「幸福」がご主人様を待っておるぞ!(3/3)
天井のシャンデリアの光が薄暗くなる。かろうじて周囲が見えるくらいの明るさだ。煙のような白い影がどこからともなく出現し、それが人の形を取った。
「お、お父様、お母様……?」
現われたのは、私の両親だった。二人はこちらを見て、ニッコリと笑う。私は思わず後ずさりした。
「そんな……どうして!? だって、二人とも十年以上前に死んだはず……」
「これは現実ではないのです、レディ」
背後から、お高くとまったような老婦人の声が聞こえてきた。
「ここは幸福と邂逅する場所なのですから。あなたが失ってしまった『幸せ』と、もう一度会えるところなのですよ」
「おばあ様!」
声が裏返る。家族と再会できたことへの感動よりも驚きの方が上回っていて、涙を流すことすらできなかった。
「立派になったわね、オフィリア」
「元気そうで安心したよ」
お母様とお父様が優しく声をかけてくる。私はおずおずと頷いた。
「私ね……今は空中庭園で暮らしているの」
私はこれまでのことを全て三人に語って聞かせた。
最初は亡くなった家族がすぐ近くにいることに奇妙な気持ちを覚えたけど、その違和感もいつの間にか消え、私の心はすっかり安らいでいた。
彼らはきっと、亡霊とか幻とか呼ばれる類いの存在だろう。でも、私の家族には違いない。家族の傍にいると落ち着くのは、別におかしな話でもないはずだ。
「それでね、空中庭園には主と呼ばれる人がいたんですって」
私はおばあ様の方を見た。
「チェルシーが言うには、私はその血統らしいの。おばあ様はそのことを知っていたの? だから、『わたくしたちには尊い血が流れているのです』って言ってたってこと?」
「わたくしが聞き及んでいたのは、わたくしたちの家系がとても由緒あるものだったということだけです」
おばあ様が返す。
「あなたはどう思っているのですか?」
「……チェルシーの言うことが正しいと思うわ」
私は形見の指輪を見つめた。
「受け継がれてきた指輪、私に好意的な住民、隠されていたお宝の発見……。あらゆるものが証明しているもの。私が聖域の主の血を引いている、って」
「あなたは、自分が何者なのかようやく分かったというわけですね、レディ」
「……どうかしら」
私は首を振った。
「まだ実感が湧かないのよ。だって、ちょっと前まで私、貧民街で暮らしてたのよ? それが空中庭園に招待されて守り人になって、今度はこの血の秘密が明らかになるなんて! 私……どうしたらいいのかしら?」
「そんなに心配しないで、オフィリア」
お母様が私の顔を覗き込み、励ましの言葉をかける。
「あなたなら大丈夫よ。きっと上手くやれるわ」
「そうだといいけどね……」
宙に浮かんでいるような不安定な気持ちになりつつも、私はカギをもう一度回した。照明は元通りの明るさになり、家族の幻も消える。
私はぼんやりした足取りで宝物庫の外に出た。
「ご主人様ぁー!」
途端に、小さな物体が抱きついてきた。チェルシーだ。
「やはりここにおったか! チェルシーは朝からご主人様の顔が見られて幸せじゃ!」
「お、おはよう……」
いつの間にか夜が明けていたことに驚く。一睡もしていなかったのに、先ほど体験した色々なことにまだ心も体も興奮しているのか、疲れなどまるで感じなかった。
「して、見つかったのか? お宝は」
チェルシーの問いかけに、私は小さく首を縦に動かした。チェルシーの顔がぱっと華やぐ。
「それなら、ご主人様はご主人様だったということじゃ! チェルシーの言葉に間違いはなかったじゃろう?」
この時になって初めて、私は外で待っていたのがチェルシーだけではなかったと気付いた。数え切れないくらいのたくさんの住民が、洞窟前の開けた土地に集合していたのだ。
