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追憶の篩  作者: 花河燈
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思い出せ

二度と離さない大切な…



 珍しく目覚まし時計なしで目が覚めた。外は青空が広がってるし小鳥も鳴いてる。

 典型的な清々しい朝…といきたいところなのだが、何故か俺の目には涙が溢れていて、気持ちが奈落の底まで落ちこんでしまっていた。

 パイプベッドに座って深呼吸し目頭を拭う。そして、ヘッドレストに置いてある眼鏡に手を伸ばす。急に視界がハッキリして、現実世界に引き戻されて溜め息をついた。


『翔、いつまでも自宅療養してると暇にならないかい?良いもんインストールしてあげるね』

『頼んではいない。海斗のお勧めなんてどうせロクなものではないだろうから』

 そんな会話ののち、春休み盛大に事故って右足を骨折し療養中の俺からスマホを奪い取って、兄の海斗が無理矢理入れたアプリが輪廻転生系のRPGだったというわけだ。

 このクソゲーというしかないような、ヲタクに狙いを澄ましたゲームによって、認めたくはないが夢を見て涙するとは。万死に値する。俺らしくないことこの上ない。最悪すぎるにも程がある。しかもゲームの影響を受けましたと言わんばかりなのが恥辱の極みだ。

 俺は愚の骨頂ともいえる霊感商法や催眠術にかかりやすくはなかった筈だ。

 俺への幼い頃からの周囲の評価は、クールベイビーと呼ばれ心配された程だった。

 現に俺の記憶だと冷静沈着が服を着て歩いているとか機械のようだとしか言われた記憶しかない。実際これといって何かに入れあげた事など皆無だし、何かに興味を示すこともなく、何かに情熱を傾ける事などなかったはずだ。それこそ、母親曰く、人形か機械みたいで、色々なものに興味を示さなくて、幼少期は幼稚園の先生とかに心配されてたとの事だから。ある意味全てが想像の範疇内だし。相手が何を求めているかもわかってしまっていた為、執着する必要もなかった。

 人間味が欠けている理由がIQが異様に高い事にある事が判明したのは、小学生の知能テストでの事だった。MGS(IQ180)以上の人間が所属する団体からも勧誘がきてると担任に呼ばれた時点で適当に書いたら、たまたま当たっただけなのだと伝え入会を拒否した。

 離婚後でピリピリしている母親を呼びだされると面倒だったからだ。

 そしてそれ以降は普通であろうとした。定期テストでさえ、正解すると面倒くさくなるからとわざと間違えたほどだ。ありすぎる知能指数など、全てがつまらなく見えてくるだけで何もいい事などない。全ての先が読める事は、なんの感動も生まなくなってしまう。

 現に俺は、何かを買って欲しいとスーパーで泣いた記憶すらない気がする。

 幼心に、財布の事情を考えたら、それを欲しがったことで得られる所有欲を満たすだけの行為が無駄に思えたからだ。それにひきかえ、兄はよくガチャポンの前で、あれが欲しいこれが欲しいと駄々を捏ねていた。

 300円のコストで作られる製品などたかがしれている上に、望んだものが出る確率は極めて低いわけだ。そんなものにハマる兄の気が知れなかった。そう考えたら、ゲームごときでこれほど影響を受けるなど、俺にしてはあってはならない行為に他ならない。

 やはり俺にとって、ヲタクが好む美少女系アプリとの相性が最悪以外の何ものでもないってことだけはわかる。作られた美少女キャラに何の意味があるのか。実際にその目のデカさや頭身で現実世界に登場してみろ。キモい以外の言葉があるのだろうか。第1、食事を作ってくれるわけでもない。虫の居所を察してくれるわけでも、望む言葉をくれるわけでもない。こちらを傷つける事もないかもしれないが、現実世界になにかをもたらしてくれるわけでもない。作られた媚びに賞賛し、自分を受け入れてくれないない、うまくいかない現実世界から目を逸らし開き直っている。


 正直、この世から排除してやりたいとさえ思っている。我が兄ながら趣味が悪い。そんなだから望んでも彼女の一人もできないのだと眉間に深いシワが寄る。

 まぁ、俺は欲しいとも思わないが。はっきり言って俺はヲタクやニートが大嫌いだ。

 それはもう虫唾が走るほどに。ヲタク全員ロケットに収容して、他の惑星に移住させてやりたいくらいだ。現実逃避にも程がある。そんなものに妄信する奴の気が知れない。

 だから兄の部屋に並ぶ美少女系フィギュア見ると寒気がする。非生産的なものの象徴だからだ。立体で場所をとるのに何も生み出さない。

 萌えた世界観を3Dで体感できるとか兄は言っていたが、そのフィギュアが魔法を使うわけでもなければ、可愛く起こしてくれるわけでもないという事に気付けないのだ。

 今度金庫をメルカリでポチって全部取り出せないようにしてやろうかと半ば真剣にたくらんでいる。可愛いだろ?って兄はいうがとてもそうは思えない。

 媚び媚びに媚びたそれなんて、キモヲタデブのおっさん達が雁首そろえて会議をして、売れるように計算し尽くされ、萌えを追求して生み出されてきたものなんだぞ?

 見た目は子供、中身は高校生探偵…といった例の有名アニメのようなもんだ。

 可愛くて当たり前、嵌めようとして作られたのだから、見た目は百歩譲ってみれなくはないだろう。

 見た目美少女、中身はおっさん…しかもフィギュアだから動かない。これに萌えられるやつの気が知れないと思う俺は間違ってないだろう。吐き気すらしてくる。

 俺はスマホから、悪夢の元になったアプリをイニシャライズした。


 さて気を取直して、着替えて学校の用意でも…っていうのが、普通の高校生の本分なのだろうが、今はそんな気力すら俺にはない。足は1ヶ月経った今はほぼ完治してるし、授業など追いつこうと思えばいつでも追いつける。

 だが、出だしを挫かれて高校の入学式にも出られず、新生活のスタートダッシュもしくじった俺は、はっきりいって高校に行く意味も目標も見出せないでいた。

 会いたい人がそこにいるわけでもなく、学びたい講師陣がいたわけでもない。高校などどこにでも入れただろうが、何故そこの高校にしたのかが我ながら謎だ。陸上推薦で入った学校だというのに足を負傷していてまだ学校に行けていない状態なのだから高校側から詐欺で訴えられそうだ。まぁ、正直再起不能という訳ではないし、足だってもう本当は普通に運動もできる程には治っていた。多少筋肉は落ちている事は否めないが回復してる。

 学校にも行けるだろうが、全てが無駄に思えて行く気にならずダラダラ家に居座っていた。大義名分がなければ、いわゆる不登校と言われる生徒になりつつあるわけだ。

 このままいったら、ニートまっしぐらだな。まぁ、何かアプリでも作って金を稼げば良いのかもしれないが。大嫌いなヲタクやニート達と大差ないのは自分的に頂けない。

 これは流石にマズいな…と思ってはいるのだが、何故か気が乗らなかった。

 そんな俺に兄は何も言わなかったし、中学までは過干渉で口うるさかった母親も、事故がショックだったのか腫れものにでも触るような態度で、今は何も言ってはこない。

 中学までは、何かの行事一つも欠席は許さなかったし、誰かの家に遊びに行くの一つとっても、相手の家に迷惑かけるからやめろだなんだと口を出してきていた筈だった。

 家の掃除やら買い物やらを言いつけて、遊びに行くのを阻止されたのも一度や二度じゃない。とにかく、完璧主義で厳しい人だった。

 そんな言い出したら自分の意見を強引に通していく母親が今回は違った。


『翔のペースで良いから、好きにしていなさい。昼は冷蔵庫にある残り物かカップ麺でも食べてね』

 と言い置いて、掃除などの仕事を言いつける事もなく、今日も仕事に出掛けていった。

 母子家庭だから、母親と歳の離れた兄貴が働きに出てしまえば、築年数のいっている古いアパートに残るのは俺だけだ。

 さて、何もする事がなくなった。もう一度ベッドに転がろうか、テレビでもつけようか。

 どれも俺の心を満足させてくれはしないだろう。何にも興味がわかない。ここのところずっとそうだ。ただ、ぼーっと窓の外を見て過ごしている。

 手持ち無沙汰でスマホを開いてみるも、何もやろうとは思わなかった。写真フォルダを開くほど、感慨に浸るタイプでもない。というかそもそも、カメラ機能がどこにあるか…というのもあやしいくらいなのだから、ものぐさな俺が興味を抱くものがあるとも思えず、しかもそんな俺がわざわざ何かを撮ってるはずもないわけで。LINEの未読が999になっていても見る気すらしない。どうせ、人間関係の円滑さを重視して言われるままに入りまくったグループメールだろ。浅く広くつきあっていたから友達は多い方だったかもしれないが、中学までの友達は皆んな近所の高校に進学したから、今更俺に何か用があるというヤツは、そうそういるはずもない。

 俺が進んだ学校は私立で、自宅から少し離れているから、ウチの学校から行ったヤツは数人しかいなかった筈だ。面倒になって未読のままLINE自体を削除する。

 スマホの画面には見知らぬフォルダが一つあるのだが、これは兄が勝手に何かをしたのだろう。ご丁寧にロックがかけられてて開く事も削除する事もできやしない。

 ポンと部屋のこたつ机にスマホを投げ出して、ベッドに横になろうとして、手が止まる。

 何故か、投げ出したスマホの横に、魔女っ子系アニメ『マジマジ』の水色の髪をしたショートヘアの美少女フィギュア(確かセリカという名前だった筈だ)が座っていたからだ。

 たしか、好きな人の為に自分を犠牲にし人外の魔法使いになり、壮絶な死をとげた人魚姫がモデルの子だったな。

 兄の説明だけで記憶してしまっている知能が憎い。

(海斗のヤツ、なぜ人の部屋にこんなものを置いていく必要があったのか…嫌いだと言ってはいなかったか?)

 内心で毒づいた。よりにもよって、ヲタクグッズの中でも一番嫌いなフィギュアを。

 これだからヲタクは嫌なのだ。現実と夢の世界くらいわけてくれ。

 二次元なら二次元で済ませておいた方が実害が少ないだろう。全くフィギュアってやつは、本当にタチが悪い。立体にした事で魔女っ子の世界が三次元に存在しているところが、気持ち悪さを倍増させている。

 眉間に深いシワを刻み、そのフィギュアを捨ててやろうかと、手を伸ばしかけた時のことだった。

「翔…ダサすぎっしょっ…何やってんだ」

 大嫌いな水色髪のフィギュアが喋ったのだ。嘘だろ?さては、暇をしているであろう俺の為に、兄が録音機能付のフィギュアを置いていったというのか?

 フィギュアに手を伸ばそうとしたら、今度は水色髪のフィギュアが俺の手をペチンッと振り払ってあぐらをかいた。この水色髪フィギュアの子は、兄貴に見せられた動画情報だと、確か物静かで上品なキャラな筈。だが、目の前のコレは上品とは程遠い。何が起こっているのだ。俺の頭をもってしても理解不能だ。

悲報フィギュアの中身は傲慢チキなオッサンでした。

「…なんだお前は?」

「いつまで、こんなダラダラした生活してるのさ」

「何故フィギュアが喋っている」

「ボサボサに伸びた頭に黒縁眼鏡。毛玉のついたスウェット姿は見るに忍びない」

「…余計なお世話だ」

「それになんだその、無気力な顔は…」

 よいしょっとばかりに水色髪フィギュアが机の上で立ち上がって、両手に腰を当てている。え?夢でも見てるのか俺は?悪い物でも食ったか?フィギュアがしゃべって動いているのだけど…。しかも、中身おっさん(?)的な乱暴口調で。

「…誰。何なのだ?お前は」

「あ?今の翔が情けなさすぎて、違う世から舞い戻った守護霊だとでも思っておけ」

 なんだと?!霊が乗り移っているというのか。精神体というものは存在しているのだろう事は想像に容易い。人形には念がこもりやすいとも言うしな。顔を引攣らせながら、台所に向かう。足が悪いのを理由に休んでいる人間だとは誰も思わないようなスピードで。

 右手に一握りの粗塩と左手にリセッシュを持って自室に舞い戻った。最悪だろうこの状況は。だから事故にも巻き込まれたというのか?

 俺は半眼になりながら、容赦なく水色髪フィギュアに塩をふりかけた。

「何をする」

 水色髪フィギュアが水色の髪に乗った粗塩を振り払いながら文句を言う。くそ…塩じゃダメか。今度はリセッシュを振りまいた。除霊でググるとリセッシュが出てきたからだ。

「くさいだろーが、無駄な事するなっ」

 びたびたになった服の裾を絞りながら、水色髪フィギュアが睨みつけてくる。

「俺はフィギュア死ぬほど嫌いなのだ、ようはお前が目障りだということだ」

「は?…何言ってんだよ、この可愛い外見フィギュア見て目障りとは!ここは可愛い~って目がハートになるところだろ」

 水色髪フィギュアが何か言いたげにブツブツ文句を垂れている。

「不愉快なのだ。俺の視界に入らないでくれないか?」

「そうはいかない。翔を更生させないと、どこにもいけないから」

 水色髪フィギュアはおもむろにティッシュ箱に近付いてよじ登るとティッシュを必死で一枚引っ張り始めた。まるで大きなカブの話を連想させるような抜き方で思わず吹き出す。

 しかも、ティッシュ一枚が抜き出せなくて息を切らせている。

「翔、笑ってないで、手伝え」

 仕方ないなとばかりに、一枚とって渡してやる。

 すると布団よろしく水色フィギュアは頭からティッシュを被って丸まった。

「…何をやっているのだよ」

 俺が言えば

「お前が視界に入るなと言ったんだろうが」

 だから、視界から消えているのだと言い返してきた。

「このままの格好でいるつもりなのか?」

「持久戦だな。翔が更生するまで帰れないってわけだから」

「お前聞いていたか?俺はフィギュアが大嫌いだと言った筈だが?」

「初耳だな。今知った。なら着ぐるみでもなんでも着せてぬいぐるみにでもしたらいいんじゃん?」

「俺に手芸でもやれというのか」

「どうせ暇して、ぼーっとしてるんだろーが、何もしないなら手芸でもなんでもした方が良いと思う訳よ」

「あくまで、離れないつもりか」

「そういうこと!だからあきらめろ、もしかしたらドラえ◯んのように役立つかもしれんないし?」

 なんなのだ?こいつは。ちょっと、おもしろい。

「お前の事はなんと呼べば良い?」

「このキャラクターの名前でも呼んだら良いでだろう」

「いやお前と、このキャラクターとイメージが違いすぎて呼びたくない感じなんだが…」

 だいたい、キャラクターの名前でフィギュアに話しかけたくはない。それではヲタクそのものになるだろう。

「…ならば…サイ…とでも」

「え、お前、中身女なのか?オッサンかと思ったぞ?」

「失礼すぎんだろ。すこーしだけボーイッシュなだけじゃん!」

 プンスコ、サイが怒ってる。

「で、サイは俺にどうなって欲しいわけなのだ?」

 目の前の虫唾が走るフィギュアに早々にいなくなってもらう条件をあらためて確認する。

 消えてくれないというのならば、さっさと条件を満たし退場して頂く方が建設的だろう。

「まずは無気力なそのボサボサに伸びた頭をどうにかしろ。元は悪くないのだから」

 口を尖らせて、少し頬が赤い。あ、デレる事もあるのか。サイはいわゆるツンデレという枠に入るようだ。プイっとティッシュに体操座りで丸まってソッポを向いている。

「で、そのあとどうしたら良いのだよ」

「翔がフィギュアが嫌いだというのなら早々に消えてやるから、早く復活しろ」

「なるほど」

「しっかり学校へ行け、そして陸上に精を出せ…と言いたいところだが」

「ん?」

「まずは洗面器に湯をはって、サイを着替えさせろ」

 俺にかけられたリセッシュでびたびたになって寒いらしいサイがぶるりと体を震わせた。


「いい湯だ」

 サイはご満悦に鼻歌を歌っている。ボカロ曲の人気曲で、俺も好ましく思っている曲だった。小さい体から出る声は高く、ボーカロイドのようだ。中身(魂?)が入った水色髪のフィギュアは人間のように柔らかくなっていた。持って洗面器の風呂に移動させる時、潰してしまいそうで怖かったくらいだ。そして、俺はといえば、ネットからリ●ちゃん人形の服の型紙をダウロードして、着ぐるみを製作中である。母がお気に入りのふわふわの今治タオル2枚が犠牲になった。初志貫徹、サイに着ぐるみを着させてやるためだ。

 パンダかクマか迷って、パンダにする事にした。身内の誰かが好きだった気がしたし何となく自分的にも好きだからだ。出来上がったのをお披露目しようとサイの方を振り返ったら、こちらを見るなと水鉄砲を食らった。仕方がないから手だけを差し出して、洗面器の風呂から出してやる。着ぐるみを作った時に出たタオルを小さく切って、渡してやれば、サイは器用に体を拭いていた。

「中々器用なものだな…意外すぎ」

 作ってやったパンダの着ぐるみを文句言う事なく身に纏い、サイはご満悦だ。嫌がらせ半分で作ったというのに拍子抜けしてしまう。

 普通なら今まで着てたコスチュームの方が可愛らしくて好まれそうなものだというのに、サイは嬉しそうにぴょんぴょんしている。

 そういえば誰かに喜ばれたの久しぶりだな。ふわりと柔らかい感情が芽吹いてしまう。

 いかんいかん。相手は幽霊で、大嫌いなフィギュアだ。まぁ、パンダの着ぐるみを着た事で嫌悪感は多少和らいだのは事実で。俺が更生するまでは、どこかへ行けといっても消えるのは無理のようだし、共存するしかないようだ。俺も腹をくくってやるとするか。

 こうして、ヘンテコ幽霊フィギュアのサイとの同居(?)生活が始まったわけだ。


「ところで、サイ…お前…ドラえも◯くらい役に立つとは言っていなかったか?」

 本を読んでいたら、サイのうめき声が聴こえてこたつ机の上に視線をやれぼ、パンダ姿のサイがみかんに押しつぶされてた。

「翔…助けろ。雪崩が起こったんだ」

 どうやら、机の上に盛られたみかんの山を攻略しようとしたらしい。サイの上に乗ってるみかんを掴み上げた。そして葉っぱのついてる側から皮を剥いていく。

「ふーん。翔、そっちから剥くようになったんだな」

 さすが守護霊(?)だけあって俺の癖も知っているというわけか。

「あ、ああ。前はおしり側から剥いてたのだがな、葉っぱ側からの方が中の白い薄皮のところまで綺麗に取れると聞いてからはこちら側から剥くな」

「ふむ。まあまあ綺麗に剥けてんじゃん。食べてやらんでもないぞ?」

 サイが目を輝かせている。

「フィギュアの癖に食うのか」

「食べても食べなくても平気だけど、食べれるっちゃ食べれるから」

 だから、そのみかんを寄越せといわんばかりだ。その表情が幼くて、このまま、分けた与えずに一人で食べたら、幼稚園児を虐めているような感覚に陥り、ついほだされてしまう。ちいさな体でも食べやすいよう薄皮を取って渡してやる。両手で受け取って、手をべたべたにしながら顔中にみかんの汁をつけて食べる様は、幼稚園児以下だ。こんな呆れるほどのみかん好きが身内の誰かにもいたと聞いたことがある気がする。俺も好きな方だが、これはみかん好きの血縁なのだろうか。手に持ったまま、食べないでいると、頭ほどあったみかんを食べ尽くしたサイが両手を広げていた。

 いかん。パンダの着ぐるみを着ているせいか、小動物にしか見えない。生き物を飼うなど面倒以外のなにものでもないと思っていた事を前言撤回しなくてはならないだろう。

 もう一つと強請られる前に残りのみかんを口に放り込んだ。俺の手にみかんがない事に気付いたサイが不服げに俺を睨んだが、みかんの代わりにウェットテッシュを小さく切って渡してやれば、しぶしぶといった感じでそれを受け取った。

「感謝…してやらなくもない」

「とんだドラえも〇だな」

「う…うるさい。勉強くらいならば見てやれる。どうせ学校に行ってないのならば遅れているのだろう、教科書を開け」

 その気になれば、教科書など一読しただけで理解はできるのだが、暇潰しを兼ねてサイのお手並みを拝見する事にする。数学の教科書の上にあぐらをかいて、格闘中だ。

 眉間に皺を寄せて首を捻っている。

「無理なら良いぞ?自分で解くから」

『計算用紙と書くものを貸せ!!』

 15cmサイズに合う、書くものや計算用紙を用意する方が、問題を解くより大変な気がするのだが…。喉まで出かかって、サイの必死の表情を見てその言葉を飲み込んだ。

 そもそも、俺の授業の遅れを取り戻そうとして、明らかに得意ではなさそうな数学の問題と格闘してくれているのだろうから。俺はシャープの芯を適当な長さに折って、持ち手になりそうな部分にテープを巻きつけた。そして、ノートに貼る付箋をサイに手渡してやる。素直に考えれば良いものを、理屈で解こうとしてこんがらがってるのが解ってしまう。

