第二話
マルセル陛下は優しかった。
そこにまだ愛はなくとも、本気でフローチェを想って行動してくれているのが伝わってきた。
「今日も貴女の好物のクッキーを持ってきた。一緒に食べてはもらえないだろうか」
「陛下は執務でお忙しいのでは? 構ってくださるのはたいへん嬉しいのですが、わたくしより優先すべきことが他にあるかと」
「執務は終わらせてきた。貴女と過ごす時間を作るために」
「……本当に、おかしな人」
政略結婚の夫に接する態度は生家で学んだ。けれども、このような触れ合い方をされた時の答えなど知らない。
拒むことも受け入れることもできず、フローチェは曖昧な笑みを浮かべて見せる。
「戸惑う貴女はとても可愛いな。もっと色々な表情を見たくなる」
「わたくしで楽しんでいただけているようで何よりです」
「……すまない。おもちゃにしているつもりはなかった。語弊を与えるような言い方だっただろうか」
「婚姻が済みましたら、夜もぜひ可愛がってくださいませね」
そう言うと、マルセル陛下は驚いた顔をした。
「てっきり、政略結婚だから閨は不要とでも考えているのかと、そう思っていた」
「よく、子はかすがいと申しますでしょう? 子を成さなければ意味がございませんもの。婚姻は三ヶ月後でしたか。楽しみです」
大切に扱われるのは予想外だった。
ただ、それはそれ。果たすべき使命に何ら変わりはない。
変わりはないのに……。
「貴女の意見はわかる。ただ、私としては、子という名のかすがいを手に入れるためだけに貴女との婚姻を結ぶつもりはないんだ。それでは、誰も幸せになれないと思わないか」
甘っちょろい意見を聞かされる度、呆れ返りながらも、少しずつ、ほんの少しずつ、『当たり前』が揺らいでいって。
それがフローチェはたまらなく恐ろしかった。
計画のためなら駒になることを笑顔で受け入れるのは当然のこと。――本当に?
その上で青い血を持つ子を産むのがフローチェの存在意義だ。――本当の本当に?
だって、マルセル陛下はこんなにもまっすぐ見つめてくれるのに。
フローチェを愛そうと、フローチェと幸せになろうとしてくれているのに。
毎日欠かすことなく会いに来て、お昼を共にし、言葉を交わした。楽しかった。
デート、というものに連れて行ってもらった。そこでお揃いのアクセサリーを買って、いっぱい遊んで、笑い合った。
そうするうちに、どうしようもなく彼に惹かれている自分に気づいてしまう。
――最初は、彼を種馬として使うことしか考えていなかったくせに。
馬鹿みたいだ。どうかしている。こんなの、正しいわけがない。
そう思いながら、フローチェは。
「どうやら私は貴女を愛してしまったようだ。美しい虹色の瞳も、哀しげに微笑む唇も、何もかも。許されるのなら、貴女と愛のある結婚をしたい。だから――貴女の気持ちを聞かせてほしい」
嫌ならばいつまでも待つつもりだ、と付け加えつつ告げられたプロポーズに……愚かにも答えを返してしまった。
「わたくしも、同じ想いです」と。
そうして二人は結ばれる。
多くの人に祝福されながら、とてもとても幸せな結婚式を挙げることとなったのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
誰が想像できただろう。
幸せに結ばれ、さらには可愛い皇子まで儲けた皇妃フローチェが、子殺しの凶行に及ぼうとするだなんて。
フローチェ自身も思いもしなかった。
いや、あえてその可能性を考えないようにしていたに違いない。
マルセル陛下との愛の結晶であり、腹に宿した大事な命……そこに流れる血の色を。
生まれた子の頬は綺麗な薔薇色だった。
いけないと分かっていながらも、ナイフで赤子の肌を薄く薄く裂いてみた。真っ赤な血が溢れ出した。
赤子と違って血を失ったわけではないのに、事実をその目で確かめたフローチェの顔色が紙のようになる。
泡を吹いて倒れてしまいそうだ。けれどどうにか意識を保ち、腕の中のものを見下ろす。
痛みに顔を歪める、世界で一番可愛く哀れな皇子を。
「この子はわたくしとマルセル陛下の子です。たとえ、神でなかったとしても」
隠し通そうと思った。
この子が神でないことを、なんとしても隠し通さなければ、と。
フローチェは手紙をしたためた。青い血のように見える液体を同封して、『神が再誕した』と報告したのだ。
それで納得してほしかった。勝手に舞い上がって、永遠に真実に気づかないでほしかった。
でもそんなのは到底無理な話だったのだ。
皇子が一歳を迎えた、その祝いの席に入り込んでいたフローチェの父が、ワイングラスで皇子にわざと怪我をさせることで血の色を確認しにきたのだから。
小国といえど立場は王だ。それに血縁上は皇子の祖父でもある。皇子に軽い怪我を負わせた程度で罪に問われることはない。
「申し訳ない」とマルセル陛下に平謝りしながら――父は、鋭い目をフローチェに向けながら唇を動かす。
『赤い血の流れる者を愛したか、この裏切り者めが』
そう言ったのが、はっきりとわかった。