ようこそ! 空中庭園へ!(1/3)
私たちが席に着くと、御者もいないのに勝手に車体が動き出す。引いているのがペガサスだから予想はできたけど、馬車は宙に浮かび、あっという間に風車よりも高い位置についた。
それからもどんどん高度を上げ、ついには雲の上に出る。私はその様子を、窓からぽかんと眺めていた。
「本当に飛んでるのね……」
シートにはふんわりした布が貼られているので、座り心地は抜群だ。私は太陽の位置から馬車が向かっている方角を推測する。
「テオの故郷は西にあるの?」
「そうだよ」
テオは頷いたけど、私はちょっとした疑問を覚える。
「西にあるのは荒れ果てた不毛の地だけのはずよ。あんまり住みやすいとは思えないけど……」
「オフィリアさん、地理に詳しいんだね」
「おばあ様から習ったの。『淑女に教養は必須ですよ』って言われてね。それに、私たちの祖先は昔は西方に住んでいたらしいし」
「もしかして、家が裕福だった頃の話?」
「かもね。おばあ様曰く、私たちの家が没落したのは、鉱石事業に失敗したからだそうよ。まあ、西は不毛の地なんだから有用な鉱物も採れるわけないし、そうなるのが当たり前と言えば当たり前よね」
話をしていたら、また私のお腹の虫が鳴った。ううん、テオのだったかも。どっちにしろ、二人ともお腹がペコペコだった。
「確か、乗客用にいつも軽食が用意されていたと思うけど……あった!」
嬉しそうな声を上げ、テオは棚からクッキーが入ったボウルを取り出した。瓶に入ったミルクも一緒だ。
「半分こしよう!」
テオはナプキンを二枚出し、その上にクッキーをより分けた。頬が緩むのを感じる。甘いものは好きだけど、お金がないからお菓子なんて滅多に食べられないんだ。
「いただきます」
一口かじると、風味豊かなバターの香りが口の中に広がる。それに続くのは生地に混ぜ込まれたベリーの酸味。その絶妙なハーモニーに、ゆっくり食べようと思っていたのが二口で完食してしまった。
その次のクッキーには、ナッツが練り込まれていた。次のはオレンジ。そのまた次はプレーンだけど、これはこれでいけるわね……。
気付いたらナプキンの上は空っぽになっている。こんなにたくさんの焼き菓子を食べたのは初めてだ。余韻に浸りながら、私は牛乳を飲み干した。
「いい食べっぷりだね」
そういうテオのナプキンにも、クッキーの欠片一つ落ちていなかった。
「着いたら、もっとちゃんとした食事にしようね。ご馳走、楽しみだなあ。……もっと飛ばして!」
テオの命令をペガサスは忠実に実行する。呼び出しから丘への到着時間を元に考えると、馬車が目的地に着くのはお昼頃になるだろうか。
ひとまずお腹の虫は静かになったけれど、今度は車内の心地よい揺れが私を眠りの世界に誘う。ついうとうとして船を漕ぎ、気を緩めた途端に一気に意識を手放してしまった。
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「ヒヒン!」
元気よくいななく声がして、私ははっとなった。どれくらい寝てたのかしら、と思いきょろきょろと首を動かす。
その拍子に窓の外の異様な光景に気付き、息を呑んだ。
「……島?」
見間違いかと思い、目元をゴシゴシとこする。でも、辺りの風景は何も変わらない。
雲の上に巨大な島が浮かんでいる。
「目が覚めた?」
テオがニヤリと笑った。
「ようこそ! ボクの故郷、空中庭園へ!」
「空中……庭園……」
私はもう一度まじまじと外を見た。
空中庭園。この場所にぴったりの名前だ。ここからでも、島は緑豊かで自然に満ち溢れているのが分かるもの。
近づくにつれ、段々とその詳細が見えてくる。住民らしき人影が、島の一角に集まっていた。
「あそこは離発着場だよ。きっとお出迎えだね」
ゴーン、ゴーン……
テオの声を掻き消すように大きな音が響く。私は思わず身を竦ませた。
「びっくりした? 今のはね、時報だよ。一時間ごとに時を知らせるんだ。今の時刻だと十三回くらい鳴るかなあ」
「え、ええ……」
テオの言うとおり、鐘の音はお昼の一時を告げる回数だけ鳴って止んだ。でも私の体は強ばったままだ。
「オフィリアさん? どうかした?」
テオは何かがおかしいと気付いたみたいだ。心配そうに顔を覗き込んでくる。
「鐘の音にはいい思い出がないの」
誤魔化そうかとも思ったけど、テオの澄んだ瞳を見ている内にそんな気は失せてしまい、私は本当のことを話した。
「教会でお葬式を挙げるとね、鐘が鳴らされるの。弔問の鐘よ。……おばあ様の時もそうだった。そのことを思い出しちゃったの」
「そうかあ……」
テオはしゅんとした。
「ごめんね。鐘を止めることはできないんだ。オフィリアさんのために何とかしてあげたいけど……」
自分のことのように落ち込むテオを見て、私は少し気持ちが和らぐのを感じる。
大丈夫、あれはお葬式の鐘なんかじゃない。この空中庭園に時を告げる役目を担っている、ただの音楽のようなものだ。
私がそう言うと、テオは微かに笑った。
「ありがとう、オフィリアさん」
わずかな衝撃を感じた後、馬車は停止した。テオがドアを開けて、外に出る。
「テオだ!」
「よく帰ってきたな!」
「皆待ってたぞ!」
テオを出迎える声が聞こえてきた。
今出て行ったら、せっかくのお祝いムードに水を差してしまうかしら?
