竜のお仕事と私の使命(2/2)
しばらくその場を動けなかった。
でも、やがてチェルシーを私の膝からそっとベッドの上に戻し、地下部屋を後にする。地上へ出た私は、氷でできたステージの上でテオとアイザックさんが踊っているのを見つけた。
「二人とも、ちょっといい?」
兄弟は肩で息をしながらステージから降りてくる。私は彼らをかまくら風の休憩スペースへと誘った。その間中、テオはずっとはしゃいだ声を出している。
「氷のステージって、やっぱりツルツル滑るよね! オフィリアさんも試してみた? お兄ちゃんなんか、十回も転んでたんだよ! ……オフィリアさん?」
休憩スペースに設置されたベンチに腰掛けたテオは、ふと私の顔を見て怪訝な表情になった。アイザックさんも「どうしたんだ?」と尋ねてくる。
「何だか顔色が悪いよ? もしかして、気分でも優れないんじゃ……」
「チェルシーから話を聞いたわ」
私は唐突に切り出した。
「本当なの? チェルシーが魔力を送り続けないと、この空中庭園は地上に落下してしまうって」
兄弟の顔色がさっと変わった。その反応を見た私は、彼らの返事を待たずともチェルシーの話が事実だったと知る。
私はがっくりとうなだれた。
「どうしてなのよ……。何とかできないの? 魔力を送り続けるのは確かに大切なお仕事よ。だからこそ、チェルシー一人に負わせるには、負荷が大きすぎる役目じゃない」
「だけど、適任は彼女しかいない」
アイザックさんが静かな声で言った。
「チェルシーがしょっちゅう眠そうにしているのも、千歳を越えてなお幼い姿なのも、全ては魔力を常時放出しているのが原因だろう。でも、言い換えればその程度の影響で済んでいる。他の者ならこうはいかないよ」
テオが兄の後を引き取る。
「この空中庭園の住民の内、魔力を持つ人を全員集めたとしても……その力はチェルシーの百分の一にも満たないと思う。それじゃあ、聖域を浮遊させるのは無理だよ。チェルシーはドラゴン。ドラゴンが持つ膨大な魔力じゃないと、この役目は務まらないんだ」
「でも、昔からチェルシーはこの仕事をしていたわけじゃないのよね?」
ふと思い出した。
「昔、チェルシーは別の仕事をしていたんでしょう? っていうことは、当時は別の方法で空中庭園を浮遊させていたんだわ。その方法さえ分かれば……」
「分かるよ」
名案を閃いたと思い気分が高揚しかけたけど、テオの口調があまりにも冷静だったから、その高ぶりも長くは続かなかった。
「あのね、魔法石には二種類あるんだ。一つは自分で魔力を込めて使うもの。もう一つは、元から魔力を宿しているもの。チェルシーの部屋を覆っているのは前者だね。でも……あの部屋、昔はああじゃなかったんだよ。天井いっぱいに、ある魔法を宿した魔法石が保管されていたんだ。飛行の魔法だよ」
「飛行の魔法? ものを飛ばす魔法ってことよね? もしかして、昔の空中庭園ってその魔法石の力で浮かんでいたの?」
「そのとおり」
アイザックさんが頷いた。
「鐘の音を使って魔力を聖域中に送っていたのは今と変わらないけど、その魔力の源が違うんだ。今はチェルシーで昔は魔法石。時計塔の地下っていう所在は変わらないけどね」
「その魔法石はどこへ行ってしまったの?」
「消えたんだよ。魔力が宿っている魔法石は消耗品なんだ。宿っていた魔力が切れるとなくなる。自分で魔力を込めて使うタイプはそうじゃないんだけどね。部屋いっぱいにあった魔法石だけど、聖域を浮かせるためにその力を酷使し続けた結果、百年も経たない内に底をついたらしいよ」
「じゃあ、新しいのを持ってくればいいじゃない」
私は真っ先に思い付いたことを言った。
「この空中庭園には、岩窟島っていうところがあるわよね? そこでは有用な鉱物がたくさん採れるって聞いたわ。だったら、魔法石もあるはずでしょう?」
「残念だけど、そうはいかないんだ。この空中庭園に魔法石が採れる場所はない。要するに、魔法石は地上にしかないんだよ」
「オフィリアさん、ボクと出会った時のこと覚えてる?」
テオが私に質問する。
「ボク、笛を吹いて馬車を呼んだでしょう? あの笛ね、魔法石でできてるんだよ。ボクは研修で地上へ行ったけど……帰る時は自力で、って決められてるんだ。だからボクは魔法石を採掘して、その力で馬車を呼んだ。あの魔法石には、好きな場所に声を届けられる魔法が込められていたからね。ちなみに、いい風が吹く場所を探していたのは、それが魔法発動の条件だったからだよ。質の高い魔法石を見つけるのは本当に苦労したなあ。お陰で帰郷の予定がどんどん後ろ倒しになっていって……」