「これ、数直線書けば…」

 俺が言いかけた瞬間ハッと閃いたのか、難解な問題なのだがものともせず、問題式をスラスラ解き始めた。馬鹿ではないらしい。ただ少し慌てん坊なのだろう。

 途中の式を抜かした為に計算ミスを多発している。

「ここの式、抜かない方が良いと思うのだが…」

「あ、くそっ!!!数学得意だからって翔のくせに生意気な!」

 数学が得意な事も知っているらしい。悔しいからといって、次の問題を解き始める真剣な横顔に目を細めた。明らかに不利な状況でも諦めようとはしないのだ。俺が苦手なものに直面したならば、無駄なものに割く時間がもったいなく感じて、はなから人の土俵には登らないだろう。こちらも、その必死さに感化され気がつけば面白半分で問題を解いてしまっている。面倒な作業でしかない勉強を時間を忘れて楽しんでいた。

 問題は見ればすっと分かってしまうものの、ヤル気ですらなかった俺をその気にさせる事が出来た時点でサイの方が一枚上手なのだ。まぁ、本人は必死すぎて俺を振り回してる自覚すらなさそうだが。

 そのままの勢いで次も次もと解いていき、気がつけば、クラスメイトが持ってきたプリントに書いてあるところまで、進んでいた。

 部屋の中に明かりがついて賑やかくなっているから、母も兄も帰ったのだろう。

 

「いいか?俺の部屋のものを触るんじゃないぞ」

 夕飯の用意が出来たという母の言葉に了承の意を伝え、サイに言い置いておく。サイだけを部屋に残していく事に不安感しかなかった。

何度も騒ぐな荒らすな暴れるなと命令し部屋を出る。

「わかった、わかった。年頃の男子高校生の見られたくないアレコレを探したりはしないってば」

 見た目パンダの格好をした、美少女フィギュアのサイがシッシッと俺を追い払った。

 特に見られていけないものはなかったはずだ。サイをベッドの上におろして、部屋を後にした。あの高さなら、下手に降りることもできないだろう。


 そう安心した俺が馬鹿だった。ベッドに凭せかけてあったバッグを滑り台がわりにして下に降りたサイが、そのバッグについていた犬のマスコットを取り外し抱きしめていた。

「何をしている」

 物に執着しない俺にとっては珍しく唯一大事にしている5センチほどのマスコットなのだ。もちろん誰にも触らせたことはない。貰ったものなのか買ったものなのか定かではないが俺の中では、宝物だった。基本人に対して、熱くはならない方だというのに、何故こいつはこうも俺の地雷ばかりを踏んでくるのだ。

「おい、サイ。何をしている。大人しくしていろと言っていた筈だろう」

 首根っこをつまみ上げ、ベッドに放り投げた。

「痛いなー!!何すんのさ」

「何をするはこちらの話だ。人の大切なものを断りもなく弄るなどありえないだろう」

 犬のマスコットを取り上げようとするが、一向に離そうとはしない。

「いやだ。これ、サイ気に入ったんだもん。これがないと眠れないもん」

 赤ん坊か。必死にしがみついている。

「これは俺にとっても大事なものなのだ。だから返してくれ」

 無理やり剥ぎ取って、傷んでしまっては元も子もないからと下手に出る。

「大事なものならどこで手に入れたかを忘れてない筈だろ?わからない程度のものなら、思い入れのあるサイがつかった方がものが喜ぶ」

 あまりの必死さに、ぐうの音も出ない。本当に誰の手垢もつけたくはないのだ。

 だが、サイの言うことももっともで、どこで手に入れたのかを言うことができない俺にサイからぬいぐるみを引き剥がす権利はないのかもしれない。

「絶対に汚すな。汚したらフィギュアごと叩き折るぞ」

「…鬼畜か」

「それくらい大切なものだと言っている」

「そうか…大切…なのか。コレがそんなに」

 じぃっと犬のぬいぐるみを見て、サイがぎゅっとぬいぐるみを愛しそうに抱きしめた。

 ぬいぐるみをぬいぐるみが抱いている姿がなんとも形容し難い。

 仕方がないなとばかりに俺はフウっと大きく息を吐いた。


「翔の隣で寝てやってもいいぞ?」

 犬のぬいぐるみを抱きしめたサイが、枕元で呟いた。ヘッドボードのところに作ってやった。焼き魚用の角皿にタオルで作ったベッドではお気に召さないらしい。

「何故俺が、フィギュアを横に置いて寝なくてはならん」

「いーじゃん。この子とも寝れるって事だよ?」

「む…」

「場所、取らないしさぁ…」

 交渉上手か。

「踏み潰しても知らないぞ」

「やったー」

 枕の横にサイが寝そべる。他人と寝るのが苦手な俺的には珍しく、案外ストンと眠りに落ちていく。眠りに落ちる瞬間、サイの小さな手が俺の頭を撫でてくれていた気がした。


「その鬱陶しい前髪は切らないのか」

 真新しい制服に身を包んだ俺に開口一番サイが文句を言う。

「学校に行く事にしただけでも良いと思え」

「えー」

「だいたい昨日の今日で、いつ髪を切る時間があったという」

「まぁね。しゃーないかぁ」

 不承不承といった形で、サイが学校に行く支度をしている俺の横をはべっている。

妙にご機嫌だ。

 朝一で学校に今日から行くと母に伝えたら、良かったと言って泣きながら制服一式を出してくれた。したばかりの化粧が崩れてしまった程だ。よほど心配をかけていたらしい。

 仕事に行く直前の兄にまで笑顔で肩を叩かれた。

 昨日までの俺は無気力さにかまけ、自分の事しか考えていなかった事を悟る。

 周囲は心配している事を感じさせないようにしてくれていたのだ。サイという非現実的な存在のおかげで目が覚めたといっても過言ではない。ブレザーを着るタイミングでサイは、犬のマスコット片手に俺の手からよじ登り制服のポケットにダイブした。

「まさかお前、学校にまで付いてくる気か!!」

「逆に聞こう。サイを置いていけると思ったのか」

「ポケットの中にフィギュアやマスコットを入れて持ち歩く生徒を側から見て抱く印象をお前は考えた事があるか?」

「…シュールだな確かに」

 ポケットから顔を出したサイがプッと吹き出した。

「しかも、入学式からこっち一度も学校に顔を出した事がない人間がだぞ?」

「なるほど…今日はポケットから顔を出さないようにしよう」

「是非そうしてくれ」

 俺は学校指定の鞄を担ぎ家を出た。


 初めて踏み入れる校舎は、誰も知らない奴ばかりで、挨拶する奴もいない。初登校で目立つのは得策ではないから、家を早めに出た。ここで、教室に入るのが最初の一人目になると逆に目立つから、三人目あたりが妥当なところという俺の読みは完璧だろう。

 用務員さんに下駄箱の場所を聞き、靴を履き替える。誰も自分を知らない。隣を歩く奴もいないっていうのは少し寂しげな気もする。

 …と感傷に浸る暇もなくポケットの中のサイが揺れる揺れると暴れている。

「静かにすると言っただろう」

「わかってるけど、酔う~。吐く~」

 犬のマスコットに顔を埋めている。サイが勝手に俺の大切な宝物に《アンちゃん》などという短絡的かつセンスのかけらもない名前をつけやがった。

 やめてくれ。それは俺の棺桶(あの世)にも連れて行きたいくらいの宝物だ。サイにとってはお気に入りの抱き枕だろうが、俺にとっては違う。

 全く…。入学式も事故って出られず、不登校になりかかった生徒が勇気を出して登校するというナーバスでデリケートなシーンが台無しだ。高校生活は無口で、目立たず、ひっそりと陰キャを突っ切ろうと思っているのを邪魔するな。

「あれ?元気になったんか。翔」

 聞き馴染んだ声に振り返ると、同じ塾で陸上のライバルでもあった梶 文也がいた。

「何故お前がここにいる」

 梶の偏差値でこの学校は無理だった筈だ。

 硬い髪の毛をツンツン立てたガッチリ体型の厳つい頭まで筋肉だった筈の梶が何故。

「ここが私学っていうのを忘れてもらっちゃ困るな、小林キュン」

 ナルホド。陸上推薦というヤツか。裏表がなく、サバサバした奴だから性格的には気兼ねなく話せる奴で嫌いではない。誰も知りあいのいない学校に初めて登校した時に、昔馴染みがいるという安心感がないといえば嘘になる。

 だが…。だがだ。何故ズボンのポケットから顔を出している長財布がなぜ萌えキャラの巫女なんだと小一時間ほど問い詰めたい。

 カバンにつけられたマスコットは金髪のメイドか。頭がクラリとする。俺は何度も言うがヲタクが大嫌いなんだ。こんなのと二人で並んだら、ポケットの中に水色髪のフィギュアを入れた変態と言われ(いや、まだフィギュアの存在は誰にも気付かれてはいないが)後ろ指さされるのも時間の問題だろう。

「何故、学校にまでその財布を持ってきている。お前はアホか。その厳ついキャラに似合うと思っているのか」

 塾で何度も目の当たりにした、使い込まれた財布。まだ使っているのだな。物持ちのいい奴め。高校入学とともに他の財布に変えれば、百歩譲ってコワモテなスポーツマンで済んだのだろうに…。

「側からどう思われても、俺が変な奴扱いされるぶんだで問題ない。俺の麗華ちゃんへの愛は変わらんし。それよりお前、クラスの場所分かってんのか?」

 前言撤回だ。多分こいつの財布が駄目になったところで、また新しい巫女の萌え財布になるのが関の山だろう。まあこういう、どこの言語だよと突っ込みたくなるような訛りや、一途で裏表のないところは好むべきところではあるのだが。

ヲタクじゃなければ。面倒見も何気に良いしな。

「いや、分からない。2組だという事以外はほぼ何も知らない」

「なら、俺と一緒に行こうぜ~」

 ガシっと肩を組んでくる。ニカっとした笑いが、俺と梶の行き先が同じだということを物語っていた。

 …まさか。コイツと一年間同じ学び舎で過ごさねばならないのか。

「…終わったな」

 俺が呟けば、ポケットの中に潜り込んだサイがクククと笑っているのが振動で解る。

 ポケットの中を探るフリをして、サイの頭をコツンと指で弾いた。


「小林翔です。事故で登校出来ていなかったけど、よろしく」

 なるべく目立たないよう。小声で無愛想に自己紹介する。

「色、めっちゃ白くない?陶器肌」

「顔小さくない?」

「でもなんか地味じゃん」

「眼鏡かぁ。これってダサめ?」

「でも何気にスタイル良くない?」

「顔、ほぼ前髪で全然見えないじゃん」

 女生徒のヒソヒソ話が耳に入る。賛否に分かれる感じが絶妙だ。これでいい。これならば、適度なヒエラルキーを維持できつつ、クラスから浮きはしないだろう。そう、安堵の息を漏らした時だった。

「小林は梶と親友であり陸上では良きライバルだったそうだな。梶から聞いているぞ。馴染むまで、梶の後ろの席に行って色々教えて貰え」

 担任の河合先生の爆弾発言が飛び出した。その瞬間、室内から悲鳴ともブーイングや茶化しともとれない声が上がる。チラっと前髪の隙間から教室内を見渡せば、デカいコワモテの男がブンブン両手を振り回していた。

「えー!!あの筋肉バカでオタクの親友なの?」

「まともそうなのに…もしかしてヤバいヤツなの?小林くん」

「梶のライバルって事は、運動神経相当ヤベェんじゃね?」

「梶の親友って、大人しそうな顔付きしてながら、突き抜けてるって事か」

 などなど、ありがたくもない言葉が飛び交っている。前半は女子の評価で、後半は男子の評価だ。良くも悪くも、梶は目立ってしまっているらしい。

 いくら、俺が目立たないよう努力しても、梶のありがた迷惑な配慮により、どうやらスタートから前途多難になりそうな気しかしなかった。


 女子は蜘蛛の子を散らしたように退散し、男子が興味津々といった無遠慮な視線を投げつけてくる。

「よろしくな。なんでも解らんかったら聞いていいもんで」

 席に着くと同時に梶が満面の笑みで振り返った。ただでさえ、細い目が糸のようになっている。ツンツンに立てた髪(硬くて何もつけなくても手櫛だけで立つらしい)

 頭も肩幅も全てがゴツい。身長は175cmくらいと似たようなものなのに、ゴリマッチョで地黒な梶と細マッチョ(今は運動不足でマッチョと言うとサイに否と言われそうだが…腹は六つに割れている)な俺が並ぶと変なインパクトが生まれてしまう。

 その上で梶特有の怪しげな訛りの入ったイントネーションが室内に響き渡る。

「梶、なんでもは無理だろー」

「お前が教えられんのは、巫女の萌えポイントかお前の独断と決めたオススメのラノベくらいじゃね?」

「確かに!!ま、俺のオススメのラノベといえば、百合ップルもの一択なんだが」

 梶がウンウン頷いて男子生徒どもの茶化しを間に受けて答える。

「梶キモヲタすぎ」

「梶の萌えなんか別に興味ないし、聴きたくもない」

 女子達から猛烈な悲鳴が上がった。

「安心しろ、俺もお前らみたいな三次元女子にはほぼ萌えんし、まあ、俺のボーダーを越えられたのは後にも先にも、コイツとあと一人くらいなぶんだで」

 馬鹿正直に答えなくても良いものを。

案の定、ホモだのBLだの女子が騒いでいるではないか。

「イケメン同士ならともかく、梶が相手とかマジ萌えない」

「小林君スタイル良さそうだけどなんか地味そうだし」

「梶はゴリラにしか見えないしね、小林君は前髪重くてダサそうだし想像したくない」

 女子達の気持ちに大いに賛成だ。俺だって、梶とゲイになるのは心の底からお断りだ。想像したくもない。やれやれ。初日から前途多難だ。


 そして、梶が微妙な立ち位置に俺を追いやったおかげで、休み時間は珍獣を見るような視線が俺に向けられている。所謂イケメンというくくりに入れられる生徒ならば、転校生よろしく、今頃揉みくちゃにされていただろう。梶に茶々を入れられなければ、目立たない生徒として、ひっそり陰キャを全う出来たというのに…まともに本にも集中できない。

 俺は席を立って、尿意も催してきた事だしトイレに避難することにする。

 教室から出た瞬間、サイがポケットからヒョコっと顔を出した。

「梶、この学校入れたんだな!感心感心」

「馬鹿か、学校では顔を出すなと言っただろう」

 というか、サイは梶を知っているのか。サイは少し嬉しそうな顔をして鼻歌交じりだ。

「みんなのいる前では、大人しくしてたし、伸びくらいさせてくれても良いじゃん」

「廊下にだって、まばらだが人もいるだろう」

「誰も気にしやしないって」

 そうでもないだろ。既にすれ違った女子生徒二人が俺のことを梶を見るような目で通り過ぎていったぞ。

「顔を出すな。ポケットの中に戻れ」

「えー、なんで」

「俺は今から、トイレに行く」

「へぇ、男子トイレか…見たことがないな」

 サイがキランと悪戯を思いついたかのように目を輝かせた。

余計な一言を言ったかもしれない。

「お前まさか」

「いや、実際男子生徒がどんな風に用を足してるのか興味あるだろ?女子みたいに恋バナしてたりするのかとか、お互いのモノを見比べたりしてるのか…とか」

 サイが身を乗り出したまま、入ろうとしなかった。

 普通の女子なら、キャっといって赤い顔して逃げる場面だろう。

「変態か、入らないと便器に投げ入れるぞ」

「翔が一体どれほど立派に育ったか見てやろうかと思ったのに」

「股間を見下ろして言うな下品な、本当に中身女子か」

「えー」

「冗談はさておき、便器に落ちるぞ…」


 無理やりポケットの中に押し込もうとしたところで、トイレから出てきた梶が、手洗い場に行く前に方向転換してこちらききた。そして覗き込むように肩を回してくる。

「へぇー!マジマジのセリカじゃん。お前もフィギュア持ってくるとは、中々やるなぁ。しかもパンダの着ぐるみ着てるのは、美少女フィギュアマニアの俺でも見たことねーよ」

 梶の声がした瞬間、達磨さんが転んだを彷彿とさせるようなスピードでサイが硬直した。

 顔は引き攣って、両肩が上がっている。間抜けなことこの上ない。本来のセリカのフィギュアは格好つけた振り向きざまのキリっとした表情だっだのを思えば明らかに違和感のあるポーズだ。それなのに、このパンダの着ぐるみを着た状態のフィギュアを見ただけで、マジマジのセリカだと分かる梶が怖い。

水色の髪のフィギュアなど、似たものが色々あった筈だ。新世紀エ◯ンゲリオンの某キャラだったり、re:◯ロの某キャラだったりと普通ならば見分けすらつかないだろうソレをアッサリ。梶のヲタクっぷりに一周回って尊敬の念さえ出てくる。

というかそれよりも美少女フィギュアマニアとはなんだ。

「…兄貴が悪戯しただけだ。誰がこんなものを好き好んで持ち歩くか」

 半ば本音をぶちまけた。

「え、いらないなら俺にくれよ。本来なら巫女か直毛黒髪ロングの子専門だけど、可愛いフィギュアならぶっちゃけ何でも良いし」

 確かに、梶の言う通りだ。元々、大嫌いなフィギュア(しかも何か変な霊が取り憑いてる)なのだから、梶に譲ってしまえば厄介ごとが一つ減る事になる。これ以上俺が変な奴に見られることもないだろう。ちらっとポケットの中の固まった状態のサイを見つめた。

 間抜け顔のサイがこちらを見ているように思えて。動かない筈なのに、何故か胸が締め付けられる。早々に退散願いたいとさえ思っている筈なのに。この俺が得体のしれない幽霊付きフィギュアに感情移入しかけているだと?狼狽える自分自身に動揺する。梶に渡せるかと言われたら答えは確実にノーだ。だが、何故と言われても理由は見つけられなかった。しいていえば、自分の後をついてくる捨てられた子犬を突き放せないような感情に似ているのかもしれない。

「いや、コレは兄貴が特に大事にしている奴だから、無理だな」

「そっかー!残念だが、そんなことは問題ない。俺にはこの財布があるから」

 ニカっと笑ってポケットから巫女の長財布を取り出す。

「お前、小便をしてきた汚い手でソレを持ってもいいのか?」

「ギャ」

 梶が短い悲鳴をあげて、財布から手を離した。地面に落ちる前にそれを受け取ってやる。

「拾ってもらった財布って確か5%~20%はお礼払わなきゃならないんだっけ」

「あークソっ!!しゃーねぇな、昼飯おごってやるよ」

 梶がいちいちトイレに戻って手を洗って戻ってくる。意外にキレイ好きなのに驚かされた。あ…でも、塾の打ち上げの時、ポテトチップスを箸で食べてたような奴だった気もする。俺は梶と入れ替わるようにトイレに入り用を済ませた。サイが出てこようとはしなかったのにホッとする。手を洗った後、ハンカチを入れ忘れている事に気が付いて、意趣返しのようにパンダの着ぐるみを着ているサイを軽く握りしめた。

「うわっ、濡れた手で」

 ポケットの中から、服が濡れたと悲鳴が上がっている。根がフィギュアなのだから、風邪は引かないだろう。なんとなく、そこにいるか確認したくなったのだ。ちらっと覗き込めば、サイが膨れっ面をしている。そこには梶に手渡されなくて少し安堵しているような色が混ざっていた。さっき梶は汚れた手で触るぐらいなら宝物の財布でさえ手を離していたが、俺なら汚れた手でたとえ宝物を汚してしまう事になったとしても、手を離さないかもな。そう思いながら、教室に戻った。


「疲れた」

 家に着いて、制服をハンガーにかける。

すると、忘れるなと言わんばかりにポケットからサイが顔を出した。

「おい、降ろせぇ~っ」

「…」

「いやいや無視すんなってば」

 壁にかけた制服が揺れる。

俺はカバンから教科書とノートを取り出して、机の前に座り制服を見上げた。

「俺にはやらなければならない課題がある」

「だから何だ」

「俺に早く更生して欲しいのだろ?邪魔をするな」

「失礼な…このサイが手伝ってやろうというのに」

「一文字書くのに何分もかかるフィギュアが何を言っている」

「ぐっ」

 サイが口をへの字にする。全く世話の焼ける奴だ。仕方がない…。

 制服のポケットからサイをつまみ上げ、机の上に下ろしてやろうとすれば、サイがアンちゃんを小脇に抱えながら、机に着地した。…こいつ、まさか一日中抱えてたのか。

「ところで、俺が更生したかどうかという見極めは非常にあやふやな訳だが、どうなればお前はミッションクリアとなるんだ?」

 今日俺は学校にも行ったわけだから、更生したと言えなくもないだろう。

 得体の知らない憑き物付きフィギュアとセットであるという事が、周知の事実となる前に退散して欲しいモノなのだが。正直この2日で慣れてきている自分が怖い。

 しかも、どうやらこの中に入っている女子度が行方不明なサイが、嫌いな性格ではないから尚のこと恐ろしくもある。このまま日数を重ねていけば、サイ(フィギュア)がないと生きていけないくらいに侵食されそうで怖いのだ。

 予想外の行動ばかりとるサイとのやり取りは楽しくもあり、変に打算的な自分をどこかに置いてこれるから人間らしくいられる。俺が怒鳴ったり呆れたり、手を焼いたり、動揺させられたりする奴は驚くほど少ない。だからこそ危険だと俺の中でのアラームが鳴り響いている。このままいくと、フィギュアに恋する危ない奴にもなりかねないからだ。

