」
俺が言えば、梶も大きく頷いた
「彩芽サンはチートなので除外でオナシャス」
「酷いなぁ…折角、二人におごらせようと思ってたのに」
「「酷いのはどっちだ」」
またまた二人の声が響く。
夢に見た高校生活が始まろうとしていた。
「ねぇ、翔。アレどうしたの?」
「ん?」
「アレだってば『ツルバニアファミリー』のお」
最後まで彩芽に言わさずに、口を手で塞いだ。
「何々?翔君。幼児向けドールハウスがお家にあるの~?」
おねぇ言葉の梶足蹴にすれば、既に10km漕いでいた梶は自転車ごと倒れそうになる。
「フィギュアにまみれてる奴に言われたくないな。ちなみに俺が買ったものは既にリサイクルショップで次の主待っているさ」
「えー。俺にくれれば良かったじゃん」
「「そこはお金に替えるだろ」」
今度は彩芽と言葉が被って笑いあう。
「アレは、もうない。1000体目のセリカのフィギュアは近藤のおばあちゃんに家ごと貰って貰った」
「そっか。あそこなら間違いおこらないかも、うん」
彩芽も納得のようだ。
今頃、次に幸せにする人を探して、ビューティショップ近藤に飾られている事だろう。
「さ、元気に学校行こうかっ」
彩芽の掛け声で三人一斉に自転車に跨って坂を駆け下りる。
頬に触れる風が優しく三人を見守っていた




