その2(44)
その翌日も少年はやってきた。僕はそんな気はしていた。姿が遠くに点として捕捉した瞬間から僕は魚獲りを切り上げ、魚の入ったバケツを隠した。これで魚を獲り直す手間をかけずに済む。別に用意していた空のバケツを川辺に残し、まだ遠くに見える少年を睨んだ。思う存分徹底抗戦するつもりだった。
少年は逃げなかった。ただ僕の方には目もくれず、僕から十メートルくらいの距離まで近づくと立ち止まって右手を伸ばした。何かの信仰の儀式かと考える間も無く、少年の手に見覚えのあるバケツが握られていた。
そして少年は元来た道を辿り始めた。僕に手品でも見せつけたかったのか、でもそれは何だか下に見られているようで癪だ。
あの一部始終は何だったのか脳内に?を泳がせながら隠したバケツを探した。ない。しばらくパニックになり、少年の手に握られてたバケツがそのバケツではないかという仮説は立つ頃には、少年はこの場にはおらず、並び立つ木が小刻みに揺れるばかりだった。
それからの少年は泥棒であった。それも僕の上位互換の魔術を使うというのが気に入らなかった。天才の二文字で片付ければ容易いが、僕だって練習を積めばそれくらいできる自信はある。
バケツを隠すのを見たから簡単に奪われてしまったと考えた僕は三つのバケツを用意し、ある程度魚を入れたら別のバケツに魚を入れるようにした。バケツの一つを目立つように配置し、残りは隠すことによって、三分の一だけの被害にしようというのが狙いだった。全て奪われるのは許せないが、少しくらい譲ってやろうという懐の広さがあったのだ。
隠した後に少年が来て、今回は上手くいくぞと胸を弾ませた。前日と同じく少年は僕の手前で止まり、手をかざした。僕は無心で少年の手を凝視し、そこに握られる一つのバケツを想像していた。ところが複数の残像が見え、思わず後ろに跳びはねた。見直すと三つのバケツがその手に握られていた。
「おい、全部獲ることないじゃないか!」
やるせない叫びを上げて僕は少年に向かって走り出した。少年を捕まえずとも一メートル付近まで接近できれば魔術で取り返せると考えていた。魔術による取り合いになれば、制約の多い僕の魔術の方が乱発できるに決まっている。
岩の多い川辺だけあって足場が悪く、頻繁に躓きそうになる。対して少年は身軽だった。今にも宙に浮きそうな軽やかさで僕との距離を広げていった。結局僕が先に減速し、勝利を確信した少年はバケツでお手玉を披露しながら姿を消した。
僕だって食わねば生きていけないのだから、少年に根こそぎ奪われているポジションを保持してはいられない。
しばらく重い腰を上げずにいたが、現状打破のため近くの同業者を探すことにした。収穫を恵んでもらおうというよりは、少年の矛先をなすりつけたかったのが本音だ。
僕の縄張りから三十分歩いたところでようやく手製の釣り竿を持つ女を発見した。歩き続けて汗だくになった僕は、その女には気味悪く映っていることが表情から察せられた。
「僕もここで魚を獲らせてほしい」
「無理」
「取れた半分はあなたに譲りますから」
「無理無理」
「別の場所で魚を取ってたんですけど、最近ダメなんです」
「それで」
「回復次第戻りますから、それまでの短い間だけ、」
「無理。キモい」
身だしなみが良ければ、結果は違っていたと思う。こう短時間に何度も「無理」を返されると居た堪れなくなって逃げた。何が無理なのか、いや何がではなく何も無理なのだという悪循環に耐えられなくなったのだ。
……仕方なくその日は元の川辺に戻った。そこではまるで自分の縄張りかのようにあの少年が魚を乱獲していた。少年が獲ることに夢中になっている隙に、バケツいっぱいに刺さっている魚をいくつか魔術で抜き取った。音も立てず、ゆっくりとその場を去ろうとした。
しかし途中で口笛が鳴らされる。その僅かな怯みの内に奪った魚は取り返されていた。
連日別の場所を探す気になれない怠惰な僕は代わりに悪知恵を働かせた。数日間は以前の魚獲りを再開し、少年に奪われるままにした。取り返そうという素振りも必要だから続けた。少年が帰った後の収穫でその日々は凌いだ。量は労力に対して少ないが、来たる日の仕返しのために我慢した。
その来たる日、僕はバケツいっぱいにXモドキを詰め込んだ。先に説明したゲロマズである。Xモドキを嬉しそうに頬張り、そのために悪臭と悪味に苦しむ少年の姿を想像しては奮い立った。今までで一番獲りがいを感じたと言っても過言ではない。
少年が何も知らずやってくると、興奮のあまり手が震えた。バレるな、バレるなと唱えながら淡々とXモドキだけを選んでバケツに放り込んだ。
そしていつも通り少年は僕のバケツを奪った。
勘づかれないためにこの日も少年を追いかけた。しかし少年の足取りはいつもより重く、焦っていた。いつもと違って早く少年に逃げ切ってほしいのに、中々距離が広がらない。
仕方なく僕の方から少年に見えないように距離を置いた。あとをつけて少年の悶絶する姿を見たいという好奇心がすぐさま発現し、僕に尾行を再開させた。岩場はいつしか土の道に変わり、木の根が人を引っ掛けようと出っ張っていた。傾斜は急になり、疲労から太ももに手を置くのだが、その頻度は着実に増えていく。
やがて木と木の間の狭い道で木や枝を掻き分ける必要が出てきてうんざりした。足場は生い茂る草で見えにくく、掻き分けた枝は手を離すと跳ね返ってきて僕を痛めつけた。日差しは直撃していないのに、熱気が渋滞しているかのように蒸し暑く、汗が滝のように流れ続けていた。既に尾行したことを後悔していた。少年を見失えばいつでも諦めて引き返そうと決心していたのに、少年が亀に喩えると亀に失礼なほどにノロノロ歩いたために見失えなかった。
ジャングルじみた場所をようやく抜けると、光に包まれた崖が現れた。その先には見知らぬようで、見覚えのあるような女が立っており、少年は女のいる方へ歩いていく。
女は逆光で輪郭しか分からないのだが、なぜか僕はテルテを思い出してしまった。久しぶりのことだ。胸が冷たく鋭く締め付けられるのを感じ、頭を強く掻きむしった。