 一刻も早く更生して、情が湧いてしまう前に、サイには成仏して貰わなくては困る。

「そりゃあ、真面目に学校に通って、部活もやって、中学の頃のような溌剌とした生活態度になれば良いんじゃない?」

「なぜ疑問形なのかと、小一時間くらい問い詰めたい」

「いや、だって翔が幸せじゃなさそうだな…って思ってココに来たわけだから、幸せそうな姿見れたらお役御免になれるのかなぁ…って」

「至言ではあるが…」

「陸上…やんないの?」

 英語の課題を進めていた手を止めれば、サイが俺の顔の下まで来て、長く伸びた前髪を引っ張った。

「…やらないとは言っていない」

「走れる脚(才能)と体力あって、なんでやらんのよ。宝の持ち腐れじゃん?」

 じぃっと覗き込んでくる瞳がフィギュアだと思えないほど雄弁だ。

勿体ないと言っている。

「やるには何か欠けている。というか今はやりたいとは思わない」

 体を動かす事は嫌いではないが、今は部活に入って走りたいとは、思えなかった。

 事故の後遺症があるかもしれないのが怖いのかと自問自答するも、そうではない気がする。陸上で特待生という立場を貰っているのだから、怪我が治ったのならば入部するのが筋だろう。

 だがどうにもサイに勧められたからといって入部する気にはならなかった。

「あぁ、モチベーション…いわゆる萌えがないと?」

「萌えにまで堕とすな」

「梶いんじゃん?」

「逆に問おう、梶で萌えられると?」

 溜め息を一つついて、シャーペンを浪人回しすると、サイが飛び退いた。

「急に回すな、死ぬかと思った」

 それでも片手に掴んだアンちゃんを離さないのは、気合いなのか根性なのか。

「既に死んでいるのではないのか…」

「あー、まぁ…そんなようなものだけど」

 唇を尖らせている。

「なら、小さい事は気にするな」

「まぁ、梶で萌えられないにしても、燃えられるんじゃない?梶足速いからね~」

 負けるのが怖い?などと先ほどの仕返しだと言わんばかりに挑発してきた。

「その気になれば、俺だって負けないさ」

「ならば、このサイがコーチを買って出ようじゃないか」

 手を腰に当てドヤ顔でサイが申し出てくる。

「まだ、陸上部に入るとは言ってないのだが…」

「かといって、鈍ってブヨブヨの体になるのはどうかと思うけど?まぁ、サイは陸上において神と言っても過言ではないから安心しろ」

「少なくとも神ではなくて、幽霊だろうが」

 言い返せば、陸上部に無理に入れとは言わないからとV字腹筋を命じられた。


 久々にやる腹筋は、中々にキツく70回を越えたあたりで腹が引き攣ってくる。一瞬起き上がった状態で、止まれば机の上で同じようにサイが腹筋していた。止まる事なく。パンダが腹筋しているさまは、愛くるしい。思わず頬を緩めてスマホに手を伸ばしカメラを起動させた。カメラかビデオか迷って動画を選択する。20、30…俺が腹筋を中断したところから続けていた。リズムを崩す事なくやり続ける様をカメラ越しに見入ってしまう。

「翔、何をサボっている」

 ちらっとコチラに視線を投げたサイが、文句を言った。

 録画を止めてスマホをベッドに投げ捨てる。

「いや、フィギュアが腹筋するサマが異様で、YourTubeにでも流したら結構受けるのではないかと」

 そんな事は少しも思ってはいないが、意地悪で言ってやる。

「誰も信じはしないさ。コマ送りで撮った特撮だと思われるのがオチだ」

「…一理あるな」

「あっ、確かにフィギュアにそこまでの情熱をかけたヲタクの中のヲタクとして有名になれるかもしれない!」

「それは断じて拒否する」

 苦笑いして、もう一度腹筋に戻った。


「痛い…腹が…痛すぎる」

 一動作する度に腹が引き攣れる。当然だが、運動不足だった俺に待っていたのは、次の日の筋肉痛だった。横でピンピンしているサイが恨めしい。

 良いな、フィギュアは筋肉痛にならなくて。

「何か言いたげだけどさぁ、因みに、運動能力や筋肉は中身に付随してるから」

 サイが俺の内心を察したのか、フフンと笑った。元は超人かなにかなのか。男女か…。

 カッコつけてるのに、アンちゃんをいつも片手に抱えてるのがどこかきまらない。

 結局昨日の夜も、アンちゃんを抱えて眠っていやがったのだ。

 腹筋でヘロヘロになった俺を休ませてくれようとしたのか。それとも、俺が作った角皿のベッドに寝てみたくなったのか、サイはアンちゃん持参で一人で眠った。

 ただ、寝相が思いのほか悪くて、ハンカチで作った布団を跳ね除けていたので、(フィギュアだから風邪は引かないだろうがなんとなく)布団をかけてやった。物凄い根性があるかと思えば、幼稚園児かというほど幼い一面がサイにはあって、目が離せない。


「筋肉自慢なら、今日は自分でポケットに入るか?」

 挑発するようにまだベッドのヘッドボードにいるサイに言えば、サイがアンちゃんを手放すか迷っている。アンちゃんを持ってなければ、登るのも上等と言ったところだろう。

「むー、アンちゃんを持っていろ、よじ登りながらズボンをパンツもろとも引きづり落としてやるから」

 半ば本気でずり下げようとするかのようにサイが俺のズボンに片手でしがみついた。

 その衝撃でまだ、ベルトを通していないズボンがズルリと下がる。

「待て待て待て待て。それは困る」

 地面に落ちそうになるズボンを片手で止めた。そして、仕方ないなとばかりにアンちゃんごとサイを持ち上げてやる。

「あ、ちょっと待った!!翔、スマホ出せ!!」

 ポケットに移動させるのをやめて机の上に下ろした。

「なんなのだ急に」

 スマホを机の上においてやると、サイが真ん中のボタンにジャンプして起動させる。

「YaPoo!占いが見てない」

「は?」

「昨日はバタバタしていてそれどころではなかったけど、コレをチェックしないと1日が始まらない!」

「占いなど統計学だろう」

「うるさい!!タッチペン!」

 ブラウザを開こうにも一人では開けないらしく、苦戦しているサイが両手を広げた。

 どうやらタッチペンを出せというらしい。

「フィギュアに占いが当てはまるのか?」

 渋々、ペン立てから取ってやる。

「サイじゃない!!翔のだ!少しでも運気をあげた方が良いじゃん」

 まるで大筆書道パフォーマンスを見ているようだ。

「はぁ…」

「今日の獅子座は78点、ラッキーカラーは青、ラッキーアイテムは鍋」

 そういってサイがキョロキョロしている。

「まさかお前…ラッキーアイテムを持って行かせようとしているのではないだろうな」

 それでは、某人気バスケアニメの緑色の髪の人になってしまうではないか。

 重い前髪プラス眼鏡姿の俺がそんな物を持ち歩けば、変に目立つ事この上ない。

 その上ヲタクの梶とセット扱いにされつつあるだけに、コスプレをして学校に来るなと言われる事必至だ。

「違う違う。サイが重要視してるのは色の方、確かアクセサリーケースがあっただろ?ほら、あそこだ」

 勝手知ったるといった風で、衣装ラックの右上の棚をサイが指差した。何故、俺の部屋の事情を知っている。…幽霊というのは透視すら出来るというのか。

 アクセサリーケースを持ってきて開けば、どこで買ったのかも定かではない、天然石の丸玉が色取り取り入っていた。お洒落なレザーブレスレットの真ん中にたる円形の金具に入れる仕様らしい。その他にも天然石のブレスレットがいくつか入っている。

「青って事は…んー。ラピスでいこう」

 陸上のトレーニングに使うメリシンボールでも運ぶかのようにラピスラズリを本革ブレスレットにはめ込んだ。

「まさか…学校にこれを?」

「私立だから、こういうのには厳しくないっしょ?」

 ニカっと笑ってサイがそのブレスを指差した。フィギュアを持った上にこのブレスか…。

 変身願望がある中二病のヲタクのようだ。

 まぁ、100歩譲ってブレスが本革のお洒落な作りなのが救われるが。

「この石な御守りになるようなら、既にお前が除霊されていそうなものだがな」

「うるさい!!これくらいだまって着けてけ!ほら遅刻するから行くぞっ!!」

 口は乱暴なのに、赤ちゃんが母親に抱っこをせがむように両手を広げている。

 まぁ、俺の事を心配してくれているという事は伝わっているから、渋々ブレスを付け、サイとアンちゃんをポケットに忍ばせて家を出た。


「なぁ、翔。髪は切らないのか?」

「昨日の今日でそんな暇がどこにあった」

 人通りの少ない道に差し掛かった時、サイがポケットから顔を出した。

「まぁ、そうだけど…じゃあ、コンタクトにはしないの?」

「今は陸上をやってないからな。経済的には眼鏡で問題ないだろう」

 そう答えれば、サイは不満気だ。

「ところで、さっきから何で車道ギリギリを歩いている。歩道を歩いているのだから、真ん中を歩けば良いじゃん」

 サイに突っ込まれて、確かにそうだと気付いた。人ひとり分入れるくらいの隙間が空いている。無意識にそうしていたから理由を聞かれても困ってしまう。

「自転車が抜いていきやすいようにという配慮だろ」

「そっか、翔。いつの間にか気が使えるようになったんだねぇ」

 しみじみサイが頷く。まるで、苦労かけられまくった母親のような言い草だった。

「なんだ、その空気読まない奴みたいなな言い草は」

「読めないの間違いじゃ」

「空気を読もうと思えば、どこまででも読めるに決まっているだろう」

 なにせ先が読めまくってしまって人生つまらないのだから。

 所詮、一生付き合っていく人間ではない奴に脳を使うのが無駄に感じて読まないだけで。

「翔ってさぁ、面白いよね」

「お前にだけは言われたくないな」

 口元から自然と笑みが漏れる。

「こうしてるとさぁ、高校生って感じ」

 縁側でお茶を啜ってる婆さんのようにしみじみした感じでサイが呟いた。

「なんだ急に」

「馬子にも衣装?!」

「は?」

「制服、意外に似合ってるぞーって」

 サイの憎まれ口が嫌ではない。むしろ楽しいとさえ感じてしまう。

 自然と長い道のりが苦にならなかった。


 覚えたての校舎に入り、一年生の教室がある3階まで上がる。

 流石私学と言ったところから、綺麗に整備された校舎は中学の頃の校舎に比べ全てが綺麗だ。制服のブレザーや女子のスカート一つとっても、お洒落にデザインされている。

 自分を追い抜かしていく女子生徒の甲高い声を聞きながら、階段を上がり教室に入った。

 教室内では課題のやっていなかった女子生徒が借り回っている。

 朝からテンションの高い女子生徒が俺に一瞬視線を投げ、声を掛けようかどうか逡巡した後、俺の冷ややかな視線に負け退散していった。

 そんな中。朝、早めの登校をする事に決めているらしい梶が一人席に座って本を読んでいるのが視界に入る。安定の可愛らしい女の子が表紙のラノベ小説だった。その表情は授業中に見せるべきだろうと突っ込みたくなる程に真剣そのものだ。

 途中、面白いシーンに当たるたびに眉間が持ち上がって、僅かに表情が緩む。

 周囲はそれが当たり前といったように受け流していた。

 きっと入学してからこっち、周りからは空き時間全てを読書(というにはいささか高尚さに欠けるが…)しているタイプと認識されているらしい。

 折角の読書タイムの邪魔をしても悪いと挨拶しようか迷って、カバンを机に置けば、梶が本を読む手を止めて俺の方を振り返った。

「おっす。来たか」

 少し嬉しそうだ。意外にも、俺が登校する事は梶に歓迎されているみたいだ。

「あぁ、あまり家で療養しすぎても体が鈍るだけだからな」

「お、ついに俺と直接対決する気になったか?」

 案に陸上の事を指しているのは分かりきっていたがあえてとぼける事にする。

「梶、お前とでは勉強だと勝負にならないのではないか?」

 言った後で、しまったと墓穴を掘った事に気付いた。そういえば、異様に梶は勝負事が好きだったのだ。以前塾の模試で結果を掛けて、お互い自滅して女装する事になったのを思い出してしまう。

 梶が先程まで読んでいたラノベを机の中にしまって、こちらに向き直った。

「ソレ、おもしれぇじゃん?今日の五時間目にある国語の小テストで早速賭けるか?」

「無謀だろ」

「いやいや、ラノベ読みまくってるもんで、国語だけは問題ない」

 なるほど。たしかにラノベだけは読みまくってるな。ちらりと前の席の机の中を覗き込めば、教科書と同じくらいの量のカラフルな表紙のラノベがきちんと整頓されて収まってるし。

梶の目が、主人にボール遊びして貰う前の大型犬のように輝いている。

 尻尾があれば確実にブンブン振りまくっている事だろう。

「一体何を賭けるのだ」

「もちろん翔の陸上部入部一択、はい決まり!」

 梶が吠えたのに、クラスメイトが反応する。

 無駄にでかい声を出すな。こちらは目立ちたくはないというのに。

「なになにお前ら賭けすんの?」

「え?どっちが国語の小テストいい点取れるかだって?」

 一気に人だかりが出来てしまう。俺と梶の勝敗に昼飯を賭け始める輩が続出し、お祭り騒ぎになってしまった。これでは、有耶無耶にする事も出来ないではないか。俺は盛大にため息をついた。


「で、次の授業の小テストで梶に負けたら、陸上部入るワケ?」

 サイがちぎって渡したパンを食べ終え、ペットボトルのキャップのお茶を飲み干し聞いてくる。昼休み購買でパンを買った俺は屋上に逃避行していた。

 梶と一緒でも別に良かったのだが、勝負スイッチの入った梶は教室の机の上で、珍しく国語の教科書と睨めっこしていたので遠慮した。サイはと言えば、まだ昼食を食べている俺の太ももで、日向ぼっこを決め込みながら俺の反応を伺っている。

「今のところ入るつもりはないし、よほどのことがない限り入る事にはならん」

「うわ…すごい自信。でも梶、昔から塾の模試でも国語得意じゃなかったっけ?」

 確かに、梶は国語のテストだけは超進学校にも入れるレベルだったな。

 と昔のことを思い出して、購買で買ってきたパンの袋を開ける手が止まる。

「何故梶の中学時代の成績まで知っている」

「…あー…まぁ、あれだ、あれ。神の視点という奴だな。神様は何でも知っている…的な?例えば今日の翔のパンツの色がグレーだとか」

「それは、朝お前が引き摺り下ろしたせいで見えてしまったんだろうが…」

「あははは!」

「笑って済むものか」

「で、そんなことより勝算はあるのか?サイ的には梶応援してあげたい感じなんだけど」

 サイが、ちらっと俺を見ながら陸上部に入れば良いのにと独りごちた。

「勝算しかない。梶は大事な事失念してるからな」

 屋上から見える、第2運動場の青色のタータンが敷かれた陸上トラックが懐かしく感じながらも、見てないフリでパンを口の中に放り込んだ。


「なんて事だ!!!」

 梶の悲鳴が教室内に響く。配られたテストを見て俺はほくそ笑んだ。

 他の教科はともかく、国語だけは手を抜いて勝てるような相手ではないので、流石に予鈴が鳴った後、俺も一通り教科書に目を通した。

 梶の馬鹿め…。確かに本を読みまくっている梶は読解力もあるし、漢字もよく知っている。だが、それは現代文に限っては…だ。今回の範囲には古文も漢文も入っている事を梶は失念していた。百歩譲って古文ならば、単語の意味さえ分かれば読解も可能だろう。

 だが、英語が致命的に苦手な梶からしてみたら、同じ文法の漢文のハードルが上がる事は明白だった。俺は、全ての解答を書き上げる。出来た人から持ってこいという教師の指示に従い、教師の元に持っていこうと席を立つと、梶も同時に立ち上がった。

 その瞬間、クラス内がざわつく。

「梶と小林、もう出来たのかよ」

「二人とも早くない?」

「俺まだ半分」

「梶なんかより私らの方が馬鹿だなんて」

 周りの視線が俺たちに刺さる。


 しまった。俺としたことが。いきなり目立つ行為をしてどうするつもりなのだ。

 梶の勝負に乗せられて、つい全力で問題を解いてしまった。

 せめて、少しでも目立たないようにと、梶に先を譲る。

「同点なら先に出した方が勝ちな?」

「分かった」

 順に教師にテストを手渡した。教師が丸つけするのをクラス全員が自分のテストそっちのけで気にしているのがわかる。梶のテストに90点という文字が書きこまれた。

「中々、良い出来だな。漢文のケアレスミスさえなければパーフェクトだった」

 教師は皆んなも頑張るようにと、クラスメイトを叱咤激励する。

 そして、俺はといえば。墓穴を掘ってしまった。つい、梶との勝負に気をとられて、間違えるのを忘れてしまったのだ。

「すごいな小林。療養中もサボってなかったということか、素晴らしい。満点だ」

 教室中がザワザワざわついている。あ、コイツ実は賢いんだ…的な眼差しが痛い。

 勝負には勝てども、もっと重要なところで負けた気がする。俺の理想の高校生活からは既に外れかけているからだ。目立たず、ひっそりと。卒業して何年後かに開かれる同窓会で、完全に忘れられているような存在になりたかった。

 ポケットの中で、堪えられないらしいサイがクククと体を震わせて笑っているのが分かる。クラスメイトの視線が俺に注がれてしまっているというのに。

 慌ててポケットに手を突っ込んで、ポケットの震えを誤魔化す。

「やっぱ。翔はそれでこそ俺のライバルだ。こんな事じゃ諦めないぞーっ!」

「おー!頑張れヲタクの星」

 妙に熱い梶に乗せられるように、クラスメイト達が声援を送った。

教室全体が梶の空気にのまれている。

「じゃあ、次は何の勝負に持ち込もうかなぁ」

 ラノベを読むのも忘れ、作戦を練りはじめる梶の熱意に、俺はひっそりため息をついた。


「梶、楽しそうだったなぁ」

「疲れた」

 放課後。皆が部活に向かう中、俺は傍目には一人(実際はサイと)帰路についていた。

 あのテストの後、掃除勝負だと言い出した梶に駆り出され、100mはあろうかという廊下の端から端まで、雑巾掛け競争なるものを持ちかけられた俺のメンタルは終わっていた。

 何故、1組から10組まである無駄に長い廊下で雑巾がけ競争などと、くだらないことを言い出すのかと、小一時間問い詰めたい。

 本来、掃除しなければならないのは自分のクラスの廊下だけだろうが。やらなければ不戦敗などと、無茶振りルールで無理やり雑巾掛けする羽目になった俺を誰か慰めてくれ。

 他クラスからも注目の的になってしまうとは、嘆かわしい。

 トルクのある梶の方が圧倒的有利な賭けだった筈だった。

 細身の俺は元々400m専門だったし。梶は100m専門の選手なのだから、雑巾掛けとなったら俺の負けは確実と言っても良いほどだった。

「梶よ…そういう勝負を持ちかけるとは…大人げないとは思わないのか」

「フッ…神に愛されたその才能を活かさないなど、許されるはずはない!翔を陸上部に入れる為ならば、俺は手段を選ばない」

 重度の中二病を患っていらっしゃる台詞に頭がくらりとした。

「俺がまだ全回復してはないと承知の上でそれを言うか」

「ここにいる教師までもが、翔の陸上部入部を待ってるもんで、問題ない」

 微妙な正論だ。確かに陸上特待の俺を陸上部に入れたいのはこの学校の総意だろう。

 現に教師達までが物見遊山的に勝負の行方を見守っている。

 仕方ないとばかりに上着を椅子に掛けた。そして、スタートと同時に歓声があがる。

 案の定、トルクのある梶が有利でレースが展開していた。ただ、神は俺を見捨ててはいなかったのだ。なんと、梶がいつも尻に入れている巫女の財布がゴールまで10mといったところでスルリと尻ポケットから滑り落ちた。

 そのまま無視してゴールに行けば確実に勝てた筈だったのだ。

 だが巫女命な梶のヲタクの血がそれを許さなかったらしい。

「あー!!!俺の麗華ちゃんが」

 急ブレーキで止まり、財布を大事そうに抱え上げている間に、俺が抜き去ってゴールしたというわけだ。正直、サイを入れたままのブレザー姿で雑巾掛けしなくて良かったと胸を撫で下ろした。あそこで、脱がないまま勝負していたらと想像しただけで、身震いしたくなる。フィギュアと巫女(麗華)の萌え財布が散乱した廊下など想像したくもない。

 我ながら石橋を叩く性格で助かったと思う。梶によって、目立ちたくない俺が目立ってしまっていたという多少(なのか?)の犠牲で済んだのは不幸中の幸いだろう。


「梶、負けたくせに笑ってたな」

「ただでさえ細い目が更になくなっていた」

「翔も笑ってたな」

「あれは、あまりに梶が愚かだから苦笑いしていただけなのだが」

「でも、なんか。翔が笑ってるのは嬉しいかも」

 サイがめずらしく女の子っぽく笑う。柔らかく全てを包み込むようだった。本当に俺の幸せだけを願っているのだというのが伝わってくる。その表情があまりに優しげで、胸の奥がキュンと締め付けられた。

