聖域暮らしのオフィリア嬢(1/1)
翌朝。宿泊者用の館に泊まった私は、まだ早い時刻に目が覚めた。昨日のドレスは返してしまったからいつもの粗末な服に着替え、近所を散歩する。
そのついでに、中央広場へも足を向けた。まだ片付けがなされていない会場は昨日の祭りの余韻を残しており、そのせいなのか静まり返った今は少し寂しげに見える。
本当に楽しい一時だった。
この空中庭園はいいところだ。一度足を踏み入れたら、帰りたくないと思ってしまうほどに。
でも、そういうわけにはいかない。私はただのお客様。いつかは地上へ帰らなければならないんだ。
大丈夫。ここでの思い出は、きっと私の糧になる。
そう思ってみても、ここから去るのを名残惜しいと思わずにはいられない。
帰ったって私には何があるというんだろう? 一人きりの虚しい生活が待っているだけだ。
……いけないわ。こんな後ろ向きなことばかり考えてちゃ。しっかりしないと。
中央広場を後にしながら無理やり自分に活を入れていると、「オフィリアさん!」と声をかけられた。アイザックさんが走り寄ってくる。
「パティちゃんが、『朝食の支度ができたのに、お客様がお部屋にいません!』って騒いでたよ。……会場で何してたんだい?」
アイザックさんが中央広場を不思議そうに見る。私は「別に何も」と返した。
「ただ、昨日のことを思い出してただけよ。帰る前に、もう一度見ておきたくて」
「か、帰る?」
アイザックさんの声が裏返った。
「そんな……もう行ってしまうのか!? 僕はまだあなたと離れたくないのに!」
「でも、ずっとここにいるわけにはいかないでしょう? 私、この場所が好きよ。だから、いつまでも居座る招かれざる客にはなりたくないの」
「あなたを歓迎しない人なんかいない!」
アイザックさんはきっぱりと断言した。
「僕には分かるよ。ここの住人は、誰もがあなたを快く迎え入れてくれる。でも、地上ではそうじゃないだろう? 僕はあそこが好きじゃないよ」
「行ったことあるの?」
「一度だけ」
アイザックさんは苦々しい顔をしていた。
「守り人の研修プログラムの一環なんだ。『最低でも一年間は地上での生活を体験すること』ってね。テオが今回地上へ行っていたのも、そのためだったんだよ」
「あんなに小さい子が一年間も一人で? 何だかすごく厳しいのね……。もっと大きくなってからでもよかったんじゃないの?」
「もちろん構わないけど……でも、嫌なことは早い内に済ませる方が気が楽だから、あれでいいんだよ。僕はどうしても地上には馴染めなかった。皆他人行儀でよそよそしくて……。空中庭園に早く帰りたいって、研修の間中ずっとそう思っていたんだ。僕はそんなところへオフィリアさんを帰したくない」
「そういうことなら、地上にも色々な人がいるって答えるしかないわ」
私は静かに首を横に振る。
「悪い人ばかりじゃないのよ。ただ……寂しい場所ではあるけどね」
「あなたの境遇はテオから聞いている」
アイザックさんは何とか私を引き留めようと必死になっていた。
「家族を亡くして、辛い目に遭っていたんだろう? それだけじゃなくて、経済状況的に、あなたは明日をも知れぬ身だとか。何か仕事を見つけないといけないんだよね? もしそれが、ここにあるとしたら?」
「え、仕事が?」
意外な方向に話を持って行かれ、私は興味を引かれる。アイザックさんが勢いづいた。
「この聖域に住んでいる人は、皆何かしらの役目を負うことになってるんだよ。農場で薬草を育てる係とか、鍛冶屋でドワーフの手伝いをする係とか。色々あるから、その中から好きなのを選べばいい。例えばオフィリアさんに向いていそうなのは……」
ふと、アイザックさんは何かを思い付いたようだ。ライトグリーンの瞳が眩しいくらいに輝く。
「守り人とか!」
「守り人?」
意外な言葉に、私は目を丸くする。
「守り人ならもういるじゃない。あなたたちの一家が」
「別に何人いてもいいんだよ!」
アイザックさんはすっかり浮かれていた。
「守り人には重要な使命がいくつかあるけど、その内の一つが後継者探しなんだ! だから僕は、あなたを次代の守り人に指名する!」
「わ、私を!? 昨日来たばかりのよそ者なのに?」
「そんなの関係ないよ! 守り人はその資格があると認められれば、誰が引き継いでもいいんだ!」
「アイザックさんは、私に守り人の資格があると思うってこと?」
「もちろん! だってオフィリアさんは、聖域が好きだろう? この場所を愛する者なら、守り人の素質は充分にあるんだよ!」
確かに私は、この聖域に不思議な親しみを覚えていた。その気持ちが、私を守り人にしてくれるというの?
