その6(42)
女はさも当然のことのように、地面に一日は残るであろう強い足跡を刻みながら行ってしまった。屋内での面影とはまるで重ならなかったのは、単に暗がりがそうさせているからなのか。
急に赤の他人であるような気がしてきた。経験上、こういうときの僕の推理というのは、自分の都合よく考えようとした結果であるため、めったに当たることはない。翻ってみれば、窓の向こうに見えた女が、この宿で僕らと会話していたその女の可能性が高いということになる。
知らぬうちに僕の両手は窓に張り付いており、剥がすと指紋がそこに残った。
「あれで五人目だね」
サカはおそらく今の女を数えてそう言ったのだろう。複数人いなければ、外に出た人の数を数えようなんて発想にはなるはずがない。
「残りの四人はどこに行ったか分かるかい」
「知らない。みんなあの女の人と同じほうに行った」
偶然出会った四人と、必然的な四人とでは話がまるで違う。そして今の女も加われば、一仕事が始まってもおかしくはない。
テルテとめるめのいる下の階に戻り、依然として女が奥の部屋から戻ってきていないことを知った。しかし奥の部屋に向かって声をかけてみると、返事は返ってきたのである。
『しばしお待ちください……手が離せないのです……』
「何か手伝いましょうか。力仕事でしたら、最適な人がこちらにいますので」
『それにはおよびませんよ……こちらを決して覗かないでくだされば、それで結構ですので……』
「なんで覗いちゃいけないのさ。君は鶴か何かなのかい」
テルテは目を細めて言った。テルテも誰かと戦闘を行っているときには、醜い光景であるからと僕に見られることを嫌う。テルテからしてみれば女の要求は、邪な隠し事をしているように感じたのだろう。女はテルテの問いを無視し、代わりに、
『あと、出られるからといって、外には出ないでください……みんなびっくりしちゃいますから……』
と注文を付け加えるのだった。びっくりするなんて理由は納得がいかない。既に外を徘徊している人もいるのだし、それ以上に、さっき見た複数のドアによるダンスじみた行為の方が驚愕が押し寄せるに決まっている。だから、
「外に出るくらいで誰も驚かないでしょうよ。もっとびっくりすることが現在進行中なんだから」
『外を見たのですか』
「少し」
『カーテンを閉めて、もう外を見ないでください……できれば早く寝てください……無理なら出て行ってもらいます』
さらに注文が増えて、何だか窮屈な気分になった。これ以上話をしたところで、一方的に女から注文を増やされるばかりであろうと思うと、自ずと口は重くなった。次の注文が伝えられるのが、何か刑罰を告げられるように怖かった。
しかしそう怯えて黙っていると、向こうもそれに呼応するように黙りこんでしまった。
流石に断定するのは早とちりだが、こちらが攻めなければあちらに攻める気がないカウンターアタック専用の人形と相手をしているのではないかという気がしてきた。少なくとも人形的なのだ。
例えば今、外から聞こえる音が空気の流れる音とドアの揺れる音であり、これを女に何らかの形式で伝えれば、『外の音が聞こえないよう、耳を塞いてください』とでも返答が帰ってきそうである。
人形が相手、それも他人の人形が相手なら、好き勝手遊びたくなる。万が一壊れたとしても、僕に響くのは小さじいっぱいの罪悪感くらいで、相手の方が苦しみを味わいことになるからだ。要するに他人事だからであり、無責任な僕の一面と言える。
しかしこの妄想というのは、恐ろしい前提からはじまっている。それはあの女が、子供が拳を振り上げるだけでも言うことを聞かせられそうな女が、人形を所持しているという点である。この前提から、彼女自身が魔術士であるか、もしくは魔術士を友人に持っている可能性が浮上するわけだ。後者に関しても、現時点での街の様子から、メルメとは別の魔術士がいることになる。
「つまり、仮想敵なんて用意する必要がなかったと」
「いや」僕はめるめを小声で制し、「メルメは犬との共犯であるだけで、それ以外の魔術士とは対立しているかもしれない。残る魔術士が一人とも限らない」
……だがまだ妄想だ。扉の向こうの存在が人形であると、この目で認識するまでは、何もかもが妄想だ。
約束を破ることになるが、覗きたい思いが湧き上がってきた。そうだ、覗けばいい。例え覗いたとしても、相手に気づかれなければ、何も問題はない。気づかれるから、約束を破ったと悪い空気になるのである。