 フィギュア相手に感情を揺さぶられている事に動揺しながら誤魔化すように空を仰いだ。

「そうか」

「うん。翔、クールぶってるけど負けず嫌いだし」

「初耳だな」

 負けず嫌いなら、テストでずっと満点を取る事も可能なのだから取っていたと思うが。

 少し不服に思いながら苦笑する。

「うん。人にって訳じゃなさそうだけど、自分に負けず嫌い。決めたラインに届かないのを嫌いそう」

「ム…」

 図星を指されて口をつぐんだ。

「あー!!あそこに美容室あるね。翔お金持ってる?」

「まぁ、なくはないが…」

 サイがキラキラ目を輝かせている。嫌な予感しかない。

「髪切ってこうよ」

 言うと思った。母からも兄からも野暮ったいと鬱陶しがられているのだから切るのはやぶさかではないが。

「面倒くさい」

「折角顔整ってるんだから、出さなきゃ勿体ないじゃん」

「外見など、どうでも良いではないか」

 むしろ、外見で判断してくるような奴が近寄ってくることの方が鬱陶しい。

「えー!切ろうよー!じゃあさ、こうしよ?」

「は?」

「ジャンケンで負けたら、そこの美容室で髪の毛切る」

「…え?そこの美容室の腕がいいかも分からないだろうが」

 建物自体が昭和初期を思い出す作りで不安しかない。エッジの丸い四角い大きな窓に『ビューティハウス近藤』と書いてある。窓の中を見るとあきらかに、おばちゃんというよりおばあちゃんに近い女性が暇そうにテレビを見ていた。

「出さなきゃ負けね。ジャンケンポン」

 とっさにチョキを出してしまった俺はグーを出したサイに負ける。

「本気か?」

「平気平気、実は隠れた名店だから」

 サイの言葉に半信半疑になりながら、店のドアを開けた。

「いらっしゃい」

 コロンと丸い体型のおばあちゃんが出てくる。おばあさんとか年配の方とか言うイメージではなくて。おばあちゃんと言った感じの柔らかい印象を抱くお日様のような人物だった。ポケットの中のサイが俺の胸板に早く言えとばかりにパンチを繰り出した。

 思いのほかのパワーに思わず胸元を左手で押さえる。

「うっ」

「あらぁ、そのブレスを使ってくれてるのねぇ」

 嬉しそうにおばあちゃんが微笑む。

「これは?」

「ウチの常連さんにだけ、作ってあげてるブレスレットなのよぅ。趣味でね」

 チラリと店内を見渡せば、確かにケースの中に天然石のアクセサリーが並べられていた。

 自分が持っているということは、誰かがこの店に来ていて、その誰かから貰ったという事だ。年齢からしたら数珠っぽいブレスになりそうなものだが、意外にも東京の若者が通る露店で売ってそうな小洒落たものばかりだった。

「そう、なのですか。実は髪を切ってもらいたくて」

「いいよ。いいよ。ここに座りなさいなぁ。学生さん身構えなくて良いからねぇ。カットならまけておくから」

 人の良さそうな顔でウンウンと笑った。初めて会った人間に不信感や不安感を抱かせない親しみやすい声音が心地良い。まるで、田舎のおばあちゃんの家に帰省する時のような安心感がそこにはあった。先程までの不安が嘘のようになくなっていく。

「ありがとうございます。お願いします」

「あらあら、しっかりお礼が言えるなんて偉いねぇ」

 まるで子供扱いなのがこそばゆくもあるが、実際、孫くらいの年齢でしかないのだから、仕方がないだろう。ケープを着せられ鏡の前に座ると、おばあちゃんが櫛とハサミを手に持った。長年使い込んだハサミは手入れがしっかりされている。ゆったりした緩い言葉とは裏腹に、おばあちゃんのハサミの動かし方はプロそのものだった。

 ハサミの使い方は、カリスマ美容師と言われる人と同じような最新のカットの仕方だ。

 7:3分けの文豪のようにされる事を覚悟していた俺は拍子抜けしてしまう。

「凄い」

 思わず漏らせば、おばあちゃんはコロコロ笑った。

「イケメンが好きでねぇ。ついアイドルの髪型を曾孫で試してみたくなって研究しちゃったのよ~」

 確かに、店内に置いてある雑誌がヘアカタログではなくアイドル雑誌なのが微笑ましい。

 手際よく切り揃えられた髪型が予想以上に自分に似合っていて驚いてしまう。

「やっぱ、元が良いと映えるわぁ」

 おばあちゃんも嬉しそうだった。

「スッキリしました!感謝します」

「いつでも切ってあげるからまたおいで」

 通常3000円程がカットの相場だというのに、おばあちゃんが取ったのは、500円のみだった。

「良いのですか?」

 あり得ない値段に顔が引きつってしまう。

「あたしくらいの歳になると銭金じゃないのさねぇ。目を楽しませてくれただけで充分」

 そう言って、結局おばあちゃんは500円しか受け取らなかった。


「ね?損はしなかったでしょ?」

 サイが店を出た途端嬉しそうに顔をポケットから出してはしゃぐ。

「サイは知ってたのか。何者だ、あの人は」

 お店の外観のダサさとは裏腹に、オシャレの最先端を行くような技術力の高さだった。

「実は芸能人のカットしてるスタイリストさんが参勤交代してるような師匠的な人?あそこのブレスを付けてる芸能人も多いんだよ」

「どおりで只者じゃないと思った」

「だから、お代は他の大金持ちな人から貰ってるから、趣味なんだってさ」

 確かにあの外観のイメージを無視して入れる若者はそうはいないかもしれない。

「良い店だな」

「だな。眼鏡越しではあるけど、翔の綺麗な顔が見れてサイも嬉しい」

 あけすけなく褒められるのは慣れてなくて、どうも落ち着かない。

「男に綺麗はないだろう、それは褒めてないぞ」

「あ、ゴメン嘘がつけない性格だから」

 テヘペロ的に片目をつぶっているサイは撤回する気はなさそうだ。この取り付かない潔さが好ましい。フィギュアにしておくのが勿体ないと思い始めている。

 少しピノキオのおじいさんの気持ちが解ってしまって、誤魔化すように家路を急いだ。


「あら、随分さっぱりしてきたわね!その方が良いわよ。で学校はどう?」

 母が食卓にお味噌汁を並べながら俺を見た。少し心配しているような、それでいて安心しているような微妙な表情だ。兄の海斗も俺の様子を伺っている。

 四角いテーブルに母と向かい合わす形で俺と海斗が並んで座るのが常だ。

 母が仕事で遅かったり、海斗が遅かったりで中々家族3人が揃う事が少なくなっているのだが、久しぶりに揃って夕食を食べる。料理は近所の東友のお惣菜とサラダがメインだ。

 女手一つで育てて貰っているのだから、お味噌汁を作ってくれているだけで感謝をしなくてはならないくらいだろう。

 俺が作れれば良いのだが、レシピを見てもまともに食べられるものにならず、食材が無駄になるからと、母に作らなくてもいいと懇願されてしまった。

「学校は流石に私学といったところ。とても設備が整っていた」

 俺が言えば、母は苦笑いを浮かべている。

「普通、聞かれてるのはそこじゃないでしょ。分かってるくせに面倒くさがりだなぁ、翔は…」

 丸っこい体の海斗が大盛りのご飯が付けられた茶碗を片手に持ちながら、俺の顔を見て吹き出した。まあ、そうだろうな。話すのが面倒だったので、当たり障りのない会話で済まそうとしたのが海斗にはバレているらしい。さすが付き合いが長いだけの事はある。

 男のくせに柔和な雰囲気を醸し出している割に鋭い。

「学校は楽しい?同じ中学から行った子はほとんどいないんでしょ?友達は出来た?」

 質問攻めだ。母が小学生の子供に聞くような事を聞いてくる。

 まぁ、いくつになっても子供は心配なのだろう。

「梶がいたから問題はない」

 本音を言えば、梶がいたから振り回される日々になりつつあるのだが、誰も友達がいないというよりは、安心するだろう。

 大きめの野菜たっぷりな肉団子を箸で小分けに切りながら食べ進める。

「梶君って同じ塾だった子?陸上やってた」

「そう、同じクラスだった」

 母がご飯を食べる手を止めた。若干顔が引きつっているのは気のせいだろうか。

 まぁ、梶の趣味を考えたら心配になるのも無理はないが。

「何か言ってた?」

「別に何も聞いてはこなかったな、そういえば」

「そう…」

 沈黙が訪れる。基本俺は話を膨らませるような会話をしないので、盛り上がらないのは致し方ないだろう。

「梶君で思い出した!!!そういえば、僕。梶君とゲーム友達なんだよ?実は」

 海斗が沈黙を破るように口を開いた。

「あら、そうなの?」

 母が声をひっくり返す。

「この前ゲーセンの音ゲーコーナーで見かけて意気投合してLINE交換しちった」

 テヘペロと言った感じで海斗は呑気にウィンクなんかしていやがる。流石ヲタク。

「世の中狭いな」

 思わず呟いてしまう。

「麗華ちゃんのテーマ曲、フルコンボしてSSSランク出してる奴がいて、スゲェって言ったら、どこかで見覚えあるな…ってなって」

「ナルホド」

「翔のお兄さんデスよね。って敬語だったから驚いたよ。礼儀正しい、しっかりした良い子だね」

 海斗の目から見たら、あのヲタクがまともに見えるのか。

 あ、そうか。海斗もヲタクだから気にならないのか。

「梶の癖に敬語が使えるとは」

 国語の成績を考えれば敬語が使えてもおかしくはないが。イメージではない。

「梶君、翔の事心配してたから、状況を説明しといたよ」

 海斗の言葉を聞いて、安心したのか母がホッと息を吐いた。

「なら、一安心だわ」

「翔も梶君がいたら退屈しなさそうだね」

 海斗の言う通り、退屈はしなさそうだ。というより、既に振り回されている。

 ヲタクの癖にクラスの中心にいて。陰キャかと思いきや、はっちゃける時には半端なくはっちゃける。お陰で目立たず静かな高校生活を送る野望が既に崩されかけていた。

「まぁ、退屈はしないかもな」

「梶君、相変わらず陸上続けてるのかい?」

「ああ。お陰で陸上部に入れと毎回せっつかれている」

 今日も、あれやこれやとカケをもちかけられたくらいだ。

「翔は高校でも陸上やるの?」

 母がおずおず聞いてきた。元々中学の時に陸上部に入るのを断固拒否していた人だ。

 他の部活よりも大会が多く、入部してからも保護者に負担が多いと愚痴っていた。

 片親だから負担が母に全部いってしまうのを防ぐ為に、送迎も公共の交通機関を使う事で納得させたのだ。大会が多かったお陰で、スポーツ特待で授業料無料で入学出来たのだから母としては複雑なのかもしれない。

 だからなのか今回もどうせ反対するだろうと思っていたが若干その時とは様子が違う。

「正直、迷っている」

「そう、好きにしてもいいのよ?」

 母の口から、好きにしてもいいと言われた事など一度もなかった気がする。

 母は陸上を続けろとも辞めろとも言わなかった。


「翔、お腹減った」

 アンちゃんを下に置き、まるでキスでもするように腕立てしていたサイが、態勢を変え座り直して俺の方に手を伸ばした。食べ物をよこせと言う事だろう。間食用だといってくすねてきた、砂糖がいっぱいかかったデニッシュパンを小さく千切って分けてやる。

「よく、そんな甘いものばかり食べられるな」

「翔は甘いもの苦手だもんな。あ、家族に変な目で見られなかった?」

 美味しそうにサイがパンを頬張りながら言う。

「それはもう、異様な目で見られたな。熱でもあるのかも心配されたさ」

 肩をすくめてみせた。

「脚とか体調はもう平気なのか?」

「ああ、すこぶる調子は上々だ」

 いっそ家で療養といって寝転がっていた日々よりもはるかに調子が良い。

「なら、もう陸上やれんじゃないの?」

「それとこれとは別だな」

 母からも反対されているわけではないし、体を動かす事自体嫌いでもない。

 だから、何故陸上部に入部を渋っているのかと聞かれても、明確な理由が見つからなかった。しいていえば、陸上部に入り充実した生活を送ってしまうと、目の前のサイがいなくなってしまう可能性が上がってしまう事くらいだ。ただ、サイがずっとここに居続けられるものではないだろう事も分かっている。本来あるべき場所に帰えしてやるべきなのだ。

 天女の羽衣を取り上げた男のようだなと自重する。これ以上、サイがいることが当たり前になる前に戻してやる協力をしなくてはならないだろう。そう考えてしまっている事自体、自分自身の感情がコントロールできなくなってきている事を自覚する。

 ムスっとしながらもパクパクデニッシュを食べては、その美味しさに顔を緩め、また我に帰ったようにムッとした表情に戻すサイが微笑ましい。

 ちょこちょこ一生懸命動くサマは着ぐるみを着ている事もあって小動物のようだ。

「普通のコスチュームに戻すか?」

 ファブリーズの匂いも取れ、乾いている事だしと勧めてみる。

「いい。サイは翔が作ってくれたパンダが気に入ってるから」

 口元にパン屑をつけながら、サイが満面の笑みを浮かべた。嬉しそうに、パンダの格好でクルクルバレリーナのように回っている。なんとなく、子供が生まれた時に子供服を買い漁る親の気持ちのようなものが分かってしまい苦笑した。仕方ない。今度はパンダを作った時の白いタオルを使ってウサギでも作ってみようか。そう思ったのがタイミングとでもいうべきか、調子に乗って回り続けていたサイが机の上に置いてあったコップに激突して水浸しになる。幸いジュースではなかったから良いものの。パンダの着ぐるみはびしょ濡れになってしまった。

サイは悪ふざけが過ぎた事を自覚してか、借りてきた猫のようにシュンとしている。

「本当にたいしたドラえも○っぷりだな」

「煩い。役立たずでわるかったな」

 タオルハンカチに包まりながら、サイは体操座りで分かりやすくいじけた。

「課題がまだなのだがな…」

 仕方ないと、苦笑して裁縫セットを取り出してくる。

「課題なら少しは役に立つもん」

 くるっと俺から背を向けてサイが呟いた。

「分かった、ならば終わったら一緒にやって貰うとしよう」

 俺の言葉でサイの表情がパッと明るくなる。

「翔は目が悪いから、サイが針に糸を通してやろう」

 糸通しに刺した針に糸を通すサマは、まるでロープを持って綱引きしているようで微笑ましい。どうしても糸巻きの糸を外せなくて悪戦苦闘しているのが可愛くてつい手を貸したら睨まれてしまった。何もかもが一生懸命で、見ていて飽きない。針に糸を通しただけで、大会で優勝したかのように喜ぶサイが無邪気に思えた。本来面倒以外の何物にも思えない、手芸や課題さえ楽しめてしまう。

 サイは、もしかしたら幽霊ではなくて魔法使いなのかもしれない。


「今度は梶、何の勝負って言い出すかなぁ」

 新しく作り立ての真っ白なウサギの着ぐるみに身を包んだサイがポケットの中から顔を出す。高校が5km離れている事から、自転車で通学する事にした俺は、ハンドルが離せないので顔を出すサイを押し込むことが出来なかった。ひょこんと胸ポケットから顔を出す仕草はなんとも可愛らしくはあるのだが、それは俺が女子高生ならばと仮定しておこう。

「さしずめ体力テストだろうな」

 入学してすぐの体育はラジオ体操と体力テストだと相場は決まっている。しかも、時間割プリントの今日の予定はほとんどが体育になっていた。一年から三年までやる種目の順番がかかれている。なるほど、ローテーションをする事で1日時間を割くだけで済むからかえって効率的かもしれない。中学の頃は、五月あたりの体育の授業が全て体力テストになっていた気がする。天候が悪いと種目が体育館に変更になり、遅々として種目が終わらなかったのが懐かしい。

 だが、どうやら城東高校は体力テストを1日で全種目終わらせるらしい。器具を出すのも1日で済むから、生徒達の体力さえあるというのならば、その方が世話がなくて良いだろう。勉学にかけていたり文化系にかけている奴らは、体力テストは捨てているだろうし、運動系の奴らはお茶の子さいさいというわけか。

 流石、何人ものオリンピック選手を輩出しているようなスポーツ強豪校だけの事はある。

 そういえば、誰か中学で満点を叩き出した奴がいたような気がする。中々満点を中学生が取るのは難しいと当時先生が集会で言っていたのが懐かしい。

 体が堅い自覚があるので、満点は無理だろうが、梶が勝負を仕掛けてくるのは分かり切った事なので、人事は尽くそうかと思う。


「なんか、梶応援しそうなサイがいる」

「それほど俺と離れたいというのか」

 早く成仏したいのかと、サイの言葉がサクっと胸に刺さる。

「そういうわけじゃないない」

 サイが慌てて否定した。即答ぶりが少し、いや…正直に言おう。かなり嬉しい。

「どういうわけだ」

 信号で止まったので、自転車を降り視線をサイに向けた。

「翔が一番でフィニッシュして活躍するところ、また見たいなって思うだけかな」

 サイが思い出すように目を細めている。

フィギュアに入る前の俺をサイは知っているらしい。

「考えておこう」

 入部する事に気は乗らないが、逆にそこまで陸上をやりたくないわけでもない。 

 こうなったら運を天に任せて、梶が持ちかけてくるであろう勝負を徹底的に楽しんでやろうではないか。心のモヤモヤが少なくなっていくのが解る。そして、梶に負けた時にそういう運命だと受け入れて、陸上部に入部しようと心に決めた。


 案の定、梶のやる気は満々だ。

「翔来たな!!あれやけに2.5次元感出たな。今日こそは勝って、お前を陸上部に入れてやるぜ」

 教室のドアを開くや否や椅子から立ち上がって、ビシッと指を指してくる。頼む、窓際の後ろから二番目である梶の席と入り口の扉は対角線上に位置しているわけで。

 別に前後の席なのだから、席に着いてからでも良いのではないかと思わなくもない。

 教室にいる生徒達は興味津々という目をこちらを見てくる。その視線に少しずつ慣れつつある自分が怖かった。眼鏡をくいっと押し上げ、その不躾な視線達をやり過ごして席に向かう。挨拶には、会釈で返した。

「声がデカイ」

 席についてから文句を言えば、梶がニヤっと不敵な笑みを浮かべる。

「皆んなの前で宣言すれば、逃げられないかなぁって思ったもんで」

 頭まで筋肉かと思ったが、中々の策士だ。

「別に逃げも隠れもしない。勝負はなんだ」

「もちろん、俺ときたら体力テストだろ」

 梶が言った瞬間、教室内が盛り上がる。

「八種目あるわけだが、勝ち数だと偶数だから同点になる可能性があるな」

 握力、反復横跳び、上体起こし(腹筋)、ハンドボール投げ、50m走、1500m走、立ち幅跳び、前屈、計8種目。

 各種目、記録によって1点から10点までで振り分けられる仕組みだ。

 それぞれ種目によっては得意不得意があるだろうが正直、勝算は五分五分だろう。

 だてに中学時代、陸上でやりあった仲ではない。

「…確かに。だったら合計点で勝負するぶんだで、問題ない」

「受けて立とう。今日の体育は握力と前屈だったな」

 正直言うと、どちらも得意ではない。

 身体は柔らかい方ではないし、まして握力など言うまでもなくて、女子や文化部の奴らよりはあるものの、この速筋のつきにくい身体では不利以外のなにものでもない。

「パワーで勝る俺が有利な事ね?はい、もう翔の陸上部入り確定だろ」

「やってみなければ解らないだろう」

 梶は失念しているようだが、記録勝負ではないのだから。

 例えば50m走なら6.6秒以下のタイムなら5.8秒も6.6秒も10点という事だ。

 スパイクを履いて計る訳ではない上に50mと加速がつく前にゴールがくる短距離では差が出ないだろう。ようするに点数勝負なのだから、勝てないまでも点数さえ取っていけば良い。だから毛頭諦めてやるつもりはない最善は尽くす。簡単に梶に負けてやるつもりはない。何故ならば最近自覚したというか、サイによってさせられたのだが、俺はかなりの負けず嫌いのようだ。体育の授業まで精々体力を温存しておこう。


「梶に勝ちたい?」

 体育の授業前に、皆んなが先に着替えて出て行った所で、サイが椅子に引っ掛けておいた制服のポケットから出てきて、器用に椅子の座面に着地した。

「好き好んで負けたくはないな」

「うー。私としては、梶を応援したいんだけど、翔が負けたくないなら協力しちゃおっかな」

 それほど、俺に陸上をやらせたいのか。でも、俺が負けたくないと言えば、協力してくれるという。サイの優しさが伝わってきた。

「何か秘訣でもあるのか?」

「翔も梶も身体硬いよね」

「認めたくはないがな」

「座って両足揃えてつま先持てる?」

 サイが座って前屈してみせる。根が柔軟や筋トレを欠かさないサイは余裕でつま先が持てる。俺も渋々、教室の床に座ってつま先方向に手を伸ばしてみた。つま先に余裕で届かない。つま先というよりは、膝の方に近いと言っても過言ではない。マズイなと思う。長座体前屈は座った姿勢から器具をつま先方向にどれだけ移動させられるかだ。今の状態では20cm位しか動かない計算になる。点数で言うならば、1点から2点と言ったところだ。