「じゃあ、また地上へ行けばいいわ」
私はテオの話を遮った。
「飛行の魔法が込められた石は地上にしかないっていうのなら、空中庭園を出て探すしかないわ。そうでしょう?」
「……やっぱり血筋だね。オフィリアさんも、千年前の聖域の主と同じことを考えつくなんて」
テオの言葉に私ははっとなった。彼は小さく嘆息する。
「これ、本当は守り人研修プログラムの六ヶ月目で教える内容なんだけど……。もういいや。ここまで来たら、全部喋っちゃおう。どの道、こんなの皆知ってる話だから、今まで隠せてたのが奇跡みたいなものだし……。でも、いざとなったら一緒に怒られてよ、お兄ちゃん?」
「ああ、分かった。……オフィリアさん、千年前に聖域を治めていた主も、飛行の魔法石を求めて地上へ行ったんだ。その際、主はチェルシーに留守を任せた。『魔法石を見つけて絶対に帰ってくるから、それまで聖域を頼んだ』と言付けて。さっきも言ったとおり、頼れるのはチェルシーだけだったからね」
「……チェルシーはその約束をずっと守ってるのね」
私は額を押さえて呟いた。
「そして、主の帰りを待っていた。日の当たらない地下の部屋で、微睡みの内に千年を過ごしながら……」
チェルシーの言葉が蘇る。
――ご主人様は、何故この聖域に帰ってきたのじゃ?
――地上での任務をまっとうしたから帰ってきたわけではないのじゃな?
主人の帰還は、チェルシーの地下暮らしを終わらせる唯一の希望だったんだ。なのに、私はそれを知らなかった。何も知らず、手ぶらでのこのこと空中庭園に戻ってきてしまったんだ。
それでもチェルシーは私に失望しなかった。それどころか、私に会えて嬉しいとさえ言ってくれた。
胸が詰まって何も言えなくなる。アイザックさんが「オフィリアさんが後ろめたく思うことじゃないよ」と肩に手を置いた。
「ドラゴンの千年と人間の千年は違うんだから。オフィリアさんが何も知らなかったことを責められる人なんか誰もいない。主が戻ってきてくれた。それだけで、この空中庭園で暮らす住人には充分なんだよ」
本当にそう?
ただ尊い血統だからっていうだけで、皆に慕われるものなの? 空中庭園の住民が私を愛してくれているのは、本当にそんな理由によるものなの?
私はふらりと立ち上がった。冬祭りの会場に集う人々をゆっくり見回していく。
誰も彼もが楽しそうだ。思う存分はしゃぎ、歓声を上げ、陽気に過ごす。
でも、彼らの本音は?
この地に生きる人々は地下で何が起こっているのか知っている。自分たちの安らかな生活と引き換えに、一人の少女が多大な犠牲を払っていることを誰もが分かっている。
空中庭園にいるのは善良な人ばかりだ。彼らがチェルシーの献身に何も感じていないはずがない。自分たちの幸せが誰かの不幸せの上に成り立っていることを、やましく思っていないわけがないんだ。
そんな彼らにとっての心からの望みは、主が帰ってくることだった。主が帰還し、新たな魔法石をもたらし、幼い竜が救われる。同時に、自分たちの憂いの種も消え去る。
血に宿る記憶と意思は消えない。
そう、彼らは何代にも渡ってそんな想いを抱き続けた。その結果が、主への強い愛着となって現われたとしたら……?
「私、決めたわ」
私は、まだ座ったままこちらを見ている守り人兄弟に向かってそう言った。
この聖域は閉じた世界だ。特別な事情がない限り、誰も地上へなんか足を踏み入れようとしない。きっとこの千年の間、主を迎えに行こうとしたり、手伝おうと考えたりした人は誰もいなかったんだろう。
彼らは自らの未来を完全に主人に託していた。自分たちでは何もなし得ないと思っていたから。
この聖域にいるのは、善良で無力で諦念を抱く人たちばかりだ。
だけど、私はそうじゃない。私はもうこの空中庭園の住民だ。でも、まだ完全にはここの色に染まりきっていない。
だったら、この状況を解決できるのは私しかいないでしょう?
「もう誰も犠牲になんかしない。私がこの聖域を救ってみせる」
私はここへやって来たのを運命だと感じていた。今こそ、その予感が間違っていなかったと証明する時だ。