「チェルシーが呼んだのじゃ!」
チェルシーが手柄顔で報告した。皆、私の方をぽかんと見つめている。その内に、誰かが呟いた。
「主のお帰りだ」
次の瞬間には、私は駆け寄ってきた住民たちに四方を囲まれていた。
「主の帰還! 主の帰還!」
「今日からオフィリアさんが我々の主だ!」
筋骨隆々のオークが私を肩に担ぎ上げる。そのまま、凱旋でもするかのように森を出て辺りを練り歩き始めた。
「ちょ、ちょっと! 私が主ってどういうこと!? 確かに私は聖域の主人の血を引いているかもしれないけど……」
「聖域の主の血を引いている者は、この土地の主となる定めじゃ!」
オークの背中をよじ登ってきたチェルシーが言った。
「ほれ、皆喜んでおるぞ! ご主人様、手でも振ってやるがよい!」
いつものことながらあっという間にこのことは空中庭園中に伝わったらしい。私の姿を一目見ようとあちこちから人が駆けつけ、まるで冬祭りが一月以上早くやって来たような騒ぎになる。
私は肩車されたまま本島中をくまなく巡り、やがて腰を落ち着けることになったのは主の館だった。
ここに来るのは初めてだ。主の館は守り人の館よりもさらに広大で、ちょっとしたお城のようである。
いくつもある広間の一つでは、すでに宴会の支度がなされていた。テーブルには料理が並び、音楽が鳴り響き、参加者たちは笑顔で挨拶に来る。私は皆からのお祝いの言葉に、困惑しながらこう返すしかなかった。
「ええ、私も驚いているんです。まさか、聖域の主になってしまうなんて……」
即興パーティーは何時間も続いたが、日が傾き始めた後でやっとお開きになった。目まぐるしい一日がやっと終わると安堵した私は、守り人の館へ帰ろうとする。
けれど、部屋の片付けをしていた妖精から「どこへ行くんですか?」と引き留められた。
「……まだ何かあるの? 私、そろそろ家へ帰りたいんだけど……」
「家? ご主人様の家はここですよ」
妖精は私が面白い冗談を言ったかのようにクスクスと笑った。
「さあ、こちらへどうぞ。おくつろぎになる前に、まずはお召し替えをいたしませんと」
まさかの言葉に困惑している私の背中を妖精が押す。促されるままに連れて行かれたのは、衣裳部屋だった。
そこで控えていた人たちに着ているものを全て剥ぎ取られそうになった私は、「着替えくらい自分でできるわ!」と抵抗した。
でも、向こうも「私たちはご主人様のお召し替え係なんです!」と譲らない。結局私が折れて、彼女たちの好きにさせることにした。
だけど、その判断は失敗だったかもしれない。初仕事で皆張り切りすぎて、私はとんでもなく飾り立てられた格好にされてしまったから。
「このスカートの幅じゃ、部屋のドアを通れないわ!」
私は抗議の声を上げる。
「後は髪! てっぺんが天井についちゃってるわよ! それから靴! 重すぎて歩けないわ!」
「ご主人様はファッションにこだわりのある方なんですねえ!」
「うひひひ。気合いが入りますよ、これは!」
その後も何度か押し問答が続き、ようやくシンプルな赤いドレスを着せてもらって決着がついた。
今度は私の居室に案内される。恐らくはこの館で一番格調が高い、三間続きの部屋だ。
「ただ今湯浴みの支度をさせますわ。その間、しばらくこちらでお休みくださいね」
ぺこりとお辞儀して、妖精が下がる。ドア越しに「きゃー! 私たち、ご主人様のお世話をしちゃったー!」とはしゃぐ声が聞こえてきた。
一人きりになった私は、ようやく落ち着いた気持ちで状況を頭の中で整理し始める。
やっぱり私は聖域の主の血を引いていた。そして、そのことがはっきりしたからには、今度は私がこの地の主人にならなければいけない。
でも、そうなったら私の守り人の地位はどうなるんだろう?