「硬い硬いとは思っていたが、ここまでとは…」

 サイが頭を抱えた。

「不本意だか、いつもこの硬さで足を引っ張られていると言っても過言ではない」

「ドヤ顔で言うな。秘伝を授けるしかなさそうなレベルなんだからさ」

 座面に腰を下ろしたサイが、両手を額に上げてグイッと押し上げた。

「こうして、前屈の前に額をグイッと上に引っ張ると一瞬身体が柔らかくなるんだよ」

「こうか?」

 眼鏡を外して、グイッと引っ張ってから前屈をしてみる。

ナルホド。

理屈はわからないが確かに何時もよりも柔らかい。なんとかつま先を触れるレベルにまでなっている事に驚愕する。

「眼鏡なくて目を開いてる翔。久しぶりに見た」

「なんだそれは」

「いや、寝てる時には見てるけど、やっぱ眼鏡ないの良いなぁ…」

 ボヤけた視界なので、サイの表情が見えないがしみじみと言ったのは分かる。

「褒めても何も出ないぞ!そんなことより、暇だからってほっつき歩くなよ?」

「分かった分かった。アンちゃんをポケットに置きっ放しだから戻る」

 そう言ってサイがスルスルと制服のポケットに戻って行く。

 それを見届けて、俺は体育館シューズを持ち教室を後にした。


 体育館に足を踏み入れれば、梶が念入りにストレッチしているのが目に入る。相当ヤル気モードのようだ。オーラの色が見えるのであるならば、真っ赤に燃え盛っているだろう。

 それに対して、他の生徒達のやらされてる感が異様だ。

 皆、世間話をしながら、授業がサボれるからまぁいいかと言った雰囲気だった。

 ウチのクラスは前半で体育館内の種目を終わらせる順番らしい。

 ストレッチも兼ねられるから、記録的には出やすく他クラスよりは楽に回れるだろう。

 最悪なのは1500mから始めさせられるクラスで、ここで力尽きてしまったら、他の種目がヘロヘロになるであろう事は、容易に想像できた。体育委員の男女が、クラスのプラカードを持って握力計の前で、集合を呼び掛けていた。記録がつけやすいよう名簿順で計測が行われるらしい。名字が梶と小林の俺だと、梶が先にチャレンジする事になる。

 点数勝負の場合、後攻の方が有利だろう。既に名簿の早い奴らがどんどん終わっていっている。文芸部の男子になると握力30ない奴がいてギョッとしてしまう。女子達は色気付いて、明らかに35を超えそうな奴らが28あたりで「ムリぃ~」といって手を抜いているのが解って苦笑する。俺の倍は体重があろうかという女子が20しかなかったと猫なで声で男子に擦り寄っていた。そこは、全力でやった方が好感が持てるだろうに。俺ならば、非力で女子女子した子よりも、体育館内を沸かせるほど頑張っている方が良い。

 ふと、サイの顔が浮かんで、慌てて振り払う。

 フィギュア相手に何を思っているのだ、俺は。


「梶スゲェ、ヤバ!!右64だって」

「マジ、何者なの梶って」

「これぞヲタク界に新風を巻き起こすヲタクの中のヲタク」

 考え事をしている間に梶の番がきてたらしく、歓声が上がる。

 見れば、真っ赤な顔をして左手の計測に入っていた。

「左でも58かよ。やべぇ梶、本気で怒らせたくねぇ」

 体育委員男子が悲鳴を上げている。何事にも全力投球で、見ている方が気持ちいい。なるほど、64と58という事は平均が62になるから、梶の握力は10点ということになる。

「フッ!俺と勝負した事を後悔するぜー!!もう翔の陸上部入は決定したようなもんだし、楽しみだなぁ。まぁ、翔クンも頑張って」

 不敵な笑みを浮かべて、梶が俺の肩をポンと叩いた。


「次、小林」

 俺の順になったので、指の長さに器具を合わせる。

「え?!ナニソレ」

 梶が素っ頓狂な声を上げた。

「何と言われても、自分の手の大きさ、指の長さに器具を合わせているだけだが?」

「え?え?えぇ~!!!そんな事出来んの??」

 どうやら、合わせる事が出来るのを知らなかったようだ。脳筋め。

「それは、一番力が入るところで合わせた方が記録は伸びる事は分かりきった事だろう」

「え?!マジで?そーなん?ソレ早く言ってくれよ~」

 梶がジタジタ大暴れする。それを周囲が呆れたような目で見ていてもおかまいなしだ。

 頼む、握力一つで注目を集めないでくれ。だいたい、点数勝負なのだから10点取れてれば良いものを。化け物扱いの梶のライバルだという事で、視線が集まってしまう。

「右42 左40」

 あまりに平凡な記録に、みんなの視線が、だよなぁそんな化け物が何人もいてはなるものかも安堵の声をあげていた。平均41という事は6点、梶とは4点さという事になる。

「フッ俺の勝ちだな」

「勝負は8種目終わってみなければ解らないさ」

「楽しくなってきた」

 梶がその場でぴょんぴょんジャンプした。子供のような奴だな。苦笑して、次の種目である上体起こしのコーナーに移動した。上体起こしは、A.B.Cチームに分かれて行われるらしい。Aがやっている時BとCが数を数える事になる。俺も梶もAチームだった。

 名簿順的に俺と梶の間に二人いる事から隣合って計測する事になる。プリントに書かれた10点の回数を確認し、30秒で35回以上の腹筋をやればいいと把握した。

 スタートの合図と共に、安定したペースで腹筋を始める。正直、数日前からサイにやらされている腹筋のおかげか、回数をこなしてもバテなくなっていた。

 隣の梶は、ともすれば補助者が浮きそうな勢いで、回数をこなしている。

どこまでも、全力だな…。と呆れてしまうほどだ。梶は25秒のあたりで35回を超えている。残り5秒でペースが落ちて38回で終えた。梶は肩で息をしながら、皆に讃えられている。派手な奴だ。俺はといえば、安定したペースを守って35回ジャストで終えた。

「上体起こしも俺の勝ちだな」

 左手で腹を押さえながら、梶が右手をあげる。

「確かに、記録だけみたらな。今回点数は10点で同点だ」

 2種目の段階で4点差。まだまだ先は解らない。


 3種目は反復横跳びだった。

 上体起こしと同じように計測するため、また梶と一緒にやる事になる。

 眼鏡が邪魔になりそうだからと補助者の一人に持っていてもらう事にした。

 眼鏡を外し補助者に手渡した瞬間、補助者がギョッとする。

「小林って、そんな顔だったんだな」

 そんなとはどんなだ。失礼な。

 昨日まで、前髪が重くて顔が分からなかったのだから仕方がないといえばそれまでだが。

「そうそう。翔はガチで2.5次元だから。百合推しで二次元の女の子にしか興味ない俺が唯一首筋に噛み付きたいって思った男だで」

 俺が口を開く前に梶が嬉しそうに答える。俺の肩に腕を回して、首筋に息を吹きかけてきやがった。思わず、背中に寒いものが走る。BLだ BLだと腐女子らしい地味目女子達が騒ぎ始めた。その数秒後には派手目女子の集団までもが賑やかしくなった。

「誰、あそこのイケメン」

「あんなハイレベルな子ウチにいた?」

「美少年?美青年?頭小さっ」

「え、あれ誰?色白~」

「なんで梶が馴れ馴れしくしてんの?…ってアレ、小林君じゃない?」

 黄色い声が体育館中に鳴り響く。これだから、髪を切りたくなかったというのに。

 母親譲りの中世的な顔は、面倒な事ばかりを巻き起こす元でしかないから出したくはなかった。幼い頃から女子に追っかけ回された記憶しかない俺にしてみたら、集団で迫ってくる女子達は恐怖の対象でしかない。幼稚園の頃など、嫉妬したガキ大将にイビリ倒されて、泣いていた記憶しか残ってないくらいだ。顔に苦いものが浮かんでいたのか、梶が俺の腰に手を回して引き寄せた。

「女子どもコイツに色目使うんじゃねーぞぉっ!翔は売約済みだでよお」

 BL好きな女子からは悲鳴が、派手目女子からは落胆の声が上がる。違うとか、誤解だとか声を大にして言いたいところだが、その方が更に面倒になりそうなので黙っておく。

 騒がしくなってしまった体育館に教師のホイッスルが反響した。反復横跳びが始まる。

 昔、バスケをしていた事もあるだけに反復横跳びは苦手ではなかった。梶のペースから遅れる事なく回数を重ねていく。20秒経った時も同じ場所で終える事が出来た。

 が、結果は梶が68回。俺が65回。二人とも10点に終わった。

「ヤバい、小林君カッコいい」

「ダメだって真香まなか、小林君には手を出すなって梶が言ってたじゃん」

「でも、カッコいいんだもーん。ヤバい惚れたぁ」

 そう言ったのは、真香という小太りなぶりっ子女子だ。先ほど握力28あたりでムリ~とぶりっ子していた。たしか俺に宿題を借りようとして声をかけようか迷った挙句かけずに無視した女子でもあった気がする。

外見しか見てない事がありありと解る台詞にどっと疲れが出た。

 煩い視線を払うように眼鏡をかけて、立ち幅跳びの場所に移動する。周囲の生徒たちがメンドくさそうにタラタラ歩く中、梶は既に移動していて、伸脚や屈伸を繰り返していた。

 何故、体力テストに(いや勝負にか?)そこまで熱くなれるのかと問い詰めたい。まぁ、なんだかんだと言いつつ、負けたくはない俺も同じ穴の狢というやつかもしれないが。

 俺も梶も身長が175cmで変わらない。体重的には70kg近い梶と55kgしかない俺とではかなり開きがある。軽い方が跳ぶには有利だろうが、重くても中身が筋肉の梶ならば筋肉量では圧倒的に不利だ。

立ち幅跳びは2回の実施で良い方の記録をとる。マットの前に貼られたテープに足を合わせて距離を飛べばいい。カカトからの距離だから、後ろに手をつかないようにだけ注意しなくてはならないだろう。

 1回目の梶の記録は、2m58cmで9点とかなりの好成績だ。

 ヲタクではなければ、一見スポーツマンに見える梶の事。コワモテ系で人気が出そうなものだろうにと思わなくもない。が、しかし体操服のズボンポケットからチラリと覗く部活のロッカーの鍵についている巫女のミニチュアフィギュアのキーホルダーがそれをさせないのだろう。興味なさげだった生徒たちも梶の番になると観客モードに切り替わる。

 そのままの流れで、俺の番になってしまう。眼鏡を外そうか迷ったが、面倒な視線が増えるのは遠慮したかったので、そのままつけてやる事にした。跳ぼうとした瞬間。

「小林くんファイト~」

 アニメ声を無理やり出した真香が声を張り上げたので、タイミングがズレてしまう。

「小林、2m25cm」

 しまったと思うが既に遅し。失敗である。この記録だと6点しか取れない。1度目で9点の記録を出した梶に更に3点の差をつけられてしまう。既に握力で4点差をつけられているので、トータルで7点差という事だ。これ以上離されると追いつくのが難しくなる。

 集中力が一瞬しか持たないタイプらしい梶が2度目の跳躍を失敗したので、梶の記録が2m58cmで決定した。次の跳躍の時、真香と目があったので、人差し指を立て黙っているよう指示する。その瞬間、キャーンと君の悪いぶりっ子声が炸裂して軽い目眩がした。

 集中だ。外野になど惑わされるな。自分に言い聞かせて跳ぶ。

 静かに屈んで力を貯める。背筋と腹筋を使うタイミング、地面を蹴るタイミングを合わせ込んだ。

 斜め上に向かって、少し無理目の落下地点を見据えた。後ろに倒れないよう、体を丸めるタイミングを計る。着地した瞬間、拍手と歓声が上がった。

「小林、2m58cm」

 梶と同記録だっらしい。ここまでで4種目が終わり、3点差。

 室内の競技は苦手な前屈を残すだけだった。


「やっぱ、翔は俺の見込んだ男なだけあるわぁ」

「見込んでくれと頼んだ覚えは皆無だがな」

「えー、翔くんったらツンデレさんなんだからぁ」

 低いダミ声でアニメキャラの真似をするな。本気で少し鳥肌が立った。

 まるで新宿二丁目のゲ○バーのママのようだ。まあ、実際見た事があるわけではないので、漫画や創作物からのイメージではあるが。

「勝つ気の種目全勝して、陸上部に入れてやろうと思ってたんだがなぁ、既に一種目、並ばれたし」

 梶の奴。全種目俺に勝つ気でいやがったのか。なんたる傲慢、だがそこが梶たる所以だろう。そうは思うものの、負けず嫌いに火が付きそうになる。いかんいかん。

 これでは梶のペースだ。

「だが、梶…お前体硬くなかったか?」

「まぁなぁ、でも翔も硬かったよな?陸上大会のアップの柔軟見てた限りじゃ似たようなもんだで。次は捨てで問題ないし」

 なんだこの、潔く切り捨ててる感。まるで肉食獣そのものだ。

 無理な獲物はハナから狙わない。

「俺はまだアップに柔軟取り入れてるだけマシだと思うが?お前は既にやってないだろう」

「ストレッチは最低やってるから問題ない。なんとかなる、なんとかなる」

 軽く手を振って器具の方に梶は向かっていった。


「梶、25cm。おい本気出せよー」

 思わず体育委員が茶々を入れる。周囲も注目していただけに笑いが起こった。

 呆れるほどに曲がってない。

「梶、なんだソレ」

「えぇー!マジ?ウケるんだけど」

「ウルセェ~本気だわ、これでも」

 梶の言葉が嘘ではないのを物語るかのように、太腿の裏がピクピクしている。

「あー…ムリだわ。マジでこれ以上やったら攣る。2回目はリタイヤで」

 なんと、梶の奴。2回目を棄権しやがるとは…。しかも点数はといえば2点。

 やる気のない、明らかに運動不足の奴らでさえ3点は余裕でとっているというのに。

「次、小林な」

 体育委員の声がしたので、器具の前に移動する。なんとなく不公平に感じて、最初の1回目はサイに教えて貰った秘伝を使わずにやってみる事にした。

「小林、38cm」

 ギリギリ4点といったところだ。もしかしたら、教室を出る前にサイと一度前屈した事でほぐれているのかもしれない。いつもならば、30cmいけば良い方という梶を笑えないほどの硬さなのを自覚している俺からしてみれば上々の結果と言えなくもない。

 2回目はサイが教えてくれた方法を試してみる。眼鏡を外すと、女子からの黄色い歓声があがった。一際真香の声が甲高く響くのに辟易する。なんか、一瞬梶が二次元に逃げたくなるのもわかる気がして、その気持ちを振り払うようにグイッと両手で額を押し上げた。

「小林、2回目48cm」

 サイの秘伝は本当に効果があるらしい。18cmも記録が伸びて6点になった。

 という事は、合計点数41点同士で並んだ事になる。

「いつのまに柔らかくなったんだ翔」

 梶がギョっとしたように細い目を見開いていた。

「並んだな。アップの大事さを痛感しただろう?」

 俺自身も痛感しているのだけどな。眼鏡をはめなおして、押し上げる。

「くそー!これから俺も取り入れるっきゃねーなぁ。残り3種目は運動場かぁ…」

「なんなら、体育館シューズを教室に持って行ってやろうか」

 サイの様子も気になるし。

「おー!気がきくな。サンキュー」

 梶の体育館シューズを預かって、一度教室へ戻る事にする。

 途中、走って置きにいった男子生徒達とすれ違いながら、四階の校舎までの階段を上がり続けている最中に、階段を降りてきた真香に声を掛けられた。

「小林くん、シューズ持っていくの?私が持っていってあげようか?」

「いや、いい。君は降りてきたのだろう?梶の分もあるし気にしないでくれ」

 そっけなく、返す。

「そっか、私の体力を気遣ってくれてるんだね。優しい~」

 いや、そうではないだろう。なんだこの勘違いっぷりは…。

「では失礼」

「えー、少し話そうよ」

「いや、そんな時間はないだろう、戻った方が良い」

「私が先生に叱られない為を思ってくれてるのね」

 どうして、そういう自分に都合のいい解釈が出来るのかと小一時間問い詰めたい。

 いや、既に真香に一時間も割きたくないな。手を抜いて色目ばかり使う奴は、好みじゃないというより虫酸が走る。その場で、ウットリしている真香を置いていく。

 誰もいない教室に入って、自分の席と梶の席に体育館シューズを片付けてた。

 そして、椅子に掛けた制服のポケットから、サイをすくい出す。丸くなってアンちゃんを抱きしめながら白うさぎ姿のサイが眠っていた。大人しくしていろと言ったのを聞いていてくれたらしい。誰もいない教室の人肌の温もりもない冷えた制服のポケットの中で。

 胸がキュっと締め付けられる。少し冷たくなった頬を指で撫でれば、サイが薄っすら目を開いた。

「終わった?」

「体育館の種目がな?」

 思った以上に優しい声が出て、内心俺自身ビックリする。

「効いたでしょ?秘伝」

「ああ、おかげで梶と同点だ」

「やるじゃん!!残りも頑張れー!1500はゆっくりめに出て心肺が慣れたら上げていった方が良いよ」

「善処しよう。昼は何を食べたい」

「サンドイッチ」

「起こしてすまなかった」

 今度は寒くないよう体操服のポケットからタオルハンカチをサイに渡して、ポケットに戻し教室を出る。暖かい気持ちでいっぱいの俺はそこに人影がある事に気付く事が出来なかった。


 運動場種目の一種目は、ハンドボール投げだ。二回投げて良い方の記録が適用される。

 男子は20m前後の記録の奴が続出している。女子は20m超えられるのがマレといったところだ。そんな中、梶の一投目が始まった。同点というシチュエーション。

 パワー系の種目は体重の重い梶が優位に働く。梶もそれが分かっているのだろう。

 真剣そのものだ。体の反動を利用して梶が力一杯投げる。

 だが、勢い余って2mの円からはみ出してファールしてしまう。飛距離は余裕で35mを超えていたのに赤旗が上がり周囲からは落胆の声が上がった。梶の筋肉はどうなっているのかと問い詰めたくなる。9点ないしは10点はいってそうな投擲だった。

 2本目。記録なしに出来ない梶は扇型の枠内からはみ出さないように、置きにいく形で投げる事になった。

「梶、30m」

 手を抜いて30m超えてくるとは。思わず呆れてしまう。28~30mまでが7点のラインだ。

 正直言って肩が強い方ではないが人事は尽くす気でいる。

 一投目は無難に置きにいく、そうすれば2本目力の抜けた良い投擲ができるからだ。

「小林、27m」

 一本目は若干弾道の低い状態で投げてしまった。だが、俺の肩からしてみれはまずまずといったところか。点数的には6点ライン。1m飛ばす事が出来れば7点に乗せる事が出来る。だが、ハンドボール投げ自体、奇跡の記録は出にくいだろう。しかも細身の俺では体重が球に乗ったところで効果は知れている。だが、やれるだけの事はするつもりだ。

 結果は後からついてくるものだから。二本目は角度を調整して思いっきり投げた。

 2mの円からはみ出しそうになるのを軸足を回転させて堪える。

 ジャッジは白旗だった。角度は申し分ない。放物線を描いて伸びていく。うまくすれば一投目よりは良い結果が出るだろう。そう思って球の軌道を追いかけていると。

 その時運良く球に追い風がふいた。周囲から歓声があがる

「小林、29m」

 梶の30mには届かなかったものの、同点である7点に乗せる事が出来た。

 なんとか残り二種目の時点で同点を死守している感じだ。

 残りの二種目は50mと1500m。どちらも得意な走る競技だ。

 次の種目である50mのスタート地点に移動する。

 五月の陽気といえど日中は暑いらしく、疲れも出てきているのか生徒達の足取りがダラダラしたものになってきていた。

「流石、俺の翔だ。正直ここまでやると思わんかったて」

 そんな中、一人スキップでもしそうな勢いで後ろからのし掛かってきた奴がいる。

 梶は自分の体重が重い事を自覚していないらしい。

 潰れそうになるのを耐える。

 だいたい誰がいつお前のものになった。ライバルという単語を抜いただけで意味が変わることを知っているかと、頭まで筋肉の梶に教えてやりたい。ほら、腐女子どもがキャーキャー言っていやがるではないか。不本意極まりない。

たかが体力テストだと、若干舐めていた。1日に全種目は正直タイトだと思う。

 梶は俺の体力を意外だというが、俺からしてみれば梶が柔軟以外もソツなくやれる事の方が意外だった。だいたい、ルールが解っているかすらもあやしいと思ってたし。

 梶が出来るのは短距離だけかもしれないくらいに思っていたからな。

 だが梶は全ての種目(捨てた柔軟以外)に一切手を抜く事なく全力でやっている。

 10点以上はないのだから、10点を取れるギリギリの記録でも良かったとしても、妥協という文字がないらしい。

「俺は俺の出来る事をしているだけだ」

 どうしたら、効率よく点数を取れるかを考えている。 

「次は50mだな。短距離は俺のフィールドだしな負けんぞ」

 拳を握って吠える梶に触発された体育委員が、面白がって先生に速いもの同士で走った方がタイムが伸びるのではないかと提案した。

 しかも、俺が陸上部に入るかどうかを賭けている事まで伝えてしまったのだ。

 たまたま、50mを計るのが陸上部の顧問だった為、その意見は歓迎されて通ってしまう。

 陸上部の顧問が梶に、勝負に勝って俺を陸上部に入れさせろとまで助言している。

 まあ、良い。遅い奴と走るよりはタイムも出やすいだろう。梶のスピードは知っているから、ペース配分もしやすい。順番が回ってくる前に一度、得点表を確認しておく。6.6秒以上のタイムなら10点ということか。

