第三話
皇子のことは愛していた。
腹を痛めて産んだ息子だ。この世に生まれてから数えればたった一年ではあるけれど、命を宿した瞬間から母としての自覚は持っていた。
なのにどうしてフローチェは、我が子の首を絞めているのか。
それは――どうせ助からないと思ったから。
『直ちに帰国せよ。皇子は殺せ』
真紅で描かれた手紙が届いたのは、父が帰国した日。
誕生日祝いのパーティーの翌日、『愛娘への手紙』という体で送られてきた。
どこが愛娘なのか。一族の悲願のための道具でしかないくせに。
娘や息子を嫁や婿に出すことで、あらゆる国との繋がりを得ている父。
フローチェが一族を裏切った理由である皇子を、そしてマルセル陛下を抹消すべく、どんな手を使ってくるかわからない。
フローチェにとって何より大切なものを奪えば再び従順になる――それくらいのことは考えそうな人だ。
たとえフローチェが全力で謝っても、はたまた思い切って自死を選んでも、皇子が生き残っていることを父は許さないだろう。
だから、父に従いたくはないが、せめてこの手で死なせてやろうと考えた。
いや、そんなのはやはり嘘だ。
本当はマルセル陛下に危害を加えられたくなかったから。優しいあの人を、一族の計画に利用してしまったあの人を、これ以上巻き込むわけにはいかない。
父の言う通りにすればいい。フローチェが息子を秘密裏に始末し、この国から逃げ出せば全てが丸く収まる。
それから大人しく祖国に帰るのだ。たっぷりと罰を受けてから、きっとまた別のどこかへ嫁がされて、青い血を持つ子が生まれるまでその繰り返し。
ただ屈して妥協して悔しくないのか、と問われれば、当然悔しい。
けれどもそれが最善手に思えた。そうするしかなかった。
――決行したのはとある昼下がり。その日は帝都の視察に行くとかで、マルセル陛下はいなかった。
すやすやと息を立てて昼寝をしている可愛い息子、その細く柔らかい首を、そっと締め上げ始める。
しばらく下がっているよう言い付けたから使用人はおらず、フローチェと皇子、二人きりだ。
首を締められている皇子の息が苦しげなものに変わるが、彼は目を覚まさない。きっとこのまま二度と目を覚ますことはなくなるのだろう。
「ごめんなさい」
ずっと幸せに生きられれば良かった。
けれどフローチェにはそれが許されない。血の色をした呪詛が刻まれた手紙を手に、唇を強く強く噛み締める。
走馬灯のように、マルセル陛下に出会ってから今に至るまでの日々が思い浮かんだ。
父の言葉を信じて疑わなかったフローチェに、愛を、幸せを教えてくれたのはマルセル陛下だった。フローチェの人生に豊かさをくれたのは生まれてきてくれた皇子だった。
青い血の流れない、『神族』の血を引くだけの人間である彼らがフローチェを救ってくれた。救ってくれた、のに。
「どうか……愚かなわたくしのことを恨んでください」
虹色の瞳から涙がこぼれ落ちる。泣きたいのは何の罪もないのに殺される息子の方だとわかっていても、溢れて止まらなかった。
もうすぐフローチェの掌で小さな命が潰える。
もう後戻りはできない。あったはずの幸せは遠く、何もかも手の届かないものになって――。
「フローチェ!!」
驚くほど、大きな声がした。
フローチェは思わず振り向いて、息を呑んだ。ここにいないはずのマルセル陛下が、今まで見たことのない怖い顔で仁王立ちしていたから。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
失敗した。失敗した失敗した失敗した。
手の力が緩んだ一瞬の隙を突いてマルセル陛下が駆け寄ってきて、皇子は奪われ、フローチェは身柄を拘束された。
一晩明けて、気づけば暗い地下牢の中だ。
こんなはずじゃなかった。マルセル陛下に見つかるなんて、最悪の中の最悪ではないか。
この機に及んで彼に嫌われた可能性について心配している自分を、フローチェはひどく憎く思う。
嫌われたどころか絶縁されるのは必至なのに、本当に馬鹿だ。
最初から愛そうだなんてしてくれなければ良かった。そう思うのは傲慢だろうか。
そうすればマルセル陛下に惹かれてしまうことはなかった。彼を拒んでさえいれば、こんなことには。
頭の中がぐちゃぐちゃで、ひたすら惨めで、死にたくなる。
しかしそんな思いは愛しの人の声を瞬間に失せてしまった。
「フローチェ、貴女と話しをしにきたんだ。いいだろうか?」
牢の中は暗いから相手の姿は見えない。
また怖い顔をしているのかも知れないが、なぜだか声音は優しかった。