「どうかな? 悪い提案じゃないと思うけど」
アイザックさんは、私がどんな返事をするのか分かっているみたいな声で聞いてきた。
「衣食住は保証するよ。欲しいものがあれば、昨日みたいに自分の技能を貸し出すことで手に入れられる。もちろん、好意からタダで譲ってくれる場合もあるけどね。ここでの暮らしは、きっとあなたの性に合うと思う……」
「オフィリアさん!」
今度はテオがやって来た。両手いっぱいに何かを抱えている。
「これ、あげる!」
テオが私の手の上に乗せたのは、大きな宝石の数々だった。思わずぽかんと口を開ける。
「これ、本物?」
「もちろん。空中庭園には、鉱山もあるんだよ。ボクも地上で暮らす資金として、出発の前にはいくつか持っていったんだ。お陰で生活費には困らなかったよ」
テオがいい服を着ていたのは、そういうわけだったのね。
テオは下げているポシェットから宝石をいくつも取り出す。薄々勘付いていたけど、このカバンは見た目よりもずっとたくさんのものが入る仕様になっているらしい。魔法の品なのかしら?
「謝礼を用意するって約束したもんね。売ればいい値段になると思うよ」
テオがまつげを伏せた。
「悲しいけど……これ以上ワガママは言えないよね。ボク、もう二度もオフィリアさんのことを引き留めちゃってるし……。……一緒にいられて嬉しかったよ。ボクのこと、忘れないでね!」
テオは泣きたいのを堪えるような顔になって、私にぎゅっと抱きついてきた。その拍子に、手のひらからばらばらと宝石が落ちる。
「ずるいぞ!」
アイザックさんが素直すぎる文句を言って、テオを引き剥がそうとした。でも、彼は離れない。
「いいでしょ! お別れの挨拶なんだから!」
「……ねえ、テオ」
私は軽く笑って、彼の柔らかい銀髪を撫でた。
「もしも、私があなたの仕事仲間になるって言ったらどうする?」
「……へ?」
テオは涙で潤んだ目をぱちくりさせる。アイザックさんの顔に晴れ晴れとした表情が広がっていった。
「アイザックさん、決めたわ。私……守り人になる」
歓喜の声が広場に響く。
聖域中の住民が目を覚ましそうなほどの盛り上がりぶりに、私は自分の決断の正しさを知った。
テオの言ったとおりだ。ここには何でもある。食べ物も住むところも、それに温かな愛情も。
そんな場所がこれから新しい家となることに、私は言葉にできないほどの感慨を覚えずにはいられなかった。
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その後、私は一旦地上に帰って家を引き払う準備を始めた。
空中庭園を見た後では、この住まいはいかにも寒々しく感じられた。もし違った選択をしていたらと思うと、身震いせずにはいられない。
大家さんには「遠方で新しい仕事をすることになったんです」と事情を説明しておいた。最後まで彼女は親切で、「辛くなったら、いつでも帰っておいで」と激励の言葉をかけてくれる。
そんな大家さんに、私はテオからもらった宝石を家賃として渡しておいた。
彼女はこういったものを見たことがないようで、「綺麗な石だねえ」とのんきな感想を漏らす。この分だと、これを売りに出した時にひっくり返ることになりそうだ。
最後に、私は両親とおばあ様のお墓を参ることにした。
「おばあ様、私、聖域へ行くのよ」
お墓に新しい花を生けてあげながら、私は囁いた。
「遠いところにあるから、そんなにしょっちゅうお墓参りには来られなくなるけど……。どうか許してね」
そよ風が淡い赤の花弁を揺らす。
『どんな場所でも、高貴な者としての誇りを忘れてはいけませんよ、レディ』
まるでおばあ様がそう言ったみたいだった。
「相変わらずね」
ふふ、と笑って、お墓を後にする。
こうして私は地上の生活にしばしの別れを告げ、聖域暮らしを始めることになったのだった。