 100mを11秒台で安定して走れる梶ならば5秒台で走る事も可能だろう。12秒を切るのがやっとな俺でも、全力を出せば狙えるかもしれない。

 後半伸びるタイプの梶に対して、最初の50mならば勝算はないわけではない。

 だが、俺は勝負を優先する事にした。眼鏡を体育委員に預けた瞬間、女子から黄色い歓声があがる。だが、視界がぼやけているから気になりはしなかった。

 スタートの瞬間の緊張感は嫌いではない。

 合図と共に走り出す。

 足のどこにも痛みは感じなかった。負傷は完治している。久々の全力ダッシュは気持ち良い。風を切る感覚が懐かしく感じる。

 走りながら俺は意外にも走る事が好きなのかもしれないと思った。

「梶、5.8秒、小林6秒」

「やべー二人とも超はえぇー!!!」

「チクショー梶がカッコよく見えちまったじゃねーか!!」

「ヤベー梶抱いて」

「だが断る。翔なら考えんでもないけどな」

 梶が言うと女子が悲鳴をあげる。

「小林君逃げてー」

「梶の毒牙にかからないで~!」

「小林君がかっこよすぎるんだけど」

「お前らみたいな、陰キャ地味顔やアイプチで誤魔化してるケバ系女子じゃ翔と釣り合わねーよ」

 梶が罵詈雑言を吐く。

「梶、ヒドっ」

「デリカシーなさすぎっ」

「メイクばらすの酷くね?」

「かといって、梶とだって釣り合わないじゃん」

 女子達に言い返されていやがる。

「違いねぇー」

 梶がハタと我に返ってゲラゲラ笑う。人も落とすが自分を落とすことも忘れない。

 それにつられて女子達も笑っていた。本当に不思議な奴だ。

 ヲタクのくせにクラスに溶け込んでいる。

 結局、二人とも50m走は10点で終わり同点のままで、最終種目である1500m走に勝負は持ち越される事になった。

「最後の最後で1500とか、鬼じゃん」

「もう足攣ってんだけど…」

 もはや生徒達からは弱音しか出ていない。明らかにリタイヤ組とガチ勢とに分かれる事になった。もちろん梶も俺もガチ勢だ。

 その他はバスケ部、テニス部、野球部、陸上部の精鋭ばかりが速いグループで走る事になった。スピードが短距離ほど出ないのと、大人数で走る為足が絡まって転倒するリスクを考えて眼鏡のままで走る事にする。

「そういえば梶って長距離走った事あるのか?」

 皆が注目しているのだろう。バスケ部のエースが問いかけている。

「ねぇな。小学校はマラソン大会ない地域だったし、中学までの体力テストはシャトルランだったし、駅伝には立候補してねーし。考えてみたらまともに走った事ねぇーかも」

 一緒に走る全員の顔が引き攣る。皆、大丈夫かよ…的な視線を向けた。

「ま、梶なら問題ねーか。体力化け物みたいだし」

 バスケ部エースが苦笑する。それに皆が習うように頷いた。

「あ、お前ら馬鹿にしてるけど、アップやダウンのジョグは普通に陸上部でやってるもんで問題ないからな」

 能天気にカラカラ笑っている。梶が俺を見て拳を出した。合わせろということか。

 俺も拳を握って梶に押し付けた。

「これで翔の入部が決まるな」

「どうかな?」

 そう簡単には、してやる気はないがな。スタートの合図と共に皆が走り出す。

 皆が不安に思っていた事を梶は思いっきり体現してくれた。300mトラックを5周しなくてはならないというのに、400m専門の俺が400走る時以上のスピードで飛び出したのだ。

 皆のアイツやっちゃったよ感が凄まじい。俺はと言えば、2位でペースを守って走る事に決めたらしいバスケ部エースの少し後ろにつけて、抑え気味に走り出した。

 一周目で梶は2位のバスケ部エースに半周ほどの差を付けたが二周目でその差は10mもなくなっている。そして3周目には2mになり4周目にはついに集団に飲み込まれてしまう。俺の横に来た梶は、息が上がってしまっていて、逆に脚は上がらなくなっていた。

 全ての種目を全力でこなした梶は筋肉疲労が蓄積されている事は明白だ。

 チラっと俺を見て、必死に粘っている。大した根性だと思った。

 それに引き返え、全種目を抑え気味にこなしていた俺には体力がまだかなり残っている。

 そして5周目、ラスト一周となったところで俺は容赦なくスパートをかけた。

 残り300となれば元々400を走り慣れている俺にしてみたら楽なものなのだ。

 梶も後を付こうとする。だが蓄積された疲労と切れた息で、梶はどうする事も出来なかった。バスケ部エースを抜きグングン差を付けてゴールする。

「小林、4分55秒」

 時計を読み上げる先生の声を聞いて、両手を腰に当て深呼吸した。

 少し遅れてバスケ部エースがゴールする。

 4分59秒以上が10点だから、バスケ部エースが5分フラットでゴールした時点で、どうやら体力テスト勝負は俺の勝ちが決まったようだ。梶はそこから更に遅れてしまっている。ほぼジョグというあたりまで落ちてしまったようだ。無理もない。

 梶全ての競技を全力でやりすぎはだったのだ。俺のように打算的に効率良く点数を取りに行くやり方よりも好感が持てる気がする。

「梶、5分45秒」

 速いグループのビリでゴールした梶に皆が拍手で迎えた。

 梶がその場に寝転がる。

「あー!!負けた負けた負けたー!」

「だが、梶の方が種目的には勝っている」

 梶に体育委員から借りてきたプリントを翳してみせた。


握力 梶10点 62.kg 翔6点 41kg

上体起こし 梶10点 38回 翔10点 35回

反復横跳び 梶10点 68回 翔10点 65回

立ち幅跳び 梶9点 2m58 翔9点 2m58

前屈 梶2点 25cm 翔6点 48cm

ハンドボール投げ 梶7点 30m 翔7点 29m

50m走 梶10点 5.8秒 翔10点 6秒

1500m走 梶7点5分45秒 翔10点4分55秒

計8種目。

8種目、合計点で梶65点 翔68点で梶は翔に負けているものの、記録では5勝2敗1分で勝っているのだ。

 それだけでも賞賛にあたいする。

 競ったおかげで二人とも63点以上取ることができ体力賞を貰えることになった。


「くっそー、まだ諦めんからなぁ」

 地面に仰向けに寝そべって、大の字になって空を見たまま梶が言う。

 上を向く様があまりにらしくて口元を思わず緩めた。

「いつでも受けて立とう」

 そう言って、視線を校舎側から空に視線を流していく最中、自クラスの窓側の席に在らぬものを見つけて思わず目を見開く。思わず眼鏡を押し上げ二度見して見ても状況は変わらなかった。水色髪のフィギュアが、自分の席の机に膝を抱えて座っているのだ。

 好奇心にでも負けて、運動場でも見ていたというのか?あれだけ、ポケットに入っていろと言ったのに、何故外に出ている。思わず舌打ちしてしまう。

「すまない、梶。先生に少し脚を挫いたから保健室に行った後、そのまま教室に戻ると伝えてくれ」

「あ、ああ」

 キョトンとする梶の返事を待たずに走り出した。

「なんで、挫いた奴が走ってんだ?まぁいいか」

 のんびりと呟く梶の声が耳の端に入る。梶が脳筋で良かった。


 1500m走った後だとは思えないスピードで教室まで駆け上がる。息が上がるのも気にせずに走った。まだ、授業終了まで10分はあるので、幸い誰にも見られずに済むだろうが。

 ガラっと扉を開けて席に体操座りで座っているサイに近付く。

 俺の姿を見たサイが顔を崩した。立ち上がって、俺の袖にしがみつく。

「何があった。何故表に出た」

「アンちゃんが…アンちゃんがなくなった。翔の宝物なのに」

 サイが涙をポロポロ流した。大切なマスコットをなくしたと聞いて、頭に血がのぼる。

「何故お前が持っていてそういうことになる。大切にすると言っただろう」

 約束を破られ表に出ていたことも重なり、思わず、責めてしまう。

 サイが言い訳をすることはなかった。

「ごめん。サイ…邪魔しかしてないね。いない方がいいよね」

 肩を落として今にも消えてしまいそうな雰囲気に背筋が冷える。

 考えてみたら、体育館種目中もずっと大人しくポケットで寝ていたサイが自分から約束を破る訳はないのだ。冷静になれと自分に言い聞かす。大きく息を吸って、呼吸を整えた。

「いきなり責めて悪かった。動転した。何があった」

「あの後、翔と同じクラスの真香っていう子がいきなり翔の荷物を勝手に物色し始めて…」

「あいつか」

 あの媚びた雌豚、あの後、階段を降りず俺の後をつけていたのか。悪趣味な。

 思いっきり眉間に皺が寄る。

「カバンや机の中を勝手に漁り出して…」

「…最低だな…」

「このままだと、サイが見つかると思って…フィギュア持ってるのが翔はバレたくないようだから、慌ててポケットから抜け出して隠れたんだ。アンちゃんを持って降りる余裕がなくてポケットに置き去りにした」

 俺がフィギュアを持っていると思われるのを阻止しようとして必死で逃げていたというのか。

 俺がヲタクやフィギュアを嫌っていると知って。

 それなのに俺は頭ごなしに叱り飛ばしてしまった。

「…」

「そしたら、あの子。勝手に翔のポケットに手を突っ込んで、アンちゃん盗んでいったんだ。ダメだって止めたくてもバレるわけにはいかないし。アンちゃんが…アンちゃんが」

 サイがポロポロ涙を流して泣き続けている。

見ていて可哀想になるくらい肩を震わせていた。

「もう怒っていないから、そんなに泣くな」

 こちらまで胸が痛くなってしまう。

 サイを優しく手のひらに包んで指で頭を優しく撫でた。

「だって。宝物…翔の宝物が…」

 アンちゃんがないと眠れない程、サイだってあのマスコットを気に入っている筈なのに、サイは先程から俺の心配しかしていない。俺にとっての宝物であるマスコットが盗まれてしまっているというのに、この大嫌いな筈のフィギュアがどうにも愛しくなってしまう。

「ほらお前はポケットで待っていれば良い。すぐに俺の手で取り戻してくるから」

 だからもう泣かなくて良い。体操服から制服に着替え、上着のポケットに優しく包み込むようにしてサイを移動させる。ポケットに入ってからも、サイはエグエグと俯いて膝を抱えていた。宥めるようにポケットごとサイを撫でる。

 運動場を見れば、体育委員達が機材を片付けていた。もう終わる頃だろう。

 案の定、程なくチャイムが鳴った。真香が隣のクラスで着替えて戻ってくるのを待って、戻ってきた真香を捕まえる。俺が声をかけた瞬間。露骨に声をひっくり返して上目遣いをしてきた。正直、虫酸が全力疾走する。顔に出やすい奴ならば露骨に嫌な顔をしてしまっていただろうが、こういう時は乏しい表情筋に感謝しかない。

「すまない。俺のマスコットを拾ってくれたそうだな?」

「え?何のこと?」

 雌豚が平気で惚ける。

こいつには人の物を盗むことに対しての罪悪感というものが存在しないらしい。

「5センチほどの犬のマスコットで、とても大切な物なのだ」

「へぇーそうなの?きっと可愛いだろうなぁ。私もお揃いの買っちゃおうかな」

 この雌豚。いけしゃあしゃあとシラを切りやがった。しかも、シレっと自分の物にする気満々だ。はらわたが煮えくりかえりそうになるのを必死で堪える。

「教室に忘れ物をとりに行った奴が、見ていたそうで教えてくれたのだ」

 声のトーンを一段下げて、告げた瞬間。真香の顔がみるみる蒼白になる。こちらはお前が盗んだことを把握しているという意味が、この馬鹿女にもようやく伝わったようだ。

「…あの…その」

「犯罪者になるよりは、拾ってくれた人になった方が賢明だと思うがな…」

 声に怒気を含みつつ、それでも穏便に済ませてやろうと逃げ道を残した。すると、真香は渋々自分のカバンにさも自分の物のように付けてあったマスコットを外してくる。

「…ご、ごめんねぇ。返すのが遅くなって。小林君のだって思ったら少しでも持っていたくなって」

 愛想笑いがみっともないし、こんな風に好意を表されても迷惑なだけだ。

 警察に突き出せば立派な窃盗犯ないしはストーカー行為で捕まる事をしていた自覚がない。ヘラヘラしたその顔で俺の視界に入ってくるなと叫びたくなる。こういう奴が一番嫌いだ。だが、梶が作り上げているこのクラスの雰囲気を壊すつもりはなかった。

「いや。返してくれて助かった」

 あくまでも、拾ってくれたということにしておいてやる、表向きはな。だから二度と近付くなという脅しをかければ真香は一瞬顔を恐怖に痙攣らせて、俺から離れていった。


 クラスメイト達(男子だけではなく何故か女子も含)に一緒に昼を食べないかと誘われたが先約があるからと感謝しつつ事態した。購買に行き、サイがリクエストしていたハム卵サンドとクリームパンとオニギリとコーヒーを買う。

 人目につきにくい理科室の方の廊下を歩き、一人で階段を上がり、屋上に出た。

 昼ご飯を屋上に登って食べる事が日課になってきたが、それも悪くない。

 外の空気を吸いながら、誰の目も気にせず食べられるのは気楽で良いと思う。

 ただでさえ、今日は体力テストで放置してしまっていたのだから、サイと二人でゆっくりする時間が欲しかった。サイのリクエストだったサンドイッチを千切って手渡してやる。

 中身のないパンの端っこを冗談で切って渡そうとしたら、返ってきたアンちゃんを二度と離すものかといわんばかりで大事そうに抱えているサイがむくれた。

「約束を破って外に出てたバツか?」

「…いや、からかっただけだ」

 パクっと端っこを自分の口に放り込んで、ハムと卵が入っている部分を千切って渡してやる。その瞬間、幸せそうな顔をして頬張るサイを見て目を細めた。

 頬っぺたに着いたマヨネーズをグイッと指で拭ってやる。

「お前は子供か」

「悪いか…」

 ドヤ顔のサイを見ると自然と笑みが漏れた。家でも鉄仮面かと言われるほど、表情が乏しい俺にしては珍しく、サイといると喜怒哀楽が自然と溢れてくるのだ。

「いや、悪くない。むしろ良いと思うぞ、そのままで」

「馬鹿にしてるだろ」

 サイがプンスコご立腹しているので、次のクリームパンを渡してやれば、すぐに笑顔に戻る。それにつられるように、ついつい眦が下がってしまう。

 大きく口を開けてクリームパンを攻略している様は見ていて飽きなかった。小さな体には大きすぎるのかクリームの中に顔が埋まりそうだ。案の定、今度は頬にクリームが付いている。仕方ないなと苦笑いしながらサイの頬に手を伸ばそうとした時だった。


「お!やっと見つけた。こんな所にいたのかー」

 いつもの巫女の財布とラノベを片手に抱え、脇に500mlのカルピスウォーターを挟んだ状態の梶がこちらに歩いてくる。

 しまった。サイを隠すタイミングがない。

「まあな、外で食べる方が性に合っていてな」

 答えながら最後の一口のパンを口に運び、視線を自分に向けるように仕向けた。

 サイを恐る恐る見れば、なんとか食べ終わったのか隣に座ったまま固まっている。

 うさぎの着ぐるみのまま。

「お、なんだかんだ言って、翔…お前マジマジのセリカ好きだなぁ!!すげぇ、拘り感じるぜ相棒!今日はうさぎか」

 いつから、俺はお前の相棒になった。しかも俺までヲタク扱いか。

 まぁ、冷静に見れば、自作の着ぐるみを着せたフィギュアを横に置き、ボッチで昼御飯を食べている状況は、寒い以外の何者でもないだろうが。

 マジマジのセリカなどに興味はないのだと声を大にして言いたい。

「…これには少々込み入った事情がだな…」

「セリカちゃん、頬っぺたにクリーム付いてんじゃん」

 梶が手を伸ばして拭き取ってくれようとしたのを思わず阻止する。

「あ、ああ。俺が食べている時のクリームが落ちてしまったのだろう」

 なんとなく気心の知れた梶にでさえ、触らせたくなくて、自分で慌てて拭き取った。

 そして、そのまま無かったことのようにポケットにしまい込んだ。

「そのフィギュアってレアじゃね?」

「さあな。残念ながら入手経路は把握してはいないのだ」

「1000体限定のっぽく見えるんだよなぁ」

 流石梶、テリトリー外のアニメ作品のフィギュアの種類まで見分けられるというのか。

 ヲタクもここまでくると、呆れるのを通り越して感心してしまう。

「それよりも、だ。何か用があったのではないのか?」

 さりげなく話題を逸らした…というか本道に戻した。

「あ、ああ。そうそう。今日さぁ、体力テストだったもんで部活休みなんだわ」

「そりゃ良かったな」

 本来ならば、彼女がいる奴ならばデート日和なのだろうが、梶にそんな相手がいるとは思えない。暇だからと俺で時間を潰すつもりなのだろう。

「で、俺としては体力テストのリベンジがしたいんだなコレが」

 案の定と言ったところだ。梶の思考ロジックが手に取るように分かる。

「断る…と言ったら?」

「何か予定でもあんの?」

「いや?特には」

 母も兄も帰宅は20時頃で、塾に通う必要もない俺としては、何か予定が埋まっている筈もなかった。

「負けるのが怖いのか?」

 梶が分かりやすく挑発してくる。

 負けず嫌いを自覚はしていても、やすやすと乗ってやるほどお人好しではない。

「いや?」

「なら、こうしねぇ?今からジャンケンして、俺が勝ったら、帰り俺とゲーセン行ってひと勝負しようぜ」

 梶の提案に答える前に、先走った梶がジャンケンの体制に入ってしまう。

「出さなきゃ負けよ?ジャンケンポン」

 微妙なオネェ的な声音で梶が掛け声をかけた。反射的にチョキを出してしまう。

 グーを出した梶はそのまま、拳を天にかざした。

「よっしゃー!俺の勝ち!帰りゲーセンで勝負な」

「ああ、…まあ、良いだろう」

「あれ?もっと抵抗されるかと思っとった」

「そうか?」

 梶がキョトンとしているので、思わずため息をつく。

 コイツ。天然の馬鹿だ。きっと梶がやり込んでいる音ゲー勝負を持ち掛けられたら瞬殺されるのは分かりきっているが、それでも…だ。

「翔、何んで負けたのにニヤニヤしてんだ?」

「いや、今やった『ジャンケンに勝ったら陸上部な』って言えば終わったことなのだがな…と思っただけだ」

「あーーーーーーーーー!!!!!!」

 今頃気付いた梶が、そうじゃん…と雄叫びをあげた。


「ご機嫌だな」

 帰り道、校門を出てからずっと鼻歌混じで音ゲーの歌を口ずさみながら、プレイ動作をしている梶に向かい呟く。電車通学の梶に合わせ、自転車を降りて歩いた。

 学校から駅までにあるゲームセンターに寄る気らしい。

「そりゃあ、翔を陸上部に入れられると思えばテンションも上がるってもんだろ」

「なるほどな」

 確かに音ゲーでならば、容易い事だろう。

「翔、お前そこまで陸上やるの嫌なのか?」

 足を止め、真剣な表情になった梶が聞いてくる。きっと、今の梶に陸上をやりたくないと言えば二度と勝負はもちかけてはこないだろう。

 本気で嫌がっている奴に強要する男ではない。

「決めかねているだけだ」

 今日体力テストで走ったり梶と競ったりしてみて、勝負の楽しさは思い出せている。

「なら、容赦なく勝負が挑めるわ」

 梶は、数軒先にあるゲームセンターの赤い建物を見て目を細めた。

 俺は軽く息を吐いてポケットの中を覗き込んだ。

 いつもならば、顔を出して話しているサイはポケットの中で、アンちゃんと戯れている。

 俺の視線に気付いたサイが親指を立てて口の動きだけで『ファイト』と言った。


「勝負の前に、コレやっていいか?」

 ゲームセンターに入るや否や、梶は入り口に並ぶUFOキャッチャーを尻目に、奥の方にある音ゲーコーナーに一直線に歩いていく。勝手知ったるといった感じで迷いがない。

 この男、余程通っているのだろう。目隠ししていても、音ゲーコーナーに辿り着けそうだ。ミューニズムと言う音ゲー機の周りは、学校帰りである他校の生徒が数人プレイしていた。梶の姿を視認するや否や。今までやっていたゲームが終わったと同時にゲームする手を止める。梶はといえば、そんな視線には慣れていると言わんばかりで、順番待ちソファの上にカバンを置き、中から白手袋を出していた。まさか、中世の騎士のように投げつける気か?とも一瞬思ったが、使い込まれている事で違うと判断できる。

「わざわざ、手袋をはめるのか」

「動きが激しくなると擦れて痛いで」

 手際よく両手に白手袋をはめ、巫女財布からプレイデータが入っているカードと100円玉を数個取り出した。いよいよ、賭けを持ち出されるのかと身構えてみたものの、一向に梶から勝負を切り出してはこない。

 スタスタと三つ並んだゲーム機の右側に移動してコインを入れていた。

「梶、勝負は良いのか?」

「は?コレは俺の趣味だで」

 どうやら音ゲーで勝負する気はないらしい。拍子抜けしてしまう。

「ミューニズムならば確実に勝てるだろう」

「条件が違いすぎるだろーが。海斗サンが言ってたからな翔はやり方すら知らないって」

「確かにな」

 兄が動画を見ながら、何もないところで練習している姿を見て、精神科を勧めたくらいだしな。

「どうせ来たなら、少しでもレベル上げていこうと思ったぶんだで。1、2回待っとって」

 ああ。梶の右側の空きスペースからプレイを見ていることにする。先ほどいた他校生達も後ろから興味津々で覗き込んでいた。どうやら音ゲー界でも梶は有名人らしい。

 ヲタクの中のヲタクとクラスの奴らが言っていたのを思い出して、妙に納得してしまう。

 梶は淡々と機械を操作し、カードを認証画面に翳した。そして、カードの磁気面ではない方にプリクラが貼られているのを見て目を見開いてしまう。そこには、二次元キャラのシールではなく、とても可愛い現実の女の子と撮ったプリクラが貼られていたからだ。

 大きなアーモンド型の目と愛嬌のある笑顔。 腰までありそうな長い髪。

 百人中百人が可愛いと言うだろう。なにせ恋愛に興味などない俺が目を離せなくなってしまうほどだ。あれだけ、女子達に馬鹿にされている梶がこれほどの美少女と知り合いなのが衝撃だった。女の子の表情や梶の表情から、二人がただならぬ仲なのは疑いようもない。大体にして、梶の好みが服を着て現実に存在しているようなものだ。

 あ、いや逆なのか?もしかして。この子が好きだから梶の好みが、巫女なのか?