喉を気合いを入れるように呑み込み、奥の部屋のドアノブにゆっくりと、音を立てないように、左手の小指、薬指、中指、人差し指、親指と順に絡めていく。親指までかかってからは力を込め、時計の秒針のように小刻みに回す。
扉は押すのか引くのか。女はどうしていたのかを思い出してみるが、あまりに注視していなかったために、モザイクばりに朧気な記憶で、役に立ちそうもない。仕方なく背後のテルテに右手でジェスチャーして尋ねると、押せばいいとジェスチャーしてきた。
急な動きは目立つ。ハエや蚊を仕留めるにしても、その直前までは危険な動きではないと勘違いさせるために、ゆっくりかつ一定の動きで追い込んだ方がいい。室内で何をしているのか知らないが、それを中断することのない(そして扉は閉まったままと勘違いするような)、小さな動作になるように扉を押した。
頭を突っ込みたい欲求を意識しながら、目を部屋の中へ滑り込ませていくと人の姿にぶつかった。
それは想定した一人(一体)だけではなく、五体あるいは五人であり、それも何か作業をしているわけでもなく、
揃ってこちらを凝視していた。合ってはならない目が合ってしまったのだ。
そこから僕がしたことと言えば、逆再生のようだった。目を部屋から戻し、扉を引き、親指から小指の順にドアノブから指を離した。自分の行動を俯瞰しているような感覚があった。
その扉にかける鍵がないことに絶望し、扉から目を離さないようにして後退りした。壁についてなんとか外への扉に手をかけるが、こちらは開かなくなっていた。
魔術だ。自分のそれは屁理屈じみたものなのに、他人の魔術になると、自分は死ぬしかないような圧倒的な力があるとしか思えなかった。今にも僕は身動きを止められるに違いない。ドアよりも融通は利く自身はある。
世の中不公平な気がした。
僕は変わらず扉を見つめながら、余った視界でテルテとめるめに目配せし、上への階段へ共に向かおうとした。
間に合わず、その絶望の扉は開かれた。一体が、
「見るなと言ったのに……見たからには、生贄になろうか魔術士のニブイチさん」
「あなたたちも魔術士なのでしょう。魔術士同士なら、」
「この街なら、みんな魔術士みたいなもんさ。使えない人間の方が珍しい」
「メルメに行動を縛られていただろ。それを解放したのは僕だ。それに免じて今回は見逃してくれ」
「は、は、は!そんなの自慢にもならないよ。メルメの相手をしてやってたのはこっちだよ。あいつが魔術を大々的に行使しているうちはね、我々は魔術の使えない人間のふりができた。役人の目を欺くには便利だったのにね。誰が犯人なんだってみんな怒り狂ってるよ。それに、」そこで人形?の一体は瞳に殺意を漲らせ、「不合格だよ。お縄になり、奴隷のようにこき使われるがいいさ。こっちを見るなっていったのに、約束を破ったんだ。当然の報いだよね」
説得は無理と悟ると、僕は階段へ逃げ、テルテは真っ先に五体に向かった。テルテは今まで強かったのだが、薄紙を破るように容易くノックアウトされ、僕がサカのいる場所に着くまでのたったの十数秒で砂山に戻ってしまった。あまりに一瞬で実感はしばらく沸かなかったが、今なら言葉にできる。
夢が潰えて悲しかった。
めるめにしても、物体に戻る運命しか待っていないから見るのをやめ、逃げるのに集中した。数が、質が、かけ離れすぎている。
僕は一か八か窓を割り、外に逃げることに全てを賭けるしかなかったが、来てみるとサカは"犬"に襲われていた。"犬"は窓を割って侵入したらしく、窓は集中線のようになり、床は破片で満ちていた。間髪入れず、僕は無心に突進した。下手だろうから不意打ちを狙った突進だったのだが、想像以上に下手だったので避けられた。が、運良く"犬"の脚にしがみつくことには成功し、サカ共々攫われることになった。
屋根を走る"犬"に引き摺られながら(時に振り払われそうになりながら)、後方からの追手の有無を確認した。宿にいた三体が向かってきていた。それを"犬"に伝え、疲れながら下を目を垂らしていると、あの五体とそっくりな五人?が談合している。
みんな魔術士だったのか……。世界の広さに、自分の小ささに、薄ら笑いを浮かべるくらいしか、そのときの僕にはできそうもなかった。
これで一区切りとなります。次回から新章・新展開となります。よろしくお願いします。