だけど、いつまでも車内にいるわけにもいかないので、私も馬車から降りた。
地面に足を着けた瞬間、私の体を不思議な感覚が駆け抜ける。優しく肌を撫でられるような安心感。温かな空気に包まれるみたいな安らぎ。
まるでよく知っている我が家にでも帰ってきたような心地だ。変だわ。ここには初めて来るはずなのに……。
戸惑っていたけれど、別の驚きが襲ってきてそれ以上深く考える暇はなかった。周囲にいたのが、何とも奇妙な人たちだったからだ。
浮遊する手のひらサイズの男性、額から角が伸びる子ども、動物の耳が生えた女性……。
どう見ても人間ではない人たちが無数にいる。私はそのことにどう反応していいのか分からなかったけど、彼らも彼らでこちらを見て目を丸くしていた。
といっても、全員が異種族というわけではなさそうだ。例えば、テオと話している青年なんかは人間に見える。
「テオ! 一体何をしてたんだ! 予定では、お前は三ヶ月前には帰っているはずだったんだぞ!」
テオとよく似た顔立ちだけど長めの銀髪はストレートで、愛らしいと言うよりはスマートな印象だ。とても端正なその容姿に、私は思わず見入ってしまう。
ふと、青年が顔を上げた。私の存在に気付くと、彼もこちらを吸い寄せられるように見つめる。
彼の瞳もテオと同じで、本当に綺麗な色をしていた。一見すると水晶みたいに冷たくて近寄りがたい浅緑。でも、今はそこに陶酔したような潤んだ光を宿している。
そのせいなのか、私は余計に彼から目が離せなくなってしまう。それどころか、もっと傍に行きたいとさえ……。
「お兄ちゃん! お兄ちゃんってば!」
大声での呼びかけに、私は夢から覚めたような心地になる。青年も頬をひっぱたかれたみたいな顔をしていた。
テオが眉根を寄せる。
「いくらオフィリアさんがすごい美人だからって、あんまりじろじろ見たら失礼だよ! 一目惚れでもしちゃったの?」
「ひ、ひひ、ひと……!? 」
青年の頬が赤くなった。
「そんな言葉をどこで覚えてきたんだ! お前には十年早い! いや、そもそも彼女は一体……?」
青年は再びこちらに視線を向けたけれど、またしても表情がうっとりとしたものに変わっていく。そのことに気付いたのか、彼は急いで私から目をそらした。
もっとも、それをするのには相当な努力を要したみたいだけど。
「ボクが招待したんだよ」
テオは誇らしそうに言った。
「つまり、お客さんってこと!」
「お客さん!」
周りにいた異種族たちがざわつく。
「嘘でしょ!? この空中庭園にお客さんが来るなんて!」
「夢みたい! 生きていると、こういう奇跡にも立ち会えるのね!」
皆は大盛り上がりしている。どうやら歓迎されているみたいだ。
というよりも、事態について行けていないのは私だけ? 聞きたいことが色々あったから、彼らに「あの……」と話しかけた。
「お客様がお話しになったわ!」
感激のあまり、二、三人ほどが卒倒した。私は呆気にとられずにはいられない。
「だ、大丈夫ですか……?」
「お客様が心配なさってる! なんて優しいのかしら!」
また誰かが失神した。どうやら、皆のためには一旦黙っておく方がよさそうだ。
「私たちって、本当に運がいいわねえ! 夏祭りの日にお客様がいらっしゃるなんて! これは、お客様にぜひとも宴を楽しんでもらいなさい、ということに違いないわ!」
「接客係は誰なの!? いつまでお客様をこんなところに突っ立たせておく気よ!」
「申し訳ありません! すぐにお世話いたします!」
人混みの中から、子猫くらいの大きさの女の子が出てきた。背中にはチョウチョのような羽が生えている。絵本なんかに出てくる妖精にそっくりな見た目だ。
「初めまして、お客様! アタシのことはパティちゃんと呼んでください!」
妖精はビシッと敬礼した。
「経験の不足は知識でカバーしますから、ご安心を! 来客対応マニュアルは全部暗記しています! ステップその一! 湯浴みで旅の疲れを癒やしてもらう!」
張り切る妖精のパティちゃんに手を引かれ、私はその場を後にする。振り返ってみれば、期待に満ちた皆の視線と、あの美青年の情熱的な眼差しが私の背中を追ってきていた。