 そう思わせるには充分だった。

「梶、この子は…」

「あ…どうした?急に何かあったのか?」

 梶が驚いたように目を見開いた。

「いや、梶にも一緒に写ってくれる女子がいたのだなと」

「失礼な」

 操作の手を止めて、梶が眉間に皺を寄せる。

「誰だ?この子は」

「気になるか?可愛いだろ?」

「…まぁ…な」

 否定しても仕方がないので、素直に認めた。

「やらないぞ?お前には」

「大切な子なのだな」

 梶のカードのプリクラを見る表情がひときわ優しいものになる。こちらがキュっと胸を締め付けられるような、切なさと愛しさを籠めたような表情だった。

 こんな顔が出来るやつなのか。

「…ああ、まあ、代わりはおらん奴だな」

「今度、梶にそこまで言わせる子なら会ってみたい。ぜひ紹介してくれ」

 俺が言えば、梶は一瞬遠くを見た。一筋縄ではいかない梶にここまで言わせる子なら、なお会ってみたくなる。よほど良い子なのだろう。

「やだ、と言いたいところだが…機会があればな…珍しいな。人に興味持たん奴が」

 苦笑いでこちらを眺める。

「…」

 確かに珍しいかもしれない。

「まあ、三次元でビジュアル認めとるのは、コレとコレだけだで」

 プリクラの女の子と俺を指差して茶化した。

「…全く」

 もう、いつものふざけた梶の表情だ。曲選びに入った梶は、画面に向かって、コレじゃねーなぁ、あ、コレコレと言いながら曲を決めていく。

 どの曲が難しいのかは判らないが、やたら星がついているところを見ると相当な難易度である事は明白だった。曲が始まると、梶の目付きが変わった。

 授業もこれくらいの集中力で聞いていれば、国語だけでなく他の教科もトップクラスの点数が取れるだろうにと苦笑いを浮かべる。

 画面上から流れてくるタイルを画面下のバーに触れるタイミングで、タッチしたりするゲームのようだ。至る所にセンサーがあるらしく、横から見ている俺からしてみたら、踊っているようにも見える。目がチラチラしてきてしまうようなスピードでタイルが流れていくというのに、梶はミス一つしない。余程難しい曲なのだろう。

 外野が騒がしくなっている。

「すっげ」

「ヤバ、ノーミスじゃん」

「ちょ…なんで、あの難所ミスらねぇーの?」

 などという言葉がチラホラ聞こえてきた。梶は一切、気にしていない様子でプレイし続けている。結局、最後までノーミスでコンボ数が四桁を余裕で超える結果に終わった。

 周りから賞賛の拍手が上がる。確かに、これでは勝負にすらならないだろう。梶の100m走の時のスタートの良さは日々この音ゲーで鍛えているといっても過言ではない。

 設計者の作ったルールとさじ加減で決まってしまうゲームの世界に何故ここまで没頭出来るのか。そうは思うものの。人間技とは思えないリズム芸を見てみると感想が少し変わってくる。梶の猪武者のような突進力は見ていて心地いい。

 実際ゲームが実生活に及ぼしている影響力まで加味するのならば、これはこれで良いバランスなのかもしれないと思い始めた。


「おう待たせたな。翔」

 梶が白手袋を片付け、カバンを背負う。

「で、勝負は何でする気なのだ」

「昨日部活帰りに寄ったら良いもの見つけたんだって」

 こっちこっちと先に歩く梶が手招きで俺を誘導する。

 連れていかれた先に並ぶのは、UFOキャッチャーのコーナーだった。

 ぬいぐるみやフィギュアなどが所狭しと並べられている。

「UFOキャッチャーをしようというのか」

「ああ、500円上限で先に落とした方が勝ちってのはどうだ?」

「金がもったいない」

 梶の持ちかけに難色を示した。どう考えても不用品しかなさそうだからだ。

 ぬいぐるみを抱える男子高校生など、絵にならない事この上ない。

「まぁまぁ、コレ見てもそれ言えるかぁー?」

 自信満々で、まるでボールを拾ってきて、褒めてもらえるのを待っている犬のように顎が上がっていた。

 指さされた景品を見て、どっと疲れが出る。マジマジのセリカだったからだ。

 サイズはサイと同じだろうか。ポーズが違っている。

 サイの元のコスチュームが変身後のものだとしたら、こちらは変身前の制服仕様だ。

 作りは流石に景品らしく、サイとはどこそこ違う。

「これで、何故俺が勝負に乗ると思った」

「しらばっくれるなって。毎日持ち歩いてるくせに」

 どうやら、梶にはバレバレのようだ。

「…」

 これには事情があってだな。と説明する事もめんどくさい。

「俺が触らせてっつっても貸してくんねーし」

「…それは」

 サイが動く以上、服でも脱がされてはセクハラ以外の何者でなくなるからで。

 言い訳したくても後が続かない。

「セリカちゃん推しなのはバレバレなんだで、これでやろうぜ?勝負」

「右側の機械には、梶が推している巫女のフィギュアが鎮座しているようにも見えるが?」

「機械変えると、アームの力が違うもんで、フェアじゃないだろ?」

「なるほど」

 梶にしては理にかなっている。

「ならば、巫女の方でやれば良いものを」

「それだとモチベーションが変わるだろ?ただでさえ、ゲーセン通い詰めの俺のが有利なんだで。せめてお前の推しの方で勝負せんと」

 物凄い理屈だが、筋は通っていないでもない。ただ、梶的にモチベーションのないものに500円を投入せねばならなくなるという以外は。だが梶はそれ以上に失念している。

 俺がフィギュアが大嫌いだと言う事を。まだ、ガチャコーナーの隣にあるキーホルダーなどを落とすゲームの犬のぬいぐるみの方がテンションが上がるものなのだが。

 一瞬、それを取って貰って喜んでいるサイの顔が脳裏をよぎる。まぁ、ソレを取ってやれば俺の大切なマスコットが返ってくるしな…と自分に言い訳した。

 サイの事ばかりを考える時間が増えている事に少し動揺する。目の前のフィギュアは、サイと同じような顔をしているというのに、感情が1ミリたりとも動くことはなかった。

 ある意味、どちらもハマっていないという点では、マジマジのセリカのフィギュアはフェアなのかもしれない。

 梶も俺の好み(だと思い込んでいるフィギュア)に合わせてくれる為に無駄金を払おうとしているのだから、ここは勝負に乗ってやらねば男ではないだろう。

「仕方ないな。梶の勝負に乗ってやろう」

 両替機でお金を百円玉に替えてくる。

 ジャンケンでどちらが先にやるかを決めれば、負けた梶が先にやる事になった。

「落ちろー」

 梶がアームの場所を合わせこんで、箱を持ち上げる。一瞬だけ浮いたソレは少し斜めに傾いただけで、持ち上がる気配はない。

「落ちる気がしないのだが…」

 渋々といった感じで俺も百円を入れる。勝負以上に獲物をゲットしたい方が優先されている梶が機械の周りをぐるっと回って分析モードに入っていた。

「そんな事ぁねーよ?挟んで落とすにはアームが弱いが、移動させられるだけのパワーはあるし」

「…梶、お前は何にでも真剣だな」

 思わず呟いた。

「あぁ?俺のは興味あるもん限定だで、大した事ぁねー。俺の師匠は嫌いなモノまで全部頑張る」

「へぇ」

 やれる事があっても最低限の力と労力で適当な結果を出せば良いと思っている、基本手抜きな俺とは正反対だ。

「翔、箱の蓋の間に隙間があるからそこに差し込むようにしてひっかけろ」

 言われた場所を見ると、ナルホド隙間が空いている。

「了解だ」

 アームを言われた場所目掛けて移動させた。少し遠めだが落下口にフィギュアが近付く。

「惜しい。あと5mm深く入ってたら落ちた」

「へぇ、そんな事まで解るのか」

「まあな。次で落ちるで」

 もう百円入れた梶が宣言した。

「と言うことは、次で落ちれば梶の勝ちという事か」

「だな」

 梶は、先ほど言っていた場所にピタリとアームを移動させる。

 豪快な顔とは打って変わった繊細な動きから目が離せなかった。

 一瞬にかける梶の集中力は半端ないものだ。アームが箱を押してガコっという音と共に箱が取り出し口に落ちる。なるべくお金を使わせずに落としてくれようとしたのだろう。

 勝負は梶の勝ちだった。

「うまいものだな…明日入部届けを提出しよう」

 取り出し口からフィギュアを取り出した梶は、ソレを俺に手渡してくる。

「なんだコレは」

「入部祝いだ、とっておけ」

 少年漫画のクールキャラよろしく言っているのだが、物がフィギュアなだけにどうにもキマらない。

「貰っても困るのだが。こういうものは、梶の方が似合うと思うぞ?」

「気に入った一体に入れ込む派だったのか」

 梶がナルホドと納得している。決まった一体などではなく、サイだからなのだが。

 説明する術がない。

「そっかー。なら友情記念って事でこれから俺も学校に持って行くことにしよう」

 じーっとフィギュアを見て、名案だとばかりに梶が目を輝かせた。

 嫌な方で更に目立ちそうな予感しかない。思わず俺は苦笑いをうかべた。


「まさか、翔が体力テストで勝って、ゲームで負けるとは思ってなかった」

 サイが四つん這いで俺の課題ノートを覗き込みながら、ちらりと俺を見た。

「なんだ?既に体力テストで負けるとおもっていたというのか」

 心外だと言外に馴染ませれば、サイが違う違うと手を振る。

「体力テストは翔が勝つと思ってた。梶、苦手なものが極端に苦手だし」

「確かに、気持ちいいほど、柔軟を捨てていたからな。ゲームで勝負だと言われたので、てっきり音ゲー勝負に持ち込まれるかと思ったが」

「まさかのUFOキャッチャーってのが、梶らしいよね。翔、陸上部入るんだ?」

「やる理由もなかったが断る理由もなかったからな。それに梶と勝負するのは悪くはなかった」

 実際、体力テストの一種目やるたびに、血が沸き立つようなワクワク感はつまらなかった療養期間とは打って変わって楽しいものだった。

 全力で挑んでくる梶がいたからこそなのだろうが、走っていて楽しいと思えたのだ。

「そっか」

 サイが嬉しそうに眦を下げた。

「そういえば、梶には彼女がいるのか?」

 ふとミューニズムのデータカードに貼られていたプリクラの事が頭をよぎった。

 あの美少女が気になって仕方ない。

 もしかしたら、詳しいサイなら知っているかもしれないと思った。

「聞いたことないけどなぁ」

 サイも首を傾げている。

「酷く可愛い子と一緒の写真を見たのだが」

「あー!!翔、気になるんだ」

「否定はしない」

 潔く認めた。

「浮気はダメなんだぞ??」

 サイが膨れている。

「大体相手もいないのに、何故浮気したということになる」

「サイがいるのに、他の子に浮気なんて許さーん」

 サイのデレに顔がにやけてしまう。一体どうしたというのだ。フィギュア相手に。

「フィギュアが恋人とは」

 世のヲタクと大差ないではないか。

「ムー」

 サイが口を尖らせて、本気でいじけてしまったので話題を変える。

「そういえば。UFOキャッチャーで、マジマジのセリカを勝負に出された日にはどうしようかと思った」

 負けたから良かったようなものの、勝っていればこの家にはサイと同じサイズの同じ顔したフィギュアがもう一体増えていたという事だ。それを思ったら顔が引きつってしまう。

「景品のセリカのフィギュア。制服版だったね!あの制服可愛いなぁ…ってちょっと思ってたりするのだよ。手先が器用な翔君」

 サイの目がキラキラ期待に満ちている。

 まさか、あの凝った服を俺に作れと言っているのだろうか。

「本気か?」

「ダメなん?可愛いかった…サイも制服着たかったなぁ」

 その言い方があまりに寂しそうで、思わず絆されてしまう。


 課題を進めておいてくれるというサイを置いて素材を買いに行く事にした。

 20時回ってからどこ行くのという母に百均に授業で使うものを買いに行くと告げ、ショッピングセンター東友の3階にある百均サリアに行き、生地や副資材を買ってきた俺を褒めてやりたい。ついでに、拗ねたサイのご機嫌をとろうと思った。サイが使えるものはないかと2階に入っているリサイクルショップTOOK OFFに立ち寄る。

 そこで、ミニチュアハウスで有名なツルバニアファミリーの家と家具を購入してきた。

 大きな袋を持って部屋に入る俺を兄はポカンとした顔で見ていたが、そのままスルーする。部屋で課題をやっていたサイが、息を切らしながら数学のプリントを制覇していた。

「終わらせたぞー」

 シャープの芯を天に掲げて、まるで勝利を勝ち取った戦士のようだ。

「助かる」

 プリントを拾い上げ、ザッと目を通してみる。

 一箇所マイナスをつけ忘れている以外は全て解けていた。

「おっちょこちょいだな。最後だけマイナスを書き忘れているぞ」

 式の最後にはマイナスが付いているのに解答欄にマイナスがない。

「あー。またやっちゃった」

「一つくらい間違えているくらいで丁度いい」

 赤ペンで修正して課題を終わらせる。全問正解では、今日の体力テストを真剣にやりすぎただけに目立ってしかたがなくなるからからだ。明日の授業の用意を決め、俺は服の製作に入った。3着目ともなると、服の作り方(人形に限る)が解ってくる。

 身頃や袖の形が頭に描けるようになってきた。

 この分だと、就職に困った時にはぬいぐるみや人形の衣装を作ってヤプオクやメリカリで販売して生計を立てられるかもしれない。ドールの衣装作家になりつつある気がする。

 考えてみれば、ミニチュアのものは資材費が安いくせに相場が高いから効率がいいかもしれない。興味本位でチラリとヤプオクで「ぬいぐるみ 衣装」で検索をかけると、意外にも高値で取引されていて、予想があながち間違ってなかった事に苦笑する。

 ブレザーとチェックのスカートを作ったものの、妙に凝り性な細かい性格が災いしてか、やたら忠実に細部まで再現してしまう。制服のリボンを縫い付けたら終わりというところまで仕上げ横を見れば、作業を見学していたサイが眠そうに目をこすっている。

 俺の課題をやるのに(サイの場合は書く行為そのものが全身運動なので)体力をすり減らしたのだろう。サイがウツウツしている間に、TOOK OFFの袋からツルバニアファミリーの豪邸や家具をベッドのヘッドスペースに置いていく。

 地震が来たら、頭に全てが降ってくるなと思いつつ、サイがうたた寝している間に、家具を並べていった。

 全ての家具を並べ終え、サイの頭を優しく指で撫でれば、サイが目をゆっくり開く。

 キョトンとした表情が幼くてあどけない。目をこすったあと辺りを見回して、サイは俺の枕元に配置したミニチュアハウスを捉えた。

 その瞬間、眠気が飛んだのだろう。

「えぇー?何これ!!!!」

 大きな目を更に開いて、みるみる破顔する。

「わ、超可愛い~!サイの机に椅子?こういう部屋で生活してみたかったんだよね!!」

 サイが嬉しそうに飛び跳ねる。二階建ての家の階段を上ったり降りたりしていた。

 螺旋階段に猫足の家具。流石玩具な上にリサイクルだけあって出費1000円にもかかわらず、そうとは思えないほどの大豪邸なのだ。

 ただ一つ問題があるとすれば、ベッドのヘッドスペースだけトリミングしたら、ミニチュアドールハウス好き女子の部屋にしか見えないという所だろう。

 サイが動いているから良いものの、その事を知らない者が見たら、俺は大した変態趣味野郎に成り下がってしまう事は必至だ。

 まあ、ウチは兄の部屋が大概なものなので、誰も驚く者はいないが。

 買ってきたクローゼットに、サイがもともと着ていたコスチュームやパンダの着ぐるみをハンガーにかけて並べた。

「わー!わー!翔の部屋の中に、サイの部屋が出来たぁ」

 サイがアンちゃんをギュウギュウ抱きしめながらピョンピョン跳んで、はしゃいでいる。

「こんなものがそんなに嬉しいか?」

 ここまで喜ばれるとは正直思わなかった。

「だって、翔がサイの居場所をくれたって事だもん」

「仕方がないだろう。リセッシュや塩で除霊しても効かなかった上に、成仏しそうなきらいもないからな」

「へへへ」

 頭をポリポリ掻くサイの照れ笑いを見て、頬を緩める。いつのまにか、サイは俺の内側の柔らかい部分まで入りこんできてしまっていた。


「おい。家をプレゼントした筈だが、何故寝るのはココなのだ」

 サイは、俺の横で寝ると言って枕をベッド代わりにしようとしている。

「良いじゃん。翔の隣で眠ってたって」

「俺が万が一寝坊でもしたら面倒な事になるだろう」

 部屋にはファンシーなツルバニアファミリーの家が置かれ、フィギュアと寝ている状態になるのだ。考えただけで恐ろしい。

「サイが起こすもん。おやすみ」

 アンちゃんを抱き締めて、寝たもの勝ちと言わんばかりき眠りについてしまう。

 用意した豪華な家やベッドよりも、俺の隣で寝るというサイを愛しく思う自分に気付いていた。だが、気付いた所で相手の中身は幽霊で、外見はフィギュアなのだ。

 しかもいつ消えてしまうかもわからない相手だ。何が浄化のスイッチになるのかもわからない。これ以上、心を寄せても報われることはない事くらい俺自身も痛いほど分かっている。よくある映画のように、不治の病に侵された相手を好きになってしまうようなものだ。不毛でしかない。自分の感情を抑えるように静かに目を閉じる。

 けれど中々眠気は襲っては来なかった。


 翌日。登校時、いつもならば直接教室に向かうところを途中で道を変え二階にある職員室に立ち寄った。入部届けを出すためだ。スポーツ特待生の俺が陸上部に入る事は待ち望まれていた事らしく、職員室にいる別の教師達にも拍手で歓迎されてしまった。

 ここまで、待たれていたのならば、教師達も言ってくれれば良いものをと思わないでもなかったが、事故で負傷した俺に気を遣ってくれていたのかもしれない。

 教室に戻ってみれば、なにやら梶の周りが騒がしくて、若干嫌な予感がした。

「おー。梶ついに一線超えちゃったか」

「マジマジのセリカのフィギュア持ってくるなんてやるなお前」

「ヤダー!超最低。梶キモ」

「三次元に相手にされないからってフィギュアに走るなんて、梶あわれー」

 最初の二つの台詞は呆れつつ、飾らない姿にリスペクトの念が入っている男子のもので。

 後ろ二つは忌憚ない女子の意見だ。自分のポケットにも、そのフィギュアが入っているのだから、本来は俺にも向けられる言葉なのだろう。

「フ、みんな聞いて驚け!」

 梶の鼻息荒い台詞に嫌な予感がよぎった。まさか、俺とお揃いだとかなんだとか言う気ではないだろうな。お前のフィギュアは動きはしないが、俺のポケットの中のコレは動いてしまうのだ。出来るだけ、意識を逸らしておきたい。

「なんだよ梶」

「コレは、翔を陸上部に入部させた証だ」

 梶がドヤ顔で言い切った。なんだ。そんな事かと胸を撫で下ろす。

「えー!翔、賭けに負けたの?」

「ああ、帰りゲーセンのUFOキャッチャーで勝負をつけた」

「ゲーマーの梶が勝つの当然じゃん!!ズルくない?梶」

 女子の一人がイチャモンをつける。

「だいたい、そんなフィギュア。翔君いらないから勝とうともしなかったんじゃないの?」

 もう一人の女子も不当だと言い張った。マズイ雰囲気だ。梶がいつ、俺がいつもマジマジのセリカ(サイ)を所持している事を言い出してもおかしくない。

教室の入り口で様子を伺う。

「まあ、確かに狡い手かもしれん。だが後悔はしていない!翔もその条件を飲んだわけだし、問題ない」

 梶は、俺の事を一切話す事なく、居直った。こういう男気のある所が、梶を憎めない所かもしれない。教室に一歩足を踏み入れれば、女子達が近付いてきた。

「翔くん。おはよ」

「ああ」

「陸上部入るんだって?」

「ああ、先程入部届けを出してきた」

 俺の言葉に教室中が沸き立つ。

「翔、漢だな。梶のロクでもない提案を受けてやった挙句、潔く入部するなんて」

「翔くんカッコいい」

 皆が梶を落とし俺を賞賛した。だが、本当に漢なのは梶だと思うと言ってやりたいが、それを説明するにはサイの存在をバラさなければならなくなる。

 俺は肯定も否定もせずに席に向かった。

「お前…本当にソレ持ってきたのか」

 視線をセリカのフィギュアに向けてから、溜め息をつく。

「フフフ。親友とお揃いの物って持ちたくならねぇ?」

「ならないな」

 アクセサリーとかならいざ知らず。

少なくとも、美少女フィギュアをお揃いで持とうとは思わない。

「お前だってポケットに今日も入ってんだろ?」

 梶が皆に聞こえないように耳打ちした。やはり俺が隠している事を分かっているらしい。

「…事情が違うがな」

 俺の言葉を最後まで聞く事なく、梶がハッと我に返った。

「あ、ヤベー。数学のプリントやってねー。翔やってある?」

「まあな」

「ちょ…見せて下さい翔サマ」

 大袈裟に机に頭を擦り付けて両手を合わせている。仕方ない、俺がサイをポケットに入れている事をバラさないでいてくれた漢気に免じて見せてやろう。

 数学のプリントをやったのは、俺ではないがな。自分の机に見えるように置いてやる。 貸したとなれば俺も罪に問われるだろうが、たまたま数学のプリントを机に拡げただけだ。