ふと湧いてきた疑問だったけど、何故か私の胸はざわつく。チェルシーの言葉を思い出したからだ。
――ご主人様はご主人様じゃろう。だから、他のものになるのは無理じゃよ。
私は守り人を辞めないといけないんだろうか? それで、主の仕事に専念する? でも、聖域の主って何をする人なんだろう?
私は天井から伸びていた紐を引っ張った。チリンチリンとベルが鳴る音がする。それから十秒もしない内に、部屋のドアがノックされた。
「お呼びですか、マイ・レディ」
ビシッと決めた礼服姿で入室してきたのは、犬の獣人だった。その顔に見覚えのあった私は目を剥く。
「トッドじゃない! どうしてここに!?」
かつて、空中橋に異常があると知らせてくれた少年だ。トッドは「レディの執事係が私の仕事ですから」と事務的な口調で返す。
「耳がいいので、どこにいてもレディの呼び出しが聞こえます。適役かと存じますが」
「……その話し方やめて。何だか変な気分だわ」
「そういうわけには参りません。分はわきまえませんと」
「じゃあ命令よ。普通に話しなさい」
「しょーがねえなあ」
トッドはいつものラフな口調になると、近くの椅子に勝手に座った。「リィィン」と声がして制服のポケットから川の精霊が出てくる。嵐の日に助けた子だ。職場にまで連れてくるなんて、すっかり仲良しね。
「俺、本当にびっくりしたぜ。空中庭園の住民ってさ、生まれた時から何の仕事をするか決められてるんだ。で、俺は主人の執事係に任命されたってわけ。でも変更も可能だから、いつかは辞めようと思ってたんだ。だって、いもしねえ主人に仕えたって意味ねえじゃん? ……なーんて考えてたら、オフィリアがこんなことになっちゃったんだよなあ。あ、何か用だった?」
「リィン?」
「聖域の主について教えて欲しいの」
執事が顔見知りでよかった。これなら話しやすいわ。
「だって、『今日からお前が主人だ』なんていきなり言われたんですもの。私、一体何をすればいいの?」
「主人の仕事……そういえば何なんだろうな?」
「リィィン?」
トッドは頭を掻いた。川の精霊も首を傾げている。
「今まで主人なんかいたことなかったから、分かんねえ。ああ、でも、昔の資料とかが保管されてる部屋なら知ってるぜ? そこを見てみたらどうだ?」
「リィィン!」
私は彼の提案に乗ることにした。案内されたのは、地下にある資料室だ。
一応掃除くらいはされているらしいけど、だだっ広い上に薄暗くて何だか不気味な印象だ。トッドを下がらせた私は、燭台を片手に棚に置いてある資料の背表紙を流し読みした。
「記録、その五十三」
「記録、祭り」
「記録、冬」
どうやらここの資料は念のために保管されているだけで、読み返されるようなことはないらしい。ナンバリングがされているものも順番通りに並んでいないし、整理整頓という言葉とはほど遠いようだった。
それでも私は棚から文献を一冊取り出した。タイトルは「記録、朝」だ。
「今日はいい天気。散歩する」
「散歩終了」
「今日もいい天気。二度寝する」
「寝過ぎた。もう昼前だ」
「今日は雨。散歩中止」
「晴れてきた。でも、面倒なので散歩は取り止め」
……見なくてもよかったわね。
私は次の記録に取りかかる。
でも、その次の記録も、そのまた次の記録にも、役に立ちそうなことは何も書いていなかった。
ふう、とため息を漏らす。ここにある資料は膨大だ。全部を短時間で調べることは不可能だろう。それなら、別の手段を取る方がいいかもしれない。詳しい人に話を聞くとか。
適任なのはチェルシーだろう。なにせ彼女は、私よりも「ちょっとだけお姉さん」らしいから。歴代の主人について、色々と知っているに違いなかった。
ちょうど妖精がお風呂の支度ができたと呼びにくる。訪問はまた明日にしようと思い、私は資料室を後にした。