 それを誰が見ようが、俺の責任ではない。案に、見たければ好きにしろという態度をとる。梶が慌てて椅子を後ろに向けて、プリントを写し出す。

 そして、数問解いたところで、梶が手を止めた。じーっとプリントを眺めている。

「翔、コレお前がやった?」

「何故そう思う」

「いや…なんとなく7の書き方が変わってるなと。知り合いにこの7書く奴いて」

 よく見ると、7の斜めの線に線が書かれている。1と7を間違えないように書いてあるのだろう。確かに俺自身がノートに書く7とは違う。

 コイツ、見てないようで、何気に見てるな。

「ウチには童話さながら寝ている間にやってくれる小人がいてな」

 実際、サイがやってくれたので嘘は言っていない。

「良いな羨ましい。持つべきもんは優秀な身内だな」

 どうやら梶は、兄の海斗がやったと思い込んだようだ。

「昨日のカードに貼ってあったプリクラの子はやってはくれないのか?」

 どんな関係なのか、やはり気になってしまい思わず口に出してしまう。

 その瞬間、梶は一瞬固まって困ったように笑った。

「やってくれるタイプではあったな確かに。サボってると尻蹴られる事確定だろうけど」

 細い目を更に細めて、梶の顔が愛おしい者を思い出しているかのように酷く優しいものになった。

「へぇ。見てみたいものだな」

 俺が言えば、梶が小さく溜め息をつく。

「翔はさぁ…」

 人の女に何興味示してるのかと問われると身構える。我ながら、プリクラ一枚にこだわり過ぎだと思う。サイに入れ込んでいくのを俺の理性が止めているのかもしれない。

 人のモノでも、現実にいる女に興味を示そうとしてしまっているのだろう。

「ん?俺がなんなのだ」

 惚けつつ先を促せば、梶がいつもの表情に戻った。

「あ、悪りぃ。何言おうとしたか忘れたわ…プリント、ついでに翔のも提出しといてやるわ」

 梶はそう言って、俺の分のプリントも持って課題提出箱に置きに行った。


「ねぇねぇ、小林くん」

 俺が一人になるのを待っていたらしい女子が話しかけてくる。

「何?」

「小林くんってどんな子が好みなの?」

 聞かれた瞬間。頭に浮かんだのはサイだ。だが、多分この女生徒が知りたいのは、15cmの水色髪のフィギュアだということではないのだろう。

「性格か?外見か?」

 眼鏡を押し上げながら無表情で聞き返した。

「どっちも知りたいな」

「性格は、何事にも手を抜かない人が良い」

「外見は?」

「黒髪ロングで目の大きい、健康的な小麦色の肌で笑顔の可愛い人が良い」

 淡々と答えれば、女子生徒がポカンと口を開けている。

「具体的だね。もう誰か好きな人がいるみたい」

 確かに、そう言われても仕方がないだろう。

 梶のプリクラにあった子の特徴を並べただけなのだから。

「かもな」

 そう言って牽制しながら、俺は授業の準備をするからと女子生徒の話を打ち切った。


「良いか?今から部活だが、大人しくしていられるか?」

 長袖ジャージのポケットにアンちゃんごと居座ろうとするサイに年を押す。

「もちろん!」

 サイの返事は即答だった。

「走るわけだから、揺れるぞ?」

「へっきだし」

 力こぶを出して落ちないからとサイが繋げる。

「俺的にはバッグの中にいてくれた方が良いのだが」

「やだ!記念すべき初部活なんだし、絶対観てる」

 サイが譲らないので、仕方なしに長袖ジャージのポケットに入れたまま、部活に参加する事にする。眼鏡を外し、コンタクトに変えれば、サイが大はしゃぎだ。

「やっぱ、翔は眼鏡ない方が良い」

「…静かにしている約束をしたハナから…お前と言う奴は」

 注意すれば、ペロっと舌を出してサイが肩を竦めた。


「小林翔、北中出身です。種目は400mです。よろしくお願いします」

 軽い自己紹介の後、練習に入る。自己紹介の時、俺を凝視していた女子がアップジョグに行く際、横に並んで話しかけてきた。

「小林くんだっけ…少し良いかな」

 ハキハキした喋り方だ。見た目が梶のプリクラの子に似ていなくもない。

 長い黒髪に小麦色の肌に大きめの目。この女生徒が梶の大切な人なのだろうか。

「なんだ?」

「小林くん北中出身だよね」

「そうだな」

「なら、知ってるかな。四種競技やってた子で全国に出た佐伯彩芽ちゃん」

「…」

 初めて聞く名前だった。

「私、その子に憧れて陸上はじめたの」

「…そうか」

 それほど有名選手ならば知らない筈はないのだが。

 確かに人数は多い部活で、ただでさえ他人に興味を持てない俺としては、一人一人把握は出来てはいなかった自覚はあるものの記憶力には自信がある方だ。

 考え込んで立ち止まっている俺の尻を梶が軽く蹴った。

「宮野、覚え違いなんじゃねーの?」

 宮野という女生徒を前に行かせて、梶が横に並んだ。

 宮野さんはアレ?そうだっけ…と首を傾げながら女生徒達の集団に戻っていった。

「脚の調子はどうだ?問題ないか?」

 強引に入部させた自覚があるらしい梶が、俺の脚を見ながら気遣ってくる。

「鈍っているくらいだ。それよりあの宮野さんがプリクラの主か?」

「違う違う。宮野は男嫌いで有名。可愛い女の子大好きな人種だぞ?」

「そうか」

 確かに、女生徒の名前を聞いてきたしな。知らないと答えるや否や興味を失ったかのように、前の列に戻っていったし、梶の言う通りなのだろう。

 息が切れるか切れないか位のペースで1kmほど走った後、本格的な練習に入った。

 久々の列になって行われるドリルや輪になってするストレッチは新鮮で心地いい。

 梶も俺もやり始めると熱中するタイプなので、競い合うように負荷をかけていった。

 本種目の練習に入るまでに汗だくになってしまう。長袖を脱げという指示が顧問の先生から出たので、ベンチの背もたれの梶の隣に長袖を掛けた。

それはもう何気無く。サイをポケットに入れていたことをウッカリ失念してしまっていたのだ。それを後から俺は死ぬほど後悔することになった。


「サイ?」

 練習が終わり、長袖を着るためにベンチに戻ってきた時には、サイは変わり果てた姿になっていたのだ。ベンチ下の草むらにアンちゃんを下敷きにするように、水色髪のフィギュアが転がっていた。蒼白になって、サイとアンちゃん(犬のマスコット)を拾い上げる。

 ヲタクだと周囲に思われたとしてもどうでも良いと思えた。

 瞬きもしない。いつもならば、何事か言う筈のサイがピクリとも動かなかった。

 手触りも硬質で、フィギュア以外のなにものでもなくなっている。

「サイ?」

 話しかけてみる応答はない。

 その瞬間。目の前が真っ暗になった。もしかして、陸上部に入った事で未練が昇華されてしまったのか。だとすれば、陸上部になど入りはしなかったと言うのに。

 悔やんでも悔やみきれない。何が今日のラッキーカラーは紫だ。紫水晶の入ったブレスを着けていたところで、サイは動かなくなってしまったではないか。

 じっと、サイが勧めたブレスに文句の百も言いながら、そっとポケットにフィギュアをしまい込んだ。100mの練習が長引いているらしく、梶が終わってこちらに来る様子はなかった。声をかける気にもなれず帰路につく。

 いつもならば、騒がしい帰りの自転車が酷く静かで、俺の耳に届いたのは、車輪の回る音だけだった。


 ツルバニアファミリーの家の中に置いてあるベッドに動かなくなったサイを寝かす。

 いつ起きても良いように、アンちゃんをベッド脇に置いておく。

 もしかしたら、アンちゃん欲しさに起きるかもと思ったが、やはり動きはしない。

 いつものはじけるように無邪気な笑顔ではなく、マジマジのセリカの表情だった。

「サイ、課題をやるぞ」

 呟いても、返事がない。いつもならば、文句言いながら近付いてきて、シャープの芯の鉛筆片手に一緒に問いてくれていたのだ。ずっと見ていても、ピクリともしない。

 胸がギュっと締め付けられる。心の中にポッカリと大きな穴が開いてしまったようだ。


「翔、晩御飯だよ?」

 兄の海斗が、仕事から帰ってきたらしい。俺の部屋のドアをノックと同時に開けて呼んだ。ノックの意味がないと思いつつ、時計を見たれば、七時だった。

 まだ、部活から帰ってきて30分しか経っていない。

 いつもならば気付けば寝る時間になっていたというのに。食欲すらなくなってしまった。

「食べてきたので不要だ」

 心配かけない為に方便を言う。

 兄は肩をすくめて部屋のドアを閉めてリビングに戻っていく。

 振動音がしたので、机に目をやれば、スマホが着信を知らせる点滅をしていてる。

 今は誰とも話したくはなくて、見る気にすらならなかった。

 ほら。サイがいなければこれ程に無気力になってしまうのだ。

 俺を幸せにしにきたのではないのか。ならば、どこにも行くんじゃない。

 そう、声を大にして言いたかった。こんなことならば、サイに会う前の無気力のままの方が悲しみを知らなくて済んでいたというのに。

 誰かを想ってしまう切なさを知らなくて済んだというのに。部屋に鎮座するミニチュアハウスが自分の浮かれ度合いを物語っていて更に気分が沈んでしまう。

 なくす寂しさを知るくらいならば、出逢わない方がいい。部屋の電気を消し、ベッドに寝転がる。目を閉じても出てくるのは、サイの事ばかりだった。


「翔、電話だよ」

 兄が、今度はノックもせずにドアを開いて部屋に入ってくる。

「海斗…ノックくらいしてくれ」

 のっそり、気怠げに身を起こす。おかしい。ウチは節約の為、固定電話は無かったはずだが。チラリと兄を見れば、手には兄のスマホが握られていた。

「ごめん。急用なんだって。翔のスマホ鳴らしても出ないからって梶くんが僕のとこに電話くれて。はい、電話終わったら戻してくれたら良いから」

 プライバシー的に人にスマホを渡したくはないだろうに、手渡してくれる。

「ありがとう」

 電話を受け取り、耳に当てれば、兄は気を利かして部屋を出て行った。


「梶か…どうした?」

「どうしたも、こうしたも。お前俺のフィギュア間違えて持って行っただろ?」

「は?」

 慌てて、ツルバニアファミリーの家から、セリカのフィギュアを持ち出してくる。

 よくよく見てみれば、確かに昨日ゲームセンターで梶が落としたものだった。

「それともお前、持って行ってない?」

「いや。家にある。ならば俺のは」

 少し聞くのが怖い。

「子犬が咥えて持っていこうとしていたのを俺が阻止して預かってるから安心しろ」

 子犬が咥えて…だと?サイに怪我はなかったのだろうか。いや、根が人形だから平気なのか?第一、梶のところにいて、サイはどうなっているのだろうかと心配になる。

 固まり続けて普通のフィギュアのフリをしているのか。はたまたバレてしまっているのか。頭の中が混乱して適切な言葉が出てこない。

「あ、ああ」

「お前が何故学校にフィギュア持ってきていたのか、理由が解ったから安心しろ」

 と、言うことはサイがただのフィギュアではなく動くと言うことを梶は知ってしまっていると言うことか。

「サイ…と名乗るフィギュアに大体のワケは聴いた」

「そうか」

 まずはサイが消えていなかった事が分かり、ホッと胸を撫で下ろした。

「今から届けてやろうかと思ったんだけど、今からどうしても観たいアニメがあって。明日で良いか?ちょい調べたいこともあるし」

 アニメなど録画しておけば良いだろうが。

 と思いつつも、間違えて持ってきてしまったのが俺自身なので強くは言えない。

「サイはそこにいるのか?」

「ああ、いる。話すか?」

 梶の声が遠くなった。サイに代わってくれる気なのだろう。


「翔、梶にバレちゃった」

 サイの声は意外にも明るい。テヘペロと言った感じだ。

「それは良いとして、子犬にやられたのではないのか?身体は平気か?」

「心配性だなぁ。平気だって!格闘してたから。それよりアンちゃんは無事だった?梶のフィギュアの下に咄嗟に隠しておいたんだけど」

 どおりで、セリカのフィギュアの下になっていた筈だ。そうか。

 犬から守ってくれようとしていたのか。サイらしい。

「アンちゃんに怪我はないから安心しろ。それよりも今晩はアンちゃんなしだが平気か?」

「平気じゃなぁぁぁい。アンちゃん」

 サイが悲鳴をあげた。思わず笑ってしまう。

「なら、早く帰ってこい」

 そう言ってやれば、サイ少しの間のあと、小さく呟いた。

「心配かけてゴメン」

 梶に小さなマスコットがないかと尋ねながら

 スマホを返したらしく、サイの声が遠くなって、梶の声が近くなる。

「と言うわけだ。心配すんなよ?ってか電話出ろや」

「すまない。善処しよう」

 珍しく素直に謝って電話を切った。心がすっと軽くなったのが自分でも嫌という程わかる。ゲンキンなものだ。サイが消えてはいなかっただけでこれほどまでに救われている。

 周囲を見る余裕が生まれた。放置していた自分のスマホを開ければ、梶から6件も電話が入っていた。電話の履歴のところに赤いエクスクラメーションマークが表示されている。

 未読マークを消そうと着信履歴ページを開いた。心配していたのだろう。

 1分おきに電話がかかっていた。悪い事をしたと思う。指が下の方までスライドする。

 その時だった。

 部活の時に宮野という女生徒が聞いてきた「佐伯彩芽」という名前が下の方にあるのが目に入ってくる。

 下にスライドすればするほど結構な頻度でその名前が出てきていた。

 誰だ?これは。膨大に入ってきている筈の記憶倉庫に彼女の記憶はかけらも存在しない。

 履歴の数は圧倒的にその名前が多いというのに。

 しかも、俺の方からもかなりの確率でかけている。他人と自発的にコミュニケーションを取ろうとしない俺が?

馬鹿な。

あり得ない。誰かが俺の知らない間に俺のスマホを使っていたというのだろうか。

 そうでなければ、俺はジキルとハイドのように二重人格者という事になる。

「佐伯彩芽」という人物を調べてみる必要があるようだ。


「母さん、同じ中学に『佐伯彩芽』という人物はいたのだろうか」

 自室を出てリビングにいる兄にスマホを返し、キッチンで後片付けをしている母に尋ねてみる。母は俺に背を向けたままだ。

「さ、さあね。お母さん仕事仕事で翔の学校のこと詳しくないから」

「分かった。ならば卒業アルバムはないだろうか」

「ごめんね。たまたま人に貸してしまっていて家にないの」

 こういう時に、人間関係をしてきてないのは痛い。LINEも削除してしまっているし、頼る先がなかった。八方塞がりだ。いっそ、着信履歴から佐伯彩芽のスマホにかけてみるか?

 そうだ。その手があるではないか。自室に戻って早速かけてみるも、電源が入っていないか電波の届かないところにいるという応答があるだけだった。


 翌朝は、サイがいなくても思わず占いを見てラッキーカラーのブレスを嵌めてしまった。

 感化されているなと自嘲する。一人の道はいつもより長く感じた。少しでも早くサイに会いたくてペダルを漕ぐスピードを上げる。5分ほど早く着いた。

 学校に行くや否や梶に腕を引かれ、人目に付きにくい屋上に連れて行かれる。扉を閉め、誰もいない事を確認したあと、梶はポケットからサイを取り出し手渡してくれた。

「梶、昨日は迷惑かけたな」

 サイが俺の手の平の上でペコリと頭を下げる。

「いや、俺の方はラノベ的生活を満喫出来たから問題ない」

「非現実的な事へのこの対応力…歪みないなぁ」

 サイが呆れるのに、俺も激しく同意した。

「だって夢のようじゃね?フィギュアが動いてるなんて、萌え以外のなにもんでもねぇ」

「梶の背景に炎が見えるな」

 ため息混じりに呟けば、今度はサイがコクリと頷く。

「や、だって小さくて可愛い女の子の面倒見るのって夢じゃね?このまま俺のとこに居座ってくれても良かったんだがなぁ」

「や、梶…目が怖いから」

 サイが引きつり笑いを浮かべながら後ずさりする。

「ま、冗談はさておき。少し話がある。サイは教室に置いてきてくれん?」

 梶が真顔になった。冗談にいささか見えない感じだったぞという突っ込みは控えておこう。余程込み入った話なのか、梶の声のトーンは低い。

「なんでサイだけ仲間外れなんだって」

 サイがプンスコ怒っている。

「男同士の話に加わるか?」

 ニヤニヤしながら梶が言うのに、サイはムーと口を噤む。

 俺は一旦教室に戻ってサイをカバンの中に移動させて戻った。

「で、どうした?改まって」

「サイの話だ」

 梶が先程までとは打って変わって、真剣な顔をしている。

「…」

「マジマジのフィギュアの都市伝説を聞いたことがあったから、ググってみたんだわ」

「都市伝説…そんなものがあったのか」

「おう。翔はマジマジのストーリーは知ってたっけか?」

「兄に聞いた事がある程度だ」

 兄の部屋にあるフィギュアを指摘した時にわざわざ説明してくれたのであらかたは知っている。

「好きな人の夢を叶えるために、人である事を捨て壮絶な死を遂げた水色の魔法使いセリカの無念さが1000体目のフィギュアに宿っていて、誰かの望みを叶えてくれるっていう類のものだ」

「へぇ、それがこのフィギュアだと」

「昨日、サイの足の裏を見せてもらったらなんと1000体目だった」

 都市伝説が伝説ではなかったというのか。

「にわかには信じられないが、現にサイがこうして動いているワケだから信じるしかないのかもしれんな」

 サイが俺を更生させる為に来たと言っていたのだから、水色の魔法使いと契約をしたのかもしれない。本人は少しもそんな事は言わなかったが。

「ただ、その望みにはリスクもあって、望みを叶えてくれる代わりに、魔女の出すお題をクリアできなければ、契約した者は人魚姫のように消えてしまうらしい」

「何?!」

 サイが消えてしまうかもしれない…だと?梶の言葉で背筋が凍り付く。

「望みが叶った瞬間、足のロット番号が赤色に変化し、魔女の出すお題を制限期間内にクリア出来るかどうかになってくるらしい。お題にクリア出来れば手の甲に浮かんだカウントが消え、足の文字も肌色に戻る。クリア出来なければ、手の甲の数字がゼロになり動かないフィギュアに戻り中の者は消滅するらしい」

「な…ん…だと」

 言葉を失う。

「昨日、確認したら、サイの足の裏の文字は赤くなっていた。手の甲には3という数字が刻まれている」

 どうやら、俺が陸上部に入部した事で、『俺の更生』という願いは叶った事になってしまったらしい。

「3、という事は3日しか残されていないというのか」

「だな…」

 梶も神妙な顔をしている。俺が大切にしていると分かっているからなのか、梶自体が一晩で情を移してしまったのか判断できないが、梶にとってもサイはいなくなってはいけない存在らしい。

「魔法使いのお題というものが何なのか解れば…消えなくても済むということか」

「…そういう事じゃね?ただ、契約は履行されてるワケだし、ずっと動くフィギュアでいるかどうかは謎だけどな…」

 梶が問題点を洗い出す。確かに、霊体になっているサイが消えなくて済んだとして、いつまでもフィギュア内にいさせて貰えるかどうかすら定かではないという事だ。

 ただ、このままだとサイが消えてしまう可能性しかない。

「サイは、その事を知っているのか?」

 俺が聞けば、梶は神妙な顔で頷いた。

「多分な。昨日の夜、それとなく聞いたら解っている風だったし。超サバサバしてたぜ?」

「自ら、セリカのお題に応えようともせず、消えようとしているという事か?」

 どうしたら良いというのだろう。

 どうすれば、サイを消さずに済むのか。

 無駄に高い知能指数はこういった時に発揮されるべきものだろうが。

 だというのに、こういう時に限って、気が焦るばかりで糸口さえ見つけられない。

「翔が元気にまた学校に通えるようになったから万々歳だって、晴れ晴れした顔で言ってたしな」

 梶が屋上の手摺に持たれて空を見上げた。その表情がとても苦々しい。

「梶…お前。何か知っているのか?」

「…さぁ…な。知っていたとしても言わんと約束したしな…」

 梶がこれ以上詮索するなと俺に釘を刺した。


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